空気より透明な私の比重

水鳴諒

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―― Chapter:Ⅱ ――

【017】いい子でいる意味の欠落

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 しかしその気分の浮上は、長くは続かなかった。

「ただいま」

 明るい気持ちで声をかけた佳音は、皿洗いをしている母の背中を見る。

「お母さん、今日ね。変わったカフェに行ったんだよ」
「……」
「ねぇ、お母さん? 今度一緒に行かない?」
「……」
「ねぇ……なんで無視するの? いいかげん、理由くらい教えてよ」

 思わず佳音は強い口調で言った。すると雫が振り返った。その目は虚ろで、目の下にはクマが見える。少し窶れたようだ。非常に硬い空気を放っており、睨むように佳音の方を見ている。

「……お母さん?」
「もう嫌!」
「お母さん?」
「もう嫌なの、嫌! 嫌なのよ!」

 両耳を手で覆うようにし、急に母が泣き始めた。ボロボロと溢れ出た水滴が零れ落ちていく。その場にしゃがみ込み嗚咽を漏らして、雫が号泣した。

「佳音の馬鹿!」
「え……? なに? なんで? 私が……何をしたって言うの?」

 しかしそのまま泣くだけで、雫はなにも言ってくれない。唖然として立ち尽くしていた佳音は、少しして時計が四時を指す音を奏でたのを聞いた。すると、母が無理に手の甲で涙を拭い、立ち上がった。

「そろそろ梓音が帰ってくるわね」

 そう呟くように言った雫は、立ち上がってくるりと佳音に背を向けると、再び皿洗いを始めた。

 結局何が理由なのか分からなかったが、とても訊ける雰囲気ではない。やるせない気持ちと苛立ちを胸中に無理にしまい込み、佳音は自室へと戻った。パタンと後ろで扉が閉まってから、佳音は両手で顔を覆う。

「もう訳が分からないよ。私が何をしたって言うの?」

 最初に胸にこみ上げてきたのは、マドンナブルーのような深い青をした悲愴だった。母は、一番佳音のそばにいてくれた家族だ。大切な家族だ。なのにいきなり無視され突き放され、もうそれだけで混乱が強くなり、胸が締め付けられる。

 続いてその気持ちの上に、べとりと筆でトマトレッドの絵の具が塗りたくられたような感覚になる。その色は、苛立ちの象徴だった。

 二色が混ざり合い始めると、ドロドロと暗い紫色が出来上がる。それは、怒りという名をしていた。もう、もう。もう、なんなの。なんなのよ。

「なんなの? なんなのよ! なんで! どうして!」

 最初は心の中で叫んでいたのだが、気づけば唇からそれらの言葉が漏れ出していた。乱暴な足取りで学習机へと歩みよった佳音は、本棚から参考書を抜き取ると、振り返ってベッドの方の壁に投げつけた。

 いい子でいても、もう意味が無い。
 褒めてくれる母は、どこにもいないのだから。

「もう嫌!」

 次々と佳音は参考書を放り投げた。その次は、教科書、ノート。それから文房具。
 部屋中がすぐにむちゃくちゃになっていく。
 ぶつかる度に激しい物音が響く。物は大切にしなければならない? 誰も私を大切にしてくれないのに、どうして? と、佳音は考える。完全にやけになっていた。気づくと頬が温水で濡れていた。泣き叫びながら、とにかく佳音は物を投げつけた。

 しかし、こんな事をしたからといって、なにかが変わるわけではない。
 それを佳音はよく分かっていたから、投げるものが机の上から無くなった時、俯いてボロボロと泣きながら、家から出ようと決意した。

 激情に駆られるがままに部屋を飛び出した佳音は、玄関を出ると走った。
 どこへ? そんな事は、佳音自身にも分からなかった。ただただ無我夢中に走った佳音は、気がつくと視界にさと瀬公園を捉えていた。そのまま茂みの迷路まで走り、ひと気のないその場で、やっと立ち止まる。膝に両手を当てて、ぜぇぜぇと息を吐く。呼吸が苦しいのは、走ってきたからなのか、その間もずっと泣いていたからなのかは分からない。

 呼吸が落ち着いてから、佳音はベンチに座った。
 既に一番星が輝き始めている。その色は、次第に薄闇に染まり、暗い夜空に変わっていった。遠目に見える公園の時計が、一時間・二時間・三時間と、時の経過を教えてくれる。

 そうして夜の十一時になった。

「こんな風に、家に帰らないで夜まで外にいるなんて、初めて」

 ベンチに座ったまま、ぽつりと佳音は呟く。
 今頃母や父、弟は自分を心配してくれているだろうか? いいや、否だ、と。佳音はそう考えて、自嘲気味に笑った。

「朝までここにいようかな。どうせ誰も探しに来ないし、いいよね」

 佳音の瞳が暗くなる。
 星を眺めながら、決めた通りに佳音は、朝までさと瀬公園にいた。星の瞬きが囁いてくるようだったのが、朝靄に包まれ溶けてしまった。もう火遊びは終わりだ。こんな風に家出をしたって、空しいだけなのだから。そう考えて、佳音はベンチから立ち上がる。

「……帰ろう」

 ぽつりと呟き、佳音は帰路についた。
 玄関のドアの鍵は開いていた。静かに開閉して、中へと入る。午前四時のダイニングキッチンは、いつもとは違う顔をしているように見えた。まだ誰も起きていない。

「あ」

 何気なくテーブルを見た佳音は硬直し、目を見開いた。
 そこには皿に載せられたおにぎりが二つあったからだ。ラップがかけられている。
 そばには花と熊の絵柄の便箋が置かれていた。



 佳音 へ

 よかったら食べて下さい。
 早く家に帰ってきてね。

 母 より



 たった二行の手紙だったが、それを見た瞬間、佳音の涙腺が倒壊した。最初は唇が震えた。気づけば全身が震えていた。嬉しくて、涙が止まらない。ギュッと目を閉じると、頬全体が涙で濡れた。震える右手で口を覆う。そして何度も何度も手紙の文字を視線でなぞった。それを繰り返してから、天井を向いて涙を乾かし、佳音は小さく笑う。

「いただきます」

 手に取り食べたおにぎりの具は、佳音の好物のシャケだった。もう一つはツナマヨだった。どちらも大好きな味だ。なにより適度に効いた塩の味、この加減は、母以外は決して作れない。佳音が世界で一番好きな味だ。

「美味しい……美味しいよ……」

 再びこみ上げてきた涙を必死に堪えながら、佳音はおにぎりを頬張った。




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