役立たずと蔑まれ、食糧難の辺境へ追放された引きこもり令嬢、前世の経営シミュレーション知識で極寒の地を美食の都に変えてしまう

旅する書斎(☆ほしい)

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レオニール様は、お父様が遺した手帳をゆっくりと閉じました。
その目は涙で赤く染まっていましたが、表情はとても穏やかです。
まるで、長い間背負ってきた重たい荷物をようやく下ろせたかのようでした。
「そうか、親父は、ずっと一人でこんなにも大きなものを背負っていたのか」
彼の声は落ち着いていて、深い愛情で満ちあふれています。
民を深く愛するがゆえの苦しい決断を、三十年間も胸の中に隠していたのです。
その孤独は、どれほどつらくて苦しいものだったでしょう。

「レオニール様…」
私は、どんな言葉をかければ良いのか分からず彼の名前を呼びました。
「ありがとう、アニエス。君のおかげで、俺は父の本当の気持ちを知ることができた。そして、この土地の本当の宝物を見つけることができたんだ」
彼は、そう言って私を優しく見つめました。
その瞳には、心からの感謝の色がはっきりと浮かんでいます。
「それで、アニエス。君は、この白銀樹の力をどうするべきだと考えているんだい」
彼は、私にそう問いかけました。
その声には、私の考えを完全に信じてくれている響きがありました。
私は、少しも迷うことなくはっきりと答えました。

「この力は、人の欲望を大きくするためでなく、人の命を救うために使うべきですわ。このヴァインベルクに住んでいる、全ての人々のために使いたいのです」
「というと、具体的にはどうするつもりなんだい」
レオニール様は、真剣な顔で私の言葉の続きを待ちます。
「『太陽の涙』という樹液を使って、特別な薬を作るのです。どんな病気や怪我も治すことができる、最高の薬をですわ。そして、それを必要としている領民に無料で分け与えるのです」
この奇跡の力は、人の欲望をあおる金儲けの道具ではありません。
人々の、苦しみを軽くするための希望の光なのです。
「なるほどな。いかにも、君らしい考え方だ」
レオニール様は、優しい微笑みを浮かべてうなずきました。
「だが、その奇跡の薬の噂がもしも広まったらまた王都の欲張りな者たちが嗅ぎつけてくるんじゃないか。三十年前の、悲劇が繰り返される心配はないのかい」
彼の心配は、とてもよく分かります。
一度味をしめた人間の欲望は、どこまでも深く広がっていくものです。

「ええ、ですからこの計画は全て誰にも知られずに進めます。白銀樹の存在は、私たちとゲルトさんのような信頼できるごく一部の人だけの秘密にするのです」
「ふむ、なるほど」
レオニール様は、私の考えに耳を傾けてくれます。
「そして、作る薬も太陽の涙をそのまま使うのではありません。この土地で採れる、他の薬草とうまく組み合わせるのです。そうして、その効き目を少しだけ弱めて『とても良く効く特製の薬』ということにするのですわ」
そうすれば、不老不死といった現実離れした噂が広まるのを防げます。
あくまでも、現実的な範囲での奇跡ということにしておくのです。
「分かった。君の考えに、俺も全面的に賛成するよ。それで、具体的には誰がその薬を作るんだ。君一人では、負担が大きすぎるだろう」
「ええ、ですから王都との次の取引の時に優秀なお医者様か、薬師の方をこちらへ招きたいと考えていますの」

私の言葉に、レオリール様は心から感心したようにうなずきました。
「そうか。君は、そこまで先のことを考えていたのか」
「はい。このヴァインベルクを、世界で一番豊かで幸せな場所にすると約束いたしましたから」
私たちは、お互いの顔を見合わせて穏やかに笑い合いました。
こうして、この土地の最後の秘密は私たち二人だけのものになったのです。
そして、それはこの土地にとって新しい希望の始まりでもありました。
それから数日後、王都から第二陣となる隊商がヴァインベルクの城へ到着しました。
今回も、ゲオルグさんの商会が特別に手配してくれたものです。
荷馬車からは、またたくさんの新しい仲間たちが次々と降りてきました。
腕利きのパン職人の家族や、おいしい乳製品を作る酪農家の人々です。
そして、その集団の中には白髪の老人が一人混じっていました。
その老人は、かつて王都でとても有名だった宮廷医師のエルマン先生です。
彼は、貴族たちのくだらない争いごとに嫌気がさして仕事をやめていました。
しかし、ゲオルグさんの熱心な説得に応じてこの辺境の地へ来てくれたのです。

「ふむ、ここがヴァインベルクか。噂に聞いていたよりは、ずいぶんと活気があるようですな」
エルマン先生は、城下町の様子を見回しながらそう言いました。
その目は、医者らしく鋭く全てを見通すような特別な光を宿しています。
「ようこそお越しくださいました、エルマン先生。わたくしが、アニエス・ファルケンと申しますわ」
私が丁寧に挨拶をすると、彼は少しだけ意外そうな顔をしました。
「ほう、あなたがかの有名なアニエス様ですか。思ったより、ずいぶんとお若いようですな」
彼は、私をまるで品定めするかのようにじろじろと見ました。
もしかしたら、少し気難しい方なのかもしれません。

私は、彼を城の中に新しく作った診療所へと案内しました。
そこには、王都から取り寄せたばかりの最新の医学書や医療器具がそろっています。
「これは、なかなかたいしたものですな。この薬草棚の作りは、湿気を防ぐ特別な工夫がしてある。辺境の地とは思えぬほど、設備が充実しておりますな」
エルマン先生は、少しだけ機嫌を良くしたようでした。
「先生には、この診療所で領民たちの健康を守っていただきたいのです。もちろん、先生ご自身の研究も自由に続けていただいて構いませんわ」
「ふむ。まあ、退屈しのぎにはちょうど良いかもしれませんな」
彼は、興味がなさそうにそう答えました。

しかし、その口元はかすかにほころんでいます。
どうやら、新しい環境に興味を惹かれているようでした。
私は、彼にこの土地に自然に生えている薬草のリストを見せます。
「これは…!王都では、一度も見たことがないような珍しい薬草ばかりですな!」
彼の目の色が、明らかに変わりました。
医者としての、知りたいという気持ちに火がついたのでしょう。
「もしよろしければ、今度わたくしとご一緒に薬草摘みに出かけませんか。この森には、まだ知られていないたくさんの宝が眠っていますのよ」
私の誘いに、彼はまるで子供のように目を輝かせました。
「ぜひ、お供させてくだされ。いやはや、退屈している暇はなさそうですな」

気難しい人だと思っていたエルマン先生は、実はとても情熱的な人でした。
彼は、すぐにこの土地の医療を良くするために一生懸命に働き始めます。
そして、私の持っている知識にも大きな驚きを隠せないようでした。
特に、衛生管理の大切さや栄養バランスの取れた食事の効果についてです。
私がそのことを話すと、彼は目からうろこが落ちたような顔をしました。
「アニエス様は、不思議な方ですな。その知識は、まるで未来の医学書を読んでいるかのようですぞ」
「ふふ、わたくしはただの食いしん坊ですわ」
私は、いつものように冗談を言って本当のことは隠しておきました。
そんな穏やかな日々が、しばらく続いたある日のことです。
城下町の子供たちの間で、咳と高い熱を伴う風邪が流行り始めました。
幸い、命に関わるような重い病気ではありません。
しかし、高熱でぐったりとしている子供たちの姿は見ていてとてもつらいものでした。

エルマン先生も、昼も夜も休まずに一生懸命に治療にあたってくれています。
彼が処方した薬草のおかげで、子供たちの症状は少しずつ良くなっていました。
しかし、その回復のスピードはとてもゆっくりとしたものです。
子供たちの親の顔には、深い心配の色が浮かんでいました。
私は、その様子を見てある決断をします。
今こそ、あの特別な力を使う時だと考えたのです。
私は、誰にも気づかれないように診療所の片隅にある調薬室に一人でこもりました。
そして、懐からあの小さなガラス瓶を取り出します。
中には、黄金色に美しく輝く『太陽の涙』が数滴だけ入っていました。
私は、その一滴を清潔な乳鉢の中にそっと落としました。
黄金の液体が薬草の粉末に触れた瞬間、ふわりと淡い光を放ちます。
甘くて、そして清らかな香りが部屋いっぱいに満ちました。

そして、エルマン先生が処方した薬草にそれを丁寧に混ぜ合わせました。
さらに、子供たちが飲みやすいように甘い蜂蜜を少しだけ加えます。
これで、元気が出る特別な薬の完成です。
私は、完成した薬を小さな小瓶にいくつも詰め替えました。
そして、エルマン先生の元へと急いで向かいます。
彼の目の下には、疲れによる深い隈ができていました。
連日の、看病で疲れきっているのでしょう。
「先生、少しだけよろしいでしょうか」
「おお、アニエス様。どうかなさいましたかな」
彼は、心配そうに私の顔を見ます。
「わたくしが、独自に調合した元気が出る特別な薬です。よろしければ、子供たちに試してみてはいただけませんか」
私は、彼に小瓶を丁寧に差し出しました。
彼は、不思議そうな顔でそれを受け取ります。
そして、中の液体の匂いを慎重に確かめました。
「ふむ。これは、確かに体に良さそうな良い香りがしますな。しかし、一体何をお入れになったのですかな」
「それは、わたくしだけの秘密ですわ。でも、決して悪いものではないと保証いたします」
私の、自信に満ちた態度に彼は少しだけ考え込みました。
そして、やがてこくりとうなずきます。
「分かりました。アニエス様の、そのお力を信じてみましょう」
彼は、私の作った薬を子供たちに飲ませることを許可してくれたのです。
私は、彼の判断に心から感謝しました。
どうか、この薬が子供たちの苦しみを少しでも和らげてくれますように。
私は、祈るような気持ちでその場を後にしました。
自分の部屋に戻り、窓の外をぼんやりと眺めます。
空には、まんまるな月が優しく浮かんでいました。
その光が、病で苦しむ子供たちを照らしているように見えました。
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