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第二章 それまでは夫婦でいさせて

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片付けは食洗機があるからと矢崎くんがさっさとしてしまった。

「いってきます」

出社する準備ができたところで、彼が私にキスしてくる。
それを避けようと顔を背けたら、手で掴まれて強引に唇を重ねられた。

「だからー」

「嫌なら引っ叩けばいいだろ」

「うっ」

抗議したところで矢崎くんは涼しい顔をしている。
それに私にも彼を叩くなんて気持ちはまったくなかった。

「あ」

鞄を手に玄関に向かいかけた矢崎くんが、なにかを思い出したかのように足を止める。

「会社では俺たちが結婚したことは内緒な」

悪戯っぽく彼が、人差し指を唇に当てる。

「会長とか身内にバレるといろいろ面倒だからさ。
今抱えてる仕事が上手くいったらうるさい連中も黙らせられるから、ちょっと待ってくれ」

さらに彼は、片手で私を拝んできた。

「ああ、うん。
わかったよ」

そうか、矢崎くんも後継者としていろいろ事情があるんだ。
鏑木社長みたいに後継ぎを公言して憚らない人もいるもんね。
その理由にだけは納得した。

一緒に並んで駅までの道を歩く。

「引っ越しは追い追いするけど、とりあえず今日から俺んちに住めよ」

「ええーっ」

つい、口から不満が漏れる。
だって私はまだ、離婚を諦めていないのだ。

「ええーっ、じゃない。
終わったら純華んち行って、荷物持って俺んち。
わかったな?」

そんなこと言われたって、承知できるはずがない。
なのに。

「わかったな」

私の前で振り返り、矢崎くんが指先を突きつけてくる。
眼鏡の奥の目は真剣で、私に拒否を許さなかった。

「う、うん」

おかげでつい、頷いてしまった。

仕事はいつもどおり……ではなく、ママさん社員の加古川(かこがわ)さんから、子供の調子が悪いので休むと連絡が入っていた。
まあ、それもいつもどおりといえばいつもどおりだけれど。

仕事の合間を縫って資料を漁り、昨日の「瑞木係長は子供がいないからわからないでしょうけど」案件の解決に乗り出す。
私はいったい、なにを見落としている?
自分には子供はいないが、友達の子供を連れていったと想定して考え直した。

「ああ、そうか」

ベビーカーで入るには、段差が多い。
スロープもあるが、遠回りしてもらわなければならない。
これではベビーカーの人はもちろん、車椅子の人も困るだろう。

「スロープの位置を見直して……」

解決策が見えればあとは簡単だ。
私はマウスを操作し、新しい会場案を作っていった。

終業時間までに今日やってしまわないといけない仕事を終わらせ、加古川さんの仕事に手をつける。
手つかずの資料をまとめ、請求書の下書きも作った。
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