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十 待っていた女(前)
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一報は静かにログラ国内を、同盟諸国を渡り広まった。
その日の夜の内に集ったクラウスの一族は、エドアルドが北のスヴィエー砦に向かうことに改めて合意した。竜を討つべし、その為には他の戦士たちも従うと、声高くした。ただ慎重な者も居て、やはりログラに残る者も必要だろうということになった。ようやくまともに暮らせると思ったらこれかとパウラは一度さめざめと泣いたが、その後には毅然とした態度を取り戻した。
エドアルドは周囲に悟られぬよう落ち着き払いつつ、この事態の為に昼も夜も動いた。閉ざされた部屋で人に会っては議場でしたように重々しく話をし、ときに疑われ、ときに取り乱すのを宥めながら、戦いのときはやがて来ると訴えた。オリヴァーも――他の後継者たちも似たようなものだ。北端灯台や三つの砦、諸国からはすぐに応答もあったが――あらかじめ決めた集会の日取りを早めるような連絡が来ないのは、まだ地上では何も起きていないからだと信じるしかなかった。
エドアルドは今日も兵舎で、輝く鎧の中でも一握り、特別に認められた者たちに戦いの兆しを告げた。まず自らが集めた九名に、呼びかけた。
「けっして秘密を漏らさぬように」
そう話し始めたエドアルドの言葉を、皆が真剣に聞いた。砦への赴任は増して重要な務めとなった。
そうして気疲れして帰ってくると、屋敷の前に家のものとは違う馬車が見え――この騒動での来客かとエドアルドが構えたのは数秒だけだった。見慣れたその外観にはっとして、出迎えの執事を見れば頷く。エドアルドは足早になった。
使用人が笑顔で開けた扉の向こう、広間の窓辺に二人、女が立っている。
「ソフィア」
正装のドレスは深みを持った薬草青。背を覆う豊かな銀髪が日差しに輝く。レースのリボンを頭に巻いて飾るのはログラの女の伝統的な髪型の一つだ。
アーモンドの実のようにぱっちりとした菫色の瞳の印象的な、美しい女だった。高貴な淑女然とした装いがぴたりと似合っている隙の無い佇まいで、大粒の水宝石と真珠のブローチが彼女の自信を発するように胸で輝いていた。
横に立つ背の高い女もまた銀の髪で、美しく、まるで姉妹のようだが――こちらは守護天使だ。主人に比べて控えめな、それでも揃いの雰囲気を出す衣装で着飾っている。
「おかえりなさい」
婚約者は花が開くように微笑んだ。
エドアルドも笑った。この間に随分顔色がよくなったようだった。笑顔で抱擁して、頬を寄せる。
「おかえり、ソフィア」
近づくとふわりとよい香りがして胸が満ちる。半月ほど会っていなかったのが、もっと長いことのように感じられた。
それから向き合うと、ソフィアは一段澄まして腰を折り、優雅に一礼した。
「ご機嫌よう、エドアルド。守護天使の降臨めでたく、言祝ぎ申し上げます」
ずっとこの声で聞きたかった嬉しい挨拶に、エドアルドはまた顔を綻ばせて付き従うウェーレイキオルを見た。天使もどことなく、先程までより明るい笑顔と見えた。
「ありがとう。――今着いたのか」
「そうよ。すぐ来たの。本当はもっと早く戻りたかったのだけど」
「疲れているだろう。何か食べたか?」
「後でいいわ。まず。寝室に案内して。貴方の」
気を回すエドアルドに、にこやかなままに彼女は続けた。エドアルドが瞬く隙に、もう一言捻じ込む。
「子供を作るわよ」
「――今から?」
「すぐに」
これから結婚しての意気込みかと思いながらも聞き返した婚約者に、ソフィアは間髪入れず応じた。エドアルドは彼女の横の天使を見た。守護天使リリアンリヴは参った顔をした。
案内しろと言ったが部屋の場所は知っている。ソフィアはエドアルドの腕をとり、案内させるよりぐいぐいと引き立てた。エドアルドはその場に留まろうと蹈鞴を踏んだ。焦りつつもどうにか抑える小声で叱責する。
「待て、まだ婚前だろうが!」
「もう結婚するんだから同じよ! 婚儀を待っていたら機を逃すわ! 私だって長らく待たされたのよ! 一度だって無駄にできるものですか! 三人は産むわよ!」
「いやしかし、さすがにそれは」
同じ声量でしかし勢いよく、ソフィアは返した。宥める間も腕は引かれる。
戦士たるエドアルドが体幹で負けるはずは無かったが、気迫で負けていた。引っ張られそうになる。別にエドアルドだって彼女に求められて嫌なわけはない。言うことも分からないでもないが、それでも理性が留めた。彼らは身分ある男女である。婚前交渉とは如何なものか。
「エドアルド様」
そこに、ウェーレイキオルが声をかけた。引き合う腕が少し緩み、エドアルドと、ソフィアの視線が共に向く。
ウェーレイキオルは二人を見返し、常のように姿勢よく立ち、通りのよい声で言った。
「エドアルド様の精液でしたらすぐお渡しできますが」
思いがけぬ単語に、エドアルドは固まった。ソフィアは泡が弾けるように瞬く。リリアンリヴはぽかんとした。
「まだここにあります」
ウェーレイキオルは恭しい挨拶のように胸に指を置いて示す。エドアルドは数日前の行為――至福の口淫とその末精液が飲み込まれたことを間違いなく思い出した。
「な、にを、言って」
「エドアルド様の――」
「言うな!」
思い出したが、まだ明るい広間で、婚約者の前で開陳されるにはあんまりな話だったので、思わず誤魔化しそうになった。しかしそうすれば、ウェーレイキオルは真面目に繰り返そうとする。叫んで制した。
一方落ち着いた、涼やかな声が発された。
「貴方、名前は?」
エドアルドは横の彼女を窺った。先程までは端々に必死さが滲んでいたが、一転、いつもの気品ある淑女の表情に戻っていた。
「ウェーレイキオルと申します」
対するウェーレイキオルは常の淡々とした返事である。長く無二の響きの名を囀って、金の双眸でソフィアを見つめる。ソフィアは名を唇に覚えさせるように、呟いた。そしてはっきり告げた。
「そう。ウェーレイキオル。気遣いをありがとう。でもいいわ、活きが悪そうだから改めて搾ってくるから。それは自由になさい」
「左様ですか」
「君も、言い方……!」
エドアルドは頭を抱えんばかりである。
ソフィアはふう、と息を吐いた。溜息にも聞こえてエドアルドは怯んだが、深呼吸だ。エドアルドを捕まえたままながら、彼女はウェーレイキオルに向き直り笑った。
「私ったら、気が急いていて挨拶をしそこねたわ。ごめんなさい。――私はソフィア・ビヒ、医師のビヒ家の女よ。この人の――もうじき妻になるわ。彼女がリリー、リリアンリヴ。よろしくね。後でちゃんとした自己紹介をしましょうね」
「はい、ソフィア様。よろしくお願いいたします」
ウェーレイキオルは嬉しそうににこにことした。まったく妙な意図など感じさせない無垢な笑顔だった。
――色々と聞いてさすがに心配したのに。とんだ取り越し苦労だったわ。
ソフィアは内心溜息を吐いた。呆れも安堵もある、大きな溜息だった。
ようやくエドアルドに天使が降臨したとの一報を隣国サレイで受け取った彼女はまず素直に、大いに喜んだ。すぐに本人と共に祝い喜べないことを悔しんだ。
しかし、その天使が黒くてあれこれと噂が立っていることも聞きつけ――彼女も、心配しないではなかった。黒いのには何か理由があるのだろうかと考えたし、当のエドアルドも気にしないことはないだろう、何より、周囲がどう思うか――想像しうる好からぬ視線や言葉に晒されてエドアルドや天使は平気だろうかと、案じた。不遇の十年間を耐えた恋人は、その上また疲弊しているのではと――果たしてそれは読みどおりだったのだが。エドアルドは何歩も先を行っていて、しかもそれどころではないことも起きているものだから、本人たちはもう落ち着いていたのだった。
まるで昔からそこに居たかのように馴染む守護天使に、ソフィアは納得していた。
たとえ美貌でなくとも惹かれるものがある、絆があるのだろうと思えた。ソフィアとリリアンリヴもそうして一緒にいたので、よく分かった。
ソフィアはとんとエドアルドの胸元をつついた。
「天使と何をするのも自由だろうけれど、ちゃんと教えてあげたほうがよくってよ。貴方の天使は一際無垢なようだし」
二つ年下ながら天使の主として振る舞いなれた女の忠告に、エドアルドは呻くしかない。
「肝に銘じる……」
「勿論、私ともできるわね?」
「勿論」
囁かれれば次は即座に頷いた。もう、結婚してからではとは言えなかった。元々引き下がるつもりのないソフィアは満足そうに頷いた。
「じゃあ行きましょう」
二人は先程とは違う、揃って落ち着いた足取りで部屋へと歩み出した。
――当たり前についていこうとするウェーレイキオルをリリアンリヴが引き留めた。ふるふると首を振る。その間に、二人は会わぬ間のことを話しながら進んでいった。
天使二羽が、取り残された。長身、白と黒で揃うとなかなか見栄えがしたが、今はそれを評価する人も無い。常ならば帰宅後は付き従う使用人もウェーレイキオルが来てからは減っているし、今日は特に後継の逢瀬を邪魔すまいと早々に散っていたので、二羽きりだった。
暫し、無言の時が過ぎた。ウェーレイキオルは、エドアルドにつかないのならば何処に行くべきか分からずただ待っていた。リリアンリヴは窮していた。
――私のほうが年上なんだから何か言わないと……でもちょっと変だし、やだな……
彼女は主人と違って少し気弱な質だった。初対面の人というだけでも気後れするのに、同胞だと思ったら多少気が楽だったのに、黒い天使は中身まで変わっているようだった。それでも七年先に降り立った先輩としてしっかりしなければという思いが勝った。
「に、二階の部屋をいつも使っているの。そこで待ってましょう!」
顔を上げて、声を妙に上擦らせながらも言ったが。そのときウェーレイキオルは他所を向いていた。エドアルドたちの居る方向を見ているのが、リリアンリヴにも分かった。分かって慌てた。
「待って待って、見てる? 見ちゃ駄目よ、よくないわ、そういうの」
「エドアルド様だけ」
「……でも駄目よ! お二人の時間だから、邪魔しないで」
「成程」
ウェーレイキオルは、言われてみれば、確かにそういうものかも知れないなと思った。エドアルドを見守ることは至上の命だが、それとは別に守りたいエドアルドの心や品格もある。
未だ実感や実態を伴わないが、ウェーレイキオルにも一応常識が備わっていた。――そう思うと、先程の発言も些か場にそぐわないものだったのでは? と気づく。エドアルドの反応を思えば、それは正解だった。
ウェーレイキオルはいつもの笑んだ顔ながら、しょんぼりと眉を下げた。翼が出ていればすっかり閉じていただろう。
――やってしまいました。お役に立てるかと思ったのですが。
身の内に精液を留めておいたのは備えなどではなく単に彼自身の欲の為だったが、言い合う二人を見て、これならすぐ解決できるのではとひらめいたのだ。本当にまったく邪気無く名案だと思った。しかし下手を打った。猛省である。
リリアンリヴはとりあえず納得したと思しき同胞を窺い――なんだか悄気たのを見守り――ウェーレイキオルが胸に手を当てるのがさっき、精液が、と話したときと同じ所作だと気づいた。
――ソフィア様、早く戻ってきてえ……! ああでも会えたのも久しぶりだし、やっとなんだもの、ゆっくりしてほしい……!
心中喚いて実際ちょっと泣きそうになりながらも、彼女は頑張って堪えた。他ならぬソフィアの為である。
とりあえずリリアンリヴの提案どおり、二羽は別の部屋で待つことになった。茶を持ってやってきた執事にはリリアンリヴが一生懸命誤魔化したが、彼も心得たものだった。婚前とはいえ、もう揺るがぬものがある二人だ。皆応援していた。
長椅子に並んで紅茶を飲みながら、リリアンリヴはまた頑張って、そっと、ウェーレイキオルに訊ねる。
「降りてから十日くらい経ったわよね、慣れた……?」
「……失敗も致しました」
「そういうこともあるわ、多分、大丈夫」
消沈するウェーレイキオルに、やっと先輩らしい雰囲気で微笑んだ。
割と凄い失敗を目撃したところではあるが、ソフィアとエドアルドの場合は不問だったので、大丈夫だと思った。彼女も降臨してからは沢山失敗したもので、特に最初の頃はへこたれたことを思い出す。
「リリアンリヴ、貴方も何か……湯沸かしなど?」
「それはリベルヨルンの失敗ね。もう、沢山、色々やっちゃったこと、あるわ」
ウェーレイキオルは真剣に聞き返した。それは彼女も聞いたことがあった。笑ったが――じっと見つめ続けられてたじろぎつつ、色々をもっと具体的に思い出して、眉を下げた。
「あんまり思い出したくないんだけどね……」
「そうですか、ならば構いません」
その上ようやく話し始めたところであっさり引き下がるので、リリアンリヴは逆に困った。
なかなか会話が上手く続かないので、やっぱりソフィアが早く来てくれると嬉しいなと彼女は思った。ウェーレイキオルは会話の途絶も沈黙も一切気にしなかったが、彼も当然エドアルドのことばかり考えていた。
その日の夜の内に集ったクラウスの一族は、エドアルドが北のスヴィエー砦に向かうことに改めて合意した。竜を討つべし、その為には他の戦士たちも従うと、声高くした。ただ慎重な者も居て、やはりログラに残る者も必要だろうということになった。ようやくまともに暮らせると思ったらこれかとパウラは一度さめざめと泣いたが、その後には毅然とした態度を取り戻した。
エドアルドは周囲に悟られぬよう落ち着き払いつつ、この事態の為に昼も夜も動いた。閉ざされた部屋で人に会っては議場でしたように重々しく話をし、ときに疑われ、ときに取り乱すのを宥めながら、戦いのときはやがて来ると訴えた。オリヴァーも――他の後継者たちも似たようなものだ。北端灯台や三つの砦、諸国からはすぐに応答もあったが――あらかじめ決めた集会の日取りを早めるような連絡が来ないのは、まだ地上では何も起きていないからだと信じるしかなかった。
エドアルドは今日も兵舎で、輝く鎧の中でも一握り、特別に認められた者たちに戦いの兆しを告げた。まず自らが集めた九名に、呼びかけた。
「けっして秘密を漏らさぬように」
そう話し始めたエドアルドの言葉を、皆が真剣に聞いた。砦への赴任は増して重要な務めとなった。
そうして気疲れして帰ってくると、屋敷の前に家のものとは違う馬車が見え――この騒動での来客かとエドアルドが構えたのは数秒だけだった。見慣れたその外観にはっとして、出迎えの執事を見れば頷く。エドアルドは足早になった。
使用人が笑顔で開けた扉の向こう、広間の窓辺に二人、女が立っている。
「ソフィア」
正装のドレスは深みを持った薬草青。背を覆う豊かな銀髪が日差しに輝く。レースのリボンを頭に巻いて飾るのはログラの女の伝統的な髪型の一つだ。
アーモンドの実のようにぱっちりとした菫色の瞳の印象的な、美しい女だった。高貴な淑女然とした装いがぴたりと似合っている隙の無い佇まいで、大粒の水宝石と真珠のブローチが彼女の自信を発するように胸で輝いていた。
横に立つ背の高い女もまた銀の髪で、美しく、まるで姉妹のようだが――こちらは守護天使だ。主人に比べて控えめな、それでも揃いの雰囲気を出す衣装で着飾っている。
「おかえりなさい」
婚約者は花が開くように微笑んだ。
エドアルドも笑った。この間に随分顔色がよくなったようだった。笑顔で抱擁して、頬を寄せる。
「おかえり、ソフィア」
近づくとふわりとよい香りがして胸が満ちる。半月ほど会っていなかったのが、もっと長いことのように感じられた。
それから向き合うと、ソフィアは一段澄まして腰を折り、優雅に一礼した。
「ご機嫌よう、エドアルド。守護天使の降臨めでたく、言祝ぎ申し上げます」
ずっとこの声で聞きたかった嬉しい挨拶に、エドアルドはまた顔を綻ばせて付き従うウェーレイキオルを見た。天使もどことなく、先程までより明るい笑顔と見えた。
「ありがとう。――今着いたのか」
「そうよ。すぐ来たの。本当はもっと早く戻りたかったのだけど」
「疲れているだろう。何か食べたか?」
「後でいいわ。まず。寝室に案内して。貴方の」
気を回すエドアルドに、にこやかなままに彼女は続けた。エドアルドが瞬く隙に、もう一言捻じ込む。
「子供を作るわよ」
「――今から?」
「すぐに」
これから結婚しての意気込みかと思いながらも聞き返した婚約者に、ソフィアは間髪入れず応じた。エドアルドは彼女の横の天使を見た。守護天使リリアンリヴは参った顔をした。
案内しろと言ったが部屋の場所は知っている。ソフィアはエドアルドの腕をとり、案内させるよりぐいぐいと引き立てた。エドアルドはその場に留まろうと蹈鞴を踏んだ。焦りつつもどうにか抑える小声で叱責する。
「待て、まだ婚前だろうが!」
「もう結婚するんだから同じよ! 婚儀を待っていたら機を逃すわ! 私だって長らく待たされたのよ! 一度だって無駄にできるものですか! 三人は産むわよ!」
「いやしかし、さすがにそれは」
同じ声量でしかし勢いよく、ソフィアは返した。宥める間も腕は引かれる。
戦士たるエドアルドが体幹で負けるはずは無かったが、気迫で負けていた。引っ張られそうになる。別にエドアルドだって彼女に求められて嫌なわけはない。言うことも分からないでもないが、それでも理性が留めた。彼らは身分ある男女である。婚前交渉とは如何なものか。
「エドアルド様」
そこに、ウェーレイキオルが声をかけた。引き合う腕が少し緩み、エドアルドと、ソフィアの視線が共に向く。
ウェーレイキオルは二人を見返し、常のように姿勢よく立ち、通りのよい声で言った。
「エドアルド様の精液でしたらすぐお渡しできますが」
思いがけぬ単語に、エドアルドは固まった。ソフィアは泡が弾けるように瞬く。リリアンリヴはぽかんとした。
「まだここにあります」
ウェーレイキオルは恭しい挨拶のように胸に指を置いて示す。エドアルドは数日前の行為――至福の口淫とその末精液が飲み込まれたことを間違いなく思い出した。
「な、にを、言って」
「エドアルド様の――」
「言うな!」
思い出したが、まだ明るい広間で、婚約者の前で開陳されるにはあんまりな話だったので、思わず誤魔化しそうになった。しかしそうすれば、ウェーレイキオルは真面目に繰り返そうとする。叫んで制した。
一方落ち着いた、涼やかな声が発された。
「貴方、名前は?」
エドアルドは横の彼女を窺った。先程までは端々に必死さが滲んでいたが、一転、いつもの気品ある淑女の表情に戻っていた。
「ウェーレイキオルと申します」
対するウェーレイキオルは常の淡々とした返事である。長く無二の響きの名を囀って、金の双眸でソフィアを見つめる。ソフィアは名を唇に覚えさせるように、呟いた。そしてはっきり告げた。
「そう。ウェーレイキオル。気遣いをありがとう。でもいいわ、活きが悪そうだから改めて搾ってくるから。それは自由になさい」
「左様ですか」
「君も、言い方……!」
エドアルドは頭を抱えんばかりである。
ソフィアはふう、と息を吐いた。溜息にも聞こえてエドアルドは怯んだが、深呼吸だ。エドアルドを捕まえたままながら、彼女はウェーレイキオルに向き直り笑った。
「私ったら、気が急いていて挨拶をしそこねたわ。ごめんなさい。――私はソフィア・ビヒ、医師のビヒ家の女よ。この人の――もうじき妻になるわ。彼女がリリー、リリアンリヴ。よろしくね。後でちゃんとした自己紹介をしましょうね」
「はい、ソフィア様。よろしくお願いいたします」
ウェーレイキオルは嬉しそうににこにことした。まったく妙な意図など感じさせない無垢な笑顔だった。
――色々と聞いてさすがに心配したのに。とんだ取り越し苦労だったわ。
ソフィアは内心溜息を吐いた。呆れも安堵もある、大きな溜息だった。
ようやくエドアルドに天使が降臨したとの一報を隣国サレイで受け取った彼女はまず素直に、大いに喜んだ。すぐに本人と共に祝い喜べないことを悔しんだ。
しかし、その天使が黒くてあれこれと噂が立っていることも聞きつけ――彼女も、心配しないではなかった。黒いのには何か理由があるのだろうかと考えたし、当のエドアルドも気にしないことはないだろう、何より、周囲がどう思うか――想像しうる好からぬ視線や言葉に晒されてエドアルドや天使は平気だろうかと、案じた。不遇の十年間を耐えた恋人は、その上また疲弊しているのではと――果たしてそれは読みどおりだったのだが。エドアルドは何歩も先を行っていて、しかもそれどころではないことも起きているものだから、本人たちはもう落ち着いていたのだった。
まるで昔からそこに居たかのように馴染む守護天使に、ソフィアは納得していた。
たとえ美貌でなくとも惹かれるものがある、絆があるのだろうと思えた。ソフィアとリリアンリヴもそうして一緒にいたので、よく分かった。
ソフィアはとんとエドアルドの胸元をつついた。
「天使と何をするのも自由だろうけれど、ちゃんと教えてあげたほうがよくってよ。貴方の天使は一際無垢なようだし」
二つ年下ながら天使の主として振る舞いなれた女の忠告に、エドアルドは呻くしかない。
「肝に銘じる……」
「勿論、私ともできるわね?」
「勿論」
囁かれれば次は即座に頷いた。もう、結婚してからではとは言えなかった。元々引き下がるつもりのないソフィアは満足そうに頷いた。
「じゃあ行きましょう」
二人は先程とは違う、揃って落ち着いた足取りで部屋へと歩み出した。
――当たり前についていこうとするウェーレイキオルをリリアンリヴが引き留めた。ふるふると首を振る。その間に、二人は会わぬ間のことを話しながら進んでいった。
天使二羽が、取り残された。長身、白と黒で揃うとなかなか見栄えがしたが、今はそれを評価する人も無い。常ならば帰宅後は付き従う使用人もウェーレイキオルが来てからは減っているし、今日は特に後継の逢瀬を邪魔すまいと早々に散っていたので、二羽きりだった。
暫し、無言の時が過ぎた。ウェーレイキオルは、エドアルドにつかないのならば何処に行くべきか分からずただ待っていた。リリアンリヴは窮していた。
――私のほうが年上なんだから何か言わないと……でもちょっと変だし、やだな……
彼女は主人と違って少し気弱な質だった。初対面の人というだけでも気後れするのに、同胞だと思ったら多少気が楽だったのに、黒い天使は中身まで変わっているようだった。それでも七年先に降り立った先輩としてしっかりしなければという思いが勝った。
「に、二階の部屋をいつも使っているの。そこで待ってましょう!」
顔を上げて、声を妙に上擦らせながらも言ったが。そのときウェーレイキオルは他所を向いていた。エドアルドたちの居る方向を見ているのが、リリアンリヴにも分かった。分かって慌てた。
「待って待って、見てる? 見ちゃ駄目よ、よくないわ、そういうの」
「エドアルド様だけ」
「……でも駄目よ! お二人の時間だから、邪魔しないで」
「成程」
ウェーレイキオルは、言われてみれば、確かにそういうものかも知れないなと思った。エドアルドを見守ることは至上の命だが、それとは別に守りたいエドアルドの心や品格もある。
未だ実感や実態を伴わないが、ウェーレイキオルにも一応常識が備わっていた。――そう思うと、先程の発言も些か場にそぐわないものだったのでは? と気づく。エドアルドの反応を思えば、それは正解だった。
ウェーレイキオルはいつもの笑んだ顔ながら、しょんぼりと眉を下げた。翼が出ていればすっかり閉じていただろう。
――やってしまいました。お役に立てるかと思ったのですが。
身の内に精液を留めておいたのは備えなどではなく単に彼自身の欲の為だったが、言い合う二人を見て、これならすぐ解決できるのではとひらめいたのだ。本当にまったく邪気無く名案だと思った。しかし下手を打った。猛省である。
リリアンリヴはとりあえず納得したと思しき同胞を窺い――なんだか悄気たのを見守り――ウェーレイキオルが胸に手を当てるのがさっき、精液が、と話したときと同じ所作だと気づいた。
――ソフィア様、早く戻ってきてえ……! ああでも会えたのも久しぶりだし、やっとなんだもの、ゆっくりしてほしい……!
心中喚いて実際ちょっと泣きそうになりながらも、彼女は頑張って堪えた。他ならぬソフィアの為である。
とりあえずリリアンリヴの提案どおり、二羽は別の部屋で待つことになった。茶を持ってやってきた執事にはリリアンリヴが一生懸命誤魔化したが、彼も心得たものだった。婚前とはいえ、もう揺るがぬものがある二人だ。皆応援していた。
長椅子に並んで紅茶を飲みながら、リリアンリヴはまた頑張って、そっと、ウェーレイキオルに訊ねる。
「降りてから十日くらい経ったわよね、慣れた……?」
「……失敗も致しました」
「そういうこともあるわ、多分、大丈夫」
消沈するウェーレイキオルに、やっと先輩らしい雰囲気で微笑んだ。
割と凄い失敗を目撃したところではあるが、ソフィアとエドアルドの場合は不問だったので、大丈夫だと思った。彼女も降臨してからは沢山失敗したもので、特に最初の頃はへこたれたことを思い出す。
「リリアンリヴ、貴方も何か……湯沸かしなど?」
「それはリベルヨルンの失敗ね。もう、沢山、色々やっちゃったこと、あるわ」
ウェーレイキオルは真剣に聞き返した。それは彼女も聞いたことがあった。笑ったが――じっと見つめ続けられてたじろぎつつ、色々をもっと具体的に思い出して、眉を下げた。
「あんまり思い出したくないんだけどね……」
「そうですか、ならば構いません」
その上ようやく話し始めたところであっさり引き下がるので、リリアンリヴは逆に困った。
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エリクの野心も、新王の冷遇も、部下たちの冷ややかさも、すべてはガイへの愛だと知らずに――
筋肉おっさん受け好きに捧げる、実は愛されおっさん冒険譚。
※12/1ごろから書籍化記念の番外編を連載予定。二人と一匹のハイテンションラブな後日談です。
身代わりにされた少年は、冷徹騎士に溺愛される
秋津むぎ
BL
第13回BL大賞奨励賞頂きました!
最終17位でした!応援ありがとうございます!
あらすじ
魔力がなく、義母達に疎まれながらも必死に生きる少年アシェ。
ある日、義兄が騎士団長ヴァルドの徽章を盗んだ罪をアシェに押し付け、身代わりにされてしまう。
死を覚悟した彼の姿を見て、冷徹な騎士ヴァルドは――?
傷ついた少年と騎士の、温かい溺愛物語。
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