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第64話 極北の晩餐と凍てつく断罪の序曲
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アイゼン要塞の奥深くに位置する大広間は、外の猛吹雪が嘘のように、暖かな熱気と芳醇な香りに満たされていた。
石造りの壁には、歴代の城主が狩ったであろう巨大な魔獣の剥製や、古びた武具が飾られている。
それらは武骨な北の男たちの歴史を物語る装飾だが、今夜の主役はそれらではない。
部屋の中央に鎮座する、樹齢数百年はあろうかという巨木を切り出して作られた長大なテーブル。
その上には、私の食欲を極限まで刺激する「芸術品」が並べられていた。
「さあ、遠慮はいらんぞリリア殿。これが我が領が誇る至高の味、『雪原カモ』のローストだ」
上座に座るアイゼン侯爵が、豪快に笑いながら大皿を示した。
彼の顔には、戦場で見せる鬼のような厳しさは微塵もない。
あるのは、自慢の品を客人に振る舞う、純朴な主人の顔だけだ。
私は、目の前の皿に視線を釘付けにしていた。
そこには、丸々と太ったカモが、黄金色の焼き目を纏って横たわっている。
皮からはパチパチと微かな音が聞こえ、溢れ出した透明な脂が、皿の上で輝く湖を作っていた。
香ばしい肉の焼ける匂いに、野生味あふれる血の香り、そしてほのかに香る香草の風味が混じり合う。
その暴力的なまでの「食」の誘惑に、私の喉がゴクリと鳴った。
「素晴らしいですわ、侯爵。これほどのカモは、王都の高級店でもお目にかかれません」
私はナプキンを膝に広げながら、賛辞を送った。
お世辞ではない。
私の目は、食材の価値を金貨の枚数と同じくらい正確に見抜く。
このカモは、極寒の環境を生き抜くために、皮下に極上の脂を蓄えている。
その脂は、常温でも溶け出すほど融点が低く、口に入れれば瞬時に旨味の爆弾となって炸裂するはずだ。
「ガハハ! そうだろう、そうだろう! 王都の軟弱な飼育鳥とは鍛え方が違うわ! さあ、熱いうちに食ってくれ!」
侯爵に促され、私はナイフとフォークを手に取った。
銀のナイフを、カモの表面に入れる。
パリッ、という軽快な音が響いた瞬間、中から薔薇色の肉汁が溢れ出した。
抵抗なく刃が沈んでいく。
まるで、最高級のバターを切っているような感触だ。
切り分けた一片を、フォークで刺す。
肉の断面は、美しいロゼ色に染まっており、繊維の一本一本が肉汁を抱え込んでキラキラと光っている。
私は、それをゆっくりと口へと運んだ。
「……んッ!」
言葉にならない声が、思わず漏れる。
噛んだ瞬間、パリパリの皮が弾け、香ばしさが鼻腔を突き抜けた。
続いて、濃厚な脂の甘みと、赤身肉の力強い旨味が、舌の上で激しく主張を始める。
だが、決してしつこくはない。
野生の肉特有の鉄分を含んだ酸味が、脂の重さを絶妙に中和しているのだ。
噛めば噛むほど、命の味が湧き出してくる。
これは、ただの食事ではない。
北の大地そのものを体内に取り込む、神聖な儀式だ。
「いかがかな、リリア殿」
侯爵が、身を乗り出して感想を求めてくる。
私は、口の中の至福を飲み込み、恍惚の表情で答えた。
「絶品ですわ……。この濃厚な旨味、そしてとろけるような食感。間違いなく、私の人生で一番のカモ料理です」
「おお、そうか! 気に入ってもらえて何よりだ!」
侯爵は、我が子を褒められたように顔をくしゃくしゃにして喜んだ。
私は、さらに提案を重ねる。
「ですが侯爵、これに『ひと手間』加えるだけで、この料理はさらに化けますわ」
「ひと手間、だと?」
私は、懐から小さな小瓶を二つ取り出した。
一つは、シオン王国から輸入した最高級の「醤油」。
もう一つは、アークライト領で独自に開発した、酸味の強い「ベリーソース」だ。
私は、小皿の上でこの二つを絶妙な比率で混ぜ合わせた。
黒い液体と赤い液体が混ざり合い、妖艶な紫色へと変わる。
「これを、少しだけつけて召し上がってみてください」
私は、切り分けたカモ肉に特製ソースを絡め、侯爵の皿へと差し出した。
侯爵は半信半疑といった顔でそれを口に運ぶ。
もぐ、もぐ。
彼の動きが、ピタリと止まった。
次の瞬間、カッ!と目が見開かれる。
「な、なんだこれはぁぁぁッ!?」
侯爵の絶叫が、石造りの広間に反響した。
周囲に控えていた兵士たちが、敵襲かと身構えるほどの声量だ。
「醤油の持つ熟成された塩気とコクが、カモの脂の甘みを極限まで引き立てている! そこにベリーの酸味が加わることで、後味が驚くほど爽やかになるのだ! 美味い! 美味すぎるぞおおお!」
侯爵は、理性を失ったように肉を切り分け、ソースをたっぷりとつけて口に放り込み始めた。
その姿は、北の守護神というよりは、ただの食いしん坊の老人だ。
だが、それでいい。
胃袋を掴むことは、心を掴むことと同義だ。
私の計算通り、彼はもう私の虜になっている。
「わんっ! リリアさま、ぼくたちも! ぼくたちもたべたいです!」
「にゃあ。いい匂いすぎて、もう我慢の限界よ」
足元で、フェンとノクスが私のドレスの裾を引っ張った。
フェンは尻尾をプロペラのように回し、ノクスは前足で私の膝をトントンと叩いている。
その瞳は、カモ肉に釘付けだ。
「ふふ、ごめんね。ちゃんと二人……二匹の分も用意してあるわよ」
私は、二匹専用の皿に、骨を除いた胸肉の部分をたっぷりと盛り付けた。
もちろん、特製ソースも少しだけ垂らしてある。
皿を床に置いた瞬間、二匹は猛然と食らいついた。
「はぐはぐ! んーっ! おにく、あまいです! じゅーしーです!」
「んぐんぐ……。このソース、天才的ね。野生の臭みが完全に消えて、旨味だけが残っているわ」
二匹の旺盛な食欲を見ていると、こちらまで幸せな気分になってくる。
美味しいものを、好きなだけ食べる。
そのために私は、国を動かし、経済を支配しているのだ。
この瞬間のために、全ての苦労があると言っても過言ではない。
食事の手が落ち着いた頃、私はグラスに注がれた葡萄酒を揺らしながら、本題を切り出した。
「さて、侯爵。お腹も満たされたところで、少し未来のお話をしましょうか」
私の声色が、食事を楽しむ少女のものから、冷徹な経営者のそれへと切り替わる。
侯爵も、ナプキンで口元を拭い、真剣な眼差しを私に向けた。
彼は武人だ。
空気の変化を読み取る能力に長けている。
「うむ。鉄道の話、だったな」
「ええ。このアイゼン要塞まで鉄路が繋がれば、今日いただいた『雪原カモ』を、朝のうちに王都へ運び、その日のディナーで提供することが可能になります」
「一日で……か。馬車ならば一週間はかかる距離だぞ」
「はい。鮮度が命の食材にとって、時間は最大の敵です。ですが私の鉄道ならば、時間を支配できます。王都の貴族たちは、このカモ肉に金貨を惜しまないでしょう。私が保証します」
私は、頭の中で計算された利益予測を提示した。
現在のカモの流通価格は、鮮度劣化のリスク込みで銀貨数枚。
だが、当日便で届けられる最高級品となれば、価格は十倍、いや二十倍に跳ね上がる。
さらに、アイゼン領の特産品である毛皮や、鉱山から採掘される鉄鉱石。
これらも鉄道を使えば、大量かつ安価に輸送できる。
「侯爵の領地は、宝の山です。ただ、それを運び出す手段がなかっただけ。私がその『血管』を通すことで、この痩せた北の大地は、黄金を生む土地へと変わるのです」
私の言葉に、侯爵は息をのんだ。
彼は長年、厳しい自然環境と貧しい領地経営に頭を悩ませてきたはずだ。
領民を飢えさせないために、私財を投じて食料を買い付けたことも一度や二度ではないだろう。
その苦悩が、私の提案によって一気に解消される。
彼の脳裏に、豊かな領地の未来図が鮮明に描かれているのが分かった。
「……夢のような話だ。だが、リリア殿が言うと、それが明日にも実現する現実のように思えてくる」
「夢ではありません。数字に裏付けされた、確定した未来ですわ」
私は、一枚の契約書をテーブルに広げた。
そこには、鉄道建設の許可と、駅周辺の開発権、そして物流におけるアークライト商会の独占権が記されている。
侯爵にとっては、リスクのない話だ。
建設費は私が持ち、彼はただ場所を提供するだけで、莫大な税収と利益を得られるのだから。
「分かった。リリア殿、いやリリア会長。このアイゼン、貴殿の構想に全面的に協力しよう」
侯爵は、太いペンを手に取り、契約書に力強く署名した。
その筆跡には、迷いなど微塵もない。
これで、北の玄関口は完全に開かれた。
私の鉄道網は、南の海から北の果てまで、大陸を縦断する巨大な動脈となる。
その中心で心臓のように鼓動するのは、もちろんアークライト商会だ。
契約書を鞄にしまい、勝利の美酒を味わおうとした時だった。
広間の扉が激しく叩かれ、一人の兵士が転がり込むように入ってきた。
その顔は蒼白で、息も絶え絶えだ。
「ほ、報告します! 緊急事態です!」
「何事だ! 客人の前だぞ、騒々しい!」
侯爵が叱責するが、兵士の動揺は収まらない。
「も、申し訳ありません! しかし、一刻を争う事態でして……! 建設予定の鉄道路線、『嘆きの谷』付近にて、武装した集団が作業を妨害しております!」
「何だと!?」
侯爵が椅子を蹴って立ち上がった。
『嘆きの谷』は、ここから南へ十キロほどの地点にある難所だ。
そこを塞がれれば、鉄道建設は大幅に遅れることになる。
「どこのどいつだ! 我が領内で、そのような真似をする命知らずは!」
「そ、それが……旗印によれば、バーストン公爵家の家臣団と、近隣の貴族たちの連合軍のようです! 彼らは線路の上に岩を積み上げ、『神聖な北の大地を汚す鉄の蛇を通すな』と叫んでおります!」
バーストン公爵。
以前、鉄道建設の起工式で私が叩き潰した、あの古狸か。
まだ懲りずに、親族を使って嫌がらせを続けているとは。
執念深いというよりは、学習能力がないと言うべきね。
「おのれ、バーストンめ……! 王都の権力争いを、我が領地に持ち込む気か! 許さん、直ちに騎士団を出せ! 蹴散らしてくれるわ!」
侯爵が剣を掴み、怒号を上げた。
顔を真っ赤にして激昂するその姿は、まさに『鉄血』の異名にふさわしい。
だが、私は冷静に紅茶を一口すすり、静かに言った。
「お待ちください、侯爵。武力で解決するのは、あまりにも『コスト』が悪すぎますわ」
私の声は小さいが、広間の空気を支配するだけの冷たさを含んでいた。
侯爵が、驚いて動きを止める。
「コストだと? だがリリア殿、奴らは実力行使に出ているのだぞ!」
「ええ。だからこそ、もっと残酷な方法で報いを受けさせるのです。剣で斬れば、彼らはただの被害者面をするでしょう。ですが、彼らの『財布』と『社会的信用』を断てば、彼らは生きたまま地獄を見ることになります」
私は立ち上がり、窓の外の吹雪を見つめた。
外は極寒の世界。
だが、私の胸の奥で燃える怒りの炎は、それよりも遥かに冷たく、そして熱い。
私の邪魔をするということは、私の時間を奪うということ。
そして、私の未来の利益を損なうということ。
それは、私にとって殺人以上の重罪だ。
「レオン様、いらっしゃいますか」
私が虚空に呼びかけると、影の中から護衛騎士のレオン様が姿を現した。
彼はすでに、戦闘態勢を整えている。
「はっ、ここにおります。リリア様、ご命令を」
「すぐに現場へ向かいます。ただし、騎士団は抜剣禁止。彼らを制圧するのは、私の『言葉』と『数字』だけで十分です」
「言葉と数字、でございますか?」
レオン様が怪訝そうな顔をするが、私は不敵に微笑んでみせた。
私には、最強の切り札がある。
裏社会を統べるゼロ兄様の情報網と、王国の経済を握るアークライト銀行の力。
これを使えば、彼らの資金源を断ち、借金を呼び出し、家屋敷を差し押さえることなど、赤子の手をひねるより容易い。
「ゼロ兄様、聞こえていて?」
「ああ、耳が痛くなるほどな」
天井の梁から、兄様がひらりと降りてきた。
その手には、すでに一枚のリストが握られている。
「妨害している連中の名前、所属、裏の資金ルート。全て洗ってあるぞ。バーストン公爵からの送金記録もな」
「さすがは兄様。仕事が早くて助かりますわ」
私はリストを受け取り、一瞥した。
グリーグ子爵、ダンテ男爵……。
名前を見るだけで、彼らの資産状況や弱点が、私の脳内データベースから引き出されていく。
どこの銀行からいくら借りているか。
どこの愛人にいくら貢いでいるか。
それらを全て、白日の下に晒し、公的な記録として確定させてあげる。
「侯爵、あなたはここで温かいスープでも飲んで待っていてくださいな。私が、少しばかり『お掃除』をしてまいりますので」
「し、しかし……相手は武装しているのだぞ!?」
「問題ありません。私には、最強の護衛がついていますから」
私は、足元のフェンとノクスに視線を落とした。
二匹は、すでにやる気満々で牙を剥いている。
「わんっ! じゃまするやつは、おしりにかみつきます!」
「にゃあ。雪の中の狩りなんて、久しぶりで血が騒ぐわね」
聖獣と、魔力を持つ黒猫。
そして、王国最強の騎士と、裏社会の王。
これだけの戦力を引き連れて、負ける要素がどこにあるというのか。
「レオン様、馬車の用意は?」
「はっ! 雪原仕様の魔導ソリを準備させております!」
「素晴らしいわ。行きましょう、私の時間を奪った代償を払わせにね」
ソリは吹雪の中を、驚くべき速度で滑り出していった。
私の頭の中では、すでに妨害派の貴族たちの家系図と資産目録が、目まぐるしく展開されている。
どの銀行から融資を受けているか。
どこの商会と癒着しているか。
それらを一つずつ、私の指先で「凍結」してあげるだけだ。
吹雪の冷たさなど、私の計算の冷酷さに比べれば微々たるもの。
北の夜明けは、まだ始まったばかりであった。
石造りの壁には、歴代の城主が狩ったであろう巨大な魔獣の剥製や、古びた武具が飾られている。
それらは武骨な北の男たちの歴史を物語る装飾だが、今夜の主役はそれらではない。
部屋の中央に鎮座する、樹齢数百年はあろうかという巨木を切り出して作られた長大なテーブル。
その上には、私の食欲を極限まで刺激する「芸術品」が並べられていた。
「さあ、遠慮はいらんぞリリア殿。これが我が領が誇る至高の味、『雪原カモ』のローストだ」
上座に座るアイゼン侯爵が、豪快に笑いながら大皿を示した。
彼の顔には、戦場で見せる鬼のような厳しさは微塵もない。
あるのは、自慢の品を客人に振る舞う、純朴な主人の顔だけだ。
私は、目の前の皿に視線を釘付けにしていた。
そこには、丸々と太ったカモが、黄金色の焼き目を纏って横たわっている。
皮からはパチパチと微かな音が聞こえ、溢れ出した透明な脂が、皿の上で輝く湖を作っていた。
香ばしい肉の焼ける匂いに、野生味あふれる血の香り、そしてほのかに香る香草の風味が混じり合う。
その暴力的なまでの「食」の誘惑に、私の喉がゴクリと鳴った。
「素晴らしいですわ、侯爵。これほどのカモは、王都の高級店でもお目にかかれません」
私はナプキンを膝に広げながら、賛辞を送った。
お世辞ではない。
私の目は、食材の価値を金貨の枚数と同じくらい正確に見抜く。
このカモは、極寒の環境を生き抜くために、皮下に極上の脂を蓄えている。
その脂は、常温でも溶け出すほど融点が低く、口に入れれば瞬時に旨味の爆弾となって炸裂するはずだ。
「ガハハ! そうだろう、そうだろう! 王都の軟弱な飼育鳥とは鍛え方が違うわ! さあ、熱いうちに食ってくれ!」
侯爵に促され、私はナイフとフォークを手に取った。
銀のナイフを、カモの表面に入れる。
パリッ、という軽快な音が響いた瞬間、中から薔薇色の肉汁が溢れ出した。
抵抗なく刃が沈んでいく。
まるで、最高級のバターを切っているような感触だ。
切り分けた一片を、フォークで刺す。
肉の断面は、美しいロゼ色に染まっており、繊維の一本一本が肉汁を抱え込んでキラキラと光っている。
私は、それをゆっくりと口へと運んだ。
「……んッ!」
言葉にならない声が、思わず漏れる。
噛んだ瞬間、パリパリの皮が弾け、香ばしさが鼻腔を突き抜けた。
続いて、濃厚な脂の甘みと、赤身肉の力強い旨味が、舌の上で激しく主張を始める。
だが、決してしつこくはない。
野生の肉特有の鉄分を含んだ酸味が、脂の重さを絶妙に中和しているのだ。
噛めば噛むほど、命の味が湧き出してくる。
これは、ただの食事ではない。
北の大地そのものを体内に取り込む、神聖な儀式だ。
「いかがかな、リリア殿」
侯爵が、身を乗り出して感想を求めてくる。
私は、口の中の至福を飲み込み、恍惚の表情で答えた。
「絶品ですわ……。この濃厚な旨味、そしてとろけるような食感。間違いなく、私の人生で一番のカモ料理です」
「おお、そうか! 気に入ってもらえて何よりだ!」
侯爵は、我が子を褒められたように顔をくしゃくしゃにして喜んだ。
私は、さらに提案を重ねる。
「ですが侯爵、これに『ひと手間』加えるだけで、この料理はさらに化けますわ」
「ひと手間、だと?」
私は、懐から小さな小瓶を二つ取り出した。
一つは、シオン王国から輸入した最高級の「醤油」。
もう一つは、アークライト領で独自に開発した、酸味の強い「ベリーソース」だ。
私は、小皿の上でこの二つを絶妙な比率で混ぜ合わせた。
黒い液体と赤い液体が混ざり合い、妖艶な紫色へと変わる。
「これを、少しだけつけて召し上がってみてください」
私は、切り分けたカモ肉に特製ソースを絡め、侯爵の皿へと差し出した。
侯爵は半信半疑といった顔でそれを口に運ぶ。
もぐ、もぐ。
彼の動きが、ピタリと止まった。
次の瞬間、カッ!と目が見開かれる。
「な、なんだこれはぁぁぁッ!?」
侯爵の絶叫が、石造りの広間に反響した。
周囲に控えていた兵士たちが、敵襲かと身構えるほどの声量だ。
「醤油の持つ熟成された塩気とコクが、カモの脂の甘みを極限まで引き立てている! そこにベリーの酸味が加わることで、後味が驚くほど爽やかになるのだ! 美味い! 美味すぎるぞおおお!」
侯爵は、理性を失ったように肉を切り分け、ソースをたっぷりとつけて口に放り込み始めた。
その姿は、北の守護神というよりは、ただの食いしん坊の老人だ。
だが、それでいい。
胃袋を掴むことは、心を掴むことと同義だ。
私の計算通り、彼はもう私の虜になっている。
「わんっ! リリアさま、ぼくたちも! ぼくたちもたべたいです!」
「にゃあ。いい匂いすぎて、もう我慢の限界よ」
足元で、フェンとノクスが私のドレスの裾を引っ張った。
フェンは尻尾をプロペラのように回し、ノクスは前足で私の膝をトントンと叩いている。
その瞳は、カモ肉に釘付けだ。
「ふふ、ごめんね。ちゃんと二人……二匹の分も用意してあるわよ」
私は、二匹専用の皿に、骨を除いた胸肉の部分をたっぷりと盛り付けた。
もちろん、特製ソースも少しだけ垂らしてある。
皿を床に置いた瞬間、二匹は猛然と食らいついた。
「はぐはぐ! んーっ! おにく、あまいです! じゅーしーです!」
「んぐんぐ……。このソース、天才的ね。野生の臭みが完全に消えて、旨味だけが残っているわ」
二匹の旺盛な食欲を見ていると、こちらまで幸せな気分になってくる。
美味しいものを、好きなだけ食べる。
そのために私は、国を動かし、経済を支配しているのだ。
この瞬間のために、全ての苦労があると言っても過言ではない。
食事の手が落ち着いた頃、私はグラスに注がれた葡萄酒を揺らしながら、本題を切り出した。
「さて、侯爵。お腹も満たされたところで、少し未来のお話をしましょうか」
私の声色が、食事を楽しむ少女のものから、冷徹な経営者のそれへと切り替わる。
侯爵も、ナプキンで口元を拭い、真剣な眼差しを私に向けた。
彼は武人だ。
空気の変化を読み取る能力に長けている。
「うむ。鉄道の話、だったな」
「ええ。このアイゼン要塞まで鉄路が繋がれば、今日いただいた『雪原カモ』を、朝のうちに王都へ運び、その日のディナーで提供することが可能になります」
「一日で……か。馬車ならば一週間はかかる距離だぞ」
「はい。鮮度が命の食材にとって、時間は最大の敵です。ですが私の鉄道ならば、時間を支配できます。王都の貴族たちは、このカモ肉に金貨を惜しまないでしょう。私が保証します」
私は、頭の中で計算された利益予測を提示した。
現在のカモの流通価格は、鮮度劣化のリスク込みで銀貨数枚。
だが、当日便で届けられる最高級品となれば、価格は十倍、いや二十倍に跳ね上がる。
さらに、アイゼン領の特産品である毛皮や、鉱山から採掘される鉄鉱石。
これらも鉄道を使えば、大量かつ安価に輸送できる。
「侯爵の領地は、宝の山です。ただ、それを運び出す手段がなかっただけ。私がその『血管』を通すことで、この痩せた北の大地は、黄金を生む土地へと変わるのです」
私の言葉に、侯爵は息をのんだ。
彼は長年、厳しい自然環境と貧しい領地経営に頭を悩ませてきたはずだ。
領民を飢えさせないために、私財を投じて食料を買い付けたことも一度や二度ではないだろう。
その苦悩が、私の提案によって一気に解消される。
彼の脳裏に、豊かな領地の未来図が鮮明に描かれているのが分かった。
「……夢のような話だ。だが、リリア殿が言うと、それが明日にも実現する現実のように思えてくる」
「夢ではありません。数字に裏付けされた、確定した未来ですわ」
私は、一枚の契約書をテーブルに広げた。
そこには、鉄道建設の許可と、駅周辺の開発権、そして物流におけるアークライト商会の独占権が記されている。
侯爵にとっては、リスクのない話だ。
建設費は私が持ち、彼はただ場所を提供するだけで、莫大な税収と利益を得られるのだから。
「分かった。リリア殿、いやリリア会長。このアイゼン、貴殿の構想に全面的に協力しよう」
侯爵は、太いペンを手に取り、契約書に力強く署名した。
その筆跡には、迷いなど微塵もない。
これで、北の玄関口は完全に開かれた。
私の鉄道網は、南の海から北の果てまで、大陸を縦断する巨大な動脈となる。
その中心で心臓のように鼓動するのは、もちろんアークライト商会だ。
契約書を鞄にしまい、勝利の美酒を味わおうとした時だった。
広間の扉が激しく叩かれ、一人の兵士が転がり込むように入ってきた。
その顔は蒼白で、息も絶え絶えだ。
「ほ、報告します! 緊急事態です!」
「何事だ! 客人の前だぞ、騒々しい!」
侯爵が叱責するが、兵士の動揺は収まらない。
「も、申し訳ありません! しかし、一刻を争う事態でして……! 建設予定の鉄道路線、『嘆きの谷』付近にて、武装した集団が作業を妨害しております!」
「何だと!?」
侯爵が椅子を蹴って立ち上がった。
『嘆きの谷』は、ここから南へ十キロほどの地点にある難所だ。
そこを塞がれれば、鉄道建設は大幅に遅れることになる。
「どこのどいつだ! 我が領内で、そのような真似をする命知らずは!」
「そ、それが……旗印によれば、バーストン公爵家の家臣団と、近隣の貴族たちの連合軍のようです! 彼らは線路の上に岩を積み上げ、『神聖な北の大地を汚す鉄の蛇を通すな』と叫んでおります!」
バーストン公爵。
以前、鉄道建設の起工式で私が叩き潰した、あの古狸か。
まだ懲りずに、親族を使って嫌がらせを続けているとは。
執念深いというよりは、学習能力がないと言うべきね。
「おのれ、バーストンめ……! 王都の権力争いを、我が領地に持ち込む気か! 許さん、直ちに騎士団を出せ! 蹴散らしてくれるわ!」
侯爵が剣を掴み、怒号を上げた。
顔を真っ赤にして激昂するその姿は、まさに『鉄血』の異名にふさわしい。
だが、私は冷静に紅茶を一口すすり、静かに言った。
「お待ちください、侯爵。武力で解決するのは、あまりにも『コスト』が悪すぎますわ」
私の声は小さいが、広間の空気を支配するだけの冷たさを含んでいた。
侯爵が、驚いて動きを止める。
「コストだと? だがリリア殿、奴らは実力行使に出ているのだぞ!」
「ええ。だからこそ、もっと残酷な方法で報いを受けさせるのです。剣で斬れば、彼らはただの被害者面をするでしょう。ですが、彼らの『財布』と『社会的信用』を断てば、彼らは生きたまま地獄を見ることになります」
私は立ち上がり、窓の外の吹雪を見つめた。
外は極寒の世界。
だが、私の胸の奥で燃える怒りの炎は、それよりも遥かに冷たく、そして熱い。
私の邪魔をするということは、私の時間を奪うということ。
そして、私の未来の利益を損なうということ。
それは、私にとって殺人以上の重罪だ。
「レオン様、いらっしゃいますか」
私が虚空に呼びかけると、影の中から護衛騎士のレオン様が姿を現した。
彼はすでに、戦闘態勢を整えている。
「はっ、ここにおります。リリア様、ご命令を」
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「言葉と数字、でございますか?」
レオン様が怪訝そうな顔をするが、私は不敵に微笑んでみせた。
私には、最強の切り札がある。
裏社会を統べるゼロ兄様の情報網と、王国の経済を握るアークライト銀行の力。
これを使えば、彼らの資金源を断ち、借金を呼び出し、家屋敷を差し押さえることなど、赤子の手をひねるより容易い。
「ゼロ兄様、聞こえていて?」
「ああ、耳が痛くなるほどな」
天井の梁から、兄様がひらりと降りてきた。
その手には、すでに一枚のリストが握られている。
「妨害している連中の名前、所属、裏の資金ルート。全て洗ってあるぞ。バーストン公爵からの送金記録もな」
「さすがは兄様。仕事が早くて助かりますわ」
私はリストを受け取り、一瞥した。
グリーグ子爵、ダンテ男爵……。
名前を見るだけで、彼らの資産状況や弱点が、私の脳内データベースから引き出されていく。
どこの銀行からいくら借りているか。
どこの愛人にいくら貢いでいるか。
それらを全て、白日の下に晒し、公的な記録として確定させてあげる。
「侯爵、あなたはここで温かいスープでも飲んで待っていてくださいな。私が、少しばかり『お掃除』をしてまいりますので」
「し、しかし……相手は武装しているのだぞ!?」
「問題ありません。私には、最強の護衛がついていますから」
私は、足元のフェンとノクスに視線を落とした。
二匹は、すでにやる気満々で牙を剥いている。
「わんっ! じゃまするやつは、おしりにかみつきます!」
「にゃあ。雪の中の狩りなんて、久しぶりで血が騒ぐわね」
聖獣と、魔力を持つ黒猫。
そして、王国最強の騎士と、裏社会の王。
これだけの戦力を引き連れて、負ける要素がどこにあるというのか。
「レオン様、馬車の用意は?」
「はっ! 雪原仕様の魔導ソリを準備させております!」
「素晴らしいわ。行きましょう、私の時間を奪った代償を払わせにね」
ソリは吹雪の中を、驚くべき速度で滑り出していった。
私の頭の中では、すでに妨害派の貴族たちの家系図と資産目録が、目まぐるしく展開されている。
どの銀行から融資を受けているか。
どこの商会と癒着しているか。
それらを一つずつ、私の指先で「凍結」してあげるだけだ。
吹雪の冷たさなど、私の計算の冷酷さに比べれば微々たるもの。
北の夜明けは、まだ始まったばかりであった。
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