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第73話 蒼海の覇権と果実の宝石箱
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王都の別邸にある執務室の窓から、私はどこまでも高く広がる蒼穹を眺めていた。
雲ひとつない快晴。
それはまるで、アークライト商会の未来を暗示するかのような完璧な青色だ。
私は六歳になり、視界が以前よりも数センチ高くなったことを実感する。
だが、私の見ている世界は物理的な高さ以上に、遥か彼方まで広がっていた。
手元にある分厚い帳簿には、国家予算に匹敵するほどの莫大な数字が羅列されている。
この半年間で、商会の純利益は私の予測をさらに三割も上回るペースで跳ね上がっていた。
北の雪原カモ、西の黄金レモン、そして中央を貫く大動脈である鉄道網。
これら全てが、止まることを知らない巨大な集金システムとなって、私の金庫を黄金で満たし続けている。
数字が増えるたびに、私の脳内では心地よいファンファーレが鳴り響く。
金貨の輝きは、何度見ても飽きることがない。
「カシアン。東の海域に関する詳細な調査報告、まとまったかしら」
私は愛用の万年筆を置き、隣に控えるカシアンに視線を向けた。
彼は今や、私の右腕として商会の心臓部を担う筆頭監査役だ。
その眼鏡の奥にある瞳は、私の意図を瞬時に汲み取る鋭さを宿している。
「はい、リリア様。こちらに」
カシアンは恭しく一礼し、一通の分厚い羊皮紙をデスクの上に広げた。
そこには、東の海岸線の地形、水深、潮の流れ、そして生息する魚介類のデータがびっしりと書き込まれている。
「東の海岸線は、大陸でも有数の豊かな漁場となっております。特に寒流と暖流が交わる『双龍の海域』は、脂の乗った魚たちの楽園と言っても過言ではありません」
「しかし、現地の漁師たちは、未だに風任せの帆船や手漕ぎ舟で漁を行っているのが現状です。波打ち際の小魚を追うのが精一杯で、沖合の巨大魚には手も足も出ない状態かと」
「非効率極まりないわね。宝の山を前にして、指をくわえて見ているだけなんて」
私は報告書に目を落とし、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
東の海には、まだ見ぬ巨大なマグロや、深海に潜む甘いエビ、そして濃厚な味噌を持つカニたちが眠っているはずだ。
それらを放置しておくことは、私にとって耐えがたい機会損失であり、食文化に対する冒涜でしかない。
獲れないのではない。
獲るための道具と知恵がないだけだ。
「物流の速度は、鉄道で手に入れましたわ。次は、採取の速度と規模を劇的に引き上げる番ね」
「カシアン、造船所に連絡して。最新型の魔導エンジンを搭載した、大型漁船団を建造させるわ」
私の言葉に、カシアンは驚きのあまり一瞬だけ息を呑んだ。
冷静沈着な彼にしては珍しい反応だ。
「船に……魔導エンジンを、でございますか? 鉄道用の機関を海で使うなど、前例がありませんが」
「前例がないなら、作ればいいだけの話よ。風待ちや潮待ちなんて、時間の無駄だわ」
「圧倒的な出力で波を切り裂き、魚群探知の魔導具で獲物を根こそぎ攫う。それが、私の求める『漁』の形よ」
私は立ち上がり、壁に貼られた大陸全土の巨大な地図に歩み寄った。
そして、東の複雑に入り組んだ海岸線の一点に、赤いペンで力強く新しい駅の印を書き込む。
「ここを『アークライト東方港駅』として、大規模な港湾都市を建設します」
「巨大な冷蔵倉庫、加工場、そして鉄道のターミナルを直結させるの」
「王都から特急で三時間。朝に水揚げされた魚が、昼には王都のレストランでカルパッチョになり、夜には家庭の食卓でムニエルになる。そんな物流革命を起こすのよ」
想像しただけで、私の口の中に幸せな唾液が溢れてきた。
新鮮な刺身の弾力、塩焼きにした時の香ばしい脂の匂い、そして魚介の旨味が凝縮された濃厚なスープ。
それら全てが、私の日常になるのだ。
そのためには、まず地元の邪魔な障害物を綺麗さっぱり掃除する必要がある。
「セバスチャン。東の領主は、どのような人物かしら。私の計画を理解できるだけの知能は持っていて?」
影の中から、執事のセバスチャンが音もなく姿を現した。
彼は常に私の半歩後ろに控え、必要な情報を必要な瞬間に提供する完璧な従者だ。
「東の海岸線を統括するのは、オーシャン卿と呼ばれる男です。代々、この地の漁業権を独占してきた古い家柄の当主でございます」
「彼は先祖代々の権利を盾に、他国の介入や新しい技術の導入を一切拒んでいます。口癖は『海の掟は絶対だ』とのこと」
「オーシャン卿……。名前だけは立派だけれど、中身はどうかしらね」
「伝統を盾にする人間は、大抵の場合、変化を恐れる臆病者か、既得権益にしがみつく強欲な老人と相場が決まっているわ」
私は冷ややかな視線を地図に向けたまま、天井の梁に向かって声をかけた。
「ゼロ兄様。彼の裏の帳簿、もう洗ってあるでしょう? どんな埃が出てきたのかしら」
ヒュンッ、と風を切る音がして、天井から黒い影が軽やかに飛び降りてきた。
ゼロ兄様だ。
いつもの黒装束に身を包み、その表情には獲物を追い詰める狩人のような愉悦が浮かんでいる。
「ああ、期待通りだぞリリア。奴は真っ黒だ」
「漁師たちから『海神への供物』と称して法外な税を徴収し、さらに密漁船を見逃す代わりに賄賂を受け取っている」
「だが、巻き上げた金は領地の整備には一銭も使われていない。全額、王都の地下カジノで泡となって消えているようだな」
「あら。ギャンブルで身を滅ぼす領主なんて、あまりにも典型的すぎて欠伸が出るわ」
「でも、お掃除しやすくて助かるわね。金に汚い人間は、金で首を絞めるのが一番簡単だもの」
私は冷たい笑みを浮かべ、デスクに戻って新しい契約書の草案を書き始めた。
弱みを握り、経済的に追い詰め、逃げ場をなくしてから「救済」という形を取って全てを奪う。
これが、アークライト商会が最も得意とする、慈悲深き合併買収の黄金パターンだ。
オーシャン卿には、私の財布を潤すための踏み台になってもらおう。
「フェン、ノクス。次は海よ。美味しいお魚、食べたいでしょう?」
私は足元でくつろいでいた二匹の相棒に声をかけた。
フェンは尻尾をプロペラのように激しく回し、ノクスは期待に目を輝かせて伸びをする。
「わんっ! 海! 泳ぐのはちょっと苦手ですが、お魚は大好きです! マグロ! カツオ! タイ!」
「にゃあ。私は砂浜で、獲れたての小魚を炭火で焼いてもらいたいわ。肝の苦味がたまらないのよね」
二匹とも、食に関しては私と同じくらい貪欲だ。
フェンの銀色の毛並みは、窓から差し込む日の光を浴びて神々しく輝き、その存在だけで部屋の空気を浄化しているかのようだ。
ノクスの瞳は、影の中でも獲物を逃さない鋭さと、高い知性を宿している。
彼らが側にいれば、どんな荒波も恐れるに足りない。
「レオン様。騎士団の派遣準備をお願い。今回は海上警備も兼ねますから、船酔いしない兵士を選抜してちょうだい」
扉の近くに控えていたレオン様が、力強く拳を胸に当てて敬礼した。
彼の金髪は今日も完璧に整えられ、その立ち姿は王宮騎士の模範そのものだ。
「はっ! すでに水練に長けた精鋭五十名を選抜済みでございます! アークライトの威光を、東の荒くれ者たちに骨の髄まで知らしめてまいります!」
「頼もしいわね。海賊が出たら、遠慮なく海の藻屑にしてしまって構わないわ」
私は満足げに頷き、セバスチャンがタイミングよく運んできたおやつに手を伸ばした。
今日のおやつは、西方の砂漠から届いたばかりの新鮮な果実をたっぷり使った「宝石ゼリー」だ。
クリスタルガラスの器の中で、透明なゼリーが光を反射してきらめいている。
その中には、太陽の恵みを凝縮したようなオレンジと、爽やかな香りを放つレモンの果肉が、まるで芸術品のように閉じ込められていた。
「まあ、美しい。食べるのが惜しくなるくらいだわ」
私は銀のスプーンですくい、ぷるぷると震えるゼリーを一口食べた。
つるんとした食感と共に、ひんやりとした清涼感が口いっぱいに広がる。
直後に、果実の濃厚な甘みと酸味が弾け、脳髄を心地よく刺激した。
「……んんっ、最高だわ」
「この透明感、そして喉越しの良さ。西方の太陽と、アークライト領の清らかな水が出会って生まれた奇跡ね」
この甘みが、次の戦略を練るための最良の糧になる。
糖分が行き渡った脳は、次々と新しいビジネスプランを構築していく。
東の港で水揚げされた魚を缶詰に加工し、西の砂漠へ輸出する。
帰りの列車には、南国のフルーツを積んで北国へ運ぶ。
完璧な循環。
無駄のない利益の連鎖。
私はゼリーを完食し、口元をナプキンで優雅に拭った。
東方港駅の建設予定地は、すでに測量部隊が入念な調査を終えている。
あとは、私が現地へ乗り込み、オーシャン卿に引導を渡し、建設許可証に判子を押させるだけのことだ。
「さて。馬車の用意はいいかしら。特別編成の特急列車を待たせているわ」
私は立ち上がり、セバスチャンが差し出した特注の旅用マントを羽織った。
背中にはアークライト家の紋章が金糸で刺繍されている。
これは単なる服ではない。
私がこの国の経済の支配者であることを示す、戦闘服だ。
「リリア様、お足元にお気をつけて。東の風は少々荒いとの予報です」
「風? 逆風なら帆を張って進むだけよ。追い風なら加速する。どちらにしても、前に進むことに変わりはないわ」
私は堂々とした足取りで屋敷の廊下を進み、玄関ホールへと向かった。
そこでは、数十人の使用人たちが一糸乱れぬ隊列で整列し、私を見送る準備を整えていた。
彼らの目には、私への絶対的な忠誠と、これから私が持ち帰るであろう新たな「勝利」への期待が宿っている。
「リリア様、いってらっしゃいませ! どうぞ、美味しいお土産を!」
「東の魚介、楽しみにしております!」
メイドたちの明るい声に、私は小さく手を振って応えた。
彼女たちの期待に応えるためにも、手ぶらで帰るわけにはいかない。
最高級の海産物と、新たな領土の権利書を土産に凱旋してあげましょう。
駅へ向かう馬車の中で、私は手帳を開き、新しい数字を書き込んだ。
東方の港が完成し、海運ルートが確立されれば、アークライト商会の総資産は現在の試算からさらに三割増える。
その資金があれば、次は大陸横断の地下トンネル計画を実行に移せるかもしれない。
あるいは、空を飛ぶ輸送船の開発に着手するか。
私の野望は、青い海のようにどこまでも広く、そして深海のように底知れず深くなっていく。
「リリア、東の波は荒いぞ。海千山千の漁師ども相手だ、一筋縄ではいかんかもしれん」
隣の席に座っていたゼロ兄様が、窓の外を眺めながら不敵な笑みを浮かべて尋ねてきた。
彼の瞳には、これから始まる騒動を楽しんでいるような色が浮かんでいる。
「あら。私の計算は、嵐の進路予測よりも正確ですわよ、兄様」
「荒い波なら、凍らせて道を作ればいいだけのこと。抵抗するなら、経済という名の津波で飲み込んであげるわ」
私は窓の外を見つめ、これからの長い旅路に思いを馳せた。
美味しいもののために、私は世界を私の色に塗り替える。
そのためのインクは十分にあり、キャンバスは無限に広がっているのだ。
アークライトの鉄路は、今日も力強く、そして貪欲に東へと伸びていた。
「さあ、着いたわよ」
馬車が駅の貴賓室専用入り口に横付けされる。
そこには、黒光りする車体が美しい、私の専用列車が蒸気を上げて待っていた。
これから始まるのは、単なる視察旅行ではない。
東の海を私の食卓に変えるための、優雅で残酷な侵略の旅なのだ。
「乗りなさい、フェン、ノクス。お魚天国への片道切符よ」
「わふっ! まかせてください!」
「にゃあ。お腹空かせておくわ」
私たちは列車に乗り込み、ふかふかのシートに身を沈めた。
発車のベルが鳴り響く。
車輪が動き出し、心地よい振動が伝わってくる。
「……次は、どんな味が私を待っているのかしら」
私は呟き、唇を湿らせた。
列車の窓の外で、王都の景色が後方へと飛び去っていく。
私の視線は、すでに遥か彼方の水平線に向けられていた。
雲ひとつない快晴。
それはまるで、アークライト商会の未来を暗示するかのような完璧な青色だ。
私は六歳になり、視界が以前よりも数センチ高くなったことを実感する。
だが、私の見ている世界は物理的な高さ以上に、遥か彼方まで広がっていた。
手元にある分厚い帳簿には、国家予算に匹敵するほどの莫大な数字が羅列されている。
この半年間で、商会の純利益は私の予測をさらに三割も上回るペースで跳ね上がっていた。
北の雪原カモ、西の黄金レモン、そして中央を貫く大動脈である鉄道網。
これら全てが、止まることを知らない巨大な集金システムとなって、私の金庫を黄金で満たし続けている。
数字が増えるたびに、私の脳内では心地よいファンファーレが鳴り響く。
金貨の輝きは、何度見ても飽きることがない。
「カシアン。東の海域に関する詳細な調査報告、まとまったかしら」
私は愛用の万年筆を置き、隣に控えるカシアンに視線を向けた。
彼は今や、私の右腕として商会の心臓部を担う筆頭監査役だ。
その眼鏡の奥にある瞳は、私の意図を瞬時に汲み取る鋭さを宿している。
「はい、リリア様。こちらに」
カシアンは恭しく一礼し、一通の分厚い羊皮紙をデスクの上に広げた。
そこには、東の海岸線の地形、水深、潮の流れ、そして生息する魚介類のデータがびっしりと書き込まれている。
「東の海岸線は、大陸でも有数の豊かな漁場となっております。特に寒流と暖流が交わる『双龍の海域』は、脂の乗った魚たちの楽園と言っても過言ではありません」
「しかし、現地の漁師たちは、未だに風任せの帆船や手漕ぎ舟で漁を行っているのが現状です。波打ち際の小魚を追うのが精一杯で、沖合の巨大魚には手も足も出ない状態かと」
「非効率極まりないわね。宝の山を前にして、指をくわえて見ているだけなんて」
私は報告書に目を落とし、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
東の海には、まだ見ぬ巨大なマグロや、深海に潜む甘いエビ、そして濃厚な味噌を持つカニたちが眠っているはずだ。
それらを放置しておくことは、私にとって耐えがたい機会損失であり、食文化に対する冒涜でしかない。
獲れないのではない。
獲るための道具と知恵がないだけだ。
「物流の速度は、鉄道で手に入れましたわ。次は、採取の速度と規模を劇的に引き上げる番ね」
「カシアン、造船所に連絡して。最新型の魔導エンジンを搭載した、大型漁船団を建造させるわ」
私の言葉に、カシアンは驚きのあまり一瞬だけ息を呑んだ。
冷静沈着な彼にしては珍しい反応だ。
「船に……魔導エンジンを、でございますか? 鉄道用の機関を海で使うなど、前例がありませんが」
「前例がないなら、作ればいいだけの話よ。風待ちや潮待ちなんて、時間の無駄だわ」
「圧倒的な出力で波を切り裂き、魚群探知の魔導具で獲物を根こそぎ攫う。それが、私の求める『漁』の形よ」
私は立ち上がり、壁に貼られた大陸全土の巨大な地図に歩み寄った。
そして、東の複雑に入り組んだ海岸線の一点に、赤いペンで力強く新しい駅の印を書き込む。
「ここを『アークライト東方港駅』として、大規模な港湾都市を建設します」
「巨大な冷蔵倉庫、加工場、そして鉄道のターミナルを直結させるの」
「王都から特急で三時間。朝に水揚げされた魚が、昼には王都のレストランでカルパッチョになり、夜には家庭の食卓でムニエルになる。そんな物流革命を起こすのよ」
想像しただけで、私の口の中に幸せな唾液が溢れてきた。
新鮮な刺身の弾力、塩焼きにした時の香ばしい脂の匂い、そして魚介の旨味が凝縮された濃厚なスープ。
それら全てが、私の日常になるのだ。
そのためには、まず地元の邪魔な障害物を綺麗さっぱり掃除する必要がある。
「セバスチャン。東の領主は、どのような人物かしら。私の計画を理解できるだけの知能は持っていて?」
影の中から、執事のセバスチャンが音もなく姿を現した。
彼は常に私の半歩後ろに控え、必要な情報を必要な瞬間に提供する完璧な従者だ。
「東の海岸線を統括するのは、オーシャン卿と呼ばれる男です。代々、この地の漁業権を独占してきた古い家柄の当主でございます」
「彼は先祖代々の権利を盾に、他国の介入や新しい技術の導入を一切拒んでいます。口癖は『海の掟は絶対だ』とのこと」
「オーシャン卿……。名前だけは立派だけれど、中身はどうかしらね」
「伝統を盾にする人間は、大抵の場合、変化を恐れる臆病者か、既得権益にしがみつく強欲な老人と相場が決まっているわ」
私は冷ややかな視線を地図に向けたまま、天井の梁に向かって声をかけた。
「ゼロ兄様。彼の裏の帳簿、もう洗ってあるでしょう? どんな埃が出てきたのかしら」
ヒュンッ、と風を切る音がして、天井から黒い影が軽やかに飛び降りてきた。
ゼロ兄様だ。
いつもの黒装束に身を包み、その表情には獲物を追い詰める狩人のような愉悦が浮かんでいる。
「ああ、期待通りだぞリリア。奴は真っ黒だ」
「漁師たちから『海神への供物』と称して法外な税を徴収し、さらに密漁船を見逃す代わりに賄賂を受け取っている」
「だが、巻き上げた金は領地の整備には一銭も使われていない。全額、王都の地下カジノで泡となって消えているようだな」
「あら。ギャンブルで身を滅ぼす領主なんて、あまりにも典型的すぎて欠伸が出るわ」
「でも、お掃除しやすくて助かるわね。金に汚い人間は、金で首を絞めるのが一番簡単だもの」
私は冷たい笑みを浮かべ、デスクに戻って新しい契約書の草案を書き始めた。
弱みを握り、経済的に追い詰め、逃げ場をなくしてから「救済」という形を取って全てを奪う。
これが、アークライト商会が最も得意とする、慈悲深き合併買収の黄金パターンだ。
オーシャン卿には、私の財布を潤すための踏み台になってもらおう。
「フェン、ノクス。次は海よ。美味しいお魚、食べたいでしょう?」
私は足元でくつろいでいた二匹の相棒に声をかけた。
フェンは尻尾をプロペラのように激しく回し、ノクスは期待に目を輝かせて伸びをする。
「わんっ! 海! 泳ぐのはちょっと苦手ですが、お魚は大好きです! マグロ! カツオ! タイ!」
「にゃあ。私は砂浜で、獲れたての小魚を炭火で焼いてもらいたいわ。肝の苦味がたまらないのよね」
二匹とも、食に関しては私と同じくらい貪欲だ。
フェンの銀色の毛並みは、窓から差し込む日の光を浴びて神々しく輝き、その存在だけで部屋の空気を浄化しているかのようだ。
ノクスの瞳は、影の中でも獲物を逃さない鋭さと、高い知性を宿している。
彼らが側にいれば、どんな荒波も恐れるに足りない。
「レオン様。騎士団の派遣準備をお願い。今回は海上警備も兼ねますから、船酔いしない兵士を選抜してちょうだい」
扉の近くに控えていたレオン様が、力強く拳を胸に当てて敬礼した。
彼の金髪は今日も完璧に整えられ、その立ち姿は王宮騎士の模範そのものだ。
「はっ! すでに水練に長けた精鋭五十名を選抜済みでございます! アークライトの威光を、東の荒くれ者たちに骨の髄まで知らしめてまいります!」
「頼もしいわね。海賊が出たら、遠慮なく海の藻屑にしてしまって構わないわ」
私は満足げに頷き、セバスチャンがタイミングよく運んできたおやつに手を伸ばした。
今日のおやつは、西方の砂漠から届いたばかりの新鮮な果実をたっぷり使った「宝石ゼリー」だ。
クリスタルガラスの器の中で、透明なゼリーが光を反射してきらめいている。
その中には、太陽の恵みを凝縮したようなオレンジと、爽やかな香りを放つレモンの果肉が、まるで芸術品のように閉じ込められていた。
「まあ、美しい。食べるのが惜しくなるくらいだわ」
私は銀のスプーンですくい、ぷるぷると震えるゼリーを一口食べた。
つるんとした食感と共に、ひんやりとした清涼感が口いっぱいに広がる。
直後に、果実の濃厚な甘みと酸味が弾け、脳髄を心地よく刺激した。
「……んんっ、最高だわ」
「この透明感、そして喉越しの良さ。西方の太陽と、アークライト領の清らかな水が出会って生まれた奇跡ね」
この甘みが、次の戦略を練るための最良の糧になる。
糖分が行き渡った脳は、次々と新しいビジネスプランを構築していく。
東の港で水揚げされた魚を缶詰に加工し、西の砂漠へ輸出する。
帰りの列車には、南国のフルーツを積んで北国へ運ぶ。
完璧な循環。
無駄のない利益の連鎖。
私はゼリーを完食し、口元をナプキンで優雅に拭った。
東方港駅の建設予定地は、すでに測量部隊が入念な調査を終えている。
あとは、私が現地へ乗り込み、オーシャン卿に引導を渡し、建設許可証に判子を押させるだけのことだ。
「さて。馬車の用意はいいかしら。特別編成の特急列車を待たせているわ」
私は立ち上がり、セバスチャンが差し出した特注の旅用マントを羽織った。
背中にはアークライト家の紋章が金糸で刺繍されている。
これは単なる服ではない。
私がこの国の経済の支配者であることを示す、戦闘服だ。
「リリア様、お足元にお気をつけて。東の風は少々荒いとの予報です」
「風? 逆風なら帆を張って進むだけよ。追い風なら加速する。どちらにしても、前に進むことに変わりはないわ」
私は堂々とした足取りで屋敷の廊下を進み、玄関ホールへと向かった。
そこでは、数十人の使用人たちが一糸乱れぬ隊列で整列し、私を見送る準備を整えていた。
彼らの目には、私への絶対的な忠誠と、これから私が持ち帰るであろう新たな「勝利」への期待が宿っている。
「リリア様、いってらっしゃいませ! どうぞ、美味しいお土産を!」
「東の魚介、楽しみにしております!」
メイドたちの明るい声に、私は小さく手を振って応えた。
彼女たちの期待に応えるためにも、手ぶらで帰るわけにはいかない。
最高級の海産物と、新たな領土の権利書を土産に凱旋してあげましょう。
駅へ向かう馬車の中で、私は手帳を開き、新しい数字を書き込んだ。
東方の港が完成し、海運ルートが確立されれば、アークライト商会の総資産は現在の試算からさらに三割増える。
その資金があれば、次は大陸横断の地下トンネル計画を実行に移せるかもしれない。
あるいは、空を飛ぶ輸送船の開発に着手するか。
私の野望は、青い海のようにどこまでも広く、そして深海のように底知れず深くなっていく。
「リリア、東の波は荒いぞ。海千山千の漁師ども相手だ、一筋縄ではいかんかもしれん」
隣の席に座っていたゼロ兄様が、窓の外を眺めながら不敵な笑みを浮かべて尋ねてきた。
彼の瞳には、これから始まる騒動を楽しんでいるような色が浮かんでいる。
「あら。私の計算は、嵐の進路予測よりも正確ですわよ、兄様」
「荒い波なら、凍らせて道を作ればいいだけのこと。抵抗するなら、経済という名の津波で飲み込んであげるわ」
私は窓の外を見つめ、これからの長い旅路に思いを馳せた。
美味しいもののために、私は世界を私の色に塗り替える。
そのためのインクは十分にあり、キャンバスは無限に広がっているのだ。
アークライトの鉄路は、今日も力強く、そして貪欲に東へと伸びていた。
「さあ、着いたわよ」
馬車が駅の貴賓室専用入り口に横付けされる。
そこには、黒光りする車体が美しい、私の専用列車が蒸気を上げて待っていた。
これから始まるのは、単なる視察旅行ではない。
東の海を私の食卓に変えるための、優雅で残酷な侵略の旅なのだ。
「乗りなさい、フェン、ノクス。お魚天国への片道切符よ」
「わふっ! まかせてください!」
「にゃあ。お腹空かせておくわ」
私たちは列車に乗り込み、ふかふかのシートに身を沈めた。
発車のベルが鳴り響く。
車輪が動き出し、心地よい振動が伝わってくる。
「……次は、どんな味が私を待っているのかしら」
私は呟き、唇を湿らせた。
列車の窓の外で、王都の景色が後方へと飛び去っていく。
私の視線は、すでに遥か彼方の水平線に向けられていた。
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突然届いた双子の姉からの手紙。
【これをあなたが読んでいるころにはわたしはもう死んでいることでしょう。わたしのことは探さないでね。双子を引き取ってもらえないかしら?】
姉の遺言通り双子を育てようと姉の嫁ぎ先へと突入する。
双子を顧みなかったという元夫のウィルバート公爵に何とか双子を引き取れるよう掛け合うが、話の流れからそのまま公爵家に滞在して双子を育てる羽目に。
だが、この公爵家、何かおかしい?
異常に気付いたハンナは公爵家に巣くう膿をとりのぞくべく、奮闘しはじめる。
一方ハンナを最初は適当にあしらっていたウィルバートだったが、ハンナの魅力に気付き始め……。
ハンナ・キャロライン・バーディナ 22歳
バーディナ伯爵家令嬢
✖️
ウィルバート・アドルファス・キングスフォード 26歳
キングスフォード公爵
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