もう一度を聴きながら

ゆく

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8. 別れ

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 樫谷と二人でリビングに入ると、既に先んじていた綾子はソファーに座ってくつろいでいた。伸ばした脚を見れば、ストッキングはなく素足。ベージュ色のストッキングがソファーの端で丸まっている。


「……綾瀬。俺、着替えるついでにシャワー浴びてくるわ」
「え、あ、うん。ありがとう。あ、じゃあついでにトイレットペーパー置いてきてよ」
「おう」


 仕事で外回りが多い樫谷は帰宅すると、帰宅後すぐに風呂に入るのが習慣らしい。特に汗をかきやすい今の季節はなおさらだ。普段は悠介が定時で仕事を終えてから風呂の湯張りをしているけれど、出勤だった今日は当然浴槽の中が空だった。

 帰りに買った食材を冷蔵庫へとしまっていく。

 単身者には大きめの冷蔵庫は、同棲を見越した家電探しの際に量販店の店員から勧められたものだった。扉の部分が鏡面になっていることがお気に入りだけど、綾子には不評だ。大きめの容量も、背の低い綾子は気に入らないようで、毎回使うたびに「もう少し小さい方が良かった」と言われていた。でも、小さい綾子が一生懸命背伸びをして一番上のものを取ろうとする姿は可愛くて。


(……後ろから取ってあげるといつも大袈裟に喜んでくれて、嬉しかったんだけどな……)


 それが自己満足だったということは、あの夜にわかった。
 綾子は自分に小さな不満をたくさん抱えていたんだろう。外で会えないこと、合鍵を渡さないこと、趣味に合わない家電。ほんの少し考えただけでいくつも不満の原因が考えられた。きっと、もっと、自分が気づいていないだけの不満があるはず。


 横目で悠介が様子を見れば、テーブル下に置きっぱなしにしていたリムーバーでマニキュアを落としている最中だった。視界に入るテーブルに置かれたバッグは、あの夜に目撃したものと同じものだ。

 ゴミ箱がすぐ傍にあるのに、テーブルの上には汚れたコットンが無造作に置かれている。そういえばコットンも置いてたな……と、テーブル下は確認していなかったことを思い出した。


「何かぁ、悠んち来るの久しぶりな気がするんだけど」
「そうだね」
「ねぇ。悠、最近忙しいの?」
「……何で?」


 すぐに言葉が出て来なかった。食材をしまう手が自然とゆっくりになる。


「だって、あまり来て欲しくなさそう、じゃない?」
「そんなこと、ないけど」
「えー、そうかなぁ?」
「そうだよ……」


 ――来たくないのは、そっちの方じゃないのか?
 という問いが口からついて出そうで、慌てて呑み込んだ。


「綾子こそ、今日は無理って連絡しておいたのに、どうして来たんだ」
「……だからぁ、それは悠がデートとか書くからでしょ」
「冗談だって、わからないのか?」
「冗談だってことくらいわかってるわよ。悠は、浮気はできないもんね。私が言いたいのは、会えないなら会えないで、フォローしてほしいってことなんだけど」


 思ったよりも尖った綾子の声に、悠介ははっとして手を止めた。振り返ると、綾子が刺すような視線を自分に向けている。その強い視線もだけれど、綾子の言った〝悠は浮気はできない〟という言葉が妙に引っかかった。

 もちろん自分は浮気なんてできない。同時に別の人と付き合うなんて甲斐性はないし、むしろそんな甲斐性ならいらないとでも思っている。

 でも、悠にはできないけれど綾子にはできる、とでも言うのだろうか。綾子のたった一言に対して深読みをしてしまう自分に、悠介は嘆息する。


「私はもっと悠に会いたいのに、悠は私に会いたくないの?」
「……俺だって、会いたかったよ」
「じゃあ何で、会ってくれなかったの? 在宅勤務なんだし、いつも家にいるんだから、今までだって会えたじゃない」
「だから、それは、仕事が忙しいって……」


 言葉が尻切れトンボだ。痛くない腹を無理やり探られているようで、自分でもしどろもどろになっているのがわかる。

 でも、本当に腹は痛くないんだろうか。
 あの半月前の夜、自分の知らない男と連れ立っている綾子を見てから、会いたいか、会いたくないかと聞かれたら――会いたくなかった、のは事実だ。

 会えば、どうしてもあの夜の綾子を思い出すし、思い出せば、責めてしまうから。だから、本当なら今夜じゃなくて、こんなに突然じゃなくて、もっと時間を置いてから会いたかった。卓上のバッグが視界でちらつくたびに、嫌悪感が湧き上がる。


「……連絡できなくて、ごめん」


 詰問口調の綾子に何と返せば彼女の怒りが鎮まるのかを逡巡する。

 どうせ話すのなら、落ち着いて話したい。悠介は綾子を問い詰めたくはないのに、綾子は悠介をどんどんと責め立ててきて、心がどんどん冷えていくのを感じた。


「在宅なんだし、連絡の一つくらい寄越せるでしょ」
「うん、そうだね、ごめん……」
「いつもそうやってすぐごめんって言うけど、私が何に怒ってるのか、本当にわかってる?」
「……わかってる。今度からは、ちゃんと連絡するから」


 そう言うと、綾子は満足げに鼻を鳴らした。立ち尽くす悠介に「今日のごはんなーに?」とすっかり機嫌を良くして話しかけてくる。

 可愛い。ついさっきまで怒っていたかと思えば、次の瞬間には笑っている。

 そういう子供みたいに自分の感情に素直なところが可愛かったんだ、と悠介はどこか俯瞰してそう思った。


 ……「今度から」?

 綾子は、これからも自分と交際していくつもりなのだろうか、と自分で言った言葉に、愕然とした。


(あの男は、誰だ?)
(あの夜、スーツの腕に絡みついて、一緒にラブホテルに入っていったあの男ときみはどういう関係なんだ?)


 そう聞きたいのに、ただ綾子の顔色を伺うことしかできない自分が滑稽で、悔しい。ただ、その悔しさは、綾子の心がもう自分のもとにないだろうこと、じゃない。恋人の顔色を伺うしかできない滑稽な自分に悔しいんだ。


「だから言っただろ」 


 短い沈黙を破ったのは、低い声だった。いつの間にか、風呂上がりの樫谷が部屋着に着替えて、リビングの入口にたたずんでいた。この短時間で、しっかり髪まで洗ったようで、きちんとセットされていた髪はしっとりとしている。

「だから言っただろ、別れろって」
「……そういえば、さっきから誰なの、あなた」
「俺が誰なのかなんて、どうでもいいだろ、どうせあんたは今日で綾瀬と別れるんだから」
「……どういうことよ。悠、ねぇ、この人誰なの? 何でこんな人に別れろなんて言われないといけないの?」


 ダイニングチェアの背もたれを腹に抱えるようにして座った樫谷は、気だるそうに頬杖をついて綾子を見据えた。


「心当たりはないのか?」
「え?」
「綾瀬がお前と会おうとしなかった理由に、心当たりはないのか?」
「ないわよ!」


 綾子は力強く言い切る。


「その人は俺の同期だよ」
「え、じゃあ悠と同じ会社なの? 悠、そんな家に呼ぶほど仲のいい人なんて、」
「部署は違うけどね。半月前から仲良くしてるんだ」
「半月前から?」
「うん。そう。半月前から。……正確には、きみが、ホテルに男の人と連れ立って入っていった日から、かな」


 ひゅっ……と、綾子が黙る。


「……何のこと?」
「ホテル・イルソーレ」


 綾子の問いに答えたのは、樫谷だった。


「明和通りから一本入ったところにあるホテルなんだけど、あんた、知ってるよな?」
「…………知らない」
「知らない? そんなわけないだろ、知ってるはずだ」
「うるさい。そんなとこ、知らないったら知らないの!」
「そんなとこ、って、どういうホテルか知ってるみたいな言い方だな」
「…………っ」


 樫谷の言葉に、綾子が顔を真っ赤にする。


「二時間で六千円、だっけか。随分とコスパのいいところで休憩したみたいだけど」
「…………知らない」
「知らないわけないだろ。あんた、綾瀬に〝今日は残業です〟ってLINE寄越す日は、大抵そこで過ごしてるじゃないか」
「―――!!」
「……え?」


 その言葉に戸惑ったのは悠介だけで、言われた綾子は真っ赤だった顔を今度は青くして、肩を小さく震わせていた。


「樫谷。……何でお前がそんなこと、知ってんの?」
「ごめん、綾瀬。俺の従兄さ、あのホテルの近くで働いてんの」


 あの夜、悠介の部屋へ二人で帰った後、樫谷は三十分ほど外出していた。下着をコンビニまで買いに行ってくると言って。コンビニに行くだけなのに時間がかかってるとは思っていたけれど、目的はそうじゃなかったようだ。


「休憩時間が終わりそうな頃を見計らって、タクシーでホテル前まで戻ったんだよ。宿泊されてたらやばかったけどな。さすがにあんたの職業だったら、翌日も同じ服着て出勤ってのは、ありえないだろ?」
「し、証拠、は、」
「証拠ならあるぞ」


 ダイニングチェアから下りた樫谷は、早足で寝室から通勤用の鞄を持って戻ってくると、中から大きめの茶封筒を取り出して見せた。それを何も言わずに悠介に手渡す。ずしりと重い。

 これはパンドラの箱だ。この中には悠介にとっての絶望が詰まっている。開けたくない。見たくない。

 でもこれは、樫谷が、悠介のために用意してくれたものだ。


 恐る恐る手を差し入れると、中身はやはり想像したとおりの絶望だった。ホテルに出入りする、綾子と、自分ではない男性を写した、いくつもの写真。

 あの夜、悠介が見た服装の写真もあれば、そうじゃないものもあった。


「そ、そんなの、加工すればいくらだって――」
「そう言われると思って、写ルンですで撮ってる。あれ、初めて使ったけど、日付も入るんだぞ、便利だな」


 現像は写真屋じゃないとできないのは不便だったけどな、と続けた。


「写真屋なんてどこがいいかわからなかったからさ、従兄に紹介してもらったお店で特別にやってもらったんだ。――写真館ってとこ。普段は出張撮影とかやってるお店らしいんだけど。……卒アルとかの」


 ひぃっと、綾子が小さく悲鳴を上げた。


「あんたが受け持ってるの、三年生、なんだよな?」


 悠介はもう、言葉一つ出なかった。大学一年からの、綾子との交際が終わった瞬間だった。





――
大通りとホテルの名前は適当に付けました😂あとホテルの休憩時間の相場がわからなかったのでググって調べました😂
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