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1巻
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しおりを挟むプロローグ
「はあ、しんどい」
真っ先にため息なんて自分でもどうかと思うけど、許してほしい。だって、こんな時に思い出すとは、運が悪いとしか言いようがない。
これから私、どうしよう?
辺りを見回して誰にも見咎められていないことを確認し、うつむく。
私の願いはただ一つ。
早く国に帰ってオフトゥン――お布団じゃなくって、ベッドに潜り込みたい。
現在、ここヴェルデ宮殿の大広間には、華やかな令嬢たちが五十名程集められている。みな周辺諸国の王族か、ヴェルデ皇国の有力貴族の娘だ。
そして、貧乏国とはいえ一国の王女である私、クリスタ・レスタードにもお呼びがかかったため、この場にいる。
ヴェルデ皇国はフォルティヌス大陸一の大国で、領土は広く資源も豊か。教育水準が高く、資金も潤沢だから、喧嘩を売ろうなんて大それた国はない。
――その大国ヴェルデが、皇太子のお妃を選ぶのだ。
これはヴェルデの公式行事で、正確には『皇太子妃選定の儀』という。
国内の有力貴族や同盟を結んだ周辺諸国と、さらに密接な関係を築くことを目的に行われる。
――まったくはた迷惑な話……コホン、個人的な意見はこの際置いておくことにして。
要は皇太子が二十歳になった年に、この世界の女性の結婚適齢期である十六から十八歳の身分ある娘が宮殿に集められ、そこから皇太子妃を選ぶのだそうだ。
周辺諸国の姫が選ばれれば、その者の出身国は安寧が約束される。ダメでも最終候補に残れば側室にはなれるという噂なので、みんなが張り切っているようだ。
私? 私はどっちも遠慮したいし、今すぐ帰りたい……
「――見て、皇帝陛下と皇妃様よ。皇太子様もいらっしゃるわ」
「素敵ね。あ、今、皇太子様と目が合った!」
「貴女じゃないわよ。あの人がすごく場違いだから、皇太子様が驚かれたのでは?」
すぐ近くの令嬢が、私を見てひそひそと囁いた。なんだかとっても居たたまれない。
自分でも地味だと思う容姿とシンプルな黄色のドレスは、この場にそぐわないとわかっている。だけどこれでも、精一杯おめかしをしてきたつもりなのだ。
高級なドレスの中で悪目立ちしてしまったこのドレスは、母親のお下がりだった。そして金色や銀色のまばゆい髪の娘が多い中、私の髪は暗い茶色。
どうせ人数合わせでこの場にいるのだから、ぜひとも一抜けしたい。
後ろの扉を恨めしそうに盗み見ると、途端に衛兵と目が合う。彼は首を横に振った。
――ああ残念、途中退場はダメなのね?
仕方なく、視線を前に戻した。
広間の正面奥にはヴェルデ皇国の皇帝と皇妃が腰掛け、その傍らに本日の主役である皇太子がいる。
一番後ろのここからでは遠くてよくわからないけれど、ぼんやり見える皇太子はプラチナブロンドの髪で背が高い。聞こえてくる令嬢たちの噂話によると、彼は眉目秀麗、知勇兼備なんだとか。
――生まれながらに全てを持つ人っているのよね。顔良し、頭良し、家柄良し。こういう人をハイスペックって言うのかな? 私もそうなら、何社も面接失敗しなかったんだろうなあ……
そう、私は元日本人。そして、小国レスタードの王女として、この世界に生まれ変わっていることを、たった今、知ったのだった。
第一章 郷に入れば郷に従えないかも
私の名前はクリスタ・レスタード。極寒の地にある小国レスタードの第二王女である。
北国出身なので肌の色は白く、髪の色はこの辺では珍しい茶色。亡き母が南の国の生まれで、髪の色が濃かったためだ。瞳は鮮やかな緑色をしていて、それが私の唯一の自慢だったりする。
全体的に小柄だけれど、胸は人より大きい。眠るのが大好きなので、栄養が背中側に回れず胸に行ったのかもしれないわね。
うちは貧乏国なので、王族といっても一般市民に毛が生えた程度の暮らしぶり。ただお金がなくてもその分、国王である父と三つ上の姉に守られて育った。家族だけでなく、わが国のみんなが優しく、私は感謝している。だから贅沢は敵だし、しようとも思わない。
ただし、オフトゥン――お布団についてだけは別。
わが国レスタードの特産品は水鳥の羽毛を使った寝具で、その温かさは大陸随一を誇るのだ。
――これで寝ないわけにはいかないでしょう? 私はオフトゥンが大好きなの。
さて、遡ること約二ヶ月前、私は父親であるレスタード国王にこう告げられた。
「クリスタ。すまないが、皇太子のお妃候補としてヴェルデ皇国に向かってくれ」
「私がお妃候補? あの、お父様。冗談ですよね? 私みたいに地味な娘を、大国ヴェルデの皇太子様が相手にするわけがありません」
私は父が一緒に笑い飛ばしてくれるものと思っていた。けれど、返ってきた答えは真剣なものだ。
「ヴェルデ皇国より通達が来た。十六歳から十八歳の娘は全員参加するように、と。残念ながらわが国は逆らえない。いや、大陸中どこを探してもヴェルデに歯向かえる国はないだろう」
「そんな、横暴だわ! かの皇太子様ってそんなに問題がある方なのかしら。ご自分の相手も自分で見つけられない程……」
「さあ。絵姿でしか知らないが、容姿はかなり整っておいでのようだ。だが、決まったお相手はいないらしい。あの国は昔から『皇太子妃選定の儀』で妃を決めるしきたりだからな」
そう言って父は、詳しく説明してくれた。
でも、そんなの向こうの勝手だと思う。結婚相手くらい自前で調達してほしい。人見知りの私にどうしろというの?
それに弱小国であるうちには、余分なお金はない。
ただでさえ冬の間は雪に閉ざされて、農業も観光も一時ストップするのだ。わざわざヴェルデの皇都に行って、無駄なお金を使いたくないのに。
あの国は気候は良いものの、物価が高いと聞いている。私の往復と滞在費だけで、レスタードの国家予算をかなり消費してしまう。
「費用はなんとか工面する。皇太子妃や側室になれとも言わない。王女としての務めを果たし、無事に帰ってきておくれ」
「……わかりました。レスタードのためなのですね」
母亡き後、大切に育ててくれた父の頼みだ。使命感に駆られた私は、承諾の返事をした。
この話がもう少し早ければ、姉の役目だっただろうが、彼女はすでに結婚している。私では頼りにならないかもしれないけど、国のために頑張らなくては。
それからというもの、節約に頭を捻った。
――国の体面を保つ最小限のものだけ用意すればいいわよね?
私は、ドレスを新しく仕立てることはせず、侍女と一緒に母の形見を何着か手直しすることにした。地味な私だけど、裁縫は得意なのだ。
それから、付き添いも侍女と護衛兼御者だけにする。人数が少なければ小さな馬車で済むし、華美でないほうが道中襲われる危険も低いだろう。
そうして、ヴェルデ皇国に向けて出発する前日、姉が私に髪飾りを贈ってくれた。白鳥を象った、白い羽に黄色と緑色の宝石をあしらった繊細で優美な品だ。
「とても素晴らしいわね。でもお姉様、こんな高価なものいただけないわ」
そう言う私の手に、姉はその髪飾りをそっと握らせる。
「いいえ、せめてこれくらいはさせて。クリスタ、レスタードの誇りを忘れないようにね」
私は頷き覚悟を決めて、祖国を出発した。
大陸中央にあるヴェルデ皇国までの三週間の旅は、途中まで順調だった。
けれど、道中、小さな事件が起きている。
皇都へ続く街道を急いでいた私たちは、そこである男性を発見した――というより、危うく馬車で轢きそうになったのだ。
黒髪に粗末な身なりのその男性は、革袋を枕にして道に足を投げ出し、のんきに寝ていた。
今日はポカポカとした陽気なので、眠くなったのだろう。急ぎでなければ、私も休憩にして外でのんびりしたい。だから、気持ちはわかるのよ、気持ちは。
だけど街道で寝るのは良くなかった。
――寝るならやっぱりベッドでしょ。
ここは皇都に続く一本道で、今は周辺諸国の貴族たちの馬車がバンバン通る。うちみたいな貧乏国ならいざ知らず、上下関係が無茶苦茶厳しいに違いないこんな大国では、貴族の馬車に轢かれても、泣き寝入りするしかないわよ。
御者より先に馬車を下りた私は、男性に詰め寄った。
私は緊張するとどもるのだけど、興奮したり怒ったりした時はスラスラ話せる。
「危ないわ。こんな所で寝るって正気なの!」
黒髪の男性に近づき、そう叱り飛ばす。
すると、男性は顔を上げ、ゆっくり目を開けた。若くて……かなりの美形だ。瞳は淡く綺麗な青。アイスブルーという言葉が頭をよぎる。
「ああ、ごめん。あまりにも気持ちのいい天気だったから」
彼の答えは予想通りだ。所作は汚れた格好に反して品があり、話し方も優しい。それに目をこすっている手は滑らかで、爪も綺麗に整えられている。
手に怪我をしているようだけど、少なくとも物盗りや労働者には見えない。
「あな、貴方。な、何者なの?」
彼にじっと見つめられ、私は途端にどもってしまった。初対面の人と話す時は、いつもこうなる。
「何者って……見たままだけど。君こそ何者? 春の妖精さん」
「なっ!」
――なんてことを言うの。妖精さんに失礼よ!
それはともかく、ここから退いたほうがいいということを、上手く伝えなければ。
困っていると、侍女が慌てて馬車を降りてきた。
「お知り合いですか?」
そう聞かれたので、黙って首を横に振る。自分の国から一歩も出たことがない私に、国外の知人がいるはずがない。
「見知らぬ方とお話しするなんて。さあ、先を急ぎましょう」
彼女は焦って馬車に戻るよう促すが、私はもう一度首を横に振った。安全な場所に移動したほうがいいと、きちんとすすめておきたい。
私の様子を見た侍女が、代わりに青年に問いただす。
「貴方、一体ここで何をしているのです? 今は各国からヴェルデ皇国の都へ向かう人たちが使っているので、この街道は危ないですよ」
「あ、あの。こ、ここじゃなく、べ、別の場所、なら……」
「何、妖精さんが連れていってくれるの?」
青年が柔らかく笑う。冷たい色をした青い目に、急に光が灯ったように見えた。
うっかり見惚れてしまったが、すぐに我に返る。
皇太子のお妃選びは明日で、今日中に皇都に入らなければ間に合わないのだ。ただでさえ、宿泊費を切り詰めようとギリギリに出発したので、遅れている。見ず知らずの彼のために、寄り道をしている暇はない。
「ごめ、ごめんなさい。こ、皇都に行く、から」
すると彼はこう答えた。
「そう。じゃあ、皇都まででいいから乗せて」
「なんてことを!」
侍女が叫び声を上げる。
彼女が驚くのは、無理もなかった。未婚の上流階級女性の馬車に、見知らぬ男性が同乗するなどまずあり得ない。それは私の国だけでなく、大陸全体に共通するモラルだ。
その常識を知らないということは、この青年は見た目通り、平民なの? それとも私が旅装姿だから、商人の娘と間違えた? 残念ながら小国のレスタードは、王家の紋章入り馬車でも気づいてもらえないことが多い。
きっぱり断ろうと思って彼を見た私は、少し躊躇う。
なんだか疲れているようだ。このまま見捨てたら、引き続きこの場で寝てしまいかねない――そう、二度寝。二度寝の素晴らしさは、私が一番よく知っている。
「で、でしたら、ぎょ、御者……席、では?」
「姫様!」
侍女が私を「姫」と呼ぶ。けれど青年はまったく動じず興味もないらしい。
私が地味だから、ただの愛称とでも思ったのだろう。
「わかった。じゃあそれで。大丈夫、都に入ったらすぐに降りるから」
青年は立ち上がり、肩に革袋を担いだ。
背は高く、細身の割には意外にがっしりしている。彼は迷いのないしっかりした足取りで、停めてある馬車の御者席に向かった。
「ま、待って!」
私は自分でもびっくりする程大きな声を上げ、驚いて振り向く青年を手招きする。
彼の親指の付け根にある傷が気になった。放っておいて化膿でもしたら大変だ。
「水をお願い」
侍女に頼むと、彼女はレスタードの雪解け水が入った私の水筒を持ってきた。
私は彼の傷を飲み水で洗う。祖国自慢のこの水は、清涼で美味しく、傷を洗うのにも良い。
洗い終わり水筒を侍女に返そうとした時、目の前の青年が水筒ごと私の手を掴んだ。
「うきゃ!?」
「まっ」
驚く私と侍女をしり目に、彼は水筒を私の手から奪い、中の水をごくごく飲む。
――喉が渇いていたのね? それならそう言ってくれれば、別の水を用意させたのに……
手が……、初対面の男性の手が、触れてしまった。それにその水筒は私のもの。あまり意識したくないけれど、間接的にキスをしたことになるかもしれない。
「ふう。おかげで生き返ったよ」
黒髪の青年が、屈託なく笑う。
それは良かった。だけど私はちょっぴり複雑だ。
これからお妃候補として宮殿に上がるのに、すでに浮気をしたような気分になっている。とりあえず、私を責める侍女の視線は、無視することにした。
「そ、そう。それは良かったわ。あ、あとはこれでいい、はず」
持っていた手巾を包帯代わりに青年の手に結んだ。
「ありがとう、妖精さん」
――いや、だから違うって。妖精はもっと可憐でしょう?
青年は目を閉じ、手巾に自分の唇を押し当てた。どうやら、彼なりに感謝の意を示しているらしい。何をしても絵になるわ。
この場所を通らなければ、出会うはずのなかった人。都に着いたら、二度と話すことはない、大勢いる皇国の民の一人。
それなのに私はなぜ、彼の仕草の一つ一つに目を奪われてしまうのだろう。
私の視線に気づいた彼が、首を傾げる。
視線が合い、緊張が増した。これ以上関わるのは、よくない。
私は黒髪の青年に素っけなく頷くと、さっさと馬車に乗り込んだ。
そして青年とは約束通り、都で別れる。
彼は親切にも宿を紹介してくれて、全員皇都に来るのが初めての私たちは、安価で快適な宿がとれて非常に助かった。
招かれたとはいえ、選考の日までの滞在費用は、自分たちで賄わなければならない。青年を連れてきたのは意外に良い判断だった。得意げな表情になる私に、侍女が呆れてため息をつく。
王女にあるまじき行動だと思っているのかもしれない。けれど、青年はいい人で、何もなかったのだから、構わないでしょ。
とはいえ、彼の去り際の一言は気になった。
「じゃあ、また明日。妖精さん」
――明日って? まさか、馬車に同乗しようと考えているの? 明日私は、宮殿に行かなければならなくて、お昼寝の場所探しに付き合っている暇はないのだけれど。
いえ、きっと、「さよなら」の代わりに「また明日」と言うのが、皇都流の挨拶なのだろう。
私はそう考えることにしたのだった。
翌日。私は宮殿の大広間に案内された。周囲を見回すなり、息を呑む。
クリスタルのシャンデリアが眩く輝き、白地のカーテンには金糸の見事な刺繍が入っている。調度品も豪華で洗練され、床は大理石、壁には精巧な彫刻があり、あちこちに瑞々しい生花が飾られていた。
そんな室内に、華やかな装いの令嬢が大勢いて、笑いさざめいている。どの女性も美しく、自信がありそうだ。
彼女たちはみんな、ヴェルデの皇太子のお妃候補だった。
――こんなにたくさんいるのなら、私一人くらい、来なくても良かったのでは?
壁際には、選考担当らしき青い制服の文官が何人も待機している。
「なんだか面接に来たみたい」
そう呟いた瞬間、私の頭の中に、とある記憶が一気によみがえった。
「――嘘でしょう? よりによってこんな所で思い出すなんて、運が悪いわ」
愕然と目を見開く。
そう私はこの時、この世界に生まれる前のこと――前世を思い出したのだった。
*****
前世の私は、就職活動中の大学生だった。面接がかなり苦手で連敗記録を更新していたのだ。
あがり性で、人前に出ると慌ててしまうため、面接では必ず何か失敗をする。
どもるのはまだ可愛いほうで、カバンを上下逆さに持って中身をぶちまける、なんてこともしょっちゅうだった。面接中にコンタクトを落としたり、違う企業への志望動機を話してしまったり。情けない程、ダメ。
世間では人手不足と言われているのに、就職先が決まらずに焦っていたのだ。
――誰にも必要とされないのは、私に原因があるからなの?
考えてみれば、離婚した両親は私を押しつけ合っていた。
普通こういう場合って、親権を争うんじゃないの?
けれど、親にもそれぞれ事情があるだろうから、逆らえなかった。うちは両親二人ともきつい性格だったので、私はあまり自己主張が得意ではない。
そんなわけで大学への進学を機に、一人暮らしを始めていたけれど、人と関わるのが苦手な私は、家にいることが多かった。毎朝、オフトゥンからギリギリまで出ない。
そして私はその日、今度こそ落ち着いて面接官の目を見て話をしようと決めていたのだ。
話すことをまとめ、受け答えも繰り返し練習したから大丈夫。時間に余裕を持って家を出て、道を間違えないようにスマートフォンで確認しながら歩く。建設現場の前を通るまでは、全てが順調に思えた。
けれど――
「危ない!」という叫び声を聞いたのと、上を見たのは同時だった。
巨大なクレーンが倒れてきて、その後、世界は暗転する。
歩きスマホはやっぱり良くない。そう考えたのが、最期の記憶。
面接には悔いが残っている。結局、あがり性を克服できなかったし、どの企業からも内定をもらえなかった。結果待ちもいくつかあったけど、たぶんダメだったと思う。
こんな自分がお妃候補として面接――いや、選考を受けているなんて、一体なんの冗談なの!?
*****
さて、そんなふうに以前の記憶を思い出した今、一つだけ納得できたことがある。
私のオフトゥン好きとあがり性は前世の影響だ。レスタートで十八年愛情を受けて過ごしたにもかかわらず、好みや性格は変わらなかったみたい。オフトゥンは偉大だ。
私の故郷レスタードでは、水鳥の羽を使った寝具が特産品。換羽期に落ちる羽を拾い集め、綺麗に洗って加工する。私はお小遣いをはたいて、オフトゥン一式――敷布と上掛けを揃えたばかりだった。
ああ、早く戻って羽毛の上掛けにくるまりたい。そうしたら、転生という衝撃的な出来事やこの胃の痛い状況を忘れられるかもしれないのに……
そんな考えごとをしているうちに、『皇太子妃選定の儀』が始まっていた。
選ぶといっても、これだけたくさんいるので、いきなり一人に絞るということはない。
私には関係ないと下を向いていると、青い制服の文官が近づいてきて、出身国と名前を尋ねられる。
「レ、レレスタード国からま、参りました。ク……リスタです」
必死にそれだけ口にする。他の令嬢たちは、自己アピールまでバッチリこなしているみたいだが、私にはとてもじゃないけど無理だ。
「レレスタード国のクーリスタ姫、と」
目の前の文官が、そう言いながら手元の紙に何かを書きつける。
――いえ、そうじゃない……でも、今のは明らかに私の喋り方のせいだ。
人数が多くてすごく忙しそうだから、わざわざ引き留めて訂正するのは申し訳なかった。
一礼した文官がすぐ次に移ったので、私はホッと胸を撫で下ろす。
良かった。志望動機とか皇太子妃として何を為したいかと問われなくて。
まったく答えられないし、考えてもいない。
名前も知られていない小さな国の王女だから大丈夫だとは思うけど、万が一にも誰かの興味をひいてしまうということもある。なるべくおとなしくしていよう。
それにしても、集められた令嬢の人数は多い。まだ時間がかかりそうなので、私は考えごとを再開する。
昨日会った黒髪の青年が教えてくれた宿は、快適だった。備えつけのベッドはわが国の寝具には劣るものの、よく眠れたと思う。宿の人も親切で、朝食の焼きたてパンは美味しかった。皇都のど真ん中にある割には、びっくりする程安かったし。
だから宿を出る時、心を込めて「また明日」と挨拶したのだ。それなのに、宿の主人に「もう一泊ですか?」と聞かれた。
――おかしい、皇都では「さよなら」のことをそう言うのではないの?
昨日の青年の言葉が「明日会いたい」という意味なら、今頃、彼はあの宿を訪ねているはずだ。私がもういないと知って、彼は何を思うのだろう?
考えたくはないけれど、宮殿の関係者だという可能性もある。面接と同じように会社――じゃなかった、皇国に入った時点で選考が始まっていて、彼は事前調査していたとか?
まさか、手が触れたり御者席に男性を乗せたりしただけで、身持ちが悪いと評されることはないわよね……
か、間接キスはノーカウントで。向こうが勝手に水筒に口をつけたんだし、そもそも私のものだとバレていないはずだ。
そこまで考えて、ここにいる文官の顔を全員、確認してみた。
整った顔の男性は大勢いるものの、黒髪もアイスブルーの瞳もどこにもいない。
やはり彼は街の人のようだ。気にするほうがどうかしている。
何事もなくお妃選びをやり過ごすことを考えよう。レスタードの誇りを保ったまま、無事に帰れればそれでいい。
私は故郷に置いてきたオフトゥンを思い出し、ため息をついた。
「――はあ」
ドレスをキュッと摘む。
シンプルな黄色のドレスは薄緑の腰紐がついていて、前世にあった『菜の花』に似ている。そんな花の名前を思い出せたことは、嬉しい。少なくとも嫌な思い出ばかりではなかったようだ。
少し落ち着きをとり戻した私の耳に、周囲の令嬢たちの声が入ってきた。
「ねえ、ご存じ? この中から十人しか選ばれないんですって」
「あら、こんなにたくさんいるのに?」
「ええ。国内だけで十分なのに、一応、諸外国の顔を立てなければならないそうよ。でも、選ばれるのはわが国の方ですって」
「そうなの。皇太子様も国内の貴族から選ぶほうが安心よね」
この中に誰一人知り合いのいない私は、話には加われず、ただ聞くだけ。
そして、彼女たちの話が本当なら、案じることはなさそうだ。
面倒ごとに巻き込まれなくて良かった。皇太子のお妃なんて、これっぽっちも望んでいない。
応援ありがとうございます!
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