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婚約破棄
しおりを挟む「婚約破棄した、だと?」
公爵は執務机に座ったまま、掛けられた声に反応して顔を上げた。多忙を極める彼が、声を掛けられた程度で執務の手を止めるなど、よほどのことだ。
だが今、そのよほどのことが告げられたのだ。それも実の息子によって。
「はい。ヒルデガルトのごとき性根の浅ましい女など、この私にも公爵家にも相応しくありません。よって先ほど呼びつけて私の一存で婚約を破棄し、そのまま我が邸から追放しました」
胸を張って堂々と、あり得ないことを述べたてるのは、公爵家の次男坊だ。
「そうか」
だが公爵は、ただそれだけ返答すると再び執務机の書類に目を落とした。そしてサラサラとペンでサインを書き付け、傍に控える家令に無言で手渡す。家令はそれを無言のまま受け取り、チラリと一瞥すると執事のひとりに手渡し、何事か指示を与えて執務室から退出させた。
狼狽えたのは次男坊である。
「ち、父上?」
「なんだ?」
返事をした公爵は今度は手を止めない。顔さえ上げなかった。
「それだけ、ですか?」
「そうだが、まだ何かあるのか?」
次男の婚約はこの父が取りまとめてきたものだ。それを息子の自分が破棄してきたのだから、お叱りのひとつもあるだろうと覚悟していたのに。
なのに父は「そうか」の一言で片付けてしまった。
もしかして、我が子がそう決めたのならばと無条件に赦してくれたのだろうか。
いや待て、落ち着け。まだ言うことがあるだろう。
次男坊はそう自分を奮い立たせると、顔を上げて父に宣言した。
「つきましては、新たに婚約を結びたいと存じます。公爵家へ連れてきてもよろしいでしょうか」
そう。次男坊は新たに恋をして、結婚したいと思える娘ができたのだ。それは婚約者であったヒルデガルトのふたつ下の妹でウルドという名の、愛らしい娘だ。
ヒルデガルトは侯爵家の長女として厳しく躾けられてきたせいか、知性や教養、作法は完璧に近かったが愛想はなかった。笑顔さえほとんど見せず、自分に対しても家同士で決められた婚約者としてしか接して来なかった。
だがウルドは違う。確かに教養も作法も姉には劣るだろう。だがそれを補って余りある容姿の華やかさと愛嬌がある。作法などは後から学んで身につけられるが、容姿や愛嬌は持って生まれたもので、それらは何物にも代えがたい。
「誰と婚約するつもりだ?」
「はい、ヒルデガルトの妹のウルドです。彼女ならば家同士の繋がりも壊しませんし、公爵家に嫁ぐに相応しいかと存じます」
「ヒルデガルト嬢の妹、だと?」
公爵の手がまたしても止まった。
傍に控えた家令が息を呑む。ひとつの用件で公爵が二度も手を止め顔を上げるなど、この家令が父の先代家令から職務を継いでから初めて目にすることだ。
「はい。ヒルデガルトのふたつ下で、公爵家の嫁とするに相応しい愛嬌の持ち主です。私は彼女との真実の愛に目覚めたのです!」
自信満々に胸を張って宣言する次男坊は、父の動きの異変にも、家令の驚きにも気付くことはない。
「……………そうか、分かった」
そして、しばらくの沈黙のあと、公爵は再び一言で片付けた。
「え、」
「ああ、連れてくる必要はない。婚約も、そして婚姻もお前の好きなようにしろ」
「い、いいのですか!?」
「無論だとも。お前が認めたのだろう?」
「はい!ありがとうございます!」
ウルドとの婚約を認められたと思って次男坊は喜色をあらわにし、何度も礼を言いながら執務室を後にして行った。
「マクシム」
「は」
「あれにくれてやる離れを準備しろ。それと侯爵家へ先触れを。お前が直接出向き、向こうの言い値で示談をまとめて来い」
「畏まりました」
公爵は執務を再開しつつ、家令に手短に指示を出す。
すでに部屋を退去していた次男坊は、最後まで何も気付かなかった。
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