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終章.嘘つきたちの本音。
08.お使いのそれは正常です
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名前だけ知っていた老舗高級ホテルは、入口にかっこいい制服のベルボーイさんがいて、なるべく見ないようにしつつもしっかり見た。オタクは制服の魅力に弱い生き物なのだ。
大きなガラスの玄関を抜けると、広い大理石のフロアになっていた。吹き抜けになっているものすごく高い天井には、高級感溢れるキラキラとしたシャンデリア。田舎者丸出しでほえーと見上げてから、待ち合わせ場所のロビーへ向かう。途中、わたしはある彫像の前で足を止めた。
サモトラケのニケ。有名な首のない翼を広げたギリシャ神話の女神の像。ニケは勝利の女神として有名だが、そのエピソードは少ない。
オリュンポスの神々対ティターン族の戦い、ティタノマキアに参加。ニケはティターン族でありながら、オリュンポス側についた裏切り者の女神。それでいて勝利を約束する女神。戦いと工芸の女神でアテナイの守護神アテナに付き従う女神でもある。
掲げていたであろう両腕をなくし、地を蹴る足をなくしてもなお、行ったことがない地中海の風を感じさせる彫像は人を惹きつけてやまない。
このニケがどんな顔をして勝利を招いていたのかわからない。失くした顔──アルカイックスマイルの下でなにを思って親兄弟たちを裏切ったのだろう?
本物はルーヴル美術館に。価値ある偽物は世界中のどこでも見られる。……本物よりは価値がない、価値ある偽物。人を惹きつけるまがいもの。
まがいものと言えば……と、思考の海の深くへ潜ろうとしている時、トントンと肩を軽く叩かれた。
「きゆ、来てくれたんだ」
「ロビーに向かう途中なの、忘れてた」
「難しい顔でニケ像を睨んでたね」
睨んでるように見えたのは目が細いからだ。ほっとけ。恵まれた顔め。
「ニケを知ってるの?」
「知らない人間のほうが少ないんじゃないかな。ギリシャ神話の女神でしょ? 某スポーツブランドのマーク」
「ああ、そうか。そうだった」
スポーツブランドのマークになった経緯は有名な話だ。優れた芸術作品は新しい芸術を生み出す。たとえそれがレプリカでも。
向き直ると、セキはふにゃんと微笑んだ。31のおっさんのくせに無防備そのもの。……なんなのさ。
「30分だけ一緒にいられるよ」
「ふぅん。その前に。はい、お弁当」
ケーキ屋さんの大きな保冷バッグを手渡すと、セキは目をまん丸にして驚いていた。中にはレンチン用のタッパーと紙皿、何本かの割り箸とウェットティッシュも入れてある。
「いっぱい作ってあげたから……他の人と食べるがよい」
「ふふっ。変な気づかい、ありがとう。俺ひとりで食べるから安心して」
「そうは言っても、焼き鯖やだし巻き玉子など傷みやすいものもよりどりみどり。……料理するのが、楽しくて、つい……」
つい。で、こんなに作る阿呆はわたしくらいだろう。多少のことで動じないセキも呆気に取られている。
素直に笑顔見せろよ。ばーか。
「そんじゃ」
くるりとターン。回れ右。ニケ像の前にずっといるのも、人の視線を感じる気がして自意識過剰にさせる。陰キャは妖怪と同じでたくさんの視線に弱いのだ。
「待って、きゆ。ちゃんとお礼を言ってない」
ぱしっと腕を取られて、振り向く。自分の長い髪が散る向こうにセキがいる。当たり前だったのに、今は不思議な光景。
「いいよ、お礼は。昨日、誕生日だったでしょ。おめでとう、31歳」
こんなことをこんなところで言うのは、なんだか場違いなようで、わたしは顔を赤くしてちょっと緊張をしてしまった。
なんで、わたしが変に緊張せねばならんのだ。セキのばか。
狐につままれた顔をしていたセキは、嬉しそうに白い歯を見せて笑う。……調子が狂うなぁ。
「きゆ。ありがとう。こんな素敵な誕生日プレゼント、生まれて初めてだよ」
「ただのお弁当にお祝いの言葉をふりかけただけ」
これまでだって、ささやかながら誕生日プレゼントをあげていたじゃないか。最初の年は敵に塩を送りたくなくてあげなかった。
もう敵じゃないんだし。子供じゃないんだし。お祝いの言葉くらい言うよ。
セキがぎゅうっとわたしを抱きしめる。ゆっくり締め上げるように。
「ぐぎゅ……ぅ」
肺から音が漏れるほどの強さ。嫌いじゃないけど、人目が気になったわたしは抵抗をした。
「カフェでコーヒーって思ってたのに。予定が狂っちゃったよ」
「あっそ。せきの予定なんか知るものか。わたしは今からバイトだから、帰る」
「そのコートで?」
「いっぺん着替えに帰るの。それからバイト」
「そうだね。着替えたほうがいい」
セキの足はホテルのエレベーターへ。地下1階へのボタンを嬉しそうに押す31歳の男など、生まれて初めて目撃した。
「いい加減、離れろ」
エレベーターのなかで抱っこされたまま言うわたしもわたしだが。……だって、久しぶりにセキの匂いと雰囲気なのだから。
「ブティックがあるから、コートちょうだい」
ちょうだいというのは、わたしがコートを脱いで成立する言葉だが、テンションがうなぎ上りのセキがコートを脱がせる。
「……どうして?」
深緑色のワンピースを見たセキは、明らかに動揺していた。なにゆえ驚くのだ?
そして、剥ぎ取ろうとしていたコートをそっと直した。
「……変なかっこうだった? こんなホテルだから、なに着ていいかわかんなくて」
「変じゃないよ。ちっとも。でも、きゆ。そんなに俺を喜ばせてばかりでいると、襲っちゃうよ?」
は?
クエスチョンマークがちかちか点滅する頭をがしっと、掴まれて、キスをされた。それはもう、すごい勢いで。なんのテクニックもない、唇をぶつける、キス。
セキが? こんなストレートなキスを?
理解が追いつく前にエレベーターは目的の階へ到着したのだけど、開いたドアからわたしたちが出ることはなかった。
「……ん。……ふ、……っぁ」
直情的なキスが何度か繰り返され、そのうちに慣れ親しんだキスへと変化する。2週間以上ぶりのキスは、特別珍しくない。
エラーを起こしているみたいに感情をぶつけてくるセキが珍しくて、わたしは。もっとキスをしていたくて。セキにしがみついた。
身体を浮上感が襲う。ふんわりとしたものではなく、こう、身体の芯がずれるような、浮上感。
うっすらと開けた滲んでいる視界。セキの向こうにあるエレベーターの数字が高層階を示している。
「……物理?」
浮上感は高揚する気持ちではなく、エレベーターが上がっているだけだった。
「どこいくの?」
「寝泊まりしてる部屋」
「やだよ、これからバイト行くし」
喋りながらもわたしたちは舌を絡め合うキスを続ける。セキの手が、コートの上からわたしをまさぐる。ここにちゃんと存在しているかを確かめるような、そんな触り方。変なの。
今度は開いたドアから連れ出され、手を引かれてシンとした廊下を歩く。と、サングラスをかけた女エージェント風の平さんとバッタリ出会った。
「ボス。どこへ逃げたのかと思いました」
「ただの休憩でしょ。……これ、冷蔵庫に入れておいてくれる?」
重箱弁当が入った大きな保冷バッグを平さんが動じず受け取る。なかなかのキモの座り方だとお見受けする。
「30分休憩するって言ったよね。……まだ20分ある。そのあいだ、俺に連絡を一切するな。──命令だ」
初めて聞くセキの強い口調。……そんな喋り方もできたの? とシャープな顎をポカンと見上げた。
平さんは大切にケーキ屋さんの大きな保冷バッグを抱えて、「イエス、ボス」ピッと会釈をする。実はアンドロイドなんじゃないのか? ホテル内でサングラスしてるし。
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