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小話 神山透は溜め息をつく
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悪意を目の当たりにした時、人は為す術もなくただ立ち尽くすしかないものだ。
出張帰りに給湯室にお土産を置きに来たら、とんでもない噂話の現場に居合わせてしまった。
『神山透は、夜が残念な男である』
それが事実かどうかはともかく、自分のそんな噂話を面白可笑しく同じ課の仲間がしていると知った時の、その衝撃。そしてその噂を積極的に流しているのが、目下のところ交際中ということになっている紺野洋子だと知った時のその絶望感。
今回だけでなく今までも、僕に関する真偽定かでない噂話をしてきたのだろうと推測される、その会話の内容を聞けば聞くほど胸がムカムカして吐き気がこみ上げてくる。
こんな下劣な噂話をするような人間と、自分は一緒に仕事をしてきたのか。一緒に働く同志だと思って信頼してきたのか。
思わず口に手をあてて、お土産の紙袋をバサリと落としてしまう程には動揺をしていた僕は、その目の前に気の毒そうにこちらを、そして足元の仙台銘菓をなぜか熱く見つめる女性がいたことに、やや暫く気づく事ができなかった。
給湯室からは相変わらず職場仲間の下世話な雑談が聞こえてくる。その中では紺野洋子が合コンに頻繁に参加し、解散時には男性と二人きりでどこかに消えていくことがあることも語られていた。
何という裏切りか。
誰が自分の味方で、誰が陰で自分を笑っているのか。出張帰りの疲れた心と体では冷静な判断ができそうな気が全くしない。
頭の動きが急に鈍くなるのを感じつつ、ふと目を上げてみると、目の前にはコーヒーカップを片手にこちらを見つめる女性の姿。
……ああ、彼女も給湯室に入れずに困惑しているといったところなのだろうか。
自身も困っていると言うのに、こちらを見つめて「あんな噂をされてお気の毒に」と言った表情を浮かべている。
憐れまれているはずなのに、その視線からはなぜか包み込まれるような慈しみのようなものを感じてしまう。
なんだか今日は、一人になりたくない。
誰かと何かを話していたい。
だからなのだろうか。
ついそんなことを思ってしまった僕は、目の前の彼女、総務課の山本郁子さんに「これから飲みに行きませんか?」なんて、誘ってしまったのだった。
ーー
……とは言ったものの、仕事以外で親しくもない相手と飲みに行くことなど全く無いので、どんな話をしてよいのかなんてわからない。
ましてや給湯室の会話を聞いてから、この頭は「本日の業務は終了しました」とばかりにこれっぽっちも働こうとはしてくれないのだ。
居酒屋に到着してからも、山本さんに申し訳ないと思いつつ無言でいると、彼女はここでも気まずくならないよう、明るく、そしてさり気なく場を和ませる話を続けてくれるのであった。
……優しい人なんだな。
その気遣いに、心がじんわり温かくなる。
彼女の細かい配慮もさる事ながら、話のチョイスというか、その語られる内容のあちこちに独特のセンスが見え隠れして、それがまた面白くて好ましい。
悟られることないように、コッソリ目の前の相手の様子を伺ってみる。
中肉中背、肩まであるダークブラウンの髪。可愛らしいと言えば可愛らしいが、これと言って特徴のある容姿ではない。
けれども、なぜか心惹かれて目が離せない。
善良な性格を物語る様なその瞳が、何か興味のあるものを見つける毎にキラキラ輝く姿は大変に美しいと思うし、なにより話をしているの時にコロコロ変わる彼女の表情の豊かさと言ったら、見ていて飽きることが全く無い。
本人は気がついていないのだろうけれど、それがなんとも生き生きとしていて、大変に魅力的なのである。
店内のオレンジの照明に照らされた艶めく髪には光の輪が現れている。そして気がつくと彼女の周りもなぜだか光が乱反射して神々しくキラキラと輝いている様な気さえもしてくる。
……あれ?
ここにいるのはもしかして、天使だったりする、の、か、な???
強かに酔っていたせいなのかもしれない。
けれど一方的に人の汚い感情を見せつけられてまあまあ深手のダメージを負っていた自分には、目の前の彼女は自らの生命力を分け与えて周囲の者の傷を癒やす、まさに心優しき神の使いにしか見えなかったのだった。
___
しかし会話の流れに身を任せ、うっとりと目の前の彼女に見惚れていると、この天使はとんでもない事を口にする。
『言いにくい話ですけど、神山さんて、女性とえっちする時どんなことするのか知ってます?』
……はあ?!
確かに話の始まりは、こちらのなんの気無しに発した問いかけだったかもしれないが、なんと男子の理性を崩壊させるには充分過ぎるパワーワードを口にするのだろう。
誘惑しているつもりではなさそうだ。
が、真剣な表情ながら恥ずかしそうに頬を染め、ちょっと上目使いになっているところがなんとも煽情的で大変心をくすぐられる。
……くそ。可愛いじゃないか。
自分は今、失恋したことになっている。
彼女に手を出すのは今、このタイミングじゃない。
わかっている。
わかってはいる、けど。
身体からでもいいから、とにかく彼女を捕まえておきたい。
身体さえ繋げてしまえはきっとなんとかなる。なんとでもなる。
心を手に入れるのはその次だっていい。
……普通だったらそんな常識外な行動に出たりはしない。
けれどその時の僕は完全にどうかしていたとしか言いようがない。酔いの勢いまま、とんでもないお願いを彼女に持ちかけた。
そしてそれが、彼女との楽しくも拗れた関係の始まりだった。
出張帰りに給湯室にお土産を置きに来たら、とんでもない噂話の現場に居合わせてしまった。
『神山透は、夜が残念な男である』
それが事実かどうかはともかく、自分のそんな噂話を面白可笑しく同じ課の仲間がしていると知った時の、その衝撃。そしてその噂を積極的に流しているのが、目下のところ交際中ということになっている紺野洋子だと知った時のその絶望感。
今回だけでなく今までも、僕に関する真偽定かでない噂話をしてきたのだろうと推測される、その会話の内容を聞けば聞くほど胸がムカムカして吐き気がこみ上げてくる。
こんな下劣な噂話をするような人間と、自分は一緒に仕事をしてきたのか。一緒に働く同志だと思って信頼してきたのか。
思わず口に手をあてて、お土産の紙袋をバサリと落としてしまう程には動揺をしていた僕は、その目の前に気の毒そうにこちらを、そして足元の仙台銘菓をなぜか熱く見つめる女性がいたことに、やや暫く気づく事ができなかった。
給湯室からは相変わらず職場仲間の下世話な雑談が聞こえてくる。その中では紺野洋子が合コンに頻繁に参加し、解散時には男性と二人きりでどこかに消えていくことがあることも語られていた。
何という裏切りか。
誰が自分の味方で、誰が陰で自分を笑っているのか。出張帰りの疲れた心と体では冷静な判断ができそうな気が全くしない。
頭の動きが急に鈍くなるのを感じつつ、ふと目を上げてみると、目の前にはコーヒーカップを片手にこちらを見つめる女性の姿。
……ああ、彼女も給湯室に入れずに困惑しているといったところなのだろうか。
自身も困っていると言うのに、こちらを見つめて「あんな噂をされてお気の毒に」と言った表情を浮かべている。
憐れまれているはずなのに、その視線からはなぜか包み込まれるような慈しみのようなものを感じてしまう。
なんだか今日は、一人になりたくない。
誰かと何かを話していたい。
だからなのだろうか。
ついそんなことを思ってしまった僕は、目の前の彼女、総務課の山本郁子さんに「これから飲みに行きませんか?」なんて、誘ってしまったのだった。
ーー
……とは言ったものの、仕事以外で親しくもない相手と飲みに行くことなど全く無いので、どんな話をしてよいのかなんてわからない。
ましてや給湯室の会話を聞いてから、この頭は「本日の業務は終了しました」とばかりにこれっぽっちも働こうとはしてくれないのだ。
居酒屋に到着してからも、山本さんに申し訳ないと思いつつ無言でいると、彼女はここでも気まずくならないよう、明るく、そしてさり気なく場を和ませる話を続けてくれるのであった。
……優しい人なんだな。
その気遣いに、心がじんわり温かくなる。
彼女の細かい配慮もさる事ながら、話のチョイスというか、その語られる内容のあちこちに独特のセンスが見え隠れして、それがまた面白くて好ましい。
悟られることないように、コッソリ目の前の相手の様子を伺ってみる。
中肉中背、肩まであるダークブラウンの髪。可愛らしいと言えば可愛らしいが、これと言って特徴のある容姿ではない。
けれども、なぜか心惹かれて目が離せない。
善良な性格を物語る様なその瞳が、何か興味のあるものを見つける毎にキラキラ輝く姿は大変に美しいと思うし、なにより話をしているの時にコロコロ変わる彼女の表情の豊かさと言ったら、見ていて飽きることが全く無い。
本人は気がついていないのだろうけれど、それがなんとも生き生きとしていて、大変に魅力的なのである。
店内のオレンジの照明に照らされた艶めく髪には光の輪が現れている。そして気がつくと彼女の周りもなぜだか光が乱反射して神々しくキラキラと輝いている様な気さえもしてくる。
……あれ?
ここにいるのはもしかして、天使だったりする、の、か、な???
強かに酔っていたせいなのかもしれない。
けれど一方的に人の汚い感情を見せつけられてまあまあ深手のダメージを負っていた自分には、目の前の彼女は自らの生命力を分け与えて周囲の者の傷を癒やす、まさに心優しき神の使いにしか見えなかったのだった。
___
しかし会話の流れに身を任せ、うっとりと目の前の彼女に見惚れていると、この天使はとんでもない事を口にする。
『言いにくい話ですけど、神山さんて、女性とえっちする時どんなことするのか知ってます?』
……はあ?!
確かに話の始まりは、こちらのなんの気無しに発した問いかけだったかもしれないが、なんと男子の理性を崩壊させるには充分過ぎるパワーワードを口にするのだろう。
誘惑しているつもりではなさそうだ。
が、真剣な表情ながら恥ずかしそうに頬を染め、ちょっと上目使いになっているところがなんとも煽情的で大変心をくすぐられる。
……くそ。可愛いじゃないか。
自分は今、失恋したことになっている。
彼女に手を出すのは今、このタイミングじゃない。
わかっている。
わかってはいる、けど。
身体からでもいいから、とにかく彼女を捕まえておきたい。
身体さえ繋げてしまえはきっとなんとかなる。なんとでもなる。
心を手に入れるのはその次だっていい。
……普通だったらそんな常識外な行動に出たりはしない。
けれどその時の僕は完全にどうかしていたとしか言いようがない。酔いの勢いまま、とんでもないお願いを彼女に持ちかけた。
そしてそれが、彼女との楽しくも拗れた関係の始まりだった。
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