異世界で出会った王子様は狼（物理）でした。

68．咆哮

「退避してください！」

　警備兵の声は悲鳴と金切り声を上げながら逃げ惑う人々にいくらも届かなかった。闘技場は阿鼻叫喚となり、動こうともしないシュバイツアー達が異常であった。いや魔術師を前に置いた各国の王もまたいまだ事態を見届けるべく動かなかった。

　天地鳴動の咆哮が人々の鼓膜を焼かんばかりに響く。
　闘技場を含む遙かな大地が揺れる。魔封石の檻は砂糖菓子のように崩落した。

　ざわざわと綺麗な金色の髪が逆立ち、手が形を変え鋭い爪が伸びていく。クレイグの人の姿が見る影も無く剥がれ落ちていく。

　強風が吹き荒れ、水という水は蒸発し、砂埃が立ちこめる。火竜は自ら魔術師の陣へと逃げた。
　満月だけが静謐と夜の闇に座していた。

　けたたましくも胸に迫る虚無の咆吼が止んだ。
　やがて視界が晴れ、巨大な狼がその全貌を露わにした。

　月光を反射し光る不朽の毛並みには塵一つ無く、琥珀の瞳は至高の輝きを持って、誰もが嘆美を強いられた。

　デビーは舞台を囲むように私兵団を配置させていた。鈍く光る甲冑達は主の命に答え、次々と毒矢や魔術のかかった銃火器を狼に向けて放った。
　爆煙が上がる。だが雷鳴のような音が轟くとともに雲散し、金の瞳が瑕疵一つ見当たらない体と供に姿を現した。
　顔には怒りもなく、ただ呆れのようなものがあった。四足の獣はまさに神の視座から愚民を見据えていた。

「かくも卑しき人の分際で俺の体に触れるとは」

　脳髄を揺らすような声だった。
　誰かが恐怖に喉を鳴らし至近距離にいた兵士数十人が一斉に後ずさった。国中から精鋭を集め訓練された花国屈指の騎士団が、だ。

　狼は彼らを遙か高みから睥睨し、呆れるように溜め息を零した。

「全員、俺に詫びろ」

　狼がそう静かに言葉を発した瞬間だった。
　そこにいた全員が、ずん、と地面が沈む感覚に襲われ、何かに押しつぶされたかのように床に倒れ込んだ。まるで一斉に首を垂れたように。

　デビーもディートも例外では無かった。だがディートの秀逸な結界によりデビーは唯一膝をつく程度に収まった。

　闘技場の上空に分厚い暗雲が立ちこめた。
　黒い靄が意図したように狼の後ろ、満月だけを避けている異様さに、誰もがこれは雨雲では無いのだと悟った。
　瘴気だ、と枢機卿の従者が叫んだ。
　未曾有の恐怖が一帯を覆った。








　闇に囚われる。
　体が動かない。

　眼球すら思い通りにならず目蓋が下りると完璧な闇だった。ずぶずぶと足下から黒い触手が体に巻き付き、引きずり込もうとする。

　己は一体何のために戦っていたのだろうか。何から逃げようとしていたのか。
　何も分からなくなった。

　まなうらに幻影が現れた。
　はじめて狼に変化した十五のころ。化け物の末裔だと怯え忌避する従者達の顔。
　人として産んであげられなくてごめんと泣く母と、色を無くした父の顔。
　会えなくなった幼い弟。出奔し、自身の死亡が公にされたころ。
　傭兵として身をやつしたころ。

　刺さるほど鮮明な記憶の中で、最後に見た父母の顔が思い出せなかった。