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キューピッドは囁かれる

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 最寄り駅に着き改札を抜けると、僕の目は勝手に、通行人の中から彼の姿を探していた。

「真也」

 人混みの中で、頭ひとつ飛び抜けたミステリアスな美貌を持つ男が、僕の名を呼ぶ。こちらと視線が合うと、薄く微笑んだまま尻尾を振るドーベルマンみたいに近づいてくる。

「まさきさ、ん」

 その胸に、飛び込みたい衝動に駆られる。
 足で床を蹴って、近づいてくる彼に向かって駆けたと同時に、ふと我に返った。

 僕が雅樹さんにとってどんな立場だからって、そんな大それたことができるんだろう。

 駆けていた足が鈍くなり、雅樹さんの眼前に立つ頃には、ほとんど歩きと変わらない速度まで落ちていた。

「おかえり」

 雅樹さんの顔を見て、笑えばいいのか泣けばいいのかもわからず、表情筋が動かない。
 彼の着ている薄手のコートの襟を掴もうと挙げかけていた手をおろし、うつむく。

「真也?」
「……ただいまもどりました」
「あぁ。早かったな」

 友人と飲んだのに早く帰って来たのなら、理由は推して知るべしだ。

 だが雅樹さんは僕に一切の事情を尋ねなかった。
 ただ『早く戻ってきた』という事実だけを述べ、それ以上は踏み込んでこない。
 それに僕がどれだけ救われているか。

 彼は、詐欺師なんかじゃない。
 僕は彼のことが……。

 うつむいていると、スッと腰に何かが触れる。
 その感触に弾かれて顔を上げると、雅樹さんの腕が僕の腰に回っていた。

「おいで」

 音もなく微笑んだ雅樹さんに、強く身体を引き寄せられる。
 体の半分が、温もりに包まれた。

「ぁ……」
「帰ろう」

 促されて、帰路についた。
 今まで何度も行き来した道なのに、こんなに雅樹さんと近い距離で帰るなんて、初めてだ。
 肩に力が入って、上手く歩けない。

 マンションの玄関まで着いてやっと、雅樹さんの手が腰から離れる。知らず息を詰めていたみたいで、深く吐き出しながら靴を脱いだ。
 それと同時に、自由になった手を雅樹さんに取られる。

「見せたいものがあるんだ」
「え?」

 優しくも強く手を引っ張られ、足をもつれさせながら雅樹さんとともにダイニングへ入る。

 ダイニングテーブルの上には、片手ではギリギリ持てない大きさの紙箱が置かれていた。中身が何かを聞く前に、雅樹さんが箱の上蓋を開ける。

 紙箱の中には、ペアのマグカップが入っていた。
 添えてある紙に描かれたロゴは、高級陶器ブランドのものだ。カップ一つが一万円や二万円もするような相場の。

「これ……」
「割ったマグの詫びだ」
「なん、で……。割ったのは一つでしたよ。しかも百均の」
「おれもしばらくいさせてもらっているから、一つだと不便だろう。お礼も兼ねているし、おれが出て行くことになれば──」
「雅樹さん、出ていくんですか?」

 声を震わせながら聞くと、雅樹さんは肩をすくめた。

「すぐじゃないが、いずれは。居候をずるずると長引かせて、きみに迷惑をかけるわけにはいかないからな」
「迷惑、だなんて」

 雅樹さんは、さっき僕に『帰ろう』って言ってくれたじゃないか。
 このアパートを帰る場所だと思ってくれていたんじゃないのか。

 それともあの日のキスと同じで、やっぱりまた僕は雅樹さんの感情の機微を読み間違えているのか?

 ……きっとそうだ。

 彼とは会ってから数週間しか経っていない。その間、家を間借りしているだけ。
 しかも引き止めたのは僕で、オメガだと偽っているのだから。
 僕は、雅樹さんの大切な人にはなり得ない。

 だから、文字通り一つだと不便だなんて理由で、ペアの高級マグカップをほいと買えたんだ。こちらの気も知らず『おれが出て行くことになれば』なんて、簡単に言うんだ。

「う、受け取れません」
「受け取とらなくても、去る時家に置いていく。それだけだ」
「そ、そうではなくて……」

 佳乃を失うだけでも怖いのに、最後には雅樹さんすら、僕の前からいなくなったら──。

「真也」

 柔らかい声に、うつむかせていた顔を上げる。
 雅樹さんの手が僕へ伸びてきた。指先が頬に触れて、濡れた感触がする。

「泣いているのか」

 その時僕は初めて、はちきれそうな心を自覚した。

「……っ」

 涙が止まらなくなる。
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