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月の皇子徒桜とならん
陽の皇子と月の皇子
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箏の音が聞こえる。
今宵は天満つ月。
紺碧の夜空はただただ広く、月華が優しく地を照らしていた。
聞こえてくる琴の音は、聞く者の心を奪い別なる世界へと誘う。
奏者は、美しき娘。
齢の頃なら、二十歳前後だろうか。
射干玉の髪、見るも眩しき氷肌、美しき紫色の瞳に、丹花の唇。
まさしく、羞花閉月の女人とはこの娘のことであろう。
箏の音をかき鳴らす指の、繊細なこと。
「湘子……」
娘の前に腰掛け、その琴の音を聞き入っていた青年はふとその名を呼び、彼女の頬に指を伸ばした。
ふつ……と琴の音がやむ。
「……舜棐」
娘の赤い唇から、青年の名が紡ぎ出される。
深海のような深い蒼い瞳に己の姿が映し出されているのを認めて、湘子はその花のような唇からため息をこぼした。己の頬に彼の指が触れる前に顔を背け、その手から逃げるように立ち上がる。そうして、部屋の奥の円窓に寄る。
空を仰げば、天満つ月が静かに輝いているのが見えた。
「そなたも懲りぬの。いつまで、かような場所で油を売っておる?ここは、そなたがいるべき処ではない」
月を見上げたまま、湘子は言う。
冷たい突き放したような物言いに、けれど、舜棐は怯む様子を見せなかった。
彼も立ち上がり、円窓から月を見上げる湘子の元へ歩み寄る。
「何を言うか。愛しき妻を訪ねることを油を売るとは言わぬ。共に美しき月を眺め、そなたの箏の音に耳を傾ける。朕にとって何よりも愛おしい時間だ」
「話にならぬ」
ピシャリと湘子は言い、隣に立つ己の夫ーーこの聖国の皇帝を一瞥した。
「そなたは、この国の帝。世嗣を為すのも、政務が一つ。石女の奇人である妾の元になぜ渡ってくる」
「湘子……」
己を石女の奇人と言い放つ妻の顔を舜棐は困ったような顔で覗き込む。
「そなたの言うことはわかる。けれどね。私が愛するのは、そなた、ただ一人なのだよ。第三皇子として先帝に冷遇されていた朕に常に寄り添い在ってくれたそなた以外、朕は…」
舜棐の言葉を止めるように湘子はかぶりを振る。
美しく結い上げた漆黒の髪に挿された簪が月明かりで煌めいた。
「世嗣ができぬことが、どれほど問題か……わからぬわけではあるまいに」
ため息混じりに湘子は呟く。
聖国の若き皇帝・舜棐帝が即位したのは今から五年前。
舜棐の父であった先帝、皇太子であった第一皇子、皇太子と同腹であった第二皇子が、流行病で立て続けに身罷った。
それにより、第三皇子であった舜棐が図らずとも即位した。
当時、湘子は第三皇子であった舜棐の妃であり、舜棐が即位した際、貴妃に封じられた。
二人が夫婦となったのは六年前だが、一向に子宝には恵まれなかった。
それを理由に左相ーー聖国の行政を司どる枢密院の長が己の娘、梓乃を無理やり入内させたのは半年前。
現在、舜棐帝の元でその治世を支える百官の中で大きな勢力を作っている左相は、娘を入内させ、ゆくゆくはその子、つまり、己の孫を帝位につけることを目論んでいるのだ。
ところが、舜棐は皇宮の奥の宮・牡丹殿にいる梓乃妃を訪れることは少なく、今もこうして、芙蓉殿にいる湘子妃を足繁く訪れている。
ーーーー石女の奇人、湘子妃。
今上の子を宿せぬというのに、秋の扇になるのは嫌と申し、恋々と今上の袖を離さず、世嗣ができるのを阻む妃。
芸事の才がありその容姿は大層美しいが、口を開けば女人らしさのかけらもない。
聞くに、主上がお許しになったのをいいことに、奥の宮では陛下の御名を軽々しく口にするとか。
昼も夜も、楽を奏でるか書物に齧り付くばかりで、今上の御心を慰める努力もせぬ。
皇宮の内外で己がどう評されているか湘子は知っている。
奥の宮を歩けば、仕える女官たちが石女で役立たずな己を蔑んだような目で見てくる。
皇宮で行われる行事に出れば、皇帝に仕える百官から冷たい視線をおくられる。
ひそひそと交わす言葉が嫌でも入ってくる。
己のことだけならば構わない。
ーーーーそれなのに、なにゆえ、主上は湘子を大切になさるのか。
なんぞ、弱みでも握っているのではないか。
主上は、湘子に化されているのではないか。
やはり、先帝に冷遇されていただけあって、国のことを考えぬ痴れ者なのではないか。
……しっ!それ以上申してはなりませぬぞ。
不敬甚だしいが、この国の若き主を悪く言う声も聞こえてくる。
けれど、湘子は知っている。
舜棐が、第三皇子で先帝に冷遇されていても腐ることなく、民草のために皇子としてできることを黙々と積み上げてきたことを。
帝位についてからは、所詮若造と百官に侮られぬよう威厳を示しつつ、民草の声に耳を傾けていることを。
湘子が生まれ育った家は、この聖国の中でも名家中の名家だが、兎にも角にも湘子は変わり者であった。
親元にいる時から、他の貴族の姫らのように着飾ることや姫らの集まりに興味を示さず、楽や書に没頭していた湘子は皇都でも異端の姫君と後ろ指をさされていた。
そんな変わり者の己の話……日々読んでいる小難しい書物の話や奏でる楽に大層嬉しそうに舜棐は耳を傾けてくれた。
皇帝の貴妃として奥の宮に上がっても、彼女がのびのびとしたいことをするのを咎めるどころか、守ってくれる。
そうして、妃としての役割ーー世嗣を為すことができぬ己を尚も愛おしいと言ってくれる。
そんな最愛の人が悪く言われることが、湘子は何よりも辛かった。
だからこそ、心を鬼にして言うのだ。
役立たずの妾の元に渡るのではなく、梓乃妃の元にもっと足しげく渡れ、と。
舜棐が己を想ってくれているのはわかっているから。
その事実だけあれば、妾は笑っていられるから。
それでもーーーー
「湘子、我が愛しき女」
暖かな手が湘子の細い肩に触れる。
ーーーー妾はいつから、こうまでも強欲になったのであろう。
彼に告げる冷たい言葉とは裏腹に、この人の身も心も、妾の元に留めておきたいと思う己がいる。
そなただけだと、愛しき女と彼が言ってくれると、胸の奥底が震えるのだ。
ーーーーすまぬの……舜棐。
言うたとて意味を為さない謝罪は飲み込んで、湘子は最愛の人に身を委ねたのだった。
あの月の夜から数ヶ月後。
聖なる都に、喜ばしい知らせが伝わった。
若き帝、舜棐帝の御子を奥の宮・牡丹殿の妃である左相家の大姫・梓乃が身篭ったというのだ。皇帝にはいまだ世嗣となる皇子はなかった。都の人々はこぞって、喜びの声を上げ、皇都は陽の気に包まれた。一方で、これにより、もし梓乃が皇子を産めば、その子は皇太子となる可能性が大いにあり、左相家の権力はいっそう強固なものになると宮廷の官吏達は口々に言い合った。ある者は左相家に近づき、ある者は反左相勢力を形成するのに奔走した。
その都の騒がしさも、宮廷の入り組んだ権謀術数も奥の宮・芙蓉殿には届かない。
湘子は、ふと書物から顔を上げため息を漏らした。
ーーーー舜棐に子が出来た。
その事実が、彼女の心に陰をおとす。
己の心に国あげての慶事が陰を落としていることに、湘子は苦笑した。
ーーーー愚かな……。何よりも望んだことではないか。これで皇子が産まれれば、もうあの人は悪く言われないのだから。
そう己自身に言い聞かせる日々をひと月近く過ごしている。
梓乃妃とその父である左相は懐妊がわかってから、どうか腹のややこにお声をかけて欲しいと牡丹殿にこれまで以上の御渡りを強く願い出ているようだった。舜棐はその願いを受け、梓乃の懐妊がわかって以来、牡丹殿へ渡る頻度を増やしている。
ーーーー昨晩も、陛下は牡丹殿に御渡りになり梓乃妃殿下とお過ごしになっていたそうよ。
以前は、あれほど芙蓉殿においでだったのに。
お可哀想な湘子妃殿下。
ーーーー聖治殿では、湘子さまの下賜のお話も上がっているのだとか。
昨日も奥の宮の庭園の散歩中に、女官たちが話している声が耳に入ってきた。
それを聞いて、心にざらりとした感情がまるで水に墨を落としたかのように広がった。
『愛している、湘子……だれよりも』
ふと、脳裏に舜棐の声がかすめ彼女は激しくかぶりを振った。
あの言葉に嘘偽りがないことを知っている。彼はこの国の主として責務を果たしたにすぎない。
それでも、胸が苦しい。
その思いを振り切るように、湘子は読み途中の書物に視線を落とす。
「妃殿下」
そんな彼女に声をかける者がいる。
書物から顔を上げ声のした方に視線を投げると一人の女官が立っていた。
「ああ…そなたか」
女官の姿を認め、湘子はほっと息を吐く。
その女官は、湘子がまだ親元にいる時から側仕えとして常に彼女に寄り添ってくれていた女性だった。
名を楓といい、彼女は湘子が第三皇子の妃として皇宮に上がる際、共にここへ来たのだった。
「そう根を詰められますと、お体に障ります。近頃、顔色も優れぬようですし、食欲も落ちておいでではありませんか。わたくしは、心配でなりません」
彼女はそっと湘子の側により、顔を覗き込む。
楓は幼い頃から側にいただけあって、二人だけの時は遠慮がない。
「やはり、顔色が悪うございます。医官に診ていただいた方がよろしいのでは?」
「必要ない。今は梓乃妃の大切な時。聖医療館(皇宮内の医官の詰所)の手を煩わせとうはない」
読みかけの書物を閉じ、楓から逃れるように湘子は立ち上がる。
立ち上がった途端眩暈を覚え、湘子は思わず卓に手をつく。
「妃殿下?」
その様子に楓は一層心配そうに声をかけてくるが、大事ないと短く答え卓から離れる。
そうして、数歩歩いたところで、彼女の意識は闇に沈んだ。
芙蓉殿の妃・湘子妃ご懐妊。
聖国にて、若き皇帝の寵姫ご懐妊の報が民の間にもたらされたのはそれから数週間後のことであった。
皇宮本宮前の水晶庭園の木々が、赤く染まる頃。
その日、秋の園遊会が開かれた。
若き皇帝と二人の妃。
舜棐帝の治世を支える百官が、一堂に会するその宴は大変華やかなものであった。
庭園の中央に誂えられた舞台で、宮に仕える舞妓や楽師たち、芸に覚えがある貴族の家の者や名家が抱える芸者が、見事な舞や楽を披露する。
中央には、舜棐帝。
その一段下の左に牡丹殿の妃・梓乃妃、右に芙蓉殿の妃・湘子妃が座し、出される食に舌鼓を打ちながら舞や楽を楽しんでいた。
宴もたけなわとなった頃、舜棐と二人の妃に新たな茶が出される。
お毒見役の者により安全が確認されると、目の前の卓に並べられる。
目の前で、丁寧に茶器を並べる女官を見て湘子は首を傾げる。
ーーーーはて。あの者、芙蓉殿にいたであろうか。
奥の宮に仕える女官の数は大変に多い。
普段から側に控えている者は顔と名前を覚えているが、全員となると難しい。
まして、今日は園遊会。
奥の宮以外の場所で仕える女官も帝や妃、百官のお召し物を給仕するのに忙しなく動いていた。
美しい茶器に香り高い茶が淹れられ、湘子に出される。
手元に寄せると、ふわりと茶の香りが鼻腔をくすぐった。
「良い香りじゃ」
口元を綻ばせ湘子が呟くと、茶器を並べた女官が笑みを浮かべた。
その笑みが、ぞくりとするほど不気味であることに湘子の背筋が凍る。
茶杯を手にしたまま、視線を巡らせるとこちらをじっと見つめる多くの目があることに気がついた。
左相、彼に与する官たち…
左相家の者…そして、牡丹殿の妃・梓乃。
さらに、斜め後ろに目を走らすと、先ほどまでいたお毒味役の女官の姿がなくなっていた。
ーーーーああ……
湘子は心中で嘆息する。
舜棐と二人、長いこと希った我が子を身に宿し、湘子はこれまでになく幸せな日々を過ごしていた。
日に日に大きくなってくる腹を舜棐と共に撫でては、この幸せが永遠に続きますようにと願っていた。だがその幸せは、芙蓉殿の外ーー百官の実質の長と言われる左相と彼に与する者たち、そして、牡丹殿の梓乃妃にとっては何より目障りなものなのだ。
もしも、梓乃の腹の子が皇女で、湘子の腹の子が皇子であったら……次の皇帝の座に己の孫を据え、権勢ほしいままにしたい左相にとって何よりも邪魔な存在になってしまう。
左手で膨らんできた己の腹を撫でる。
ーーーーこの子が生まれても、待っているのは血を血で洗う権力闘争。
苦しみ傷つくのは、この子だけではない。この子の周りも、また、苦しみ傷つくこととなる。
そして、世が乱れ、国が傾く。
それは…日々、真摯に民草のためにあろうとする舜棐の思いや努力を踏み躙ることになるのではないか。
どこかで、みて見ぬふりをしていた不安が胸に広がった。
茶杯を持つ右手が震える。
息を吐く。
ーーーーならば……いっそ、この子と共に……
そう思った瞬間。
ぽこん、と不思議な感覚が体に響いた。
しばらく置いて、また、ぽこん、ぽこんと、響いてくる。
腹に当てた左手に確かに動きを感じた。
「ああ……すまぬ…妾は、なんということを…」
謝罪の言葉を呟いた瞬間、紫色の美しい瞳から一粒涙がこぼれ落ちた。
「弱き母を許せ……。もう迷いはせぬ。どうか、どうか、そなたの声を母に聞かせてほしい。そなたの笑顔を母に見せてほしい」
とんとん、と優しく腹を叩く。
「そして、そなたの声を父に聞かせてやってほしい。そなたの笑顔を父に…舜棐に見せてやってほしい……」
左手を頭に伸ばす。髪に挿した銀の簪を抜く。
さらり、と射干玉の髪が肩に落ちる。
突然、湘子妃が結っていた髪を解いたのを見て、その場の者たちがざわめいた。
「湘子?いかがした?」
驚いた舜棐が玉座を立ち上がる。
湘子はそれに答えず、銀の簪を卓に置く。
右手に持った茶杯を傾ける。
香り高い茶が溢れ、銀の簪を濡らしていく。
美しく輝いていた銀の簪が茶色く変色していく。
側に控えていた他の女官が悲鳴をあげる。
その悲鳴を聞きながら、湘子はもう一度、腹を叩いた。すると、それに応えるかのように腹の子が蹴り返してくるのを感じた。
「待っておるでの」
囁くように優しく語りかけ、湘子は嫣然と微笑んだのだった。
芙蓉殿の湘子妃の茶器に毒を仕込んだ女官と毒味役は直ちに捕えられ、死罪となった。
この園遊会で湘子妃の毒殺に加担した者は、この二人の他に、毒を用意した者、それを皇宮に持ち込んだ者など全て含めると十二名にも及んび、この者たちもまた処されたのだった。
ただし、この者たちはあくまでも女官や侍従、皇宮に出入りを許されている商人たちで、彼らと左相との繋がりはどれだけ詳しく担当司法官が調査をしても明らかにはならなかった。
この園遊会の湘子妃毒殺未遂事件以降、奥の宮・芙蓉殿の警備や仕える者たちに対しての監視はより一層厳しいものとなった。それにより、湘子妃は無事、臨月を迎える。その月は、また、牡丹殿の梓乃妃の臨月でもあった。
その日は、昨夜から続いている雪がなお止まず聖都は凍るように寒かった。そんな中、後宮は朝からせわしない。白い衣服を着た女官達が忙しく動いている。
皇帝の第一皇妃であり、左相家の娘である梓乃が産気づいたのだ。
「まだかっ!?」
皇宮の帝の座す聖治殿では、枢密院のトップ官僚の一人である左相が不安げな顔をしている。
彼は帝の御前でぐるぐると広間を歩き回っていたが、入ってきた女官に焦ったような声をかけた。その後ろで、若き帝はゆったりと構えている。これでは、どちらがこれから産まれてくる子の父親であるか分からない。
「まだでございます、左相さま。今しばらくお待ち下さりませ」
女官は、今にも癇癪を起こしそうな左相を宥めるように優しく言った。
「焦るな、子は逃げはしない。無事、産まれてくるであろうよ」
己の前で、慌てている大臣に帝は笑って声をかけた。
左相は、そっと外に目を転じ深いため息をついた。外は、激しい吹雪。
「ああ、いまいましい雪であることよ。この寒さ。梓乃の体力が持つかどうか心配でならぬ」
「大丈夫でございますよ。お妃様のおられるお部屋は、暖かこうしておりますから」
帝の側近くに控えている、帝の侍従が言う。
「ええぃ。そのような事は、分かっているわッ!!」
雪がやみ太陽が天上に空高く上る頃。
奥の宮・牡丹殿の一室で、元気な赤子の産声が上がった。
「元気な、皇子さまでございますっ!!」
女官が高らかに告げる声に、男達は手をたたいて喜んだ。
そしてその数時間後。
白くきらめく銀世界を月の光が静かに照らす頃。
若き帝が、腕を組んで立ちすくむ庭に面する芙蓉殿の一室から呱々の声が上がった。
舜棐は、その儚くも希望に満ちたその声に大きく息を吐いた。
しばらくすると、芙蓉殿から侍医たちが現れ、畏まって長揖をする。
「陛下、謹んでお喜び申し上げます。皇子さま、ご誕生でございます」
そうか……、皆、ご苦労であったと万感の思いを込めて舜棐は侍医たちを労う。
そして、女官らに誘われ、湘子妃が待つ芙蓉殿に上がった。
部屋の奥の寝台で静かに身を横たえている湘子は、小さくなった腹の上で手を組んで目を閉じていた。
紅をさしていないのに、赤々と美しい唇は笑みの形を成していた。
「湘子」
舜棐の声に反応して、目を閉じていた湘子はそっとまぶたを開いた。
「舜棐……」
帝は、美しき妻の側によるとそっとその汗ばんだ額を撫でた。
「よくやってくれた。よく頑張ったな」
彼の言葉に、湘子は華のような笑顔をその美貌に浮かべる。
「陛下」
楓が、白いむつきに包まれた生まれたばかりの皇子を抱いてやってきた。腕の中の皇子は、やすらかな寝息を立てている。舜棐は、そっと両手をのばし彼女から我が子を受け取るとしっかりとその腕に抱いた。
「重たいな」
彼の素直な反応に、その場に控えていた者たちは涙を浮かべたり、笑ったりした。
湘子は、そっとその白く華奢な手を伸ばし夫の腕の中で眠る我が子の頬に触れる。
「名を、呼んでやってくれぬか」
湘子の言葉に、舜棐は目を細めて頷いた。そうして、腕の中で眠る愛しい我が子を見つめる。
「小聿」
男児であったのなら、この幼名を贈ろうと二人で決めたその名で彼は息子を呼んだ。すると、舜棐の腕の中の赤子は父の声に応えるかのように小さくあくびをしてみせた。その愛らしい様子に、舜棐と湘子は顔を見合わせて笑う。
「小聿、愛しき我が子よ。大きく、立派に育てよ」
帝は、腕の中の我が子に願いを告げる。
静かな、冬の夜。
湘子妃のおわす芙蓉殿は、灯が消えることなく暖かな空気が流れていた……。
同じ日に、違う母をもって全く正反対の時刻に生まれた二人の皇子。幼名をそれぞれ、子虞、小聿とする彼らはやがて聖国の、ひいては星森大陸の運命を大きく左右する事となる。ーーーーいろどりの追憶・第一巻・23頁
今宵は天満つ月。
紺碧の夜空はただただ広く、月華が優しく地を照らしていた。
聞こえてくる琴の音は、聞く者の心を奪い別なる世界へと誘う。
奏者は、美しき娘。
齢の頃なら、二十歳前後だろうか。
射干玉の髪、見るも眩しき氷肌、美しき紫色の瞳に、丹花の唇。
まさしく、羞花閉月の女人とはこの娘のことであろう。
箏の音をかき鳴らす指の、繊細なこと。
「湘子……」
娘の前に腰掛け、その琴の音を聞き入っていた青年はふとその名を呼び、彼女の頬に指を伸ばした。
ふつ……と琴の音がやむ。
「……舜棐」
娘の赤い唇から、青年の名が紡ぎ出される。
深海のような深い蒼い瞳に己の姿が映し出されているのを認めて、湘子はその花のような唇からため息をこぼした。己の頬に彼の指が触れる前に顔を背け、その手から逃げるように立ち上がる。そうして、部屋の奥の円窓に寄る。
空を仰げば、天満つ月が静かに輝いているのが見えた。
「そなたも懲りぬの。いつまで、かような場所で油を売っておる?ここは、そなたがいるべき処ではない」
月を見上げたまま、湘子は言う。
冷たい突き放したような物言いに、けれど、舜棐は怯む様子を見せなかった。
彼も立ち上がり、円窓から月を見上げる湘子の元へ歩み寄る。
「何を言うか。愛しき妻を訪ねることを油を売るとは言わぬ。共に美しき月を眺め、そなたの箏の音に耳を傾ける。朕にとって何よりも愛おしい時間だ」
「話にならぬ」
ピシャリと湘子は言い、隣に立つ己の夫ーーこの聖国の皇帝を一瞥した。
「そなたは、この国の帝。世嗣を為すのも、政務が一つ。石女の奇人である妾の元になぜ渡ってくる」
「湘子……」
己を石女の奇人と言い放つ妻の顔を舜棐は困ったような顔で覗き込む。
「そなたの言うことはわかる。けれどね。私が愛するのは、そなた、ただ一人なのだよ。第三皇子として先帝に冷遇されていた朕に常に寄り添い在ってくれたそなた以外、朕は…」
舜棐の言葉を止めるように湘子はかぶりを振る。
美しく結い上げた漆黒の髪に挿された簪が月明かりで煌めいた。
「世嗣ができぬことが、どれほど問題か……わからぬわけではあるまいに」
ため息混じりに湘子は呟く。
聖国の若き皇帝・舜棐帝が即位したのは今から五年前。
舜棐の父であった先帝、皇太子であった第一皇子、皇太子と同腹であった第二皇子が、流行病で立て続けに身罷った。
それにより、第三皇子であった舜棐が図らずとも即位した。
当時、湘子は第三皇子であった舜棐の妃であり、舜棐が即位した際、貴妃に封じられた。
二人が夫婦となったのは六年前だが、一向に子宝には恵まれなかった。
それを理由に左相ーー聖国の行政を司どる枢密院の長が己の娘、梓乃を無理やり入内させたのは半年前。
現在、舜棐帝の元でその治世を支える百官の中で大きな勢力を作っている左相は、娘を入内させ、ゆくゆくはその子、つまり、己の孫を帝位につけることを目論んでいるのだ。
ところが、舜棐は皇宮の奥の宮・牡丹殿にいる梓乃妃を訪れることは少なく、今もこうして、芙蓉殿にいる湘子妃を足繁く訪れている。
ーーーー石女の奇人、湘子妃。
今上の子を宿せぬというのに、秋の扇になるのは嫌と申し、恋々と今上の袖を離さず、世嗣ができるのを阻む妃。
芸事の才がありその容姿は大層美しいが、口を開けば女人らしさのかけらもない。
聞くに、主上がお許しになったのをいいことに、奥の宮では陛下の御名を軽々しく口にするとか。
昼も夜も、楽を奏でるか書物に齧り付くばかりで、今上の御心を慰める努力もせぬ。
皇宮の内外で己がどう評されているか湘子は知っている。
奥の宮を歩けば、仕える女官たちが石女で役立たずな己を蔑んだような目で見てくる。
皇宮で行われる行事に出れば、皇帝に仕える百官から冷たい視線をおくられる。
ひそひそと交わす言葉が嫌でも入ってくる。
己のことだけならば構わない。
ーーーーそれなのに、なにゆえ、主上は湘子を大切になさるのか。
なんぞ、弱みでも握っているのではないか。
主上は、湘子に化されているのではないか。
やはり、先帝に冷遇されていただけあって、国のことを考えぬ痴れ者なのではないか。
……しっ!それ以上申してはなりませぬぞ。
不敬甚だしいが、この国の若き主を悪く言う声も聞こえてくる。
けれど、湘子は知っている。
舜棐が、第三皇子で先帝に冷遇されていても腐ることなく、民草のために皇子としてできることを黙々と積み上げてきたことを。
帝位についてからは、所詮若造と百官に侮られぬよう威厳を示しつつ、民草の声に耳を傾けていることを。
湘子が生まれ育った家は、この聖国の中でも名家中の名家だが、兎にも角にも湘子は変わり者であった。
親元にいる時から、他の貴族の姫らのように着飾ることや姫らの集まりに興味を示さず、楽や書に没頭していた湘子は皇都でも異端の姫君と後ろ指をさされていた。
そんな変わり者の己の話……日々読んでいる小難しい書物の話や奏でる楽に大層嬉しそうに舜棐は耳を傾けてくれた。
皇帝の貴妃として奥の宮に上がっても、彼女がのびのびとしたいことをするのを咎めるどころか、守ってくれる。
そうして、妃としての役割ーー世嗣を為すことができぬ己を尚も愛おしいと言ってくれる。
そんな最愛の人が悪く言われることが、湘子は何よりも辛かった。
だからこそ、心を鬼にして言うのだ。
役立たずの妾の元に渡るのではなく、梓乃妃の元にもっと足しげく渡れ、と。
舜棐が己を想ってくれているのはわかっているから。
その事実だけあれば、妾は笑っていられるから。
それでもーーーー
「湘子、我が愛しき女」
暖かな手が湘子の細い肩に触れる。
ーーーー妾はいつから、こうまでも強欲になったのであろう。
彼に告げる冷たい言葉とは裏腹に、この人の身も心も、妾の元に留めておきたいと思う己がいる。
そなただけだと、愛しき女と彼が言ってくれると、胸の奥底が震えるのだ。
ーーーーすまぬの……舜棐。
言うたとて意味を為さない謝罪は飲み込んで、湘子は最愛の人に身を委ねたのだった。
あの月の夜から数ヶ月後。
聖なる都に、喜ばしい知らせが伝わった。
若き帝、舜棐帝の御子を奥の宮・牡丹殿の妃である左相家の大姫・梓乃が身篭ったというのだ。皇帝にはいまだ世嗣となる皇子はなかった。都の人々はこぞって、喜びの声を上げ、皇都は陽の気に包まれた。一方で、これにより、もし梓乃が皇子を産めば、その子は皇太子となる可能性が大いにあり、左相家の権力はいっそう強固なものになると宮廷の官吏達は口々に言い合った。ある者は左相家に近づき、ある者は反左相勢力を形成するのに奔走した。
その都の騒がしさも、宮廷の入り組んだ権謀術数も奥の宮・芙蓉殿には届かない。
湘子は、ふと書物から顔を上げため息を漏らした。
ーーーー舜棐に子が出来た。
その事実が、彼女の心に陰をおとす。
己の心に国あげての慶事が陰を落としていることに、湘子は苦笑した。
ーーーー愚かな……。何よりも望んだことではないか。これで皇子が産まれれば、もうあの人は悪く言われないのだから。
そう己自身に言い聞かせる日々をひと月近く過ごしている。
梓乃妃とその父である左相は懐妊がわかってから、どうか腹のややこにお声をかけて欲しいと牡丹殿にこれまで以上の御渡りを強く願い出ているようだった。舜棐はその願いを受け、梓乃の懐妊がわかって以来、牡丹殿へ渡る頻度を増やしている。
ーーーー昨晩も、陛下は牡丹殿に御渡りになり梓乃妃殿下とお過ごしになっていたそうよ。
以前は、あれほど芙蓉殿においでだったのに。
お可哀想な湘子妃殿下。
ーーーー聖治殿では、湘子さまの下賜のお話も上がっているのだとか。
昨日も奥の宮の庭園の散歩中に、女官たちが話している声が耳に入ってきた。
それを聞いて、心にざらりとした感情がまるで水に墨を落としたかのように広がった。
『愛している、湘子……だれよりも』
ふと、脳裏に舜棐の声がかすめ彼女は激しくかぶりを振った。
あの言葉に嘘偽りがないことを知っている。彼はこの国の主として責務を果たしたにすぎない。
それでも、胸が苦しい。
その思いを振り切るように、湘子は読み途中の書物に視線を落とす。
「妃殿下」
そんな彼女に声をかける者がいる。
書物から顔を上げ声のした方に視線を投げると一人の女官が立っていた。
「ああ…そなたか」
女官の姿を認め、湘子はほっと息を吐く。
その女官は、湘子がまだ親元にいる時から側仕えとして常に彼女に寄り添ってくれていた女性だった。
名を楓といい、彼女は湘子が第三皇子の妃として皇宮に上がる際、共にここへ来たのだった。
「そう根を詰められますと、お体に障ります。近頃、顔色も優れぬようですし、食欲も落ちておいでではありませんか。わたくしは、心配でなりません」
彼女はそっと湘子の側により、顔を覗き込む。
楓は幼い頃から側にいただけあって、二人だけの時は遠慮がない。
「やはり、顔色が悪うございます。医官に診ていただいた方がよろしいのでは?」
「必要ない。今は梓乃妃の大切な時。聖医療館(皇宮内の医官の詰所)の手を煩わせとうはない」
読みかけの書物を閉じ、楓から逃れるように湘子は立ち上がる。
立ち上がった途端眩暈を覚え、湘子は思わず卓に手をつく。
「妃殿下?」
その様子に楓は一層心配そうに声をかけてくるが、大事ないと短く答え卓から離れる。
そうして、数歩歩いたところで、彼女の意識は闇に沈んだ。
芙蓉殿の妃・湘子妃ご懐妊。
聖国にて、若き皇帝の寵姫ご懐妊の報が民の間にもたらされたのはそれから数週間後のことであった。
皇宮本宮前の水晶庭園の木々が、赤く染まる頃。
その日、秋の園遊会が開かれた。
若き皇帝と二人の妃。
舜棐帝の治世を支える百官が、一堂に会するその宴は大変華やかなものであった。
庭園の中央に誂えられた舞台で、宮に仕える舞妓や楽師たち、芸に覚えがある貴族の家の者や名家が抱える芸者が、見事な舞や楽を披露する。
中央には、舜棐帝。
その一段下の左に牡丹殿の妃・梓乃妃、右に芙蓉殿の妃・湘子妃が座し、出される食に舌鼓を打ちながら舞や楽を楽しんでいた。
宴もたけなわとなった頃、舜棐と二人の妃に新たな茶が出される。
お毒見役の者により安全が確認されると、目の前の卓に並べられる。
目の前で、丁寧に茶器を並べる女官を見て湘子は首を傾げる。
ーーーーはて。あの者、芙蓉殿にいたであろうか。
奥の宮に仕える女官の数は大変に多い。
普段から側に控えている者は顔と名前を覚えているが、全員となると難しい。
まして、今日は園遊会。
奥の宮以外の場所で仕える女官も帝や妃、百官のお召し物を給仕するのに忙しなく動いていた。
美しい茶器に香り高い茶が淹れられ、湘子に出される。
手元に寄せると、ふわりと茶の香りが鼻腔をくすぐった。
「良い香りじゃ」
口元を綻ばせ湘子が呟くと、茶器を並べた女官が笑みを浮かべた。
その笑みが、ぞくりとするほど不気味であることに湘子の背筋が凍る。
茶杯を手にしたまま、視線を巡らせるとこちらをじっと見つめる多くの目があることに気がついた。
左相、彼に与する官たち…
左相家の者…そして、牡丹殿の妃・梓乃。
さらに、斜め後ろに目を走らすと、先ほどまでいたお毒味役の女官の姿がなくなっていた。
ーーーーああ……
湘子は心中で嘆息する。
舜棐と二人、長いこと希った我が子を身に宿し、湘子はこれまでになく幸せな日々を過ごしていた。
日に日に大きくなってくる腹を舜棐と共に撫でては、この幸せが永遠に続きますようにと願っていた。だがその幸せは、芙蓉殿の外ーー百官の実質の長と言われる左相と彼に与する者たち、そして、牡丹殿の梓乃妃にとっては何より目障りなものなのだ。
もしも、梓乃の腹の子が皇女で、湘子の腹の子が皇子であったら……次の皇帝の座に己の孫を据え、権勢ほしいままにしたい左相にとって何よりも邪魔な存在になってしまう。
左手で膨らんできた己の腹を撫でる。
ーーーーこの子が生まれても、待っているのは血を血で洗う権力闘争。
苦しみ傷つくのは、この子だけではない。この子の周りも、また、苦しみ傷つくこととなる。
そして、世が乱れ、国が傾く。
それは…日々、真摯に民草のためにあろうとする舜棐の思いや努力を踏み躙ることになるのではないか。
どこかで、みて見ぬふりをしていた不安が胸に広がった。
茶杯を持つ右手が震える。
息を吐く。
ーーーーならば……いっそ、この子と共に……
そう思った瞬間。
ぽこん、と不思議な感覚が体に響いた。
しばらく置いて、また、ぽこん、ぽこんと、響いてくる。
腹に当てた左手に確かに動きを感じた。
「ああ……すまぬ…妾は、なんということを…」
謝罪の言葉を呟いた瞬間、紫色の美しい瞳から一粒涙がこぼれ落ちた。
「弱き母を許せ……。もう迷いはせぬ。どうか、どうか、そなたの声を母に聞かせてほしい。そなたの笑顔を母に見せてほしい」
とんとん、と優しく腹を叩く。
「そして、そなたの声を父に聞かせてやってほしい。そなたの笑顔を父に…舜棐に見せてやってほしい……」
左手を頭に伸ばす。髪に挿した銀の簪を抜く。
さらり、と射干玉の髪が肩に落ちる。
突然、湘子妃が結っていた髪を解いたのを見て、その場の者たちがざわめいた。
「湘子?いかがした?」
驚いた舜棐が玉座を立ち上がる。
湘子はそれに答えず、銀の簪を卓に置く。
右手に持った茶杯を傾ける。
香り高い茶が溢れ、銀の簪を濡らしていく。
美しく輝いていた銀の簪が茶色く変色していく。
側に控えていた他の女官が悲鳴をあげる。
その悲鳴を聞きながら、湘子はもう一度、腹を叩いた。すると、それに応えるかのように腹の子が蹴り返してくるのを感じた。
「待っておるでの」
囁くように優しく語りかけ、湘子は嫣然と微笑んだのだった。
芙蓉殿の湘子妃の茶器に毒を仕込んだ女官と毒味役は直ちに捕えられ、死罪となった。
この園遊会で湘子妃の毒殺に加担した者は、この二人の他に、毒を用意した者、それを皇宮に持ち込んだ者など全て含めると十二名にも及んび、この者たちもまた処されたのだった。
ただし、この者たちはあくまでも女官や侍従、皇宮に出入りを許されている商人たちで、彼らと左相との繋がりはどれだけ詳しく担当司法官が調査をしても明らかにはならなかった。
この園遊会の湘子妃毒殺未遂事件以降、奥の宮・芙蓉殿の警備や仕える者たちに対しての監視はより一層厳しいものとなった。それにより、湘子妃は無事、臨月を迎える。その月は、また、牡丹殿の梓乃妃の臨月でもあった。
その日は、昨夜から続いている雪がなお止まず聖都は凍るように寒かった。そんな中、後宮は朝からせわしない。白い衣服を着た女官達が忙しく動いている。
皇帝の第一皇妃であり、左相家の娘である梓乃が産気づいたのだ。
「まだかっ!?」
皇宮の帝の座す聖治殿では、枢密院のトップ官僚の一人である左相が不安げな顔をしている。
彼は帝の御前でぐるぐると広間を歩き回っていたが、入ってきた女官に焦ったような声をかけた。その後ろで、若き帝はゆったりと構えている。これでは、どちらがこれから産まれてくる子の父親であるか分からない。
「まだでございます、左相さま。今しばらくお待ち下さりませ」
女官は、今にも癇癪を起こしそうな左相を宥めるように優しく言った。
「焦るな、子は逃げはしない。無事、産まれてくるであろうよ」
己の前で、慌てている大臣に帝は笑って声をかけた。
左相は、そっと外に目を転じ深いため息をついた。外は、激しい吹雪。
「ああ、いまいましい雪であることよ。この寒さ。梓乃の体力が持つかどうか心配でならぬ」
「大丈夫でございますよ。お妃様のおられるお部屋は、暖かこうしておりますから」
帝の側近くに控えている、帝の侍従が言う。
「ええぃ。そのような事は、分かっているわッ!!」
雪がやみ太陽が天上に空高く上る頃。
奥の宮・牡丹殿の一室で、元気な赤子の産声が上がった。
「元気な、皇子さまでございますっ!!」
女官が高らかに告げる声に、男達は手をたたいて喜んだ。
そしてその数時間後。
白くきらめく銀世界を月の光が静かに照らす頃。
若き帝が、腕を組んで立ちすくむ庭に面する芙蓉殿の一室から呱々の声が上がった。
舜棐は、その儚くも希望に満ちたその声に大きく息を吐いた。
しばらくすると、芙蓉殿から侍医たちが現れ、畏まって長揖をする。
「陛下、謹んでお喜び申し上げます。皇子さま、ご誕生でございます」
そうか……、皆、ご苦労であったと万感の思いを込めて舜棐は侍医たちを労う。
そして、女官らに誘われ、湘子妃が待つ芙蓉殿に上がった。
部屋の奥の寝台で静かに身を横たえている湘子は、小さくなった腹の上で手を組んで目を閉じていた。
紅をさしていないのに、赤々と美しい唇は笑みの形を成していた。
「湘子」
舜棐の声に反応して、目を閉じていた湘子はそっとまぶたを開いた。
「舜棐……」
帝は、美しき妻の側によるとそっとその汗ばんだ額を撫でた。
「よくやってくれた。よく頑張ったな」
彼の言葉に、湘子は華のような笑顔をその美貌に浮かべる。
「陛下」
楓が、白いむつきに包まれた生まれたばかりの皇子を抱いてやってきた。腕の中の皇子は、やすらかな寝息を立てている。舜棐は、そっと両手をのばし彼女から我が子を受け取るとしっかりとその腕に抱いた。
「重たいな」
彼の素直な反応に、その場に控えていた者たちは涙を浮かべたり、笑ったりした。
湘子は、そっとその白く華奢な手を伸ばし夫の腕の中で眠る我が子の頬に触れる。
「名を、呼んでやってくれぬか」
湘子の言葉に、舜棐は目を細めて頷いた。そうして、腕の中で眠る愛しい我が子を見つめる。
「小聿」
男児であったのなら、この幼名を贈ろうと二人で決めたその名で彼は息子を呼んだ。すると、舜棐の腕の中の赤子は父の声に応えるかのように小さくあくびをしてみせた。その愛らしい様子に、舜棐と湘子は顔を見合わせて笑う。
「小聿、愛しき我が子よ。大きく、立派に育てよ」
帝は、腕の中の我が子に願いを告げる。
静かな、冬の夜。
湘子妃のおわす芙蓉殿は、灯が消えることなく暖かな空気が流れていた……。
同じ日に、違う母をもって全く正反対の時刻に生まれた二人の皇子。幼名をそれぞれ、子虞、小聿とする彼らはやがて聖国の、ひいては星森大陸の運命を大きく左右する事となる。ーーーーいろどりの追憶・第一巻・23頁
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