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番外編 春はあけぼの⑥
しおりを挟む東京地裁で弁論準備手続を終えた俺は地裁を出たところで迷っていた。思いがけず早く終わったのは良かったものの時間が微妙だ。
いま、午前11時。次のアポは五反田で午後2時だ。いったん事務所に戻るか。でもあそこは五反田駅から少し歩くしな。でもタクシー使うほどじゃないし。
弁護士ってすぐにタクシー使うイメージだが、俺は違う。タクシー代も全部請求できるから、そこはケチるところじゃないんだが、少し歩けば行けるなら、俺は歩く。かつては弁護士といえば、大抵、たくさんの書面を抱えていたからキャリーバックが必須という時代もあったが、今は全部PDFにしてデータで持ち歩くので楽だ。
でも松井先生は大荷物で移動されてる。松井先生とデータ。これほどしっくりこない組み合わせはないな、うん。
「うーん、そしたら早いが、ランチにしよ」
地裁から日比谷公園までは歩くと10分もかからない。今日は少し肌寒いから、オープンカフェは厳しいが、公園の中に新しく出来たお店に行こう!
歩きながら、どうしても昨日の南雲健太さんの事を思い出す。
建設業界といえば古い体質なのかと思っていたら、どうやら清原部長がとても進歩的な考えの持ち主のようだ。
上司の前でのストレートなカミングアウトに、魔王さえ目を見開いていた。それよりもっと驚いたのが、清原部長の対応だ。
「私は南雲から聞いております。私たちの業界は、まだまだ前時代的なものが多々残っております。しかし個人の性的指向について、企業人だからそれを犠牲にしろというのは間違っていると、私は思っております。もっとも他の部長がどう思っているのか、その本音までは私は分かりませんが。
…南雲は独身で仕事が出来ますので、私のところに紹介してほしいという縁談がいくつもきています。直接、本人に打診するケースもあったようです。それで、南雲が悩んで打ち明けてくれたんです。
私を信じてくれた南雲に応えようと思いましてね。今回の韓国の案件を彼に話したら、願ってもないことだと喜んでくれました。独身での海外赴任は異例ですが、上を説得しました」
南雲さんにしても、まだまだ母親が元気で仕事しているうちに海外でキャリアを積みたかったので、ちょうどいいタイミングだったそうだ。
清原部長のような上司は、なかなかお目に掛かれないだろう。南雲さん、ほんとに良かった。
最後に南雲母が見せた表情に納得した。きっと南雲さんは母親にもカミングアウトしたのだろう。母親の方は、完全に理解するまでもう少し時間がかかりそうだな。
水崎さんも、この南雲さんの潔さが「大のお気に入り」になった理由だった。
あとは、誰が盗難車の近くに南雲さんの万年筆を置いたのか。しかしこれは南雲さん本人が被害届を警察に出すなりしないと、どうすることもできない。俺が気にすることではない。仕事になってないし。でも、気になるな…。
「先生、海野先生!」
え?俺?
振り向けば、龍ちゃんが走ってくる。龍ちゃんこと白川龍之介さん。水野先生が大事に大事にしている同棲中の恋人兼アシスタントだ。
「追いついた。水野先生、歩くの結構早いですね。地裁を出るところで、お見掛けしたんですよ」
龍ちゃんは俺より背が小さい。大男ばかり見てるから、俺より小さいっていいよね。走ってきたから顔が上気した龍ちゃんは、全体的に色素が薄い。小作りな可愛らしい顔に紺色のコートが似合っている。水野先生め、龍ちゃんを可愛く見せるファッションを知り尽くしてるな。
龍ちゃんは、フワフワした感じだけど、その容姿からは想像できないほど仕事は完璧だ。隆一さんや水野先生の前職、日本総合法律事務所で、水崎さんたち錚々たるアシスタントに揉まれてきたからかな。俺は、水野先生が独立して二人が付き合うようになってから龍ちゃんを紹介された。そんなに長い付き合いではないのに、今では最高の同志だ(色んな意味で)。
「年末以来ですね」
「そうだね」
年の瀬が押し迫った12月29日、なぜか突然、隆一さんが「美味しい餅が食いたい」と言い出した。「それなら『伊勢屋』か『紀ノ屋』、行く?」と、高級食材が手に入りそうなスーパーを上げれば、「いや、本物の餅が食いたい」と、まるで駄々っ子みたいなことを言った。
そこで新潟出身の龍ちゃんを思い出したわけだ。年末だし悪いかなと思ったけど、レインしたら即返信。
「ちょうど実家から大量に送られてきました!」(!(^^)!)。
当初は餅をもらったらすぐに帰ろうと予定していたのに、「のっぺい汁をたくさん作ったので、一緒に食べましょう」という龍ちゃんの魅力的なお誘いを断れるわけがなく、「これは絶対に泊まりになる」と予想した俺は、ちゃっかり着替えも用意し、猫も連れて隆一さんと車で向かった。ちなみにのっぺい汁というのは新潟の具沢山の汁物らしい。
訪問すると、水野先生は「何しにきた」と不機嫌丸出しだったが、龍ちゃんの「皆でご飯」という提案に逆らえず、四人と一匹で夕食。うちの猫は、よそ様のお宅でもいい子です。
そこになんと松井先生がやってきたんだ!
嘘だろと思った。
松井先生のご自宅は吉祥寺だそうで、「水野の次は柏木のところに行こうと思ったが、手間が省けたな」といい、そのまま家人の許可なく上がり込んだ松井先生。「そういうのは連絡をくださいよ!」という水野先生と隆一さんの叫びはなかったことにされ、「最高級の日本酒!」と言いながら酒を置き、「柏木の分は車の中に置いてきた」と鍵を隆一さんに投げ、「とってきて」と指示。隆一さんが顎で使われるのを初めてみた。
そんなわけで、なんと年末は五人と一匹で過ごすハメになった。俺たちが水野宅を出たのは、大晦日の午後。松井先生はまだ運転できないほど酔っていたので、水野先生が松井先生の車を運転して送り、帰りはタクシーで戻ってきたそう。29日から大晦日にかけては、あの三人の絡みが凄すぎて、俺と龍ちゃんは腹を抱えて笑ってばかりだった。楽しかったな。
「次のアポまで微妙な時間だから、事務所に戻らず早飯しようと思って」
途端に龍ちゃんの顔が輝く。
「だったら一緒に食べていいですか?俺、臨時のおこずかいが入ったから奢りますよ!」
「え、そんな悪いよ」
二人して歩きながら店を目指す。
「ほんとに奢りますって。実は先週末に鈴木健一先生が突然、事務所に来られたんです」
「え、鈴木先生って」
「そう、ロシアの奥様!」
鈴木先生といえば、隆一さんと水野先生の青い春、つまり愚民アパートの構成メンバーで、商法の神様と言われる菊池先生の事務所に入った後に独立した敏腕弁護士だ。でも俺たちにとっては女装趣味のロシアとのハーフで、学生時代の呼び名は「ロシアの奥様」、こっちの方がしっくりくるんだ。
「中野にJTTAの本社があるんですけど、鈴木先生はそこの顧問をしてて、JTTAの帰りに事務所に寄ってくれたんです。ほんとにまんまロシア人でした」
「へーっ」
俺は愚民アパートの構成メンバーのことは、隆一さんからよく聞いているので完璧に把握しているけど、水野先生ともう一人以外、実は会ったことがなかった。龍ちゃんも同じようなもので隆一さん以外は会っていない。
「週末だったし、年末のことがあったから予想は着いたんですが、いらっしゃるなり、そのまま宴会に突入」
龍ちゃんが苦笑する。
「俺だけ午後9時くらいには帰りましたけど、案の定、巧さんは戻らず。で、翌土曜日に事務所にいったら、中がザ・男子寮というか、愚民アパートになってました!」
「ええ?」
「酒の瓶と缶がすごいの。巧さん、仕事に集中すると時間を忘れるから、うちの事務所は簡易シャワーと折りたたみの簡易ベッドがあるんですけど…。ソファに巧さん、ベッドにロシアの奥様が爆睡。ロシアの奥様もすごい大男なんで、事務所が狭く感じて…。酒瓶とビール缶をゴミ集積場に出すのに、量が多いから恥ずかしくて、俺、黒いエプロンにマスクで飲食店の店員のふりして出しましたもん」
俺は道端で大爆笑した。
新しくできたカレーがうまいと評判の店につく。俺はベジタブルを選び、龍ちゃんはキーマを選んだ。
料理を待っている間に龍ちゃんがいう。
「鈴木先生がお帰りになる時、『片付けてくれた手間代』といって1万円を置いていってくれたんです」
「あ、それがおこずかいか!」
「そうなんですよ。だからちゃんと奢らしてください」
俺はぺこっと頭をさげ、「ありがとうございます」といった。
「柏木先生は今日は?」
「今日は箱根で打合せ」
俺はスマホで時間を確認し「まだ事務所にいるけど、午後3時頃に出る予定。それで戻りは明日の午後」と答えた。
「箱根?」
「そう。箱根の老舗旅館『天の道』の顧問やってるんだけど、SNSに『客が手をつけなかった食材を使いまわしている』なんて中傷が書き込まれたんだ。それでプロバイダに発信者情報開示請求して個人を特定できたので、旅館側が名誉毀損で提訴するということになって、その打合せ。社長が忙しい人で、夜遅くか、朝の早い時間じゃないと打合せの時間が取れないということで、今夜は旅館に泊まるんだって」
喉が渇いていた俺は水をごくごく飲んだ。
「じゃ、一泊の出張なんですね。偶然!」
龍ちゃんも水をごくりと飲んだ。
「偶然?」
「巧さんも仙台に出張中なんです」
「仙台?」
龍ちゃんは「Y設備工業って知ってます?」と真面目な顔になった。
俺も真面目な顔をして「一部上場企業だよね?」と聞く。
「そうです。巧さんは前職からそこの顧問弁護士をしてるんですけど、昨年、その会社が元請の現場で強風に大型クレーンがあおられて転倒し、作業員1名が死亡する事故があったんです。亡くなった人はY設備工業の社員ではなく、下の下、つまり孫請企業の社員だったそうです」
孫請か。これが片瀬さんが言っていた下請けに発注するということなのかと納得。
「Y設備工業としてもできるだけのことはしたようですけど、遺族が納得しなくて、結局、民事でY設備工業を含めて提起したんです」
「そうなんだ。Y設備工業は本社が仙台?」
「そうです」
「だから仙台地裁か」
民事の場合、被告(この場合はY設備工業)の所在地の裁判所が管轄になる。この場合なら仙台地裁だ。
カレーがきた。
「美味しいそうですね。俺、サフランライス、大好きです」
「俺も」
カレーに舌鼓を打ちながら「それで巧さん、期日には仙台に行くので、二カ月に一度くらい行ってます。今回はちょうど期日と臨時株主総会、それに法務部会が重なって、一週間くらい、あっちにいます」と龍ちゃん。
だから俺が「仙台といえば牛タンだ!お土産は牛タンだろ?羨ましいな~」と言ったら、まさか彼が噴き出すとは思わなかった。
応援ありがとうございます!
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