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CASE1:冴島あずさ
9:拗らせ女の罪と罰(9)
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駅に着くと聡が待っていた。何時の電車に乗るのかなんて伝えていないのに駅に着く時間を知っているのは、二度目の流産の後にスマホに入れたGPSアプリを使って私の現在位置を調べたからだろう。
改札を出てすぐのベンチに腰掛けてアイスコーヒーを飲んでいた彼は、私に気づくと安堵したように微笑み、駆け寄ってきた。
「おかえり」
聡の優しい声が私を包み込む。この声はいつ聞いても安心する。
「……た、ただいま」
どうしてだか涙が溢れそうになる。私は潤んだ瞳がバレないように下を向いた。
明らかに不自然な態度だ。けれど聡はそんな私に何も言わず、そっと手を握る。私は遠慮がちに彼の手を握りかえした。
末端冷え性の私の手が指先からじんわりと温まるのを感じた。人より少しだけ体温の高い聡の手の温もりは、彼の優しく穏やかな性格を表しているようで好きだ。
手の分厚さも小指の付け根にあるタコも、切りすぎて白い部分が全くない爪も高い体温も、この人の全部が私を安心させてくれる。
ーーー私は、この手を離せるだろうか
不意にそんな不安が頭をよぎる。彼を解放すると決めたのに、私の心はすぐに揺らいでしまう。自分の意思の弱さに嫌気がさす。
別に恋しているわけじゃないくせに。ただ依存しているだけのくせに。
優しさに漬け込んで、向けられる愛を利用して、楽をしたいだけのくせに。
まだこの人に縋ろうとしているのか。寄生して搾取しようとしているのか。図々しいにも程がある。
ダメだ。縋ってはダメ。
意志を強く持って。この手を離せ。
完全に決意が揺らいでしまう前に。
私は歩く速度を落とし、握り返したはずの手を緩めた。
外し忘れた右耳のイヤホンからは、ありふれた失恋ソングが聴こえる。
このまま聴き続けたらきっと心の奥底に鍵をかけて仕舞い込んだ感情を爆発させてしまいそうで、私はそっとイヤホンを外した。
「聡、話があるの」
意図せず、声が震える。私は泣きそうになる自分を心の中で叱りつけた。そして笑顔を貼り付け、顔を上げる。
すると聡は足を止めて振り返り、無機質な笑顔を私に向けた。
「聡……?」
彼の見たことがないほどに冷たい微笑みに、私は背筋を凍らせた。
午後4時の路地裏。静かな住宅街に近くの踏切の音が鳴り響く。
まるで何かを警告するみたいに。
「聡……、あの……」
「冷蔵庫にケーキあるよ。あずさが好きなア・ラ・カンパーニュのいちごタルト」
「え……?」
「紅茶はこの間母さんからもらったやつにしようか。ほら、木苺とローズのやつ。好きでしょ?」
「……う、うん」
「夜さ、晩御飯食べ終わったらケーキ食べながら映画でも見なようと思って買ってきたんだ。半年ほど前に見たいなって言いながらも結局見れてなかった映画がもう配信されてるみたいだし、どう?」
「あ、えっと……」
「もしかしてアクションの気分じゃない?じゃあ普通に恋愛映画とかにする?でもあずさはあんまり好きじゃないよね?泣かそうとしてくる映画とか逆に泣けないって言ってたじゃん」
「それは、確かにそうなんだけど……」
「じゃあ、アニメ映画は?去年のコナンの映画、昨日から配信スタートしてるよ」
「……あの、聡?」
「だからさ、ほら。帰ろう?」
聡はそう言うと、さらに強く私の手を握りしめた。そして私に背を向けて、今度は少しだけ大きな歩幅でまた歩き出した。
おかしい。いつもなら絶対に私の話は遮らないのに。
「……聡、何かあった?」
家に入り、玄関の鍵を閉めた私は洗面台で手を洗う聡の背中に向かって話しかけた。
けれど聡は「何もないよ」と返す。わかりやすい作り笑顔を貼り付けて。
こんなの、何かあったと言っているようなものだ。
結局私はその日、聡に何も言えなかった。
*
それからしばらく、聡の挙動はおかしかった。
家にいる時は私の側を離れようとしないし、仕事中も時間を見つけては小まめに電話してくるようになった。
やらなくて良いよと言っているのに家事を率先してやろうとするし、逆にお義母さんの電話の相手や月に一度の義実家への訪問も今後一切やらなくてもいいと言い出した。
「仕事帰りにコンビニに寄って、甘いお菓子を買ってきてくれることも増えて、なんか最近やる事は減ってるのに体重だけが増えていく……」
『え、何?あずさは今、ペット化してるの?』
「うーん。端的に言うとそんな感じかな」
ベランダで朱くなり始めた空を眺めながら、コーヒーを片手に話す相手は千景だ。
あれからずっと、私のことを気にしてくれていた彼女は5日ほど悩んだ末に意を決して電話をくれたらしい。
私も、話を聞いてもらったからには結果を報告しなければとは思っていたのだが、まさか報告することがないという状況になるとは思ってもみなかった。
「何かあったのかって聞いても何も答えてくれなくて……」
『あずさ、何かしたんじゃない?』
「えー?何もしてない……、と、思うけど……」
『自信なさげだね』
「だって気づかないうちに何かしてしまってることってあるじゃん?」
『……まあ、そうだね』
「ほんと、どうしたんだろう」
『ねえ、もしかしてさ、旦那さんはあずさが離婚したがってるのに気づいてるんじゃない?だから離婚を思いとどまらせようとしてあれこれ動いてくれてるんじゃ……』
「えー?それはないと思うけどなぁ。聡って結構鈍いとこあるし」
『そうなの?』
「うん」
私の知る聡はとにかく鈍い。他人の感情の機微に鈍感で、特に喜怒哀楽の怒に関してはほぼ察してくれない。いつもこちらが、何にどのくらい怒っているのかを言葉で伝えないとわからないほどだ。
めったに怒らない穏やかな人だからだろうか。
彼がそんな感じだから、私たち夫婦はほとんど喧嘩をしたことがない。たまに喧嘩をしても、それは私が一方的に怒っているだけ。そしてそれすらも、怒っている理由を懇切丁寧に説明している状況をおかしく感じた私が吹き出してしまい、最後にはお互いに笑い合って終わる。
「そういえば、最近喧嘩してないな。ふふっ」
最後に喧嘩したのはいつだったか。あの喧嘩にもならない喧嘩を思い出し、笑みが溢れた。
電話口の向こうからは同じように笑う千景の声が聞こえた。
『相性良いんだね。旦那さんと』
「そう、なのかな?」
『そうだよ。二人とも纏う空気が穏やかで暖かくて、とてもよく似てる。二人の結婚式の時、強くそう思ったのを私は今でも覚えてる』
「千景……」
『ねぇ、あずさ。私は打算があったっていいと思う。だって……』
ーーー愛は二人で育んでいくものでしょう?
改札を出てすぐのベンチに腰掛けてアイスコーヒーを飲んでいた彼は、私に気づくと安堵したように微笑み、駆け寄ってきた。
「おかえり」
聡の優しい声が私を包み込む。この声はいつ聞いても安心する。
「……た、ただいま」
どうしてだか涙が溢れそうになる。私は潤んだ瞳がバレないように下を向いた。
明らかに不自然な態度だ。けれど聡はそんな私に何も言わず、そっと手を握る。私は遠慮がちに彼の手を握りかえした。
末端冷え性の私の手が指先からじんわりと温まるのを感じた。人より少しだけ体温の高い聡の手の温もりは、彼の優しく穏やかな性格を表しているようで好きだ。
手の分厚さも小指の付け根にあるタコも、切りすぎて白い部分が全くない爪も高い体温も、この人の全部が私を安心させてくれる。
ーーー私は、この手を離せるだろうか
不意にそんな不安が頭をよぎる。彼を解放すると決めたのに、私の心はすぐに揺らいでしまう。自分の意思の弱さに嫌気がさす。
別に恋しているわけじゃないくせに。ただ依存しているだけのくせに。
優しさに漬け込んで、向けられる愛を利用して、楽をしたいだけのくせに。
まだこの人に縋ろうとしているのか。寄生して搾取しようとしているのか。図々しいにも程がある。
ダメだ。縋ってはダメ。
意志を強く持って。この手を離せ。
完全に決意が揺らいでしまう前に。
私は歩く速度を落とし、握り返したはずの手を緩めた。
外し忘れた右耳のイヤホンからは、ありふれた失恋ソングが聴こえる。
このまま聴き続けたらきっと心の奥底に鍵をかけて仕舞い込んだ感情を爆発させてしまいそうで、私はそっとイヤホンを外した。
「聡、話があるの」
意図せず、声が震える。私は泣きそうになる自分を心の中で叱りつけた。そして笑顔を貼り付け、顔を上げる。
すると聡は足を止めて振り返り、無機質な笑顔を私に向けた。
「聡……?」
彼の見たことがないほどに冷たい微笑みに、私は背筋を凍らせた。
午後4時の路地裏。静かな住宅街に近くの踏切の音が鳴り響く。
まるで何かを警告するみたいに。
「聡……、あの……」
「冷蔵庫にケーキあるよ。あずさが好きなア・ラ・カンパーニュのいちごタルト」
「え……?」
「紅茶はこの間母さんからもらったやつにしようか。ほら、木苺とローズのやつ。好きでしょ?」
「……う、うん」
「夜さ、晩御飯食べ終わったらケーキ食べながら映画でも見なようと思って買ってきたんだ。半年ほど前に見たいなって言いながらも結局見れてなかった映画がもう配信されてるみたいだし、どう?」
「あ、えっと……」
「もしかしてアクションの気分じゃない?じゃあ普通に恋愛映画とかにする?でもあずさはあんまり好きじゃないよね?泣かそうとしてくる映画とか逆に泣けないって言ってたじゃん」
「それは、確かにそうなんだけど……」
「じゃあ、アニメ映画は?去年のコナンの映画、昨日から配信スタートしてるよ」
「……あの、聡?」
「だからさ、ほら。帰ろう?」
聡はそう言うと、さらに強く私の手を握りしめた。そして私に背を向けて、今度は少しだけ大きな歩幅でまた歩き出した。
おかしい。いつもなら絶対に私の話は遮らないのに。
「……聡、何かあった?」
家に入り、玄関の鍵を閉めた私は洗面台で手を洗う聡の背中に向かって話しかけた。
けれど聡は「何もないよ」と返す。わかりやすい作り笑顔を貼り付けて。
こんなの、何かあったと言っているようなものだ。
結局私はその日、聡に何も言えなかった。
*
それからしばらく、聡の挙動はおかしかった。
家にいる時は私の側を離れようとしないし、仕事中も時間を見つけては小まめに電話してくるようになった。
やらなくて良いよと言っているのに家事を率先してやろうとするし、逆にお義母さんの電話の相手や月に一度の義実家への訪問も今後一切やらなくてもいいと言い出した。
「仕事帰りにコンビニに寄って、甘いお菓子を買ってきてくれることも増えて、なんか最近やる事は減ってるのに体重だけが増えていく……」
『え、何?あずさは今、ペット化してるの?』
「うーん。端的に言うとそんな感じかな」
ベランダで朱くなり始めた空を眺めながら、コーヒーを片手に話す相手は千景だ。
あれからずっと、私のことを気にしてくれていた彼女は5日ほど悩んだ末に意を決して電話をくれたらしい。
私も、話を聞いてもらったからには結果を報告しなければとは思っていたのだが、まさか報告することがないという状況になるとは思ってもみなかった。
「何かあったのかって聞いても何も答えてくれなくて……」
『あずさ、何かしたんじゃない?』
「えー?何もしてない……、と、思うけど……」
『自信なさげだね』
「だって気づかないうちに何かしてしまってることってあるじゃん?」
『……まあ、そうだね』
「ほんと、どうしたんだろう」
『ねえ、もしかしてさ、旦那さんはあずさが離婚したがってるのに気づいてるんじゃない?だから離婚を思いとどまらせようとしてあれこれ動いてくれてるんじゃ……』
「えー?それはないと思うけどなぁ。聡って結構鈍いとこあるし」
『そうなの?』
「うん」
私の知る聡はとにかく鈍い。他人の感情の機微に鈍感で、特に喜怒哀楽の怒に関してはほぼ察してくれない。いつもこちらが、何にどのくらい怒っているのかを言葉で伝えないとわからないほどだ。
めったに怒らない穏やかな人だからだろうか。
彼がそんな感じだから、私たち夫婦はほとんど喧嘩をしたことがない。たまに喧嘩をしても、それは私が一方的に怒っているだけ。そしてそれすらも、怒っている理由を懇切丁寧に説明している状況をおかしく感じた私が吹き出してしまい、最後にはお互いに笑い合って終わる。
「そういえば、最近喧嘩してないな。ふふっ」
最後に喧嘩したのはいつだったか。あの喧嘩にもならない喧嘩を思い出し、笑みが溢れた。
電話口の向こうからは同じように笑う千景の声が聞こえた。
『相性良いんだね。旦那さんと』
「そう、なのかな?」
『そうだよ。二人とも纏う空気が穏やかで暖かくて、とてもよく似てる。二人の結婚式の時、強くそう思ったのを私は今でも覚えてる』
「千景……」
『ねぇ、あずさ。私は打算があったっていいと思う。だって……』
ーーー愛は二人で育んでいくものでしょう?
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