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市場で見つけた獣医の診療所は、薬草の匂いがする小さな建物だった。
古い木のドアには、猫と犬が寄り添う可愛らしい看板が掛かっている。
ドアを開けると、カランと軽やかな鈴の音が鳴った。
白衣を着た優しそうな老婆が、丸眼鏡の奥から私たちを見た。
そして、少し驚いた顔をした。
「おやまあ、どうしたんだい。そんなに慌てているじゃないか。」
老婆は、私の腕に抱かれた黒猫に目を向けた。
その穏やかだった視線が、少しだけ険しくなる。
血の匂いを、感じ取ったのかもしれない。
「この子が怪我をしてしまって、診ていただけますか。」
私の必死な声に、老婆はすぐに頷いてくれた。
「もちろんさ。さあ、そこの診察台に寝かせておやり。」
「すぐに、診てあげよう。」
私は言われた通りに、黒猫を木製の診察台の上へそっと横たえた。
黒猫は怯えたように身を縮こませたが、私が優しく頭を撫でてやる。
すると、少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。
フェンは診察台の周りを、うろうろと歩き回っている。
彼は、心配そうに鼻を鳴らしていた。
黒猫の顔をくんくんと嗅いで、大丈夫かと問いかけているようだ。
「どれどれ、ああこれはひどいね。」
「左の後ろ足が、ぱっくりと切れてしまっている。」
「何かに、引っ掛けたのかい。」
老婆、獣医のエルマ先生は手慣れた様子で傷口を調べ始めた。
その手つきは驚くほど優しく、黒猫もあきらめたのかされるがままになっている。
とても、おとなしい子だった。
「子供たちに、石を投げつけられていたところを……。」
バエルさんが悔しそうに、そして申し訳なさそうに説明する。
エルマ先生は、その言葉に悲しそうに眉をひそめた。
「そうかい、可哀想に。」
「弱いものいじめをするなんて、人間のすることじゃないよ。」
先生は、静かに怒りを見せた。
その目には、強い意志が宿っている。
「幸い、骨には異常はないようだね。」
「傷口をきれいに洗って、縫い合わせる必要があるだろう。」
「少し痛むだろうけど、我慢しておくれよ小さな勇者さん。」
エルマ先生は棚から、薬の入った瓶を取り出した。
清潔な布、そして針と糸も準備する。
その準備には無駄な動きが一切なく、長年の経験を感じさせた。
まずは薬草を浸したぬるま湯で、傷口の汚れを丁寧に拭き取っていく。
黒猫はびくっと体を震わせたが、暴れたりはしなかった。
自分が治療されていることを、ちゃんと理解しているのかもしれない。
とても、賢い子だと思った。
洗浄が終わると、いよいよ縫い合わせる作業だ。
エルマ先生のしわの多い指が、器用に針と糸を操っていく。
私は黒猫の頭を撫で続け、フェンはその前足にそっと自分の顔を寄せた。
まるで、励ますかのように寄り添っている。
治療は、思ったよりも早く終わった。
黒猫の左後ろ足には、痛々しいながらも綺麗な縫い跡があった。
その上から、白い包帯が巻かれている。
「よし、これで大丈夫だろう。」
「あとは傷口が開かないように、しばらくは安静にさせておくことだね。」
エルマ先生は、優しく黒猫の体を撫でた。
黒猫は、気持ちよさそうに目を細めている。
「化膿止めの薬も出しておくから、一日二回餌に混ぜておやり。」
「痛み止めも入っているから、少しは楽になるはずさ。」
「ありがとうございます、先生。」
「本当に、助かりました。」
「治療費は、おいくらになりますか。」
私が財布を取り出そうとすると、エルマ先生はにっこりと笑った。
そして、私の手を止めた。
「あんたたちのような優しい子たちから、お金なんかもらえるもんかい。」
「治療費は、いらないよ。」
「えっ、でも……!」
私は、驚いて声を上げた。
「その代わり、その子のことを責任持って最後まで面倒見ておやり。」
「それが、私への一番の治療費さ。」
その言葉は温かくて、少しだけ重みがあった。
私は、深々と頭を下げる。
「はい、もちろんです。」
「約束します。」
この世界にも、心優しい人はいる。
アークライト家での計算と悪い考えに満ちた生活しか知らなかった。
私にとって、それは新鮮な驚きだったのだ。
「この子は、どうするんだい。」
「飼い主がいるようには、見えないが。」
エルマ先生の問いに、私はもう迷わなかった。
この子を、見捨ててはいけない。
「この子は、私が引き取ります。」
「そうかい。あんたなら、きっと大丈夫だろうね。」
「その賢そうなワンちゃんも、あんたによく懐いているようだ。」
エルマ先生は、私の足元に座るフェンを見て感心したように頷いた。
フェンは褒められたのが分かったかのように、誇らしげに胸を張っている。
「この子、名前はまだないんです。」
「何か、いい名前はありませんか。」
私が尋ねると、エルマ先生は黒猫の顔を覗き込んだ。
少し考えてから、こう言った。
「この子の瞳は、吸い込まれそうなほど黒くて夜空のようだね。」
「そうだ、『ノクス』なんてどうだい。」
「ノクス、ですか。」
「ああ。古い言葉で、夜の神様の名前さ。」
「きっと、この子を暗闇から守ってくれるだろう。」
「ノクス……いい名前です。」
「ありがとう、先生。」
「今日からこの子は、ノクスです。」
私は腕の中の黒猫、ノクスに優しく語りかけた。
ノクスは私の顔を見上げて、「にゃあ」と小さく鳴いた。
まるで、自分の名前を理解したかのようだった。
エルマ先生に何度もお礼を言い、私たちは診療所を後にした。
バエルさんは治療費の代わりにと言って、診療所で売られていた高価な薬草をいくつか買っていた。
こういう人の良さが、彼の商売がうまくいかない原因の一つなのだろう。
でも、私はそんな彼が嫌いではなかった。
雑貨店に戻ると、私はまずノクスのための寝床を用意した。
店の隅にあった古い木箱に、売り物にならない柔らかい布を何枚も敷き詰める。
そうして、即席のベッドを作った。
ノクスをそっと寝かせると、安心したのかすぐにすうすうと寝息を立て始める。
よほど、疲れていたのだろう。
フェンはそのベッドの隣にぴたりと寄り添い、まるで騎士のようにノクスを守っていた。
種族は違うけれど、二匹の間にはすでに友情のようなものが芽生えているのかもしれない。
その光景は、私の心を温かくした。
「さて、バエルさん。」
「感傷に浸っている場合では、ありませんよ。」
「仕事に、戻りましょう。」
「は、はい、師匠。」
「なんなりと、お申し付けください。」
私は気持ちを切り替えて、バエルさんに向き直った。
市場調査で得た情報と、在庫セールの売上金を元に新しい仕入れ計画を立てる。
「まずは、石鹸と蝋燭です。」
「これらは街の西側にある工房で、直接買い付けた方が安く手に入ります。」
「品質も、市場に出回っているものより良いはずです。」
「私が、保証します。」
「西側の工房……ああ、あの頑固爺さんがやっているところですな。」
「あそこの主人は、なかなか商品を売ってくれないと評判ですが……。」
バエルさんは、不安そうな顔をする。
「交渉は、私がやります。」
「バエルさんは、ただ隣で頷いていれば結構です。」
「は、はあ……。」
「師匠がそうおっしゃるなら……。」
「次に、子供向けのおもちゃ。」
「これは、木工職人が多く住む北の地区で探しましょう。」
「単純で、丈夫なものがいいです。」
「おもちゃですか。」
「うちみたいな店で、売れるものでしょうか。」
「売れます。市場調査で、この街の裕福な人たちは子供の教育に熱心だと分かりました。」
「質の良い知育玩具なら、必ず欲しがる人がいます。」
「なるほど……!」
バエルさんは、感心したように声を上げた。
「それから、甘いお菓子。」
「これは、宿屋の女将さんに相談してみましょうか。」
「彼女なら、安くて美味しい焼き菓子を作ってくれる職人を知っているかもしれません。」
「旅人向けの食料は、アルム村のクラウスさんに手紙を書きます。」
「定期的に卸してもらうよう、交渉してみます。」
「『森の恵みパン』は、この街でも絶対に売れますから。」
次々と計画を立てる私に、バエルさんは口を挟むことも忘れていた。
彼は、感心した顔で聞き入っている。
「最後に、これが一番重要ですが……例の『ルビーベリー』です。」
「あの、一粒で銀貨一枚はするという高級な果物ですな。」
「あれを、うちの店で扱うと。」
「ただ扱うのではありません。加工して、新しい商品として売り出すんです。」
「か、加工ですと。」
バエルさんが、間の抜けた声を上げた。
「ええ、ジャムにするんです。」
「ルビーベリーを砂糖で煮詰めて、日持ちのするジャムにする。」
「そうすれば、季節を問わずに販売できます。」
「それにパンに塗ったり、お菓子作りに使ったりと用途も広がります。」
「なにより、生の果物よりもずっと高い利益が見込めます。」
前世でデパ地下の高級フルーツ店が、売れ残りをジャムやジュースにしていた。
そして、それを高値で売っていたのを思い出したのだ。
あの商売の方法は、この世界でも間違いなく通用する。
「ジャム……! なるほど、その手がありましたか。」
「しかし、作り方が……。」
「作り方は、私が教えます。」
「幸い、この店には在庫処分セールを生き延びた大きな鍋がいくつかありますからね。」
私の頭の中では、すでに販売計画が完成していた。
「バエル雑貨店特製・高級ルビーベリージャム」の、詳細な利益計算書と共にだ。
「さあ、バエルさん。」
「明日から、また忙しくなりますよ。」
「覚悟は、いいですね。」
「は、はい、師匠。」
「このバエル、どこまでもお供いたしますぞ。」
こうして、バエル雑貨店の本格的な再生計画が動き出した。
まずは、西側の工房への仕入れ交渉からだ。
翌日、私とバエルさんはフェンとノクスに店番を任せた。
ノクスはまだ安静にしていなければならないが、フェンがそばにいれば大丈夫だろう。
私たちは、工房が立ち並ぶ西地区へと向かった。
目的の石鹸工房は、路地の奥にひっそりと建っていた。
中から薬草と油が混じったような、特別な匂いが漂ってくる。
ドアを叩くと、中から現れたのは噂通りの頑固そうな老人だった。
白く長い髭をたくわえ、鋭い目が私たちを値踏みするように見つめている。
「なんだ、お前さんらは。」
「ひやかしなら、さっさと帰んな。」
工房の主人、ゲルトさんは会うなり冷たい態度だ。
バエルさんは、その圧力に完全に怖気づいている。
「ひやかしではありません。」
「あなた様の作られた石鹸を、ぜひ私たちの店で扱わせていただきたいのです。」
「その交渉に、参りました。」
私が落ち着き払ってそう言うと、ゲルトさんは鼻で笑った。
「ほう、ちっこい嬢ちゃんが交渉だと。」
「面白い。で、どこの店の者だ。」
「バエル雑貨店の者です。」
「こちらは、店主のバエルです。」
私が紹介すると、バエルさんは緊張した顔でぺこりと頭を下げた。
ゲルトさんはバエルさんをちらりと見ると、さらに馬鹿にしたように言った。
「バエル雑貨店だと。ああ、あのガラクタ屋か。」
「あんな店に、俺の魂を込めて作った石鹸を置けるか。」
「話にならん。帰れ、帰れ。」
ゲルトさんは、そう言って店のドアを閉めようとした。
しかし、私はそのドアに小さな体を割り込ませた。
「お待ちください。今のバエル雑貨店は、以前のガラクタ屋とは違います。」
「ほう、何が違うってんだ。」
「店主の顔は、同じじゃないか。」
ゲルトさんの視線が、見下すようにバエルさんに注がれる。
「経営者が、違います。」
私は、ゲルトさんの目をまっすぐに見て言った。
「実質的な経営権は、私が握っています。」
「そして私は、あなた様の石鹸の価値を誰よりも理解しているつもりです。」
私の言葉に、ゲルトさんの動きが止まった。
彼は、興味深そうに私を見下ろしている。
「嬢ちゃん、面白いことを言うじゃねえか。」
「俺の石鹸の価値、ねえ。」
「じゃあ、言ってみろ。」
「俺の石鹸は、市場で売られている安物と何が違う。」
試されている。
ここで、怖気づくわけにはいかなかった。
「まず、素材が違います。」
「あなた様の石鹸は、上質なオリーブオイルと薬効の高いハーブを惜しげもなく使っている。」
「肌への刺激が少なく、敏感な肌の女性や赤ん坊にさえ安心して使えます。」
「……ほう。」
ゲルトさんは、少し感心したように言った。
「次に、製法です。」
「熱を加えず、時間をかけてゆっくりと熟成させるコールドプロセス製法を採用していますね。」
「これにより、素材の良い成分が壊れません。」
「保湿成分であるグリセリンが、石鹸の中に自然な形でたっぷりと残る。」
「洗い上がりが、しっとりとするのはそのためです。」
「……!」
ゲルトさんの目に、驚きの色が浮かんだ。
コールドプロセスなんて言葉は、この世界にはないはずだ。
私が前世の知識から考えて、勝手に名付けただけである。
しかし、その大事な部分は合っているはず。
「そして、一番の違いは……あなた様の職人としての誇りです。」
「一つ一つ、手作業で愛情を込めて作られている。」
「その『想い』が、この石鹸の最大の価値だと私は思います。」
私の言葉を聞き終えたゲルトさんは、しばらくの間何も言わなかった。
彼は、私をじっと見つめている。
重い沈黙が、その場にのしかかった。
バエルさんは隣で、生きた心地がしないという顔で固まっている。
やがて、ゲルトさんの厳しかった顔がふっと緩んだ。
「はっはっは、こいつは面白い。」
「まさか、こんなちっこい嬢ちゃんに俺の仕事の本質をここまで見抜かれるとはな。」
ゲルトさんは、腹を抱えて笑い出した。
その笑い声は、工房中に響き渡った。
「気に入った。嬢ちゃん、あんた面白いな。」
「よかろう、あんたの店にだけは特別に俺の石鹸を卸してやる。」
「ただし、安売りは絶対に許さんぞ。」
「俺の石鹸の価値が分かる客にだけ、売るんだ。」
「できるな。」
「もちろんです。お約束します。」
こうして、私はポルタで一番と有名な職人との独占契約を取り付けた。
バエルさんは、店の帰り道ずっと夢でも見ているかのような顔をしていた。
「リリア師匠……あなた様は、本当に一体……。」
「魔法使いか、何かですか。」
「ただの、経理顧問ですよ。」
私はそう言って、次の仕入れ先である木工職人の地区へと足を向けた。
バエル雑貨店の改革は、まだ始まったばかりなのだ。
古い木のドアには、猫と犬が寄り添う可愛らしい看板が掛かっている。
ドアを開けると、カランと軽やかな鈴の音が鳴った。
白衣を着た優しそうな老婆が、丸眼鏡の奥から私たちを見た。
そして、少し驚いた顔をした。
「おやまあ、どうしたんだい。そんなに慌てているじゃないか。」
老婆は、私の腕に抱かれた黒猫に目を向けた。
その穏やかだった視線が、少しだけ険しくなる。
血の匂いを、感じ取ったのかもしれない。
「この子が怪我をしてしまって、診ていただけますか。」
私の必死な声に、老婆はすぐに頷いてくれた。
「もちろんさ。さあ、そこの診察台に寝かせておやり。」
「すぐに、診てあげよう。」
私は言われた通りに、黒猫を木製の診察台の上へそっと横たえた。
黒猫は怯えたように身を縮こませたが、私が優しく頭を撫でてやる。
すると、少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。
フェンは診察台の周りを、うろうろと歩き回っている。
彼は、心配そうに鼻を鳴らしていた。
黒猫の顔をくんくんと嗅いで、大丈夫かと問いかけているようだ。
「どれどれ、ああこれはひどいね。」
「左の後ろ足が、ぱっくりと切れてしまっている。」
「何かに、引っ掛けたのかい。」
老婆、獣医のエルマ先生は手慣れた様子で傷口を調べ始めた。
その手つきは驚くほど優しく、黒猫もあきらめたのかされるがままになっている。
とても、おとなしい子だった。
「子供たちに、石を投げつけられていたところを……。」
バエルさんが悔しそうに、そして申し訳なさそうに説明する。
エルマ先生は、その言葉に悲しそうに眉をひそめた。
「そうかい、可哀想に。」
「弱いものいじめをするなんて、人間のすることじゃないよ。」
先生は、静かに怒りを見せた。
その目には、強い意志が宿っている。
「幸い、骨には異常はないようだね。」
「傷口をきれいに洗って、縫い合わせる必要があるだろう。」
「少し痛むだろうけど、我慢しておくれよ小さな勇者さん。」
エルマ先生は棚から、薬の入った瓶を取り出した。
清潔な布、そして針と糸も準備する。
その準備には無駄な動きが一切なく、長年の経験を感じさせた。
まずは薬草を浸したぬるま湯で、傷口の汚れを丁寧に拭き取っていく。
黒猫はびくっと体を震わせたが、暴れたりはしなかった。
自分が治療されていることを、ちゃんと理解しているのかもしれない。
とても、賢い子だと思った。
洗浄が終わると、いよいよ縫い合わせる作業だ。
エルマ先生のしわの多い指が、器用に針と糸を操っていく。
私は黒猫の頭を撫で続け、フェンはその前足にそっと自分の顔を寄せた。
まるで、励ますかのように寄り添っている。
治療は、思ったよりも早く終わった。
黒猫の左後ろ足には、痛々しいながらも綺麗な縫い跡があった。
その上から、白い包帯が巻かれている。
「よし、これで大丈夫だろう。」
「あとは傷口が開かないように、しばらくは安静にさせておくことだね。」
エルマ先生は、優しく黒猫の体を撫でた。
黒猫は、気持ちよさそうに目を細めている。
「化膿止めの薬も出しておくから、一日二回餌に混ぜておやり。」
「痛み止めも入っているから、少しは楽になるはずさ。」
「ありがとうございます、先生。」
「本当に、助かりました。」
「治療費は、おいくらになりますか。」
私が財布を取り出そうとすると、エルマ先生はにっこりと笑った。
そして、私の手を止めた。
「あんたたちのような優しい子たちから、お金なんかもらえるもんかい。」
「治療費は、いらないよ。」
「えっ、でも……!」
私は、驚いて声を上げた。
「その代わり、その子のことを責任持って最後まで面倒見ておやり。」
「それが、私への一番の治療費さ。」
その言葉は温かくて、少しだけ重みがあった。
私は、深々と頭を下げる。
「はい、もちろんです。」
「約束します。」
この世界にも、心優しい人はいる。
アークライト家での計算と悪い考えに満ちた生活しか知らなかった。
私にとって、それは新鮮な驚きだったのだ。
「この子は、どうするんだい。」
「飼い主がいるようには、見えないが。」
エルマ先生の問いに、私はもう迷わなかった。
この子を、見捨ててはいけない。
「この子は、私が引き取ります。」
「そうかい。あんたなら、きっと大丈夫だろうね。」
「その賢そうなワンちゃんも、あんたによく懐いているようだ。」
エルマ先生は、私の足元に座るフェンを見て感心したように頷いた。
フェンは褒められたのが分かったかのように、誇らしげに胸を張っている。
「この子、名前はまだないんです。」
「何か、いい名前はありませんか。」
私が尋ねると、エルマ先生は黒猫の顔を覗き込んだ。
少し考えてから、こう言った。
「この子の瞳は、吸い込まれそうなほど黒くて夜空のようだね。」
「そうだ、『ノクス』なんてどうだい。」
「ノクス、ですか。」
「ああ。古い言葉で、夜の神様の名前さ。」
「きっと、この子を暗闇から守ってくれるだろう。」
「ノクス……いい名前です。」
「ありがとう、先生。」
「今日からこの子は、ノクスです。」
私は腕の中の黒猫、ノクスに優しく語りかけた。
ノクスは私の顔を見上げて、「にゃあ」と小さく鳴いた。
まるで、自分の名前を理解したかのようだった。
エルマ先生に何度もお礼を言い、私たちは診療所を後にした。
バエルさんは治療費の代わりにと言って、診療所で売られていた高価な薬草をいくつか買っていた。
こういう人の良さが、彼の商売がうまくいかない原因の一つなのだろう。
でも、私はそんな彼が嫌いではなかった。
雑貨店に戻ると、私はまずノクスのための寝床を用意した。
店の隅にあった古い木箱に、売り物にならない柔らかい布を何枚も敷き詰める。
そうして、即席のベッドを作った。
ノクスをそっと寝かせると、安心したのかすぐにすうすうと寝息を立て始める。
よほど、疲れていたのだろう。
フェンはそのベッドの隣にぴたりと寄り添い、まるで騎士のようにノクスを守っていた。
種族は違うけれど、二匹の間にはすでに友情のようなものが芽生えているのかもしれない。
その光景は、私の心を温かくした。
「さて、バエルさん。」
「感傷に浸っている場合では、ありませんよ。」
「仕事に、戻りましょう。」
「は、はい、師匠。」
「なんなりと、お申し付けください。」
私は気持ちを切り替えて、バエルさんに向き直った。
市場調査で得た情報と、在庫セールの売上金を元に新しい仕入れ計画を立てる。
「まずは、石鹸と蝋燭です。」
「これらは街の西側にある工房で、直接買い付けた方が安く手に入ります。」
「品質も、市場に出回っているものより良いはずです。」
「私が、保証します。」
「西側の工房……ああ、あの頑固爺さんがやっているところですな。」
「あそこの主人は、なかなか商品を売ってくれないと評判ですが……。」
バエルさんは、不安そうな顔をする。
「交渉は、私がやります。」
「バエルさんは、ただ隣で頷いていれば結構です。」
「は、はあ……。」
「師匠がそうおっしゃるなら……。」
「次に、子供向けのおもちゃ。」
「これは、木工職人が多く住む北の地区で探しましょう。」
「単純で、丈夫なものがいいです。」
「おもちゃですか。」
「うちみたいな店で、売れるものでしょうか。」
「売れます。市場調査で、この街の裕福な人たちは子供の教育に熱心だと分かりました。」
「質の良い知育玩具なら、必ず欲しがる人がいます。」
「なるほど……!」
バエルさんは、感心したように声を上げた。
「それから、甘いお菓子。」
「これは、宿屋の女将さんに相談してみましょうか。」
「彼女なら、安くて美味しい焼き菓子を作ってくれる職人を知っているかもしれません。」
「旅人向けの食料は、アルム村のクラウスさんに手紙を書きます。」
「定期的に卸してもらうよう、交渉してみます。」
「『森の恵みパン』は、この街でも絶対に売れますから。」
次々と計画を立てる私に、バエルさんは口を挟むことも忘れていた。
彼は、感心した顔で聞き入っている。
「最後に、これが一番重要ですが……例の『ルビーベリー』です。」
「あの、一粒で銀貨一枚はするという高級な果物ですな。」
「あれを、うちの店で扱うと。」
「ただ扱うのではありません。加工して、新しい商品として売り出すんです。」
「か、加工ですと。」
バエルさんが、間の抜けた声を上げた。
「ええ、ジャムにするんです。」
「ルビーベリーを砂糖で煮詰めて、日持ちのするジャムにする。」
「そうすれば、季節を問わずに販売できます。」
「それにパンに塗ったり、お菓子作りに使ったりと用途も広がります。」
「なにより、生の果物よりもずっと高い利益が見込めます。」
前世でデパ地下の高級フルーツ店が、売れ残りをジャムやジュースにしていた。
そして、それを高値で売っていたのを思い出したのだ。
あの商売の方法は、この世界でも間違いなく通用する。
「ジャム……! なるほど、その手がありましたか。」
「しかし、作り方が……。」
「作り方は、私が教えます。」
「幸い、この店には在庫処分セールを生き延びた大きな鍋がいくつかありますからね。」
私の頭の中では、すでに販売計画が完成していた。
「バエル雑貨店特製・高級ルビーベリージャム」の、詳細な利益計算書と共にだ。
「さあ、バエルさん。」
「明日から、また忙しくなりますよ。」
「覚悟は、いいですね。」
「は、はい、師匠。」
「このバエル、どこまでもお供いたしますぞ。」
こうして、バエル雑貨店の本格的な再生計画が動き出した。
まずは、西側の工房への仕入れ交渉からだ。
翌日、私とバエルさんはフェンとノクスに店番を任せた。
ノクスはまだ安静にしていなければならないが、フェンがそばにいれば大丈夫だろう。
私たちは、工房が立ち並ぶ西地区へと向かった。
目的の石鹸工房は、路地の奥にひっそりと建っていた。
中から薬草と油が混じったような、特別な匂いが漂ってくる。
ドアを叩くと、中から現れたのは噂通りの頑固そうな老人だった。
白く長い髭をたくわえ、鋭い目が私たちを値踏みするように見つめている。
「なんだ、お前さんらは。」
「ひやかしなら、さっさと帰んな。」
工房の主人、ゲルトさんは会うなり冷たい態度だ。
バエルさんは、その圧力に完全に怖気づいている。
「ひやかしではありません。」
「あなた様の作られた石鹸を、ぜひ私たちの店で扱わせていただきたいのです。」
「その交渉に、参りました。」
私が落ち着き払ってそう言うと、ゲルトさんは鼻で笑った。
「ほう、ちっこい嬢ちゃんが交渉だと。」
「面白い。で、どこの店の者だ。」
「バエル雑貨店の者です。」
「こちらは、店主のバエルです。」
私が紹介すると、バエルさんは緊張した顔でぺこりと頭を下げた。
ゲルトさんはバエルさんをちらりと見ると、さらに馬鹿にしたように言った。
「バエル雑貨店だと。ああ、あのガラクタ屋か。」
「あんな店に、俺の魂を込めて作った石鹸を置けるか。」
「話にならん。帰れ、帰れ。」
ゲルトさんは、そう言って店のドアを閉めようとした。
しかし、私はそのドアに小さな体を割り込ませた。
「お待ちください。今のバエル雑貨店は、以前のガラクタ屋とは違います。」
「ほう、何が違うってんだ。」
「店主の顔は、同じじゃないか。」
ゲルトさんの視線が、見下すようにバエルさんに注がれる。
「経営者が、違います。」
私は、ゲルトさんの目をまっすぐに見て言った。
「実質的な経営権は、私が握っています。」
「そして私は、あなた様の石鹸の価値を誰よりも理解しているつもりです。」
私の言葉に、ゲルトさんの動きが止まった。
彼は、興味深そうに私を見下ろしている。
「嬢ちゃん、面白いことを言うじゃねえか。」
「俺の石鹸の価値、ねえ。」
「じゃあ、言ってみろ。」
「俺の石鹸は、市場で売られている安物と何が違う。」
試されている。
ここで、怖気づくわけにはいかなかった。
「まず、素材が違います。」
「あなた様の石鹸は、上質なオリーブオイルと薬効の高いハーブを惜しげもなく使っている。」
「肌への刺激が少なく、敏感な肌の女性や赤ん坊にさえ安心して使えます。」
「……ほう。」
ゲルトさんは、少し感心したように言った。
「次に、製法です。」
「熱を加えず、時間をかけてゆっくりと熟成させるコールドプロセス製法を採用していますね。」
「これにより、素材の良い成分が壊れません。」
「保湿成分であるグリセリンが、石鹸の中に自然な形でたっぷりと残る。」
「洗い上がりが、しっとりとするのはそのためです。」
「……!」
ゲルトさんの目に、驚きの色が浮かんだ。
コールドプロセスなんて言葉は、この世界にはないはずだ。
私が前世の知識から考えて、勝手に名付けただけである。
しかし、その大事な部分は合っているはず。
「そして、一番の違いは……あなた様の職人としての誇りです。」
「一つ一つ、手作業で愛情を込めて作られている。」
「その『想い』が、この石鹸の最大の価値だと私は思います。」
私の言葉を聞き終えたゲルトさんは、しばらくの間何も言わなかった。
彼は、私をじっと見つめている。
重い沈黙が、その場にのしかかった。
バエルさんは隣で、生きた心地がしないという顔で固まっている。
やがて、ゲルトさんの厳しかった顔がふっと緩んだ。
「はっはっは、こいつは面白い。」
「まさか、こんなちっこい嬢ちゃんに俺の仕事の本質をここまで見抜かれるとはな。」
ゲルトさんは、腹を抱えて笑い出した。
その笑い声は、工房中に響き渡った。
「気に入った。嬢ちゃん、あんた面白いな。」
「よかろう、あんたの店にだけは特別に俺の石鹸を卸してやる。」
「ただし、安売りは絶対に許さんぞ。」
「俺の石鹸の価値が分かる客にだけ、売るんだ。」
「できるな。」
「もちろんです。お約束します。」
こうして、私はポルタで一番と有名な職人との独占契約を取り付けた。
バエルさんは、店の帰り道ずっと夢でも見ているかのような顔をしていた。
「リリア師匠……あなた様は、本当に一体……。」
「魔法使いか、何かですか。」
「ただの、経理顧問ですよ。」
私はそう言って、次の仕入れ先である木工職人の地区へと足を向けた。
バエル雑貨店の改革は、まだ始まったばかりなのだ。
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役立たずの【清浄】スキルと追放された私、聖女の浄化が効かない『呪われた森』を清めたら、もふもふ達と精霊に囲まれる楽園になりました
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行くあてもなく、誰も近づかない『呪われた森』へと逃げ込んだエリアーナ。
しかし、彼女が何気なくスキルを使うと、森を覆っていた邪悪な呪いがみるみる浄化されていく。
実は彼女の【清浄】は、あらゆる穢れや呪いを根源から消し去る、伝説級の浄化能力だったのだ。
呪いが解けた森は本来の美しい姿を取り戻し、伝説の聖域として蘇る。
その力に引き寄せられ、エリアーナのもとには聖獣の子供や精霊、もふもふの動物たちが次々と集まってきて……。
一方その頃、聖女の力では浄化できない災厄に見舞われた王国は、エリアーナを追放したことを激しく後悔し始めていた。
いらない子のようなので、出ていきます。さようなら♪
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