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キューピッドは囁かれる
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◇
最寄り駅に着き改札を抜けると、僕の目は勝手に、通行人の中から彼の姿を探していた。
「真也」
人混みの中で、頭ひとつ飛び抜けたミステリアスな美貌を持つ男が、僕の名を呼ぶ。こちらと視線が合うと、薄く微笑んだまま尻尾を振るドーベルマンみたいに近づいてくる。
「まさきさ、ん」
その胸に、飛び込みたい衝動に駆られる。
足で床を蹴って、近づいてくる彼に向かって駆けたと同時に、ふと我に返った。
僕が雅樹さんにとってどんな立場だからって、そんな大それたことができるんだろう。
駆けていた足が鈍くなり、雅樹さんの眼前に立つ頃には、ほとんど歩きと変わらない速度まで落ちていた。
「おかえり」
雅樹さんの顔を見て、笑えばいいのか泣けばいいのかもわからず、表情筋が動かない。
彼の着ている薄手のコートの襟を掴もうと挙げかけていた手をおろし、うつむく。
「真也?」
「……ただいまもどりました」
「あぁ。早かったな」
友人と飲んだのに早く帰って来たのなら、理由は推して知るべしだ。
だが雅樹さんは僕に一切の事情を尋ねなかった。
ただ『早く戻ってきた』という事実だけを述べ、それ以上は踏み込んでこない。
それに僕がどれだけ救われているか。
彼は、詐欺師なんかじゃない。
僕は彼のことが……。
うつむいていると、スッと腰に何かが触れる。
その感触に弾かれて顔を上げると、雅樹さんの腕が僕の腰に回っていた。
「おいで」
音もなく微笑んだ雅樹さんに、強く身体を引き寄せられる。
体の半分が、温もりに包まれた。
「ぁ……」
「帰ろう」
促されて、帰路についた。
今まで何度も行き来した道なのに、こんなに雅樹さんと近い距離で帰るなんて、初めてだ。
肩に力が入って、上手く歩けない。
マンションの玄関まで着いてやっと、雅樹さんの手が腰から離れる。知らず息を詰めていたみたいで、深く吐き出しながら靴を脱いだ。
それと同時に、自由になった手を雅樹さんに取られる。
「見せたいものがあるんだ」
「え?」
優しくも強く手を引っ張られ、足をもつれさせながら雅樹さんとともにダイニングへ入る。
ダイニングテーブルの上には、片手ではギリギリ持てない大きさの紙箱が置かれていた。中身が何かを聞く前に、雅樹さんが箱の上蓋を開ける。
紙箱の中には、ペアのマグカップが入っていた。
添えてある紙に描かれたロゴは、高級陶器ブランドのものだ。カップ一つが一万円や二万円もするような相場の。
「これ……」
「割ったマグの詫びだ」
「なん、で……。割ったのは一つでしたよ。しかも百均の」
「おれもしばらくいさせてもらっているから、一つだと不便だろう。お礼も兼ねているし、おれが出て行くことになれば──」
「雅樹さん、出ていくんですか?」
声を震わせながら聞くと、雅樹さんは肩をすくめた。
「すぐじゃないが、いずれは。居候をずるずると長引かせて、きみに迷惑をかけるわけにはいかないからな」
「迷惑、だなんて」
雅樹さんは、さっき僕に『帰ろう』って言ってくれたじゃないか。
このアパートを帰る場所だと思ってくれていたんじゃないのか。
それともあの日のキスと同じで、やっぱりまた僕は雅樹さんの感情の機微を読み間違えているのか?
……きっとそうだ。
彼とは会ってから数週間しか経っていない。その間、家を間借りしているだけ。
しかも引き止めたのは僕で、オメガだと偽っているのだから。
僕は、雅樹さんの大切な人にはなり得ない。
だから、文字通り一つだと不便だなんて理由で、ペアの高級マグカップをほいと買えたんだ。こちらの気も知らず『おれが出て行くことになれば』なんて、簡単に言うんだ。
「う、受け取れません」
「受け取とらなくても、去る時家に置いていく。それだけだ」
「そ、そうではなくて……」
佳乃を失うだけでも怖いのに、最後には雅樹さんすら、僕の前からいなくなったら──。
「真也」
柔らかい声に、うつむかせていた顔を上げる。
雅樹さんの手が僕へ伸びてきた。指先が頬に触れて、濡れた感触がする。
「泣いているのか」
その時僕は初めて、はちきれそうな心を自覚した。
「……っ」
涙が止まらなくなる。
最寄り駅に着き改札を抜けると、僕の目は勝手に、通行人の中から彼の姿を探していた。
「真也」
人混みの中で、頭ひとつ飛び抜けたミステリアスな美貌を持つ男が、僕の名を呼ぶ。こちらと視線が合うと、薄く微笑んだまま尻尾を振るドーベルマンみたいに近づいてくる。
「まさきさ、ん」
その胸に、飛び込みたい衝動に駆られる。
足で床を蹴って、近づいてくる彼に向かって駆けたと同時に、ふと我に返った。
僕が雅樹さんにとってどんな立場だからって、そんな大それたことができるんだろう。
駆けていた足が鈍くなり、雅樹さんの眼前に立つ頃には、ほとんど歩きと変わらない速度まで落ちていた。
「おかえり」
雅樹さんの顔を見て、笑えばいいのか泣けばいいのかもわからず、表情筋が動かない。
彼の着ている薄手のコートの襟を掴もうと挙げかけていた手をおろし、うつむく。
「真也?」
「……ただいまもどりました」
「あぁ。早かったな」
友人と飲んだのに早く帰って来たのなら、理由は推して知るべしだ。
だが雅樹さんは僕に一切の事情を尋ねなかった。
ただ『早く戻ってきた』という事実だけを述べ、それ以上は踏み込んでこない。
それに僕がどれだけ救われているか。
彼は、詐欺師なんかじゃない。
僕は彼のことが……。
うつむいていると、スッと腰に何かが触れる。
その感触に弾かれて顔を上げると、雅樹さんの腕が僕の腰に回っていた。
「おいで」
音もなく微笑んだ雅樹さんに、強く身体を引き寄せられる。
体の半分が、温もりに包まれた。
「ぁ……」
「帰ろう」
促されて、帰路についた。
今まで何度も行き来した道なのに、こんなに雅樹さんと近い距離で帰るなんて、初めてだ。
肩に力が入って、上手く歩けない。
マンションの玄関まで着いてやっと、雅樹さんの手が腰から離れる。知らず息を詰めていたみたいで、深く吐き出しながら靴を脱いだ。
それと同時に、自由になった手を雅樹さんに取られる。
「見せたいものがあるんだ」
「え?」
優しくも強く手を引っ張られ、足をもつれさせながら雅樹さんとともにダイニングへ入る。
ダイニングテーブルの上には、片手ではギリギリ持てない大きさの紙箱が置かれていた。中身が何かを聞く前に、雅樹さんが箱の上蓋を開ける。
紙箱の中には、ペアのマグカップが入っていた。
添えてある紙に描かれたロゴは、高級陶器ブランドのものだ。カップ一つが一万円や二万円もするような相場の。
「これ……」
「割ったマグの詫びだ」
「なん、で……。割ったのは一つでしたよ。しかも百均の」
「おれもしばらくいさせてもらっているから、一つだと不便だろう。お礼も兼ねているし、おれが出て行くことになれば──」
「雅樹さん、出ていくんですか?」
声を震わせながら聞くと、雅樹さんは肩をすくめた。
「すぐじゃないが、いずれは。居候をずるずると長引かせて、きみに迷惑をかけるわけにはいかないからな」
「迷惑、だなんて」
雅樹さんは、さっき僕に『帰ろう』って言ってくれたじゃないか。
このアパートを帰る場所だと思ってくれていたんじゃないのか。
それともあの日のキスと同じで、やっぱりまた僕は雅樹さんの感情の機微を読み間違えているのか?
……きっとそうだ。
彼とは会ってから数週間しか経っていない。その間、家を間借りしているだけ。
しかも引き止めたのは僕で、オメガだと偽っているのだから。
僕は、雅樹さんの大切な人にはなり得ない。
だから、文字通り一つだと不便だなんて理由で、ペアの高級マグカップをほいと買えたんだ。こちらの気も知らず『おれが出て行くことになれば』なんて、簡単に言うんだ。
「う、受け取れません」
「受け取とらなくても、去る時家に置いていく。それだけだ」
「そ、そうではなくて……」
佳乃を失うだけでも怖いのに、最後には雅樹さんすら、僕の前からいなくなったら──。
「真也」
柔らかい声に、うつむかせていた顔を上げる。
雅樹さんの手が僕へ伸びてきた。指先が頬に触れて、濡れた感触がする。
「泣いているのか」
その時僕は初めて、はちきれそうな心を自覚した。
「……っ」
涙が止まらなくなる。
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