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第二章 結婚ってなんですか?
2-1
『ひなちゃん。
結婚、しよ?』
爆弾発言をしたあと、猪狩さんは私の返事など待たず飛行機の時間があるからと帰っていった。
「えっ?
は?
えっ?」
わけもわからず混乱したままその後を過ごし、気づいたときには住んでいるマンションに帰り着いていた。
それほどまでに私には想定外の出来事で、頭が理解を拒否していたのだ。
「あー、家、落ち着くー」
ソファーにいつも置いてある、猫のキャラクターの大きなぬいぐるみに抱きつく。
ちなみに六つの誕生日に猪狩さんが買ってくれたものだ。
「もう、猪狩さん、結婚しようとか冗談きついよね」
両親とも別れ、ようやくひとりになれて現実が戻ってくる。
うん、きっとあれは冗談だったんだよ。
じゃないといくら小さい頃を知っているとはいえ、私と結婚しようなどと彼が言ってくるはずがない。
「うんうん、きっとそうだ」
……と、私は片付けたんだけれど……。
それからしばらくは何事もなく過ごした。
いや、何事もなくは嘘だ。
職場ではなにやら、不穏な空気が漂いはじめている。
「愛川さん、ちょっと」
「はい?」
支店長代理に呼ばれ、他の人に窓口を代わってもらって席を立つ。
連れていかれたのは会議室で、彼とふたりきりだ。
「その、さ。
んーっと……」
気のいいおじさんという感じの、父ほどの年の彼は口を開いたものの、なにやら言いにくそうだ。
「あっ、お兄さん!
お兄さん、結婚したそうだね。
おめでとう」
「ありがとう、ございます」
なにかを思いついたかのようにぱっと顔を輝かせて支店長代理は言ってきたが、きっと本題はこれではない。
それでも一応はお礼を言う。
「最近、さ。
……なにか変わったこと、ない?」
そろりと彼が、気まずそうに上目遣いで私をうかがってくる。
支店長代理はいったい、なにが言いたいのだろう?
変わったこと?
ああ、あれか。
私と上司――安高課長との関係を言いたいのか。
「安高課長とはきっぱり別れました」
「ああ、そう……」
私の答えを聞いて支店長代理はあきらかにほっとした顔をした。
本店の、部長のお嬢さんと結婚の決まっている男が支店員と付き合っているとか大問題だもんね。
「ほかにさ。
ほかにこう、……なんか、ない?」
曖昧に笑い彼がさらに聞いてくる。
しかし私にはもう、心当たりがない。
「特になにもありませんが?」
強いて上げるとすれば用もないのに毎日のように来るお婆ちゃんちの猫が子供を産み、押しつけられそうになっていることくらいだが、これは絶対に支店長代理が求めるものではないだろう。
ちなみに猫は好きだし一匹くらい引き受けたいところだが、うちはペット不可のマンションなのだ。
残念。
「うん、そうか。
悪かったね、忙しいのに呼び出して」
一瞬、残念そうな顔をしたあと、彼は笑って取り繕ってきた。
「いえ。
もう戻っても?」
「うん、ごめんね」
「いえ。
では、失礼します」
部屋を出ると廊下の角からこちらをうかがっている年かさの女性行員がいた。
私が出てきたのに気づいて慌てて隠れたが、バレバレだ。
……暇人ですね、と。
彼女が私が安高課長と別れたのをいい気味だと言ってまわっているのは知っている。
しかしそんなのは相手にするだけ無駄なので、気にしないようにしていた。
その後も窓口業務をこなす。
ふと見知った人が視界を横切った気がしてそちらを見ると、猪狩さんがそこにいた。
目があって、彼がひらひらと手を振ってくる。
瞬間、カウンターの下に隠れたくなったが、お客様の相手をしている最中だったので、かろうじて耐えた。
おふたりお客様を経て、彼の順番がまわってくる。
というか、窓口は三つほど開いているのに、なぜ私のところにまわってくる?
「よっ、ひなちゃん」
「ちょっ、あんまり親しそうにしないでください!」
なるべく周囲に聞こえないように声を抑えてこそこそと話す。
すでに数人、こちらに聞き耳を立てているのが気配でわかった。
「職場にわざわざ、なんの用ですか」
まさか、働きぶりを見に来たとか言わないよね?
「ん?
ひなちゃんのいる銀行で口座開設するって言っただろ?」
彼がカウンターに置いたのはまさしく、口座開設の申込書だった。
「今どき、わざわざ来店しなくてもアプリから口座開設できるんですよ」
つい抗議していたが、仕方ない。
「それじゃひなちゃんに手続きしてもらえないから意味ないだろ」
へらっと締まらない顔で彼が嬉しそうに笑い、私の口からため息が落ちていった。
てきぱきと手続きを進めていく。
これは仕事、そう仕事なのよ、雛乃。
相手が猪狩さんってだけで。
なにかプライベートな話をされたらどうしようとどきどきしていたが、彼はひと言も持ち出さなかったので安心した。
「これでお手続きは完了ですが、なにか質問などございますか」
「いや、ない。
というかひなちゃんが立派な銀行員しててびっくりした」
はぁーっと猪狩さんは感心しているが、もう就職して四年も経つのだ。
立派な銀行員になっていないといろいろ問題がある。
「ごめんね、手間かけさせて。
でもこれから銀行関係はひなちゃんに相談すればいいから安心だ。
ありがとう」
眼鏡の奥で目尻を下げてにこっと笑われるとなんでも許してしまいそうになるほど、彼の笑顔には抜群の破壊力があった。
「いえ、仕事ですから。
このたびは口座開設、ありがとうございました」
それでも顔に力を入れ、平静を装う。
「ん、ほんとにありがとね。
……あ」
カウンターから離れかけた彼が、なにかを思いだしたかのように顔を寄せてきた。
「今日、非番なんだ。
あとでメッセージ入れとくから、見てね」
内緒話をするようにこっそりと話し、顔を離した彼が器用に私に向かって片目をつぶってみせる。
そのまま今度こそ、猪狩さんは帰っていった。
「だからー」
思わず愚痴が出そうになって、慌てて口を噤む。
変な噂を立てられたらどうしようとさりげなくあたりを見るとすでに隅でこそこそ話している二人組がいて、頭が痛んだ。
結婚、しよ?』
爆弾発言をしたあと、猪狩さんは私の返事など待たず飛行機の時間があるからと帰っていった。
「えっ?
は?
えっ?」
わけもわからず混乱したままその後を過ごし、気づいたときには住んでいるマンションに帰り着いていた。
それほどまでに私には想定外の出来事で、頭が理解を拒否していたのだ。
「あー、家、落ち着くー」
ソファーにいつも置いてある、猫のキャラクターの大きなぬいぐるみに抱きつく。
ちなみに六つの誕生日に猪狩さんが買ってくれたものだ。
「もう、猪狩さん、結婚しようとか冗談きついよね」
両親とも別れ、ようやくひとりになれて現実が戻ってくる。
うん、きっとあれは冗談だったんだよ。
じゃないといくら小さい頃を知っているとはいえ、私と結婚しようなどと彼が言ってくるはずがない。
「うんうん、きっとそうだ」
……と、私は片付けたんだけれど……。
それからしばらくは何事もなく過ごした。
いや、何事もなくは嘘だ。
職場ではなにやら、不穏な空気が漂いはじめている。
「愛川さん、ちょっと」
「はい?」
支店長代理に呼ばれ、他の人に窓口を代わってもらって席を立つ。
連れていかれたのは会議室で、彼とふたりきりだ。
「その、さ。
んーっと……」
気のいいおじさんという感じの、父ほどの年の彼は口を開いたものの、なにやら言いにくそうだ。
「あっ、お兄さん!
お兄さん、結婚したそうだね。
おめでとう」
「ありがとう、ございます」
なにかを思いついたかのようにぱっと顔を輝かせて支店長代理は言ってきたが、きっと本題はこれではない。
それでも一応はお礼を言う。
「最近、さ。
……なにか変わったこと、ない?」
そろりと彼が、気まずそうに上目遣いで私をうかがってくる。
支店長代理はいったい、なにが言いたいのだろう?
変わったこと?
ああ、あれか。
私と上司――安高課長との関係を言いたいのか。
「安高課長とはきっぱり別れました」
「ああ、そう……」
私の答えを聞いて支店長代理はあきらかにほっとした顔をした。
本店の、部長のお嬢さんと結婚の決まっている男が支店員と付き合っているとか大問題だもんね。
「ほかにさ。
ほかにこう、……なんか、ない?」
曖昧に笑い彼がさらに聞いてくる。
しかし私にはもう、心当たりがない。
「特になにもありませんが?」
強いて上げるとすれば用もないのに毎日のように来るお婆ちゃんちの猫が子供を産み、押しつけられそうになっていることくらいだが、これは絶対に支店長代理が求めるものではないだろう。
ちなみに猫は好きだし一匹くらい引き受けたいところだが、うちはペット不可のマンションなのだ。
残念。
「うん、そうか。
悪かったね、忙しいのに呼び出して」
一瞬、残念そうな顔をしたあと、彼は笑って取り繕ってきた。
「いえ。
もう戻っても?」
「うん、ごめんね」
「いえ。
では、失礼します」
部屋を出ると廊下の角からこちらをうかがっている年かさの女性行員がいた。
私が出てきたのに気づいて慌てて隠れたが、バレバレだ。
……暇人ですね、と。
彼女が私が安高課長と別れたのをいい気味だと言ってまわっているのは知っている。
しかしそんなのは相手にするだけ無駄なので、気にしないようにしていた。
その後も窓口業務をこなす。
ふと見知った人が視界を横切った気がしてそちらを見ると、猪狩さんがそこにいた。
目があって、彼がひらひらと手を振ってくる。
瞬間、カウンターの下に隠れたくなったが、お客様の相手をしている最中だったので、かろうじて耐えた。
おふたりお客様を経て、彼の順番がまわってくる。
というか、窓口は三つほど開いているのに、なぜ私のところにまわってくる?
「よっ、ひなちゃん」
「ちょっ、あんまり親しそうにしないでください!」
なるべく周囲に聞こえないように声を抑えてこそこそと話す。
すでに数人、こちらに聞き耳を立てているのが気配でわかった。
「職場にわざわざ、なんの用ですか」
まさか、働きぶりを見に来たとか言わないよね?
「ん?
ひなちゃんのいる銀行で口座開設するって言っただろ?」
彼がカウンターに置いたのはまさしく、口座開設の申込書だった。
「今どき、わざわざ来店しなくてもアプリから口座開設できるんですよ」
つい抗議していたが、仕方ない。
「それじゃひなちゃんに手続きしてもらえないから意味ないだろ」
へらっと締まらない顔で彼が嬉しそうに笑い、私の口からため息が落ちていった。
てきぱきと手続きを進めていく。
これは仕事、そう仕事なのよ、雛乃。
相手が猪狩さんってだけで。
なにかプライベートな話をされたらどうしようとどきどきしていたが、彼はひと言も持ち出さなかったので安心した。
「これでお手続きは完了ですが、なにか質問などございますか」
「いや、ない。
というかひなちゃんが立派な銀行員しててびっくりした」
はぁーっと猪狩さんは感心しているが、もう就職して四年も経つのだ。
立派な銀行員になっていないといろいろ問題がある。
「ごめんね、手間かけさせて。
でもこれから銀行関係はひなちゃんに相談すればいいから安心だ。
ありがとう」
眼鏡の奥で目尻を下げてにこっと笑われるとなんでも許してしまいそうになるほど、彼の笑顔には抜群の破壊力があった。
「いえ、仕事ですから。
このたびは口座開設、ありがとうございました」
それでも顔に力を入れ、平静を装う。
「ん、ほんとにありがとね。
……あ」
カウンターから離れかけた彼が、なにかを思いだしたかのように顔を寄せてきた。
「今日、非番なんだ。
あとでメッセージ入れとくから、見てね」
内緒話をするようにこっそりと話し、顔を離した彼が器用に私に向かって片目をつぶってみせる。
そのまま今度こそ、猪狩さんは帰っていった。
「だからー」
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