16 / 33
(十六)姉川の合戦(一)
しおりを挟む
六月二十七日の夜に、浅井・朝倉勢は大依山から南下を開始した。
そして翌朝の未明には姉川北岸の野村に浅井勢が、その西の三田村に朝倉勢が布陣を終えた。
姉川を挟んだ南岸側には織田勢が右翼、徳川勢が左翼に陣取っていた。
織田勢は姉川の流れに沿うように、先陣から右流れの雁行陣を形成している。
対する浅井・朝倉勢はそれぞれが独立した魚鱗の陣型を作り、左翼側の浅井が織田、右翼側の朝倉が徳川を正面に見据える形になった。
自然、寡勢の浅井が敵の主力である織田を相手にすることになる。
兵数の多い朝倉が敵の主力ではなく、援軍の徳川勢を相手取るのに不満を漏らす者もいなくはなかった。
しかし、浅井家の領内において、浅井方の横山城を後詰するための合戦である以上、やはり浅井が主敵を相手どらない訳にはいかなかった。
先陣を受け持つ員昌は、眼前で陣形を整える織田勢に厳しい視線を向けていた。
旗印などから、織田勢の先鋒は坂井政尚勢であると知れた。
かつて員昌が伊勢攻めの手伝いに赴いた際、足場の悪い場所からの陣場替えを政尚が認めてくれなかった苦い記憶が蘇る。
(因縁の相手という訳か。私怨で戦さをする訳ではないが、坂井殿には、儂の武者ぶりをとくと拝んでもわらねばな)
そんな思いを抱く員昌の背後から、やたら図体のでかい若武者がやってきた。
「それがし、藤堂与右衛門高虎と申しまする」
員昌の馬廻りに誰何された若武者は、気負った調子で名乗りをあげる。
大柄な体躯に似合わぬ、声変わりが済んだばかりの若さを感じさせる声だった。
「おお、九郎兵衛尉殿のわっぱが、随分とでかくなったものじゃ。本陣からの使者か」
員昌は、口上を聞こうとしたが、高虎と名乗った若武者は首を横に振った。
「それがし、先陣を務める磯野様の元で働くことをお許しいただきたく参った次第にござる」
「その方、殿の御守りにつかぬでよいのか」
合戦がはじまる間際のことであり、煩わしさがなくもない。
だが、犬上郡の土豪である藤堂九郎兵衛尉虎高の嫡子からの申し出となれば、そう無下にも出来ない。
「此度、それがしの初陣なれば、先手に加わりたく願い出たところ、殿よりお許しを頂戴しておりまする」
「気持ちはよう判るがの。儂は家臣に信長の本陣に斬り込むことのみを思い定め、敵は突き捨てにせよと命じておる。その方が兜首を得たとて、首実検に供することは出来ぬ。故に、儂と共に来たところで功名など挙げられぬ。それで構わぬのか」
「それならば、総大将の首級を頂戴するまでのこと。どうか同陣をお許しくだされ」
胸を張って敵の総大将を討つと公言する高虎に、員昌はにやりと笑った。
空虚な軽口は好みではないが、若者の大言壮語は嫌いではない。
「よう申した。ならば好きにせよ」
員昌の返事に、高虎が相好を崩した。
夜明けを待ちかねるように、朝倉勢の先手が徳川勢との交戦を開始した。
喚声に交じり、押し太鼓の響きが風に乗って流れてくる。
後の世に「姉川の合戦」として語り継がれる野戦の始まりだった。
織田方の先陣である坂井勢もまた、員昌からみて左手側へと張り出しながら渡河しようと動き出している。
大外から回り込み、浅井の本陣を伺う気配ともとれる動きに対しては、放置しておくわけにはいかない。
だが、敵の動きに引きずられる形で陣を移動させれば、織田の第二陣に側面を衝かれることになる。
というよりも、そうなるように坂井勢が磯野勢の鼻面を引っ張ろうとしているのは明らかだった。
(敵の動きに惑わされてはならぬ。なにはさておき、間合いを詰めねばならぬ)
いつものように、員昌は味方と敵の動きを頭の中で思い描き、己が適切と見極めた好機が訪れるのを待つ。
その「機」は、ほどなく訪れた。
員昌は大きく息を吸い込み、必勝の思いを込めて口を開く。
「行くぞ、まずは敵の先鋒の頭を押さえる! 押し出せぃ!」
「おう!」
員昌の大声は、命令の形となって素早く隷下の将兵に伝わる。
磯野勢の兵と騎馬が地響きを立てて動き出す。
「鉄砲組を前に出せ! 放てぇ!」
員昌の号令一下、歩調を速めた鉄砲組が最前列に進み出た。
鉄砲足軽共は足を止めて鉄砲を構えるや否や、無造作とも言える素早さで筒先を揃えて引き金を引く。
一度に揃った轟音が響き、黒煙が視界を妨げる。
迫りくる坂井勢の最前列に銃弾が撃ち込まれ、坂井勢の動きが一瞬止まる。
鉛玉が有効打となるには、彼我の距離はやや遠い間尺であった。
そこを磯野勢から間合いを詰めて撃つ形になったため、坂井勢は銃撃への備えの間を外された。
遠いだけに威力が落ち、よほど当たりどころが悪くない限り、致命傷とはならない。
実際、深手を負って倒れ伏したのは数えるほどだ。
しかし、坂井勢の気勢は微妙に削がれていた。
「かかれぇ!」
立ち上る白煙が風に吹き散らされるのも待たず、員昌が吼えた。
磯野勢一五〇〇は、その場で次弾を込め始めた鉄砲組の将兵のみを残し、前掛かりとなって一気に前進する速度をあげていく。
勝手知ったる地元の地であり、渡河に適さぬ深みを避けるのは造作もない。
たちまち浅瀬を選んで姉川を押し渡る。
坂井勢は、数度の射撃を交わしたのち、長柄鑓による叩き合いで押し切る算段であったと思われた。
そこに、数に劣る磯野勢が一斉射のみで自ら討って出たことで、読みを外される格好になった。
――攻め続けて敵を押し込むより、腰を据えて迎え撃つべきではないか?
敵将・坂井政尚が束の間、そんな逡巡にとらわれたために生じたであろう隙を、員昌は見逃さなかった。
坂井勢の長鎗組が槍衾を作って受け止める前に、磯野勢は敵陣に肉薄していた。
「敵手に構わず、駆け抜けよ! 首級は要らぬ!」
員昌の大喝に、磯野勢の将兵は野生の雄たけびで応じる。
向かって右手へと流れて布陣する坂井勢の進行方向に回り込む形で間合いを詰めた磯野勢は、坂井勢の備えの内側へと内側へと踏み込んでいく。
磯野勢が押し込む針路は、ちょうど雁行陣と一直線上に重なっている。
そのため、浅井勢の先鋒の横腹を衝く算段だったであろう第二陣以下も、左右どちらに回るべきか判断がつかず、とっさに身動きがとれない。
あたかも柔らかな肌に尖った剣山を押し付けられたように、磯野勢の鋭い浸透によって、坂井勢の陣はずたずたに切り裂かれていく。
磯野勢の将士は、敵との斬り合いや組み討ちにはまともに応じない。
ただ相手を蹴り飛ばし、肩から体当たりしてはねのけ、敵兵の間に生じた隙間に身体をねじ込むようにして前進を続ける。
脇を抜けられた坂井勢の兵は、振り返って敵の背に斬りつけようとするが、後から後から押し寄せる敵兵の波にのまれていく。
気が付けば無謀な侵入を図る敵ではなく、踏みとどまって戦おうとした自分が敵中に孤立していることに気づく。
そして、右往左往するうちに死角から伸びた手鑓に突き倒されることになる。
磯野勢の最前線の中央部で、馬上の員昌は自ら「無銘」の十文字槍で敵をはねのけて血路を開く。
その眼前に、二十歳そこそことおぼしき若武者がたちはだかった。真新しい甲冑が、朝日を浴びて艶やかに輝いている。
「これ以上は行かせぬ!」
そう叫ぶ声は、迫力よりも痛々しさを感じる。
緊張の為か、名乗りを挙げることも忘れている様子だった。
会ったことはないはずだが、どこかで見たような顔立ちだと員昌は思ったが、思い出している暇などない。
「死にたくば、かかって参れ!」
名乗らぬ相手には、敢えてこちらも名乗る必要はないし、わざわざ問う必要もない。
気合一声、まっしぐらに員昌は間合いを詰める。
こわばった表情の若武者が、手鑓を突き出してくる。
(遠いわ)
穂先の軌道を見切った員昌は上体をひねって軽く躱しざま、攻防の間を開けることなく、右手一本で十文字槍を若武者の喉元目掛けて繰り出す。
若武者もまた、すんでのところ員昌の突きを避けた。
が、員昌の得物は穂先の両脇にも刃が突き出した十文字槍である。右側の刃が若武者の兜を引っ掛けていた。
「うわっ」
若武者の悲鳴が上がる。
員昌の手に、刃が身体を切り裂いた感触は伝わらなかった。
大した衝撃でもなかったが、かわした筈の穂先が兜に触れたことに驚いたのか、若武者は体勢を崩して落馬する。
若武者の従者が慌てて駆け寄るのを尻目に、員昌は先を急ぐ。
首級を獲らぬように家臣に命じているのは他ならぬ員昌であるし、わざわざ突き捨てにしていく必要もないと思われたからだ。
落馬した状態で、後続の浅井勢から逃れられるかどうかは、当人次第だと員昌は思った。
(そうか。先の若武者は、坂井殿に似ておったのか)
前方で揺れる坂井勢の旗指物に目を向けた際、不意に若武者の面立ちが、伊勢の大河内城攻めで同陣した際の坂井政尚の強面に重なった。
親族、あるいは子なのかもしれない。
だが、名を問わなかった後悔が員昌の思考を占拠することはなく、意識の大半は敵兵の動きを素早く観察することに向けられていた。
どうやら坂井政尚は、磯野勢が試みている浸透突破を阻止すべく、左右両翼に広がっていた手勢を中央部に集め、間隙を埋めようとしているらしかった。
右往左往する坂井勢の向こう、本陣が敷かれていると思しきあたりたで馬印が揺れている。その下で、馬上の政尚が懸命に指図する姿も望見できた。
(坂井殿は、よう見ておられる。なれど、それは裏目というものじゃ)
員昌の口元の笑みが大きくなる。
「足を止めるな! ひたすらに押し出せぇ!」
員昌が発した胴間声が、喧噪に包まれた戦場にひときわ大きく響き渡る。
全面で攻勢に出ている磯野勢に対して、政尚は己の手勢を中央部に集めて受け止めようと動いていた。
そのため、自然と磯野勢の左右両翼が中央部より前に出て、三方向から坂井勢を包み込む形になった。
両脇から圧迫される格好となった坂井勢の本陣では、政尚の采配の結果、兵が中央部に密集しすぎてしまい、思うように得物を振り回せなくなる。
そこに、勢いを止めないままの磯野勢が、当たるを幸い、鎗の穂先を揃えて押しまくる。
左右にも前にも進めない坂井勢は、体勢を立て直せないまま、圧力に負けてずるずると後退するしかない。
そして坂井勢が後退する先には、織田の第二陣が控えていた。
もろくも崩れたった坂井勢が逃げ込んでくるため、第二陣にも動揺が走る。
(よし。今のところはうまくいっておる)
戦況を見極め、員昌は意を強くする。
しかし、信長の本陣までは、まだまだ遠い。
そして翌朝の未明には姉川北岸の野村に浅井勢が、その西の三田村に朝倉勢が布陣を終えた。
姉川を挟んだ南岸側には織田勢が右翼、徳川勢が左翼に陣取っていた。
織田勢は姉川の流れに沿うように、先陣から右流れの雁行陣を形成している。
対する浅井・朝倉勢はそれぞれが独立した魚鱗の陣型を作り、左翼側の浅井が織田、右翼側の朝倉が徳川を正面に見据える形になった。
自然、寡勢の浅井が敵の主力である織田を相手にすることになる。
兵数の多い朝倉が敵の主力ではなく、援軍の徳川勢を相手取るのに不満を漏らす者もいなくはなかった。
しかし、浅井家の領内において、浅井方の横山城を後詰するための合戦である以上、やはり浅井が主敵を相手どらない訳にはいかなかった。
先陣を受け持つ員昌は、眼前で陣形を整える織田勢に厳しい視線を向けていた。
旗印などから、織田勢の先鋒は坂井政尚勢であると知れた。
かつて員昌が伊勢攻めの手伝いに赴いた際、足場の悪い場所からの陣場替えを政尚が認めてくれなかった苦い記憶が蘇る。
(因縁の相手という訳か。私怨で戦さをする訳ではないが、坂井殿には、儂の武者ぶりをとくと拝んでもわらねばな)
そんな思いを抱く員昌の背後から、やたら図体のでかい若武者がやってきた。
「それがし、藤堂与右衛門高虎と申しまする」
員昌の馬廻りに誰何された若武者は、気負った調子で名乗りをあげる。
大柄な体躯に似合わぬ、声変わりが済んだばかりの若さを感じさせる声だった。
「おお、九郎兵衛尉殿のわっぱが、随分とでかくなったものじゃ。本陣からの使者か」
員昌は、口上を聞こうとしたが、高虎と名乗った若武者は首を横に振った。
「それがし、先陣を務める磯野様の元で働くことをお許しいただきたく参った次第にござる」
「その方、殿の御守りにつかぬでよいのか」
合戦がはじまる間際のことであり、煩わしさがなくもない。
だが、犬上郡の土豪である藤堂九郎兵衛尉虎高の嫡子からの申し出となれば、そう無下にも出来ない。
「此度、それがしの初陣なれば、先手に加わりたく願い出たところ、殿よりお許しを頂戴しておりまする」
「気持ちはよう判るがの。儂は家臣に信長の本陣に斬り込むことのみを思い定め、敵は突き捨てにせよと命じておる。その方が兜首を得たとて、首実検に供することは出来ぬ。故に、儂と共に来たところで功名など挙げられぬ。それで構わぬのか」
「それならば、総大将の首級を頂戴するまでのこと。どうか同陣をお許しくだされ」
胸を張って敵の総大将を討つと公言する高虎に、員昌はにやりと笑った。
空虚な軽口は好みではないが、若者の大言壮語は嫌いではない。
「よう申した。ならば好きにせよ」
員昌の返事に、高虎が相好を崩した。
夜明けを待ちかねるように、朝倉勢の先手が徳川勢との交戦を開始した。
喚声に交じり、押し太鼓の響きが風に乗って流れてくる。
後の世に「姉川の合戦」として語り継がれる野戦の始まりだった。
織田方の先陣である坂井勢もまた、員昌からみて左手側へと張り出しながら渡河しようと動き出している。
大外から回り込み、浅井の本陣を伺う気配ともとれる動きに対しては、放置しておくわけにはいかない。
だが、敵の動きに引きずられる形で陣を移動させれば、織田の第二陣に側面を衝かれることになる。
というよりも、そうなるように坂井勢が磯野勢の鼻面を引っ張ろうとしているのは明らかだった。
(敵の動きに惑わされてはならぬ。なにはさておき、間合いを詰めねばならぬ)
いつものように、員昌は味方と敵の動きを頭の中で思い描き、己が適切と見極めた好機が訪れるのを待つ。
その「機」は、ほどなく訪れた。
員昌は大きく息を吸い込み、必勝の思いを込めて口を開く。
「行くぞ、まずは敵の先鋒の頭を押さえる! 押し出せぃ!」
「おう!」
員昌の大声は、命令の形となって素早く隷下の将兵に伝わる。
磯野勢の兵と騎馬が地響きを立てて動き出す。
「鉄砲組を前に出せ! 放てぇ!」
員昌の号令一下、歩調を速めた鉄砲組が最前列に進み出た。
鉄砲足軽共は足を止めて鉄砲を構えるや否や、無造作とも言える素早さで筒先を揃えて引き金を引く。
一度に揃った轟音が響き、黒煙が視界を妨げる。
迫りくる坂井勢の最前列に銃弾が撃ち込まれ、坂井勢の動きが一瞬止まる。
鉛玉が有効打となるには、彼我の距離はやや遠い間尺であった。
そこを磯野勢から間合いを詰めて撃つ形になったため、坂井勢は銃撃への備えの間を外された。
遠いだけに威力が落ち、よほど当たりどころが悪くない限り、致命傷とはならない。
実際、深手を負って倒れ伏したのは数えるほどだ。
しかし、坂井勢の気勢は微妙に削がれていた。
「かかれぇ!」
立ち上る白煙が風に吹き散らされるのも待たず、員昌が吼えた。
磯野勢一五〇〇は、その場で次弾を込め始めた鉄砲組の将兵のみを残し、前掛かりとなって一気に前進する速度をあげていく。
勝手知ったる地元の地であり、渡河に適さぬ深みを避けるのは造作もない。
たちまち浅瀬を選んで姉川を押し渡る。
坂井勢は、数度の射撃を交わしたのち、長柄鑓による叩き合いで押し切る算段であったと思われた。
そこに、数に劣る磯野勢が一斉射のみで自ら討って出たことで、読みを外される格好になった。
――攻め続けて敵を押し込むより、腰を据えて迎え撃つべきではないか?
敵将・坂井政尚が束の間、そんな逡巡にとらわれたために生じたであろう隙を、員昌は見逃さなかった。
坂井勢の長鎗組が槍衾を作って受け止める前に、磯野勢は敵陣に肉薄していた。
「敵手に構わず、駆け抜けよ! 首級は要らぬ!」
員昌の大喝に、磯野勢の将兵は野生の雄たけびで応じる。
向かって右手へと流れて布陣する坂井勢の進行方向に回り込む形で間合いを詰めた磯野勢は、坂井勢の備えの内側へと内側へと踏み込んでいく。
磯野勢が押し込む針路は、ちょうど雁行陣と一直線上に重なっている。
そのため、浅井勢の先鋒の横腹を衝く算段だったであろう第二陣以下も、左右どちらに回るべきか判断がつかず、とっさに身動きがとれない。
あたかも柔らかな肌に尖った剣山を押し付けられたように、磯野勢の鋭い浸透によって、坂井勢の陣はずたずたに切り裂かれていく。
磯野勢の将士は、敵との斬り合いや組み討ちにはまともに応じない。
ただ相手を蹴り飛ばし、肩から体当たりしてはねのけ、敵兵の間に生じた隙間に身体をねじ込むようにして前進を続ける。
脇を抜けられた坂井勢の兵は、振り返って敵の背に斬りつけようとするが、後から後から押し寄せる敵兵の波にのまれていく。
気が付けば無謀な侵入を図る敵ではなく、踏みとどまって戦おうとした自分が敵中に孤立していることに気づく。
そして、右往左往するうちに死角から伸びた手鑓に突き倒されることになる。
磯野勢の最前線の中央部で、馬上の員昌は自ら「無銘」の十文字槍で敵をはねのけて血路を開く。
その眼前に、二十歳そこそことおぼしき若武者がたちはだかった。真新しい甲冑が、朝日を浴びて艶やかに輝いている。
「これ以上は行かせぬ!」
そう叫ぶ声は、迫力よりも痛々しさを感じる。
緊張の為か、名乗りを挙げることも忘れている様子だった。
会ったことはないはずだが、どこかで見たような顔立ちだと員昌は思ったが、思い出している暇などない。
「死にたくば、かかって参れ!」
名乗らぬ相手には、敢えてこちらも名乗る必要はないし、わざわざ問う必要もない。
気合一声、まっしぐらに員昌は間合いを詰める。
こわばった表情の若武者が、手鑓を突き出してくる。
(遠いわ)
穂先の軌道を見切った員昌は上体をひねって軽く躱しざま、攻防の間を開けることなく、右手一本で十文字槍を若武者の喉元目掛けて繰り出す。
若武者もまた、すんでのところ員昌の突きを避けた。
が、員昌の得物は穂先の両脇にも刃が突き出した十文字槍である。右側の刃が若武者の兜を引っ掛けていた。
「うわっ」
若武者の悲鳴が上がる。
員昌の手に、刃が身体を切り裂いた感触は伝わらなかった。
大した衝撃でもなかったが、かわした筈の穂先が兜に触れたことに驚いたのか、若武者は体勢を崩して落馬する。
若武者の従者が慌てて駆け寄るのを尻目に、員昌は先を急ぐ。
首級を獲らぬように家臣に命じているのは他ならぬ員昌であるし、わざわざ突き捨てにしていく必要もないと思われたからだ。
落馬した状態で、後続の浅井勢から逃れられるかどうかは、当人次第だと員昌は思った。
(そうか。先の若武者は、坂井殿に似ておったのか)
前方で揺れる坂井勢の旗指物に目を向けた際、不意に若武者の面立ちが、伊勢の大河内城攻めで同陣した際の坂井政尚の強面に重なった。
親族、あるいは子なのかもしれない。
だが、名を問わなかった後悔が員昌の思考を占拠することはなく、意識の大半は敵兵の動きを素早く観察することに向けられていた。
どうやら坂井政尚は、磯野勢が試みている浸透突破を阻止すべく、左右両翼に広がっていた手勢を中央部に集め、間隙を埋めようとしているらしかった。
右往左往する坂井勢の向こう、本陣が敷かれていると思しきあたりたで馬印が揺れている。その下で、馬上の政尚が懸命に指図する姿も望見できた。
(坂井殿は、よう見ておられる。なれど、それは裏目というものじゃ)
員昌の口元の笑みが大きくなる。
「足を止めるな! ひたすらに押し出せぇ!」
員昌が発した胴間声が、喧噪に包まれた戦場にひときわ大きく響き渡る。
全面で攻勢に出ている磯野勢に対して、政尚は己の手勢を中央部に集めて受け止めようと動いていた。
そのため、自然と磯野勢の左右両翼が中央部より前に出て、三方向から坂井勢を包み込む形になった。
両脇から圧迫される格好となった坂井勢の本陣では、政尚の采配の結果、兵が中央部に密集しすぎてしまい、思うように得物を振り回せなくなる。
そこに、勢いを止めないままの磯野勢が、当たるを幸い、鎗の穂先を揃えて押しまくる。
左右にも前にも進めない坂井勢は、体勢を立て直せないまま、圧力に負けてずるずると後退するしかない。
そして坂井勢が後退する先には、織田の第二陣が控えていた。
もろくも崩れたった坂井勢が逃げ込んでくるため、第二陣にも動揺が走る。
(よし。今のところはうまくいっておる)
戦況を見極め、員昌は意を強くする。
しかし、信長の本陣までは、まだまだ遠い。
0
あなたにおすすめの小説
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
改造空母機動艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。
そして、昭和一六年一二月。
日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。
「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。
札束艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
生まれついての勝負師。
あるいは、根っからのギャンブラー。
札田場敏太(さつたば・びんた)はそんな自身の本能に引きずられるようにして魑魅魍魎が跋扈する、世界のマーケットにその身を投じる。
時は流れ、世界はその混沌の度を増していく。
そのような中、敏太は将来の日米関係に危惧を抱くようになる。
亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。
戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。
マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。
マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。
高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。
科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
【完結】二つに一つ。 ~豊臣家最後の姫君
おーぷにんぐ☆あうと
歴史・時代
大阪夏の陣で生き延びた豊臣秀頼の遺児、天秀尼(奈阿姫)の半生を描きます。
彼女は何を想い、どう生きて、何を成したのか。
入寺からすぐに出家せずに在家で仏門に帰依したという設定で、その間、寺に駆け込んでくる人々との人間ドラマや奈阿姫の成長を描きたいと思っています。
ですので、その間は、ほぼフィクションになると思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
本作品は、カクヨムさまにも掲載しています。
※2023.9.21 編集しました。
幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。
克全
歴史・時代
西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。
幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。
北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。
清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。
色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。
一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。
印旛沼開拓は成功するのか?
蝦夷開拓は成功するのか?
オロシャとは戦争になるのか?
蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか?
それともオロシャになるのか?
西洋帆船は導入されるのか?
幕府は開国に踏み切れるのか?
アイヌとの関係はどうなるのか?
幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる