ウェーレイキオルは微笑んでいる

綿入しずる

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一 来たる朝

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 急ぎ着替えて髪を編み、生まれ育った屋敷の慣れた廊下を突き進むエドアルドは食堂の扉の前で一度振り返った。確かに、黒翼の天使が付き従っている。ばっちりと目が合う。エドアルドを見て笑う。それしか表情を知らぬように、ずっと笑っている。
 エドアルドは笑わずに気難しい顔をした。いつもの顔ではある。苦節の十年はこの顔に固めるには十分だった。
 今日こそは明るく笑えるはずだったのだが。
 初めは感動に美しく見えたが。ウェーレイキオルは改めて見るほどに天使らしからぬ容色である。守護天使といえば皆、金や銀に輝く翼と同じ色の髪をして、如何にも美しいものだ。だが彼は――黒いし華がない。確かに対の翼があり、縫い目も織り目も見当たらない天使特有の白い服を纏っているとはいえ。
 年頃はエドアルドと然程変わらぬ青年の雰囲気、男性体、立って並ぶと身長はやや低く、体格は比べるまでもなく細い。白服の絞られた腰など折れそうだ。そこまではよい。
 つり目の三白眼に低い鼻梁、大きい口元は笑みのかたち。エドアルドが見遣るとなおにっこりとするが、対してエドアルドは自身が冷静になっていくのが分かった。
 ――これが俺の天使か。
 ――いや、美しくないことの何が問題か。天使には違いない。……本当に天使に、違いないな?
 自分の天使が皆と違って美しい顔でないことは、エドアルドの自尊心を刺激した。十年降り積もった不安がようやく払拭されたようでいて、また別の不安に置き換わっている。
「……ウェーレイキオル」
「はい」
 名を呼ぶと、即座の返事。響きがやけに唇に馴染む気がしてエドアルドは戸惑い、次の言葉を迷った。
 そのうちに慌ててやってきた父母の姿が見えて、胸を張る。
 母パウラの歓声は、半ば悲鳴じみてもいた。
「天使が来たの! 本当ね!」
「はい、先程」
「ああ、よかった、私は信じていたのよ、長かったわ、十年」
「落ち着け、パウラ」
 宥める夫の声にも、彼女は止まらなかった。勢いのままウェーレイキオルに駆け寄り、その頬を撫でる。かつては一族で最も美しいと讃えられた女は病み衰えて――しかし今日は気力を取り戻して、天使の瞳に映った。
「貴方、黒いのね」
「はい」
 彼女もそれを気にした。ウェーレイキオルは動かず、表情を変えず返事をする。そう指摘されるのをまるで気にしていない風だった。
 パウラは不安に瞳を揺らしたが、気をとりなおして頷いた。
「ああ、でも美しい翼だわ、髪も綺麗。ようやく、ようやくなのね」
 呟くのは自分を納得させるようだった。強く、肩を掴み、ウェーレイキオルにも言い聞かせる。
「どうかこの子をお願いよ。もう片時も離れないで」
「はい、勿論です。お任せくださいませ」
 迷いない返答に微笑む。大事なのは見目ではない、はずだ。天使が来たという事実こそ何より重要だった。
 そこで父の陰に立っていた少年が前に出る。右目を前髪で隠した彼は、しかし非常に愛らしい顔立ちをしている。
「僕はリベルヨルン。オリヴァー様――エドアルド様の父君の守護天使。もう降りてから三十年ほど経つ。同じクラウス家の守護天使だ、下界のことで困ったら遠慮なく頼りなさい」
「はい、リベルヨルン」
 屋内で不便ゆえに翼は隠しているが、美しいこの少年も天使だった。淡い金色の髪と目をして、彼こそ皆が思い浮かべるような天使だった。エドアルドにとって最も身近で、いずれ自分にも守護天使がと思う際には真っ先に思い浮かべる存在でもあった。だからこそ並ぶと差異が際立つ。
 ただウェーレイキオルについて、彼がパウラを止めたり、オリヴァーやエドアルドに注意を促したりしなかったことが、彼らを安心させた。天使は同族も他種族も間違いなく認識する。
「間違いなく天使なんだな」
 主オリヴァーが直截に訊ねるのにも、リベルヨルンははっきりと肯いた。
「色は変わっているけれど、間違いありません。――君の守護天使だ。おめでとう、よかったね」
 優しく微笑まれてエドアルドもほっとした。半分夢かと思ってさえいたが、実感も湧いてくる。
「翼の仕舞い方は分かるね?」
「はい」
「君の翼は大きいし、部屋の中では物にぶつかって危ないから隠しておくといい」
 リベルヨルンが教えるのに、黒い翼はぱっと前触れなく消失した。
 そうすると一層ただの人のようにも見えてくるのだった。背を隠す癖のない黒髪が淡く金に見えるのがエドアルドの心を宥めた。
 ――これは天使だ。俺の、守護天使。
「ウェーレイキオル」
「はい、エドアルド様」
 呼ぶとやはりしっくり来るのが不思議だった。先程は迷った問いを、投げかける。
「お前は……何故黒い?」
「……生まれたらこうでした。……生まれる前のことは覚えておりません。申し訳ございません」
 少し考えて、ウェーレイキオルは気落ちした。黒いこと自体は気にしなくとも答えられぬことは悔やむ様子に、エドアルドは考えを改めた。
「そうだな、俺もそうだ。すまない、無茶な問いをした」
 自身の髪の色に関しては母のそれを受け継いだのだという所以わけは知れても、何故そのように生まれたのか、他者に決められたのか自分で選択したのかは分からない。天使にも答えを求められるものではないのだと分かって、素直に反省した。リベルヨルンとて金の髪の理由は知らず、顔の作りについても同じことが言えた。此処で追求などしても仕方がないのだ。
 ――天使であるならば、問題は、ない。
「俺のことは――此処が何処かは把握しているな」
 生まれる前のことは分からずとも。天使は世俗の一般的な知識は与えられて生まれてくる。多少、学んでもくる。ウェーレイキオルもこれには明瞭に述べた。
「盟主国ログラ、王都ユーセベル、クラウス家。我が主、貴方様は英雄クラウスの末裔であらせられます」
「ああ、問題ない」
「ウェーレイキオルはずっと見ておりました。存じております」
 今度の彼は得意気、満足そうだった。エドアルドもようやく、頬を緩めて笑った。
 食堂の扉が開かれた。家族の使うテーブルには祝いの日の花が飾られ、急遽一食増やされた、五人分の食事がある。
 本来天使に食事は不要だが、人の形をして過ごす上、誰よりも近くに居て親密な関係になる彼らと飲食を共にする主は多かった。
「我が家では、天使も食事する。今日よりお前もクラウスの一員だ」
 オリヴァーとパウラがそれぞれの席に着く。リベルヨルンはオリヴァーの隣へ。
 エドアルドが座れば、ウェーレイキオルも促されその左へと腰掛けた。初めて目にする料理や食器をじっと見つめている。
 長く空席だった隣が埋まった。
 エドアルドは満ち足りた思いで給仕が差し出すハーブ水を受け取った。乾杯にはささやかだが、朝食には相応しい。
「エドアルド、我が息子よ、誕生日おめでとう。守護天使の降臨実にめでたく。一層に励みなさい」
「ありがとうございます、父上」
「おめでとうエドアルド」
「おめでとう」
 改まった挨拶と返事に明るい声が続く。エドアルドは隣を窺い見た。ウェーレイキオルは金の瞳でまっすぐにエドアルドを見つめる。
「誕生日おめでとうございます、エドアルド様」
「――ああ」
 気づいて発せられるその言葉、表情の柔らかさに、エドアルドはどうにか短く答えて頷いた。嬉しいことと言ったらなかった。色々と思うことはあるが、それでも今、彼は十年ぶりに心底から己の誕生日を喜べたのだ。

 久々に声を交わす楽しい食卓となった。長らく硬直した居心地に悪い空気に満ちていたクラウス家――家族は勿論、使用人も溌溂として振る舞った。
「本日のご予定は、エドアルド様の礼拝の後、そのまま城へ向かわれるとのことでしたが。ご夕食は、どのように」
「日暮れには帰るだろう。晩餐の支度をしてくれ。盛大にやる」
 執事の確認にオリヴァーは張り切って言う。親類や親交のある家々、そして王城や他の六氏族へもこのことを知らせるように言いつけた。元は家族で食事の予定だったが、こうなれば一族は誰もが挨拶に来るに違いない。それをもてなす必要があった。
「かしこまりました」
「いつでも、客が来たら留めておけ」
「そのように致します」
「お前もよく着飾るといい。もう気兼ねなく振る舞えるだろう。大きな顔をしてやれ」
 そうして妻に向けて言う。パウラは笑う口元を上品に押さえた。
「まあ、あなた、主役はエドアルドでしょう」
 言いながらも、彼女も六氏族の奥方としての振る舞いを思い出していた。夫や息子が不在の間は自分が屋敷の主となって客を迎えるのだ。ここ数年はそんな責務には耐えられない状態が続いていたが、今日の自分ならできるだろうと思うほど自信に満ちていた。嬉しくて仕方がない。そういう顔で、そわそわとスープを掬う。
「ソフィアが居ないのが残念ね。――そうだわ、やっと結婚が叶うのよね、ああ、よかった」
 今は隣国を訪っている婚約者の名に、エドアルドはナイフを動かす手を止めた。喜ぶ母に微笑んで、執事に視線をくれる。
「彼女には、自分で手紙を書く。少し待ってくれ」
「承知致しました」
 長く守護天使が降臨しなかったことでクラウス家の後継問題は膠着し、それに連なって婚姻にまで支障が出ていた。彼は天使を待っていたが、婚約者も共にその日を待っていたのだ。――十年待たせた。今後はそうした問題が一気に解消する。
 本人が一番安堵しているが。父母が嬉しそうに話すのもまた、エドアルドは本当に嬉しかった。いつも不義の噂を立てられて泣くパウラを宥めてばかりいて――食事の席でもなかなか話は弾まなかったし、近頃は三人揃わないことも多かった。パウラに落ち度は微塵もなく、オリヴァーが彼女を疑ったことは実のところ一度もなかったが、パウラが、疑われているのではという疑念に耐えられなかったのだ。家族は共に居ようとするのに息苦しくて堪らなかった。
 ――それも、昨日で終わった。
 燻製肉ハムを口に運ぶ。焼きたてで香るパンをちぎる。いつもの朝食がやたらと美味いのは、料理人の腕が上がったのではないだろう。
 横でじっと見ていたウェーレイキオルも燻製肉を食べた。一口、またエドアルドを窺って、彼がパンを食べると自身もパンをむしってみる。ぱくりと食べて、その後もエドアルドの所作を追う。
 視線に気づくエドアルドが彼を見ると、確実に目が合った。それだけでにっこり笑んで嬉しそうにする。
 ――ずっと笑っている。
 今日の自分たちこそこの上なく上機嫌だと思うのに、ウェーレイキオルはそこに合わせる以上にご機嫌の様子と見えた。容姿端麗でなくとも可愛らしく見えてしまうほどの純粋な笑顔だった。
「美味いか」
 天使が来たなら。話したいことが山ほどあったはずだが、いざとなると何から話せばよいのか分からなくて、エドアルドはとりあえず問うた。
「恐らく」
 ウェーレイキオルは変わらず笑顔だったが答えは簡素で短く――しかも妙だ。
 ――おそらく。
 断定しないその言い様を無言に繰り返して、エドアルドはもう少し考えてから、また口を開いた。
「……これまで、食事は一度も?」
「一通り、パンとスープを時々」
「下界に降りる前にね、訓練させてもらうんだよ。もどきのようなものだけど。懐かしいな」
 離れた席から、見かねたリベルヨルンが助けるように言い添えた。すると思い出したようにウェーレイキオルも語る。
「手足の使い方と作法を教わるのです。沢山やりましたので、もう十分なのです」
 守護天使の外見年齢はそれぞれに異なるが、いずれにしても生まれてから半年ほど経て下界に降りることになる。それは根本は星の加護の光である彼らが、模った人の形や文化に慣れる為に必要な時間だった。
 食器を扱う手は確かだ。受け答えは教わってこなかったのかとエドアルドは思うが、その間にもウェーレイキオルは実に晴れやかに言うのだった。
「すべて学んできました。お仕えするに不足はありません。何なりと命じられませ」
 こんな話の流れで実に仰々しく――パウラとの話を止めて見守っていたオリヴァーが声を上げて笑った。端々に生じる奇妙な間を吹き飛ばすような笑い方だった。
「降臨したばかりの天使は、しっかりした年頃に見えて案外子供のようなものだからな。リベルもそうだった。突拍子のないこともする。……湯沸かしを素手で持ったときは肝を潰したな」
 リベルヨルンは、もう、と笑いながらオリヴァーを睨む。エドアルドとパウラも笑った。今のは過去にも何度か聞いたことのある、こういうとき定番の話だった。 
 このように昔話をするのも久しぶりだった。エドアルドの周囲では天使の話はすべて触れづらい話題と化していた。それも、今日までだ。以前のように色々な話を聞けるだろうとエドアルドは思う。
 ――俺にも、色んなことがあるのだろう、これから。
「あれは、我々は平気なのでついやったのですよ。驚かせて申し訳ありませんでした、本当に」
「私も平気です。なんでも持てます」
「湯沸かしは、やらないようにするんだよ」
「分かりました」
 リベルヨルンは恥じた顔をして、口を挟むウェーレイキオルに忠告する。ウェーレイキオルは、持てるのに、という顔で首を傾いだが、返事は至って素直だった。エドアルドはむしろ心配になったが――話すとおり、人の幼子がしでかすのと違って大事にはならずに済むはずなので、今のところは少々の懸念だった。
「変わっているのも個性だもの、悪いことではないわ」
 笑いながら、パウラはまた言い聞かせるように呟いた。
 そうして誰もが何となしに場を取り成しながら、食事は進んだ。
 エドアルドは小さなスプーンを手に、茹で卵を掬って口に運ぶ。新鮮な鶏卵は濃厚である。真似して、ウェーレイキオルも殻の内側をつつき始めた。塩を振りそびれていたが彼には味つけは然程関係なかった。依然にこにことしていた。
「恐らくおいしいのです。おそらく、とても」
 どこか風変りであっても、天使はやってきた。ウェーレイキオルは一家に受け入れられた。
 三人とも、これは喜ぶべきことなのだと思いながら、喜んだ。とにかく守護天使は来たのだと。
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