君に一生分の休みを。

桜庭つむぎ

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朝の光と名前の交換

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「……おはよう。よく眠れたかな?」
翌朝、障子の向こうから届いたのは、昨日までの鋭さを拭い去った、柔らかな声だった。
桜が慌てて身なりを整え「おはようございます」と返すと、久我が静かに入ってきた。その手には、湯気の立つ白湯(さゆ)と、清潔な手ぬぐいが載ったお盆がある。
「あ……ありがとうございます」
受け取ろうとして、桜の手が止まった。
久我の視線は、わずかに腫れた彼女の目元を捉えていたが、彼はそれを指摘して問い詰めるようなことはしなかった。ただ、すべてを包み込むような穏やかな眼差しを向けるだけだ。
「そういえば……。まだ、君の名前を聞いていなかったね」
久我はお盆を置くと、桜と同じ目線になるように畳に腰を下ろした。
「命を救ってくれた恩人の名を、いつまでも知らないままでは、失礼に当たる。……教えてくれるかい?」
桜は息を呑み、居住まいを正した。
「……伊藤、桜と言います。……サクラと、呼んでください」
「イトウ・サクラ……。サクラ、か。この村の裏山にも、春になれば美しい花を咲かせる木がある。……君にぴったりの、良い名だ」
久我は慈しむようにその名を反芻し、ふっと微かな笑みを浮かべた。
彼は昨夜、彼女が流した涙と、あの**「自分のために来た」**という独白を思い出していた。
戦場での彼女は、あれを「仕事」だと言った。だが昨夜の涙は、そんな義務的な言葉では片付けられない、あまりに一途で個人的な熱を孕んでいたように思う。
(……私を助けるのが仕事で、私に会うためにここへ来た、か。……ふふ、やはり筋が通らないな)
久我は内心の困惑を、年長者らしい穏やかな微笑みの下に隠した。
「サクラ君。この部屋で独り、天井を見つめているだけでは気が滅入ってしまうだろう」
久我は彼女の不安を慮るように、言葉を選んで続けた。
「君さえ良ければ、だが。今日から、この寺子屋の仕事を手伝ってはもらえないだろうか。子供たちの勉強を見たり、食事の支度をしたり……。君がここに居る『理由』を、村の者たちや、あの子たちにも示してあげたいんだ。……居候、という形になるが。受けてくれるかな?」
それは、彼が彼女を「不審者」としてではなく、一人の「人間」として自分の居場所へ招き入れた瞬間だった。
桜の胸が、熱い塊を飲み込んだように震える。
「……はい! 喜んで。……ありがとうございます、先生」
「はは、礼を言うのはこちらだよ。……さあ、朝餉にしよう。陽と凪が、今か今かと君を待ち構えている」
久我は立ち上がり、桜に向けてそっと手を差し出した。
かつて戦場で自分を救った「得体の知れない女」を見る目ではない。
今は、迷い込んだ教え子を導くような、温かく穏やかな光がその瞳に宿っていた。
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