鷹と幽霊

浅葉ゆづき

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第一章 出逢い 

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 子供の頃、雨の日が好きだった。
 雨の日は母が自分の履いているお気に入りの長靴と同じ色の黄色い傘を差して「おかえりなさい」と迎えに来てくれたから。

「おかあさん!」
「零史、ああほら、気を付けて! 転ぶと危ないから」
「だいじょーぶだよ! はやくかえろ!」
「はいはい。ちゃんと手を繋いでね」
「うん」
 大好きな色の靴と傘。その傘の中で母と二人、相合傘で手を繋いで歩いた。
 母は滅多に怒ることのない人だったけれど、雨の日はとりわけ自分に過保護になって優しくしてくれた。
 だから幼い頃の零史はたとえ運動会が延期になろうが、遠足がなくなろうが、雨の日のほうが嬉しかった。
『ほら気を付けて』と自分を案じて手を差し出して、自分に行く先を示してくれる存在がいて、ただ守られているだけで良かった幼少期の思い出は、零史にとって綿のように柔らかで、優しい宝物だった。

『零史』

 ふいに、古い記憶の情景が歪んで、母の笑顔にズレが起こる。破られた写真を無理やりセロハンテープで貼り付けたみたいに。

 ガクッ。
「……んぁ……あー、またやっちまったのか。俺」

 目を擦って、もう一度目を開ければ青白く光るパソコンディスプレイは【yyyyyyゆううううううう】という意味のない文字で埋まってしまっている白い原稿用紙があった。
 作業中にがくん、と落ちて、少しの間、眠ってしまったらしい。提示されている次の〆切まで、あと二週間しかないのに、まだ三分の一も書けていなかった。
「……眠すぎる。っつーか、いつもタイト過ぎんだよ〆切が!」

 ――やる気出ねぇ~。

 一度ライティングソフトを閉じて、椅子に座ったまま、もう一度あー、と言いながら大きくのけ反った。キィ、と椅子の背骨が軋む。
 部屋の本棚に並んだ文庫本の巻数を表す数字が零史の目に逆さに映る。
 ≪ハニー&マスタード≫――背表紙にその表題が書かれた本の冊数は九冊。続刊でついに二桁になる。小遣い稼ぎのつもりでやっていたはずだったのに、気が付けばいつもこうやって〆切に追われるようになっていた。
 本来の零史の仕事は学業である。
 いや、大学三回生ともなればもう、ほとんどの学生がとっくに就職活動に励んでいる。

(どこで間違ったんだ、俺の人生……。)

 上手い話なんてこの世の中にはない。当時、零史はバイトを二件掛け持ちしていた。大学一年。まだ十九で、新生活のすべてが楽しかった頃だ。
 父親との生活から逃げるように零史は大学進学を選んだ。小五の時に家を出て行った母が零史に進学費用にとこつこつ貯めてくれていた金を送ってくれていたお陰で、その逃げ道を選ぶのを苦労せずに済んだ。
 離婚の一番の原因が父親のギャンブル癖だったからこそ、被害者だった母は息子である自分に同じ思いはさせたくなかったのだろう。

 あの男と一緒に暮らし続けてもその先に待つのは破滅しかない。中学の頃にはすでに零史の中にも、そういう確信があった。親権の主張さえなければ、母は自分をあの父親の元に置いて去って行くことなど、あり得なかっただろうと今でも思っている。
 大学に入って、一人暮らしをして。それだけで充分自由だったのに、一度解き放たれると欲は増える。もっと自分の自由になる、遊べる金が欲しかった。正直、単位よりもずっと。
 大学はそもそも零史にとっては逃げるための口実でしかなかったから。
 最初に選んだバイトはファストフード店でバーガーショップの店員だった。そして掛け持ち先に選んだのがネットカフェ。暇そうだから仕事は楽だと思った。実際、バーガーショップの店員よりも、ネットカフェのスタッフはかなり楽で、しかし夜勤があるため時給が良かった。その両方のバイト先が偶然重なった同じ大学の先輩がいた。
 二回生だった先輩――三崎優吾は、零史以上にシフトを詰め込んでいて、いつ大学に行っているのかと思うほどだった。
「三崎先輩っていつ大学行ってるんっすか」
 ネットカフェの深夜帯シフトのある日。零史は静かな店内のカウンターの中で、気になっていたことを聞いてみた。

「え? あー、今年は一回行ったか……いや二回? いや違うか? まだ行ってないかも」
「マジすか……さすがにやばくないですか」
「まあ。やばいけどね。けど俺、慣れてるから、大学二回生、今年で三回目だし」
「やっぱ留年もしてたんっすね」
「そりゃあね~ぶっちゃけ仕事のほうが忙しいから勉強してる暇ないんだよ」
「仕事って……バイトのシフト、減らせばいいだけですよね?」
「ん? ああ、そっか。悪い。違うんだ。俺、もうしっかり社会人なんだ。働いてんの」
「は? バイトじゃなく?」
「そ。そんなに稼げるもんでもないけど、当たった時はすごいよ。だからまあ、宝くじに似てるか」
「宝くじみたいな仕事……? 何すかそれ。ギャンブル依存のカスが言いそうな台詞」
「はははっ、さすが春川! 毒強いな」
「え、マジで何の仕事なんすか」
「……知りたい?」
「そりゃあ気になりますよ。全然想像つかないんで」
「本当はあんまり人に言っちゃいけないんだけど、しょうがないか。春川だし、いいや」
「しょうがないって……先輩が自分からめちゃくちゃ話してたじゃないすか」
「いや、シフトもよく重なるし。春川は俺と属性が似てるっていうか。話してて楽しいからさ。俺ついペロッと喋っちゃって」
「いやペロって、軽っ!」
「はは、じゃあお前にだけ教えるよ」
 ついてきて、と三崎は突然カウンターを抜けて漫画コーナーへ向かう。急だなと思いながら、零史はそれに続いた。
 漫画コーナーにはその頃、ライトノベル等、若者向けの小説コーナーが新設されたばかりだった。
 その新しい棚から一冊の本が取り出された。
 表紙には少女漫画に出てくるようなキラキラのイケメン男子が二人。違和感があったのはそこに主人公のヒロインの姿がなかった事。そして零史が一番気になって、思わずえ、と吐き出した声を飲み込んだのは、そのイケメン男子が二人ともほぼ裸で、口にするのも憚られるような、そうつまり【まさにセックスの最中です】という体勢で、官能的な表情をしていたからだ。
「あ……そっか。この髪の短い金髪のほうが女か」
「いや、この二人はどっちも男だよ。金髪のほう、ほらここ、ついてるだろ。」
 ついてるとは……自分にもついているもの。男の象徴のこと。
 ということは、アレか。
「え、つまりこの本は、ボーイズラブとか何とかっていうあの」
「そう。BLって呼ばれてるもの。これは小説で挿絵が付いてるんだ。ほら」
「あ、分かりました。分かったんでわざわざ見せなくていいですって!」
 パラパラと捲って、挿絵をこれとか~と見せてくる三崎に零史はギョッとする。表紙よりっとずっと過激な、性器から精液が噴き出した状態で縛られて喘いでいるイラストや、口付け合いながらセックスをしているイラストが次々と出てくる。

(新手のセクハラか、これは……? 今はこういうエロ本が主流ってことなのか!?)

 初めての世界にただただ衝撃を受ける。そこから目を背けて自分の熱くなっている頬を見られないよう、ふいと逸らした顔を零史は片手で覆った。

「で、こ、この本と先輩の仕事に何の関係が……!?」
「これだよ」
「霞レイ……?」
 表紙の著者名を改めて三崎は零史に見せた。指でトントン、とされて、零史は首を傾げた。

「これ、俺の仕事用の名前」
「……は?」
「ペンネームってこと。俺、作家やってるんだよね。高3の頃から。姉がこういうジャンルが好きで、俺は小説家を目指してて、公募とか色々やってたんだけど、受賞できたのが姉に頼まれて初めて書いたオリジナルのBL小説でさ。受賞作一つで終わっていく程度の作家だろうな~って思ってたんだけど、気付いたらアニメとか実写のテレビドラマとか。何かすごい色々声掛かっちゃって。まあ、お陰で生活に困らない程度には貰えてるけど」
 アニメ化にドラマ化……そんな一部の人しか経験したことがない言葉に零史は呆気にとられる。
「な、何て作品ですか……?」
「【二次会はふたりでヌけます】ってタイトル。にじヌけってハッシュタグ検索するとSNSでドラマの感想とかも結構読めるよ。対照的なサラリーマン二人の恋愛で、実写は若手イケメン俳優さん起用してもらってたから。武内圭くんと、香月真一くん」
「タケウチケイ……この間、月9に出てた」
 スマホで検索しながら零史は呟く。ウェケペディアに並ぶ出演作の数々。まじかよ、と何度目かの驚嘆の息が漏れた。
「そうそう。彼。最近ますます人気だよな~香月くんも舞台中心だけど最近は歌手活動も始めてるし。今でも俺の家に二人の事務所からお中元くるんだ」

 三崎はどこか自分と同じ楽天家というか、刹那的雰囲気を纏っていたから、同類だと信じていた。先の事はなるべく考えない。どうせ人生なんて上り調子なのは生まれてから十年くらいまでで、それからはずっと停滞。そしてあとは年々下っていくだけだと。
 零史の人生は小5のあの日に上昇期はぴたりと止まったのだ。それからは、ゆるやかにでも確かに下降し続けている。
 下り坂をゆっくりと。
 でも、三崎は自分とはまるで違う人生を歩んでいるように思えた。
「……受賞した時ってやっぱり賞金とかあったんですか」
「あったよ。三百万。大きなコンテストだったから」
「さっ、三百万……!?」
「でも、アニメ化とドラマ化してからのほうがすごかったな。作品の価値がぐんと上がって」
「印税とかってことっすか」
「まあね」
「す……すげー」

 コンテスト受賞で三百万。マジで宝くじだ。
 零史の開いた口が塞がらない。と、同時に羨ましい気持ちとある疑問が湧いてくる。

「あの……今さらですけど。先輩は、何でわざわざ俺にこの事を教えてくれたんですか」

 単なる自慢だったら、苛ついて「ああ、そうですか」で終わる話だった。しかし、零史には自慢するためだけに三崎が秘密を明かすような男には思えなかった。普段の彼は自分の話は極端にしない、聞き上手なタイプで。その分、プライベートは謎に包まれていたから。

「言ったろ。似てる気がするって。まあ、特別に教えるなんて言っといて、実際は俺がお前に頼みたい事があってさ」
「はあ……頼みたい事?」
「お金、好きだよな? 春川」

 今思えば、普通は飛びつかないような案件だ。小説の執筆を手伝ってくれ、なんて。
 零史は小説などというものを書いた経験はない。作文を小学生の頃に褒められたことくらいしかないズブの素人に一体何ができるというのか。
 金は欲しいが、そんなのは無理だと断ったが三崎は引かなかった。
「とりあえず読んでみて。いきなり全部書けなんて無茶は言わないから、俺がストーリー展開に悩んでたら、意見が欲しいんだ。どういうものがウケそうか」
「いや俺、BLのことよく知らねーし!」
「ただ同性ってだけで、普通の恋愛ものと変わらないって。むしろエロいことが中心の作品が多い事もある。あと、泣き本ってやつ。感動系も多いな。あとでライムでオススメ送っとくから」
 三崎の有無も言わせぬ圧と勢いが強くて、その日から零史は夜勤の休憩中や自宅でゴロ寝をしている時のほとんどをBL作品読破に費やした。
 そしてまんまと、最初に読んだ三崎の作品【ハニー&マスタード】の続き――まだ出ていない続刊の四巻の内容が気になって気になってしょうがなくなっていた。
 男性同士だという固定観念や偏見を取っ払えばBLの世界はとても美しく、それでいて良い意味で凄まじくいやらしいエッチな描写ばかりで、こっそり夜のオカズにしたこともある。特に霞レイ――三崎の描く小説の性描写は零史の想像力を刺激した。

「……でもやっぱ無理っすよ。俺が作家の手伝いなんて。素人の意見じゃないっすか」
「そんなことないよ。俺、お前の大学のレポート読んでびっくりしたんだよな。伝わりやすい文章で」
 レポートと小説は種類が違う。いくら零史がそう言っても三崎は大丈夫だと言って聞かなかった。
「春川が手伝ってくれたら俺はその時間に他のコンテスト用の原稿も書けるんだ。俺を助けると思って! 頼む!」
「やー……助けられるもんならそりゃあ……」
「なら! 一回試しに!」
「そんなお試しでやってみようってできるもんなんっすか!? 俺が嫌ですよ、ちゃんと真面目に書いてくださいよハニマスの続き! 三ツ矢がどうなるか、歩とすれ違ったままなんて嫌っすよ俺!」

 うっかりツッコんだら、にっこり、先輩が笑顔を浮かべた。

「今の、すごいハマってる読者の感想だな?」
「い、いや……先輩がとりあえず読めって言うから! 別にハマってはねえから!」

 図星をさされて死にたいほど恥ずかしかった。ネットで感想を見ていると読者の九割が女性で、自分のように夢中で続きを待っている男は見当たらなかった。
 しかも読者の全員が、霞レイは女性だと信じている。三崎はあえて性別を偽って、姉のレイコという名前と母のカスミという名前を貰ってペンネームをつけたと言う。
 女性が書いているという事もBL作品においては大切な事なのかもしれない。

「じゃあ分かった! お試しで三日間だけでいいし、時給は四千円でどうだ?」
「四千円……!? 意見言うだけで!?」
「ああ。悪くないよな?」
 知的労働代表の塾講師や家庭教師の時給と変わらない。しかも仕事内容は本当にわずか。

 ごくり、と零史は唾を飲み込んだ。そこから先は、言うまでもない――。
 飛びつかない奴のほうがおかしい。そう思った。

 ***

 だが、上手い話には裏があるのだ。投資詐欺やねずみ講とそう変わらない。最初は信じ込ませるために条件通りにバイト代が出て、馬鹿なカモがすっかりズブズブになった頃が本当のスタート。
 零史はそれを身を持って知った。始めて三か月は三崎は本当に意見だけを求めた。だから零史は最も近い読者として、読みたい展開を提示して。それが反映され、三崎が書いたものが何も知らない編集者に褒められると嬉しかった。自分が認められたような気がして。
 三崎からの頼み事に楽しさを覚え、それに価値を見い出し始めていた。
 ――おそらくその時を、三崎は待っていたのだ。機が熟すのを。
『悪い春川! さすがに俺、今回は専門教科の単位取らないとやばいんだ。教授にキレられて。親にもちゃんとしないなら小説家なんて辞めろって怒られちゃって……』
『え、じゃあ原稿は〆切延ばしてもらえたんですよね?』
『それが無理でさ。悪い。続きの話数の流れはプロットファイルに突っ込んであるから、送るわ』
『は? え? 送るって?』
『今回だけ、頼む!』
『はあ!? 無理っ! 無理っすよ!』
『俺も無理なんだって! 頼むな!?』

 一方的に切れた通話。あの日が俺の人生の分岐点だったんじゃないか。……選択を間違えた。
 三崎のプロットに合わせ何とか見よう見まねで三崎の文体を模倣して書いた原稿。それが拍子抜けするくらい編集者にバレなくて、むしろ普段より大絶賛だと三崎に持ち上げられた結果。
 零史はこの負のぬかるみに足を取られ、今では汚れたその場所に沈み、髪の先まで浸かってしまっている。

 春川零史、二十二歳。現在の職業、二度目の大学三回生――兼、人気BL小説 通称『ハニマス』のゴーストライター三年生。

 それが、零史の今の肩書だ。

 幸か不幸か、下ってゆく零史の人生とは反対に、ハニマスの売れ行きは零史が担当するようになってからも衰えることはなく、むしろ重版報告が増えていた。人気作を自分のせいでオワコンにさせずに済んだ安堵感は零史の中にいつもある。しかし同時に誰にも存在を知られず生み出し続ける苦しさに、すべてを投げ出してしまいたいほどの大きな後悔が零史を蝕んでいた。

(――俺はいつまでこんな事、続けんだろうな……)

 まるで誰かの人生を代わりに必死に泳いで生きているような。
 向こうにゴールは見えるのに。岸に辿り着けば、もう泳がなくて良いのに。でもそれは自分のためのものではないと知っているから。自分のためのゴールを探して泳ぎ続けるしかない。始まりから自分のために泳いでいないのにゴールだけはきっとあると信じ続けて。ただ、やがて溺れて呼吸が止まるのを待つ。

 ――俺がやっているのは、そういうこと。

 また身体が沈んでゆく感覚に、零史はもう抗わなかった。瞼が落ちてゆく。その時だった。
 ――ピンポーン。

 時刻は深夜二時。真夜中に訪問を告げるそれが響いた。
「っ!? な、何だ……!」
 客? こんな時間に誰だ……?

 ちょうど寝入りばなだったので、びくっと身体が跳ねた。
 いつもの零史なら失礼な奴だと居留守を使っただろう。けれどこの夜は〆切前で原稿作業が続いていて、睡眠が足りていなかった。判断力は鈍りに鈍り、加えて、インターホンの音で飛び起きたばかりだ。
 半分寝ぼけた状態で玄関までのろのろ歩き、零史はドアノブに手をかけた。

「こんな時間に、だれだよ……?」
「夜分遅くにすまない。君が、春川零史くん?」
「……はあ。そうっすけど?」
 何か? と言いかけて、言葉を飲む。
 おかしい。視線が合わない。高そうなスーツの生地だけが視界に入っている。それとシックな黒スーツに似合わない派手めの赤いネクタイ。

 零史はゆっくり視線を持ち上げた。
「……背、でっか」
 思わず呟きが口から出てしまった。二メートル近くないか? バスケ選手みたいだ。
「ああ。よく言われる。ガキの頃から朝礼では一番後ろだったな」
「へ? あの、すんません何の用――」
「あと、そうだな。こういう、家に取り立てに行く時も、天井が低くて頭ぶつけちまったりもあるな。こうやっていちいち体屈めて入らねーとならないのは割と手間だ」
「ちょ、ちょっ!? え、な、何すか? 何で入ってくんだよっ!」
 話しながら当たり前のように玄関の中に入り、ズカズカと上がり込んでくる男。その後ろを同じような数人の黒服の男がついてくる。
「今の俺の話、聞いてたか」
「話って――っ」
(何なんだこいつら! 話!? さっきそんな話してたか!? ただの高身長あるあるっつーかお困りエピソードじゃねーの!? 低い天井だと取り立ての時入りにくいとか何とか――……ん?)

「……と、取り立て?」

「なんだ。ちゃんと聞いてたんじゃねーか。なら、本題に入ろう」
 おい、と大男が、背後にいた部下らしき人間の一人に顎で指示する。その部下から渡された三つ折りの紙を一枚、男は開いた。

「ここに借用書がある。ちゃんと署名入りの正式な八百万の借用書だ。ここにあるのが、春川零史、――これは、君の名前だろ。だから仕事をしに来たんだ。カネを回収しにな。ああ、言い忘れてた。俺は、ここらの地域を担当してる柴山だ。仲良くしような」

 左手に借用書。右手には間違いなくヤミ金のヤクザの男の名刺。
 どちらを取っても地獄だということだけは分かる。

 ずい、と詰め寄られて後ずさった自分の足元が揺れた気がした。初めておぼえる眩暈だ。

 自分の人生の真の分岐点。
 それが今、目の前にあることを零史はこの時、はっきりと思い知らされた。

 選択を間違ったとすればきっとここだと、後になって零史は繰り返し思い出すことになる。

 柴山鷹斗という男と出会った日。人生の歯車が狂い始めた日のことを。

 そしてそれは奇しくも、零史自身がずっと欲しかった≪自分だけの人生≫にその手で触れた最初の日だ。
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