残り香

霧内杳/眼鏡のさきっぽ

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1.死神

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 煙草のにおいで目が覚めた。
 ……なんで煙草?
 私は煙草を吸わない。
 それに前日、煙草を吸う来客があったわけでもない。
 まだ目覚めきってないあたまでにおいの元をたどっていくと、足下に黒ずくめの男が座っている。
 私が起きたのに気づいたのか、男はちらりとだけ私を見ると吸っていた煙草の煙をふーっと吐いた。
 ……不審者!?
 一気に意識が覚醒する。
 視線は男に向けたまま手探りで枕元に置いてある携帯を取ろうとしたら、あっという間に奪われた。
「通報してもいいけどさー。あたまがおかしくなったとか思われるだけだから、やめといた方がいいと思うぞ?」
 フードを目深にかぶった男の、そこしか見えない口元はにやにやと莫迦にするように笑っている。
 男は最後の一口を吸うと持っていた携帯灰皿で煙草を消し、私に携帯を投げ返した。
 慌ててキャッチし、画面ロックを解除しかけて手が止まる。
 この男がなんの目的で家に上がり込んでようとかまわないのだ。
 レイプされようと殺されようと問題ない。それほどまでにこの頃の私は自暴自棄になっていた。
「しないの、通報?」
 携帯の画面の時計は午前七時を表示している。
 そろそろ出勤の準備をしなければいけない時間だが、どうでもよくなった。
 携帯を布団の上に投げ捨てた私に、男は怪訝そうな声を出した。
「……どうでもいい。あなたの好きしたらいいから」
 ベッドの上で膝を抱えて丸くなる。
 少しだけ間があいてベッドがぎしっと軋んだ。
 視線だけそちらに向けると、男がベッドに座っている。
「一応、自己紹介しておくわ」
 俯き、膝の上に両肘をついて指を組んだ男は、合コンの自己紹介くらいのノリで話しだした。
「俺はいわゆる死神って奴だ」
 確かに、フードのついた長い黒マントをまとう男はそれっぽい。
 けれど、そんな厨二病発言をはいそうですかと信じる莫迦はこの世にいないのだ。
「おまえ、水城みずき野乃花ののかは本日十三時三十六分、過労による心筋梗塞で死亡する。俺の仕事はその魂の回収だ」
 ……私が、死ぬ?
 淡々と告げられた内容に驚きはなかった。
 むしろ、願ったりかなったりだ。
 きっと私はあの日からずっと、この時を待っていたんだと思う。
「あなたがいまから殺すんじゃないの?」
 はぁっ、男は短くため息をついた。
「信じてないな、死神だって。まあ、しょうがないけど」
 苦笑の混じるその声は、いままで何度も同じような会話を繰り返してきたんじゃないかと感じさせた。
「見てな」
 男が手のひらを上に右手を前に出すと、その上に黒い靄のようなものが集まり小さく渦を巻いていく。
 みるみるうちに大きくなったそれがポン! と一瞬にして消えると、その手には大きな鎌が握られていた。
「手品……」
「だと思うか?」
 にやりと、男の右の口端が意地悪くあがる。
 私はぶんぶんと首を横に振っていた。
 あんな大がかりな手品のネタを、私の部屋に、私を起こさないように仕込めていたとは考えられない。
「じゃあ信じたな、死神だって」
 今度は勢いよくうんうんと首を縦に振る。
 男――死神は満足したのか、鎌を抱えたまま膝の上に両手で頬杖をついた。
「悪いけど、時間になるまであんたに張り付かせてもらうから。あ、心配しなくても俺の姿はあんた以外に見えない」
 そういえば警察に通報してもあたまがおかしくなったと思われるだけとか言っていたが、そういう意味だったんだろうか。
 男が死神だとなれば、殺人者よりも確実に私の願いは叶うのだ。
 けれど予定の時刻まで待つなんて、じらされたくない。
「ねえ。その死亡予定時刻って絶対なの? 前倒しってできないの?」
 暇なのか、柄を軸に鎌をくるくる回していた死神の手が止まる。
「まあ、できないこともない。予定時刻はあくまでそいつが最大生きていられる時間だからな」
「じゃあ、さっさとやっちゃって」
 びくんと大きく、死神の背中が揺れた。
 ゆっくりと立ち上がって振り返ると、じっと私を見下ろす。
「……未練はないのか。やり残したことは」
 さっきまでの軽い調子とは違い、死神の声は酷く重かった。
「ない」
 やり残したことならある。
 けれどそれはこの世では叶わない。――あの世でなければ。
「生者の都合による予定時刻の繰り上げは自ら命を絶ったのと同等に扱われ、厳しい罰が待っている。それでもいいのか」
 低く静かな死神の声は私を裁くかのようだった。
 しかし何度確認されても私の気持ちは変わらない。
「かまわないから。さっさと終わらせて」
 無言の死神はフードのせいで表情はわからない。
 ただ唇はなにかを堪えるかのようにきつく真一文字に結ばれていた。
「わかった。俺も仕事が早く終わるのは助かる」
 軽い調子に戻った死神の声だが、どこか震えている気がするのは気のせいだろうか。
 振り上げられた鎌に目を閉じる。
 ……痛いのかな。苦しいのかな。まあ、どっちだってかまわないけど。
 じっと、やってくるであろう瞬間を待つけれど、いつまでたっても変化はない。
「やっぱりやめた」
 閉じていた目を開けると、死神は鎌をポン! と消した。
 再びベッドに座ると煙草に火をつける。
「……やめたって、なに?」
 私には早くあの世に逝きたい都合があるのだ。
 一分、一秒でも早く。
「やめたってなんで!?」
 肩を掴んでぐらぐらと揺らすと、死神はため息とともに煙草の煙を長く吐き出した。
「そう焦んなって。ちゃんと向こうに連れて行ってやるから」
 私の気持ちなんか知らずに、のんきに煙草を吸う死神に腹が立つ。
 睨みつけたけれど、死神は堪えてないようだった。
「あっちは現世以上に煙草に厳しくってさ。現世に降りないと煙草、吸えないの。ゆっくりもう一本、煙草吸う時間くらい、ちょうだい?」
 ふざけているのか本気なのかわからない死神に、気が抜けた。
 ベッドの上に座り直し、死神が煙草を吸い終わるのを待つ。
 ……そういえばあの人も、よくこうやって私を待たせた。
 滲んできた涙は死神の吸う煙草の煙が目にしみるせいにする。
 ぼーっと死神を見ながら、吸っている銘柄があの人と同じだと気づいた。
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