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不器用と拙さ(1)

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「――それで戻ったら、なんて言ったと思います!?」
「さあねえ……」
 ピンクベージュに薄くホワイトパールのマーブルが入っている上品なネイルを施した指先が、ストローを摘んでアイスコーヒーの入ったグラスの中をゆるりと掻き回せば、褐色の液体の中でふわふわと四角い氷が浮き沈みしながらワルツを踊るように動いた。 
 相槌を打つ普段からやや低めの声が、無関心にさらにトーンが沈んでいることにまだ塔子は気がついていない。
「お前は井戸から這い出てくるホラー映画の女かって、哀れむような目で……ずぶ濡れだったのは、し、仕方がないじゃないですかっ。停電起きるほどの豪雨だったんですよ!? 駐車場から建物に入るまで傘無しだったのにぃぃいっ!」
「あー、わかったから泣かないのー」
 わあっとテーブルに塔子が突っ伏せば、松苗女史は棒読みの一本調子な言葉で形ばかりに彼女を宥めた。
「で、塔子さん?」
 淡々と呼びかける声にひくんと塔子は顔を上げ、完璧に優しげで美しい松苗女史の微笑みにすっと血の気が引くような恐怖を覚える。
「いつになったら打ち合わせ入れるのかしら? もしくはそれがネタ? 書く? ねぇ書く?」
「か、書きません……っ、か、書けるわけないですっ! 松苗さんっ!!」
「あら、そっ」
 ホテルの喫茶ラウンジの四人掛けの席。
 塔子と向き合う形に腰掛ける松苗女史は、女性ファッション誌から出てきたような姿をベージュの丸っこいソファ席の背もたれにだらんっと仰け反らせた。時々こういった子供みたいな振る舞いを彼女はする。
 塔子の目にはかわいらしく見えるのだけれど、なんとなく機嫌を悪くしそうに思えるのでそれを本人に伝えたことはない。
「て、ゆーかさあぁ。朝布大の別の先生とデートだったんでしょう? そっちはランチご馳走になって停電して迷惑かけた申し訳ない、以上。終わり! で、さっきから天敵の上津原せんせーのお話ばっかりなんですけど?」
「で、でででデートっ!?」
 静かで落ち着いた店内に響いた声に、商談中の国際色豊かなビジネスマンや優雅な午後を満喫といった中年女性のグループが一斉に怪訝そうな顔を塔子たちの席に向けたのに、松苗女史は疲れたような溜息を吐いた。
「声、大き過ぎ」
「ご、ごめんなさい……」
 ここが紀尾井町にある一流ホテルの喫茶ラウンジだったことをすっかり忘れていたと、塔子は冷めてもなお香りのよい紅茶の入ったカップを手に取り、そのなかに顔を埋めるが如く俯いた。
 塔子もコーヒーがよかったのだが、松苗女史に強制的にアフタヌーンティーセットを注文されてしまった。
 例の段々に積み重なった白い皿の上にまだ半分ほど焼き菓子やプチケーキが残っている。
 少し暑気あたりしていることもあって、スコーンを食べサンドイッチを摘んだところでもうそれ以上の食欲がでないでいる塔子だったが、松苗女史は甘い物はあまり好きではないから残りを手伝ってもらえる見込みは薄かった。
 気を取り直して顔を上げ、塔子がカップを傾ければ動いた肘が当たって隣の席に置いた紙袋ががさっと音を立てる。買い物したのではなく家から持ってきたもの。
 その中身と、自身のことを考えて、塔子は紅茶を飲むと深い溜息を吐いた。 
「だって……松苗さんが、デートなんて言う……から……」
「ただお礼言うためだけに声をかけたら、明らかに気合いの入った食事に誘われた上に、上津原せんせからの電話がなかったら連れ回されそうだったんでしょ? それをデートと言わずなんというのよ」  
「そっ、それっ……なんっなんですかあの人! 自分が早く帰りたいからって立原さんの携帯にいきなり電話して、私に用事があるなら直接っ」
「あのねー、塔子さん」
「あ……私が携帯、置き忘れた、から……でしたね」
 塔子の言葉に、松苗女史が腕組みをして深く頷く。
「まったく、気ぃつけなさい。……こっちまで飛び火したんだから」
「え?」
 ぼそぼそっと松苗女史がぼやいた言葉を聞き返せば、仰け反らせていた上半身を起し少々行儀悪く両肘をテーブルに立てて左右の手の甲に顎先を載せるようにし、半分閉じた眼差しでこちらをじっと見詰めてきた松苗女史に、「ごめんなさい」と塔子は縮こまった。
「で、どうだったのデートは?」
「松苗さん、打ち合わせは……」
「いーじゃない、ちょっとくらい。午後は甘糟あまかす先生と打ち合わせ後、直帰にしてるの」
「16時までじゃないんですか?」
「ちょっと野暮用でね。で、どうなのよー?」
 落ち合ったのは13時半でかれこれ三十分が過ぎていた。
 例の対談仕事での諸々からはじまってあれこれと愚痴ってしまったわけだけれど、さっき打ち合わせと凄んだ当人の語尾にハートマークでもつきそうな言葉の調子に呆れて、塔子は焼き菓子を摘むとそれに噛み付いて首を横に振った。
 どうもこうもなにもない。
 なにも。
 なにも……暗闇で、顔が近かったのはたぶん見えなかったからで……。
「っ…っうッ……ゴホッ、ケホッ……っンっ」 
「ちょっと、なにマドレーヌ喉に詰まらせてむせてんのよっ」
「んん、んっ」
 こくこくと頷きながら慌てて塔子はカップに残った紅茶を飲み干し、ごくりと喉を鳴らすとぜえはあと息を吐く。本当に一瞬呼吸が詰まった苦しさに目に涙が滲んだ。
「大丈夫? 顔、赤いけど?」
「うっ……大丈夫、です。動悸がしてちょっと苦しいけど……」
 二三度深呼吸して、はあっと大きく息を吐き出し少し落ち着いたと塔子は姿勢を直した。
「あんた本当、どこまでドジっこなのよ」
「松苗さんまで、上津原かみつはらさんみたいなこと言わないでください……っ」
「あーあ、すっかり嫌っちゃってるわねぇ」
「……別に、そこまで嫌な人と思っては、いないですけど」
「あら?」
「ものすごく失礼な人ってだけでっ」
「ああ、そう。その伊達原だか高花だか只原だかいった先生より、あたしは上津原せんせー推しなんだけどね」
 えっと伊達原ではなく立原さんで……と、遠慮がちに途中口を挟みかけた塔子の声は松苗女史には聞こえなかったらしい。
 本当かわざとかは定かではないが、松苗女史は興味のない人の名前をまともに覚えない。
「そりゃわかりやすく少女漫画ちっくなテンプレ色男かしれないけどさぁ。あ、でも待って……キャラ的にアレだけど、ある意味あの野獣男もテンプレっちゃあテンプレか」
 頬杖の右手を外し、松苗女史はアイスコーヒーの再び摘んだストローに口をつけた。なんでもない仕草なのにやけに女っぽくて塔子はどきりとする。
 もしかしたら打ち合わせの後、デートなのかもしれないなといった塔子の考えなど知らず、松苗女史は珍しく一人で納得するように頷いて喋っている。 
「“戻ってこい”、か」
「え?」
「いいけどねー、別に。人のこと過保護とか言えた義理かっていうの」
「あの……松苗さん?」
「ん?」
 ぶつぶつと呟き出した松苗女史にそろりと塔子が声を掛ければ、コーヒーを飲みながら首を傾げて彼女は塔子の顔を見た。その目が妙に楽しげな光を帯びて輝いている。
「一体、なんの話ですか?」
 塔子の問いかけに、一瞬にしてなにか痛ましげなものに松苗女史の眼差しが変化する。
「あんたって本当……ま、いいけど。いい加減、仕事しますか塔子さん」
 小さく肩を竦めた松苗女史の手元でグラスと氷がぶつかりカランと音をたてる。
 その澄んだ小さな音を聞きながら、塔子は「はい」と返事をした。

 *****

 静かな、重厚な趣の調度が置かれた部屋にコチコチと時計の秒針の音がしている。
 サイドボードの上にある、真鍮とガラスで出来た時計はなにかの記念に作られた品らしい。そういった金文字が刻んである。
 丁度、塔子が松苗女史とホテルの喫茶ラウンジで真面目に仕事の打ち合わせを始めた頃。
 上津原かみつはらは、学部長室のデスクの上で両手を組んでいる年配男性と対峙していた。
 腹が減った、14時半回ってるじゃねえか。どうりで。
 学食も仕出しもすでに終わっている時間だ。
 どうすんだ? この後すぐ授業あるし外に出てる暇なんてねぇぞ、おい。
 生協行きたくてもこんな場所いたら行けねぇし。
 こいつ……俺を飢え死にさせる気か? 
 しかめ面で、不良少年さながら片足を軽くあげ、磨かれた靴の甲でもう一方の脚のすねを掻き、片手を後頭部に差入れため息を吐く。
「珍しいねぇスーツって、なに? 宣伝仕事?」
「白衣のスペアがないんですよ。午前に来客があったんで仕方なく」
「その、とりあえず白衣羽織っとけば適当な格好してても文句言われないみたいな考えやめたらどうなの」
 上津原の不精な性格をよくわかっている相手はそう言って組み合わせていた両手を解いた。 
「んな事よりなんですか話って」
「あ、えっとねえ。来月の教授会、すっごく嫌だけど正式に君を推すことになりました。まあ昇格は来年度だけど」
「それは、どうも」
 なんだこの急な内示は、と上津原は眉を顰める。  
「すっごく嫌なんだけどね」
「嫌なら止したらどうですかね」
「僕にそんな権限ないもん。それにしても全国何万人といるポストを欲する人達を一瞬で敵に回す発言だよそれ」
「もらえるってなら、もらいますよ」
「……本当に可愛げのない。君みたいなね、性格悪いのに意外と人望あるって人間一番厄介なんだよね」
 腕組みしてしみじみと頷きながらそんなことを言われてもちっとも嬉しくはない。そもそも人望ってどこのどいつの話だと上津原は元々目付きが悪いと評判の目元を更に険悪に細めた。
「大体さ、学部卒で一回外に出て大学戻ってきて、業績もだけどどんだけ運と立ち回りいいの。普通なんでもできる奴はなんでも出来ない奴って相場は決まってるのに」
「そんだけ正面切って嫌ってくれるとかえって清々しいですよ、学部長」
 常に微笑んでいるような細目が温厚そうな細長い顔と、やや後退気味の額を立って見下ろしながら上津原が淡々と言えば、「いやもう本当っ嫌い、単純にむかつく」とにこにこしながら大人気ない言葉に悪意もまぶして返してくれる。
「あちこちからお金引っ張ってくるのもうまいし、元々本業も悪くないのに副業でもあんな貢献されたら冷遇できないじゃない。君見てると僕の研究者人生の労苦がまるで無意味に思えてくる……」
 両手で顔を覆う相手に、爺さんが空泣きしても気色悪いだけだぞと上津原は鼻白んだが、嫌がらせ半分の茶番になにか言うのもくだらないので黙っておいた。
 この大学に着任した頃からよくも悪くも絡んでくる御仁なので、いい加減面倒くさい性格は把握している。温厚を絵に描いたような人物ではあるが、その必要があれば微笑みながら崖から他人を突き落とす両手を躊躇いなく前に突き出せるえぐい性格をしている。
 もっとも下種のえぐさではなく、状況を巧みに操る類いのえぐさだ。
 目上に対しては腰の低い押しの強さで接し、目下の者には常に謙虚で恩を売る——目上の人間はこれから去るばかりだが、目下の人間は後で自分を刺しにくる可能性があるからだろうと、上津原は推測している。
 現に、上津原のことを快く思っていないのは明らかだったが、常に笑い話の範疇には納める。
 上津原としては好感を抱くことはできない人物だったが、かといって嫌う理由もなかった。
 全体を見渡せる指揮官というのは結構貴重だ。表立って揉めてはいないというだけで派閥の対立が内在している中で、対立勢も込みで重任につく人間を采配できるだけの度量はあるし、少なくとも組織運営において大きな下手は打たない。
 大学といった組織は大小無数の委員会やらグループやらといったもので運営されていて複雑怪奇だ。特定の人間ばかりにやらせていても潰れてしまうし、バランス感覚に優れた人間でなくては学部長は務まらない。いや務まるかもしれないが、現場の人間が大いに迷惑を被る。
 その点で、この男は押さえるところは押さえられる人物であった。
 上津原も、あれこれと言われはするが、基本的に好きにやらせて貰えてはいる。
 この大学は、大きく改革派の教員と保守派の教員とそれに翻弄される中立日和見主義的教員に分かれており、目の前の男は改革派の中核のような人物だ。
 派閥に関しては心底くだらないと思うが、私大も生き残りを賭けて必死で、まあその流れに反発を覚える人間もいるといった心情はわかる。
 上津原自身は我関せずいずれの派閥にも属した覚えはないのだが、どういうわけか改革派の勢力サイドに認識されている。彼としては至極迷惑な話であった。
「臨床センターから常勤望む声あるし、正直、場所だけそっち動かしてやりたいけどさ」
「俺を殺す気か……」
 過労死認定訴える遺書書くぞコラと呟けば、呑気そうな表情で、「それ困る」と返された。
「狸爺ぃ」
「僕、爺ぃだけど狸診る側。実際、君に影響受けてウチを受験したって学生もいるわけだし。ここ一、二年は特に」
 実の伴った広告塔といった意味で、この御仁から見れば上津原には利用価値があるのだ。
 上津原自身もそれをわかっていて我を通している自覚はあった。
「そんだけ買っていただいてるんなら、予算カネ回してくださいよ」
「駄目。君、君の研究室規模で考えたら十分すぎるくらい外から獲得してるでしょ」
「色々と、費目が面倒なの知ってるでしょうが」
「ま、そうだけどさ。十分貰えないとこのが多いってことは理解しなさいよ。ともかくそういった訳だから来月の会議は絶対出席。急患あっても出席」
「おい、ちょっと待てっ」
「ああなんか、往診対応してる危ういクライアントがいるんだったっけ? けど上津原先生しかウチには優秀な獣医がいないわけじゃなし、優秀な獣医同士なら連携とれるはずだよね?」
 ごもっともな意見に思わず勢いよく鼻息出して、教師を前に不貞腐れた不良少年の如く、上津原は両腕を組んで学部長の男と交わす視線を逸らせるように軽くそっぽを向いた。
「特に君みたいに几帳面に記録とって整理してる人なら尚更」
 そういえばこの間、名古屋の会合で岐阜から来た先生にお礼言われちゃって……などと言いながら、携帯の着信でもはいったのか男は衣服のポケットを探った。
「どこの誰から電話かな……はい、もしもし……」
 電話を耳元に、にこやかに片手を軽く子供との別れ際のように横に振るのは、もう話は終わったから立ち去れということだろう。
 そう読み取って、くるりと学部長の男が椅子を回転させて体ごと横を向いたと同時に、形ばかりの礼をして上津原は彼に背を向けた。
 相手はどこぞのお偉いさんだろう、応じる調子でわかる。
「へえ、いよいよ結納ですかそれはどうもわざわざ……いやあまとまったなら骨を折った甲斐がありましたねぇ、なにせ仕事熱心でして……」
 どこぞの偉いさんの娘にウチの若手でも斡旋したんかよ、古い手だなおい、と聞きたくもない会話に内心毒づきながら上津原はドアノブを掴もうとして耳を打った言葉に手を止めた。
「立原先生は」
 ちらりと背後へ目を送った上津原に、学部長の男が目敏く気がついて鼻に皺を微かに寄せる。
 それを見て上津原は無言でドアを開け廊下に出た。
 白衣の時そうするように羽織っている上着のポケットに手を入れて歩きだす。
 外から聞こえてくる蝉の声も随分小さくなった。
 気がつけば来週にはもう9月だ。

『いわば保守側の上津原先生ですよ』
 携帯番号以外の余計なことまで調べてきた万城目まきめの言葉が上津原の脳裏に甦る。
『テレビもたまに出ているとか。本は適当な実用書の監修とかそんな感じみたいですけど。特に目立つような単著もないみたいですし』
『テレビ出てんだったらそこそこ有名だろ』
『どうでしょうね。教養番組や報道番組の単発仕事が中心の先生と違って、あちらは民放バラエティのコメンテーターとからしいですから。ああいったのはメインの立ち位置じゃない人はほとんど背景ですし』

「あー……なるほど」
 歩きながら思い返した記憶と同じ言葉を口の中で呟く。
「目立つ情報発信の一本化は、たしかに基本だわな」
 しかしいつから抱き込んでたんだ、あの狸爺ぃは……結納って、先月先々月の話じゃねぇだろ。
「たしか俺よか数年歳下だったか。二兎追う者なんとやらって知らんかねぇ……あっ」
 十数歩先の角を曲がれば間も無く自分の部屋といったところで、上津原はピタリと立ち止まると廊下の天井を仰ぎ小さく舌打ちした。
「あーしまった。昼飯……」
 ったくと、上津原は首の後ろに右手を置くと今度は俯く。
「まー、マキの奴がなんか持ってんだろ」 
 たしか栄養補助菓子をいくつかどこかに備蓄していたはずだ。
「しかしつくづく面倒くせぇな、あの女は」
 再び歩き出した上津原は廊下の角を曲がり、ぼやきながらフライング気味に取り出した煙草を咥え、彼は研究室のドアを開けその中へと入った。
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