愛縁奇祈

深雪の空

20

「お久しぶりです。梔さん」

　ニコッと笑いかけると、梔さんは少し困ったように頷く。

「なんだか、作り笑いみたいで怖いな」

「おや、そうですか。なら、普通にしよう」

「ええ、よろしくお願いします」

　ふわりと梔さんは柔らかく笑った。
　それはもう女性そのものな感じだけど。

――女性ではないんだよな。

　話している雰囲気、仕草、全部女性らしい。
　男性なのだけれど。

　きっと、本人に言ったら、ひどく怒るだろうから言わない。

「最近、どうです？　何か変わったこととか」

「そうね。文人さんが、何か大変そうで。心配です」

「神呪さんが？」

「ええ。なんでも、曲を作るだとかなんとかって」

「ほう。またバンドするんだ」

「そうみたい。一度聞いたことがあるけど、すごく素敵で惚れ直しちゃった」

　嬉しそうに梔さんは言う。

「あの人が初めて作った曲が、どうしても自分に向けたもののような気がしてね。へへ、勝手よね」

「……どうだろう。あの人のことだ、やりかねないよ」

「うん。ねえ、先生」

「？　何？」

　梔さんから言われるのは珍しい。
　どうしたのだろう。

　不思議に思って、聞いてみると。
　彼は「あの」と言う。

「私、人格統一とかした方が良いかしら」

「どうしたの？　急に」

「ずっと考えていたの。文人さんならきっと私の好きなように、て言うけど。私も文人さんの好きなように、て思うんだけどね」

　梔さんはぽつりぽつりと言う。

「いい加減にした方が良いような気がするの」

「え？」

「こうなったのって、現実逃避してきたからでしょ？　もう、良い年してるしさ。きっと、どんな私も文人さんは愛してくれると思うの」

「……まあ、神呪さんは梔さんのこと大好きだしね」

　本当に大好きで、大切な人なのだろう。
　よく梔さんのことで相談をしてくる。

――もしかして、何か病気になってしまったのではないか――

――あいつが一人にならないようにするのに、どうすれば良いか――

　なんて。
　そんな心配しなくても良いことでも、心配して。

「きっと、誰よりもあなたの幸せを願っているだろうね。彼は」

「うん。だから、先生」

　梔さんは決心したように言う。

「私、現実と向き合おうと思うの。他のみんなには言ったから大丈夫」

「……うん。わかった。そのために、全力を尽くすね」

　けど、と俺は梔さんに言う。

「神呪さんには、ちゃんと話すんだよ」

「うん。そのつもりです」

「うん」

　なら、良い。

　これで俺に言ってもらおうなんて考えていたら、羽交い締めをしていたところである。
　まあ、羽交い締めは嘘だけど。

「じゃあ、また来週来てもらっても良いかな」

「はい、わかりました」

「ん、では」

　と、俺が笑うと、梔さんは会釈して立ち上がる。

「ありがとうございます。先生に会えて良かった」

「そう。俺もだよ」

「うん。文人さん以外で初めて、信頼できる人に出会えたから。私、とても恵まれているわ」

「……っ」

　患者にそう言われるなんて。
　あまり信じられないな。

　嬉しくて、涙が出そうだよ。

「ありがと。あなたはとても優しい人だ」

「そうかしら」

　梔さんは笑って病室から出た。

――本当に、優しい人だよ。

　だから、信じられないんだ。
　いったい何があったのだろう。

　誰に対しても優しくて、公平な人だ。
　そんな人が、ここまで苦しむなんて。

　彼ではなく、もっと苦しむべき人はいると思うんだ。

　こんなこと、思っても言ってはいけないけど。
　たまに、言いたくなる。

――彼が何かしたとでも言うのだろうか。

　だって、彼は百鬼出版で数少ない犯罪を犯していない人の一人だ。
　俺もお世話になっている百鬼出版社は俺を含めて五人は犯罪者だ。
　社長は俺のことは正当防衛だ、と言うけど。
　人を殺してしまったことには変わりない。
　たしかに、あれは事故のようなものだった。
　でも、俺には殺意はあった。ほんの少しでもそこに殺意があったら、それは立派な殺人だろう。

「はあ」

　と、俺はため息を吐いて、ぼんやりと彼のことを考えることにした。