76 / 90
第76話 五層の甘美と愚か者の市場操作
しおりを挟む
西方の熱い風が、列車の窓の外で遠ざかっていく。
私たちの乗った特急列車は、夕暮れの王都へと滑り込んだ。
ホームには、いつものようにセバスチャンが立っている。
彼の後ろには、真っ白な服を着たパティシエたちが並んでいた。
みんな、緊張した顔で私の帰りを待っている。
「おかえりなさいませ、リリア様。長旅、お疲れ様でした」
セバスチャンの完璧に計算された角度の礼に合わせ、王都屈指の腕を持つパティシエたちが一斉に深く頭を下げる。
彼らの額には、明らかな緊張の汗が滲んでいた。
「ただいま、セバスチャン。砂漠の砂埃にはうんざりよ。すぐに屋敷へ向かうわ」
私は特別車両のタラップを降り、用意された豪奢な馬車へと優雅な足取りで向かう。
フェンとノクスも、私の足元で元気に跳ねている。
「お外は茶色かったですが、ここは緑が多くていいですね、リリアさま」
フェンが、王都の整然と立ち並ぶ並木道を見上げて嬉しそうに言った。
銀色のふさふさとした尻尾が、ご機嫌なリズムを刻んでいる。
「にゃあ。私は砂漠の熱気より、早くあの冷たいチョコが食べたいわ」
ノクスは金色の瞳を細め、もう極上のデザートのことしか考えていない様子だ。
私も全く同じ気持ちだった。
砂漠で完熟マンゴーを堪能したとはいえ、カカオの奥深い苦味と甘みは完全に別腹である。
王都の石畳を滑るように進む馬車の車内で、私はこれから味わう至高のスイーツへと思考を巡らせた。
アークライト家の王都別邸に到着すると、屋敷のテラスには最高の席がセッティングされていた。
夕暮れの空が王都の街並みを鮮やかな紫色に染め上げ、アールグレイの芳醇な香りが夕方の空気に心地よく溶け込んでいる。
「リリア様、大変お待たせいたしました。我がアークライト・スイーツ部門の総力を結集した、新作でございます」
セバスチャンが恭しい手つきで、テーブルの中央に一つの巨大なグラスを置いた。
それは、私の背丈の半分ほどもある規格外の大きさのパフェだ。
「まあ。なんて、なんて美しいのかしら」
私は思わず立ち上がり、その完璧な造形美を放つパフェを見つめた。
それは、寸分の狂いもなく五つの層に分かれた、まさに芸術品である。
一番下には、南国から直輸入した冷たいカカオ果肉の透明なゼリー。
その上には、アークライト領の極上バターをふんだんに使用した、ザクザクとした食感の焼き菓子。
真ん中の層には、漆黒の輝きを放つ濃厚なビターチョコのムース。
さらにその上には、魔導冷却器で極限まで温度を下げられた、真っ白なミルクアイスが雪山のようにそびえ立っている。
そして一番上からは、湯気を立てる温かいチョコソースが、氷山を溶かすようにゆっくりと流れ落ちていた。
「五層の食感、ですね。さっそく、頂きますわ」
私は純銀のスプーンを手に取り、迷うことなく頂上の層へと刃を入れた。
まずは、一番上の温かいチョコソースと冷たいミルクアイスを同時にすくい上げる。
口に入れた瞬間、強烈な温度の差に驚かされた。
「……っ! 美味しい!」
熱と冷気が舌の上で激しく衝突し、直後に濃厚なカカオの香りが鼻腔を心地よく抜けていく。
溶け出したアイスのまろやかな甘みが、チョコのビターな苦味を優しく包み込み、完璧な調和を生み出していた。
「リリア様、お味の方はいかがでしょうか」
パティシエのリーダーが、処刑を待つ罪人のように震える声で尋ねた。
「合格よ。この温度の組み合わせ、天才的だわ」
私の確かな評価に、パティシエたちは一斉に安堵の息を吐き出し、感涙にむせぶ者すらいる。
彼らにとって、私の舌を満足させることは王都での絶対的な名声と莫大な富を約束されたと同義なのだ。
私は二口目、三口目と休むことなくスプーンを進めた。
次は、真ん中のチョコムースと焼き菓子の層だ。
ふわふわとした空気を含んだムースの中に、突如として現れるカリッとした香ばしい歯ごたえ。
噛むたびにバターの風味とカカオのコクが混ざり合い、新しい美味しさが口の中で無限に弾け飛ぶ。
「わんっ! リリアさま、ずるいです! ぼくたちも食べたいです!」
フェンがテーブルの端に前足をかけ、金色の瞳を潤ませて訴えてきた。
セバスチャンがすかさず、小さな銀の皿に盛り付けた犬猫用の特製パフェを運ぶ。
二匹は夢中になって、自分たち専用のチョコ代用品を舐め回した。
「んんっ、このゼリーの酸味が、最後を完璧に締めてくれるわね」
私はついに一番下の層にたどり着いた。
カカオの果肉は南国のフルーツのような爽やかな酸味を持ち、甘さで満たされた口の中を一瞬でスッキリとリセットしてくれた。
「完璧な構成だわ。これを、一刻も早く王都中の直営カフェで売り出しましょう。市場を完全に独占できるわ」
「ありがとうございます! 光栄の極みでございます!」
パティシエたちが、床に額を擦り付ける勢いで一斉に頭を下げる。
彼らの血の滲むような努力が、私の冷徹な審査によって報われた瞬間だ。
私は深い満足感と共に、温かい紅茶を一口飲んだ。
王都の夕焼けが、空をさらに深い紫色へと染めている。
「ところで、セバスチャン。このカカオはどこから調達したの」
私は何気なく、紅茶のカップをソーサーに戻しながら材料の出所を尋ねた。
「はい。以前と同じく、東のシオン王国経由で輸入した最高級品を使用しております」
セバスチャンは即答したが、その表情にはわずかな翳りがあった。
「でも、最近は市場での仕入れ値が少し上がっているようでして」
その言葉に、私の眉がピクリと不快げに動いた。
「上がっている? どのくらいかしら」
「先月の相場と比較して、およそ二倍に跳ね上がっているとの報告が購買部から入っております」
二倍、という数字は、ただ事ではない。
経済の根幹を揺るがす異常事態だ。
「カカオの原産地で、大規模な不作や天候不順が起きたという報告は聞いていないわね」
私は冷徹な視線をセバスチャンに向けた。
「はい。現地での収穫量は極めて安定しているはずなのですが」
「つまり、流通のどこかで、誰かが意図的に堰き止めているということね」
私の脳内で、数字がパチパチと音を立てて弾け始めた。
美味しいパフェを食べて幸福で満たされていた気分が、一瞬にして霧散する。
誰かが、私の愛するデザートの原価を不当に引き上げようとしている。
それは、アークライト商会が構築した完璧な経済循環に対する、明確な挑戦状と同じだ。
「セバスチャン、今すぐカシアンを呼びなさい。一秒の遅れも許さないわ」
「はい。すでに書斎にて、詳細な資料を用意して待機させております」
さすがは私の有能な執事である。
私は最後の一口のゼリーを名残惜しみながら飲み込み、スプーンを置いた。
「行きましょう。私たちの食卓を脅かす悪いネズミを、早急に捕まえなければならないわ」
私はテラスを後にして、屋敷の奥にある書斎へと向かった。
フェンとノクスも、私の放つ冷酷な気配を察知し、真面目な顔で後ろをついてくる。
彼らもまた、美味しいおやつが減る危機を本能で感じ取っているのだ。
重厚なマホガニーのドアを開けると、カシアンが広大なデスクの上に膨大な書類を広げていた。
「リリア様、おかえりなさいませ。……すでにお耳に入りましたか」
カシアンが眼鏡の位置を直し、険しい表情で私を出迎える。
「ええ。カカオの値段が二倍に暴騰しているというのは、本当なの?」
「残念ながら、事実です。それも、この異常な高騰が起きているのは王都の市場だけです」
カシアンが、一枚の詳細な折れ線グラフを指し示した。
王都以外の地方都市や港町では、カカオの取引価格は平年通り安定している。
王都という閉鎖された市場空間でのみ、価格が人為的に操作されている証拠だ。
「買い占めね。誰の仕業かしら」
「『砂糖菓子連盟』。最近、王都の新興商人たちが結成した集まりです」
聞いたこともない、田舎の同好会のような安っぽい名前だった。
「彼らが、王都に流入するカカオの八割を不当に買い占めているのね」
「はい。市場への供給を極端に絞り、価格を吊り上げています。さらに、アークライト商会の直営店舗へのカカオ供給も、完全に停止するよう問屋に圧力をかけています」
「私の店に、カカオを売らないと言うの?」
私は呆れ果てて、思わず声を出して笑ってしまった。
世界中の物流ネットワークを牛耳る私から、一時的に商品を隠したところで何の意味があるというのか。
あまりにも非合理的で、身の程を知らない行動だ。
「面白いじゃない。私に喧嘩を売るなんて、見上げた度胸だわ」
私は革張りの椅子に深く腰掛け、優雅に足を組んだ。
「カシアン、その『連盟』とやらの代表は誰かしら」
「プラリネ男爵という男です。最近、不動産投資で小金を稼ぎ、成金として名を上げた男です」
「プラリネ男爵、ね。名前だけは甘そうだけど、やっていることは泥臭い力技ね」
私は手元にあった銀のペンを、指先でくるくると回しながら思考を加速させた。
市場を独占し、価格を吊り上げる。
一時的な利益は出るだろうが、そんなものは需要と供給のバランスを無視した砂上の楼閣に過ぎない。
「彼の商会の資金源と、買い占めた在庫の隠し場所を即座に調べなさい」
「承知いたしました。ゼロ殿にもすでに協力を要請し、裏からの調査を進行中です」
ゼロ兄様の名前が出ると、私は少しだけ口元を緩めた。
彼の人間離れした隠密能力と裏社会のネットワークがあれば、不当な取引の証拠などすぐに見つかる。
「それと、王都の他のパティスリーや菓子職人たちの状況も調べてちょうだい」
「彼らも、連盟の強引なやり方に困らされているはずだわ」
「分かりました。明日までには、被害状況の詳細を完全にまとめ上げます」
カシアンがテキパキと書類を整理し、分厚いファイルに閉じていく。
私は窓の外に広がる、宝石のように輝く王都の夜景を眺めながら戦略を構築した。
カカオの流通を支配する者は、王都のスイーツの流行を支配する。
その絶対的な座を私から奪おうとしているのなら、慈悲を与える余地は一ミリもない。
「リリアさま、またおでかけですか?」
フェンが私の膝にすり寄り、心配そうに顔を覗き込んで尋ねた。
「ええ。明日は、その連盟の事務所へ直接遊びに行くわ」
「にゃあ。お仕置きの時間ね。あの男の顔が歪むのが楽しみだわ」
ノクスが目を細め、尻尾をゆらゆらと揺らしている。
私は、自分を裏切る不正確な数字を絶対に許さない。
そして何より、私の美味しいパフェの提供を邪魔する者も絶対に許さない。
アークライト商会が誇る最高監査官として、彼らの不正な帳簿を徹底的に洗い出してあげる。
明日の朝には、プラリネ男爵の脂ぎった顔は恐怖で真っ青に染まっていることだろう。
私はデスクの上に残された、パフェの空きグラスを冷ややかに見つめた。
あの至高の美味しさを、適正な価格で王都の全ての民に届けるのが私の仕事だ。
市場を独占し、自分たちだけが暴利を貪ろうとするような浅ましい輩には。
経理という刃の厳しさを、その身に直接刻み込んで教えることにした。
「セバスチャン、明日の朝は、一番辛いコーヒーを頂戴」
「目が覚めるような、厳しいやつをお願いね」
「かしこまりました。最高の一杯を、用意いたします」
私は、ゆっくりと立ち上がり、寝室へと向かった。
私たちの乗った特急列車は、夕暮れの王都へと滑り込んだ。
ホームには、いつものようにセバスチャンが立っている。
彼の後ろには、真っ白な服を着たパティシエたちが並んでいた。
みんな、緊張した顔で私の帰りを待っている。
「おかえりなさいませ、リリア様。長旅、お疲れ様でした」
セバスチャンの完璧に計算された角度の礼に合わせ、王都屈指の腕を持つパティシエたちが一斉に深く頭を下げる。
彼らの額には、明らかな緊張の汗が滲んでいた。
「ただいま、セバスチャン。砂漠の砂埃にはうんざりよ。すぐに屋敷へ向かうわ」
私は特別車両のタラップを降り、用意された豪奢な馬車へと優雅な足取りで向かう。
フェンとノクスも、私の足元で元気に跳ねている。
「お外は茶色かったですが、ここは緑が多くていいですね、リリアさま」
フェンが、王都の整然と立ち並ぶ並木道を見上げて嬉しそうに言った。
銀色のふさふさとした尻尾が、ご機嫌なリズムを刻んでいる。
「にゃあ。私は砂漠の熱気より、早くあの冷たいチョコが食べたいわ」
ノクスは金色の瞳を細め、もう極上のデザートのことしか考えていない様子だ。
私も全く同じ気持ちだった。
砂漠で完熟マンゴーを堪能したとはいえ、カカオの奥深い苦味と甘みは完全に別腹である。
王都の石畳を滑るように進む馬車の車内で、私はこれから味わう至高のスイーツへと思考を巡らせた。
アークライト家の王都別邸に到着すると、屋敷のテラスには最高の席がセッティングされていた。
夕暮れの空が王都の街並みを鮮やかな紫色に染め上げ、アールグレイの芳醇な香りが夕方の空気に心地よく溶け込んでいる。
「リリア様、大変お待たせいたしました。我がアークライト・スイーツ部門の総力を結集した、新作でございます」
セバスチャンが恭しい手つきで、テーブルの中央に一つの巨大なグラスを置いた。
それは、私の背丈の半分ほどもある規格外の大きさのパフェだ。
「まあ。なんて、なんて美しいのかしら」
私は思わず立ち上がり、その完璧な造形美を放つパフェを見つめた。
それは、寸分の狂いもなく五つの層に分かれた、まさに芸術品である。
一番下には、南国から直輸入した冷たいカカオ果肉の透明なゼリー。
その上には、アークライト領の極上バターをふんだんに使用した、ザクザクとした食感の焼き菓子。
真ん中の層には、漆黒の輝きを放つ濃厚なビターチョコのムース。
さらにその上には、魔導冷却器で極限まで温度を下げられた、真っ白なミルクアイスが雪山のようにそびえ立っている。
そして一番上からは、湯気を立てる温かいチョコソースが、氷山を溶かすようにゆっくりと流れ落ちていた。
「五層の食感、ですね。さっそく、頂きますわ」
私は純銀のスプーンを手に取り、迷うことなく頂上の層へと刃を入れた。
まずは、一番上の温かいチョコソースと冷たいミルクアイスを同時にすくい上げる。
口に入れた瞬間、強烈な温度の差に驚かされた。
「……っ! 美味しい!」
熱と冷気が舌の上で激しく衝突し、直後に濃厚なカカオの香りが鼻腔を心地よく抜けていく。
溶け出したアイスのまろやかな甘みが、チョコのビターな苦味を優しく包み込み、完璧な調和を生み出していた。
「リリア様、お味の方はいかがでしょうか」
パティシエのリーダーが、処刑を待つ罪人のように震える声で尋ねた。
「合格よ。この温度の組み合わせ、天才的だわ」
私の確かな評価に、パティシエたちは一斉に安堵の息を吐き出し、感涙にむせぶ者すらいる。
彼らにとって、私の舌を満足させることは王都での絶対的な名声と莫大な富を約束されたと同義なのだ。
私は二口目、三口目と休むことなくスプーンを進めた。
次は、真ん中のチョコムースと焼き菓子の層だ。
ふわふわとした空気を含んだムースの中に、突如として現れるカリッとした香ばしい歯ごたえ。
噛むたびにバターの風味とカカオのコクが混ざり合い、新しい美味しさが口の中で無限に弾け飛ぶ。
「わんっ! リリアさま、ずるいです! ぼくたちも食べたいです!」
フェンがテーブルの端に前足をかけ、金色の瞳を潤ませて訴えてきた。
セバスチャンがすかさず、小さな銀の皿に盛り付けた犬猫用の特製パフェを運ぶ。
二匹は夢中になって、自分たち専用のチョコ代用品を舐め回した。
「んんっ、このゼリーの酸味が、最後を完璧に締めてくれるわね」
私はついに一番下の層にたどり着いた。
カカオの果肉は南国のフルーツのような爽やかな酸味を持ち、甘さで満たされた口の中を一瞬でスッキリとリセットしてくれた。
「完璧な構成だわ。これを、一刻も早く王都中の直営カフェで売り出しましょう。市場を完全に独占できるわ」
「ありがとうございます! 光栄の極みでございます!」
パティシエたちが、床に額を擦り付ける勢いで一斉に頭を下げる。
彼らの血の滲むような努力が、私の冷徹な審査によって報われた瞬間だ。
私は深い満足感と共に、温かい紅茶を一口飲んだ。
王都の夕焼けが、空をさらに深い紫色へと染めている。
「ところで、セバスチャン。このカカオはどこから調達したの」
私は何気なく、紅茶のカップをソーサーに戻しながら材料の出所を尋ねた。
「はい。以前と同じく、東のシオン王国経由で輸入した最高級品を使用しております」
セバスチャンは即答したが、その表情にはわずかな翳りがあった。
「でも、最近は市場での仕入れ値が少し上がっているようでして」
その言葉に、私の眉がピクリと不快げに動いた。
「上がっている? どのくらいかしら」
「先月の相場と比較して、およそ二倍に跳ね上がっているとの報告が購買部から入っております」
二倍、という数字は、ただ事ではない。
経済の根幹を揺るがす異常事態だ。
「カカオの原産地で、大規模な不作や天候不順が起きたという報告は聞いていないわね」
私は冷徹な視線をセバスチャンに向けた。
「はい。現地での収穫量は極めて安定しているはずなのですが」
「つまり、流通のどこかで、誰かが意図的に堰き止めているということね」
私の脳内で、数字がパチパチと音を立てて弾け始めた。
美味しいパフェを食べて幸福で満たされていた気分が、一瞬にして霧散する。
誰かが、私の愛するデザートの原価を不当に引き上げようとしている。
それは、アークライト商会が構築した完璧な経済循環に対する、明確な挑戦状と同じだ。
「セバスチャン、今すぐカシアンを呼びなさい。一秒の遅れも許さないわ」
「はい。すでに書斎にて、詳細な資料を用意して待機させております」
さすがは私の有能な執事である。
私は最後の一口のゼリーを名残惜しみながら飲み込み、スプーンを置いた。
「行きましょう。私たちの食卓を脅かす悪いネズミを、早急に捕まえなければならないわ」
私はテラスを後にして、屋敷の奥にある書斎へと向かった。
フェンとノクスも、私の放つ冷酷な気配を察知し、真面目な顔で後ろをついてくる。
彼らもまた、美味しいおやつが減る危機を本能で感じ取っているのだ。
重厚なマホガニーのドアを開けると、カシアンが広大なデスクの上に膨大な書類を広げていた。
「リリア様、おかえりなさいませ。……すでにお耳に入りましたか」
カシアンが眼鏡の位置を直し、険しい表情で私を出迎える。
「ええ。カカオの値段が二倍に暴騰しているというのは、本当なの?」
「残念ながら、事実です。それも、この異常な高騰が起きているのは王都の市場だけです」
カシアンが、一枚の詳細な折れ線グラフを指し示した。
王都以外の地方都市や港町では、カカオの取引価格は平年通り安定している。
王都という閉鎖された市場空間でのみ、価格が人為的に操作されている証拠だ。
「買い占めね。誰の仕業かしら」
「『砂糖菓子連盟』。最近、王都の新興商人たちが結成した集まりです」
聞いたこともない、田舎の同好会のような安っぽい名前だった。
「彼らが、王都に流入するカカオの八割を不当に買い占めているのね」
「はい。市場への供給を極端に絞り、価格を吊り上げています。さらに、アークライト商会の直営店舗へのカカオ供給も、完全に停止するよう問屋に圧力をかけています」
「私の店に、カカオを売らないと言うの?」
私は呆れ果てて、思わず声を出して笑ってしまった。
世界中の物流ネットワークを牛耳る私から、一時的に商品を隠したところで何の意味があるというのか。
あまりにも非合理的で、身の程を知らない行動だ。
「面白いじゃない。私に喧嘩を売るなんて、見上げた度胸だわ」
私は革張りの椅子に深く腰掛け、優雅に足を組んだ。
「カシアン、その『連盟』とやらの代表は誰かしら」
「プラリネ男爵という男です。最近、不動産投資で小金を稼ぎ、成金として名を上げた男です」
「プラリネ男爵、ね。名前だけは甘そうだけど、やっていることは泥臭い力技ね」
私は手元にあった銀のペンを、指先でくるくると回しながら思考を加速させた。
市場を独占し、価格を吊り上げる。
一時的な利益は出るだろうが、そんなものは需要と供給のバランスを無視した砂上の楼閣に過ぎない。
「彼の商会の資金源と、買い占めた在庫の隠し場所を即座に調べなさい」
「承知いたしました。ゼロ殿にもすでに協力を要請し、裏からの調査を進行中です」
ゼロ兄様の名前が出ると、私は少しだけ口元を緩めた。
彼の人間離れした隠密能力と裏社会のネットワークがあれば、不当な取引の証拠などすぐに見つかる。
「それと、王都の他のパティスリーや菓子職人たちの状況も調べてちょうだい」
「彼らも、連盟の強引なやり方に困らされているはずだわ」
「分かりました。明日までには、被害状況の詳細を完全にまとめ上げます」
カシアンがテキパキと書類を整理し、分厚いファイルに閉じていく。
私は窓の外に広がる、宝石のように輝く王都の夜景を眺めながら戦略を構築した。
カカオの流通を支配する者は、王都のスイーツの流行を支配する。
その絶対的な座を私から奪おうとしているのなら、慈悲を与える余地は一ミリもない。
「リリアさま、またおでかけですか?」
フェンが私の膝にすり寄り、心配そうに顔を覗き込んで尋ねた。
「ええ。明日は、その連盟の事務所へ直接遊びに行くわ」
「にゃあ。お仕置きの時間ね。あの男の顔が歪むのが楽しみだわ」
ノクスが目を細め、尻尾をゆらゆらと揺らしている。
私は、自分を裏切る不正確な数字を絶対に許さない。
そして何より、私の美味しいパフェの提供を邪魔する者も絶対に許さない。
アークライト商会が誇る最高監査官として、彼らの不正な帳簿を徹底的に洗い出してあげる。
明日の朝には、プラリネ男爵の脂ぎった顔は恐怖で真っ青に染まっていることだろう。
私はデスクの上に残された、パフェの空きグラスを冷ややかに見つめた。
あの至高の美味しさを、適正な価格で王都の全ての民に届けるのが私の仕事だ。
市場を独占し、自分たちだけが暴利を貪ろうとするような浅ましい輩には。
経理という刃の厳しさを、その身に直接刻み込んで教えることにした。
「セバスチャン、明日の朝は、一番辛いコーヒーを頂戴」
「目が覚めるような、厳しいやつをお願いね」
「かしこまりました。最高の一杯を、用意いたします」
私は、ゆっくりと立ち上がり、寝室へと向かった。
141
あなたにおすすめの小説
公爵家の家政を10年回した私が出ていったら、3ヶ月で領地が破綻しました
歩人
ファンタジー
エレナは公爵家に嫁いで10年、夫は愛人に入れ込み、義母には「家政婦代わり」と
罵られた。だが領地の財務も、商会との交渉も、使用人の管理も、全部エレナが
やっていた。ある日、義母から「あなたの代わりなんていくらでもいる」と言われ、
エレナは静かに離縁届を出した。「では、代わりの方にお任せください」
辺境の町で小さな商会を開いたエレナ。10年間の実務経験は伊達ではなかった。
商会はたちまち繁盛する。一方、エレナがいなくなった公爵家は3ヶ月で経営破綻。
元夫が「戻ってこい」と泣きつくが——
「お断りです。あと、10年分の未払い給金を請求いたしますね」
「君は有能すぎて可愛げがない」と婚約破棄されたので、一晩で全ての魔法結界を撤去して隣国へ行きます。あ、維持マニュアルは燃やしました。
しょくぱん
恋愛
「君の完璧主義には反吐が出る」――婚約者の第一王子にそう告げられ、国外追放を命じられた聖女エルゼ。彼女は微笑み、一晩で国中の魔法結界を撤去。さらに「素人でも直せる」と嘘を吐かれた維持マニュアルを全て焼却処分した。守護を失いパニックに陥る母国を背に、彼女は隣国の軍事帝国へ。そこでは、彼女の「可愛くない」技術を渇望する皇帝が待っていた。
「『お前の取り柄は計算だけだ』と笑った公爵家が、私を追い出した翌月に財政破綻した件」
歩人
ファンタジー
公爵家に嫁いだ伯爵令嬢フリーダは、10年間「帳簿係」として蔑まれ続けた。
夫は愛人に夢中、義母は「地味な嫁」と見下す。しかし前世で公認会計士だった
フリーダは、密かに公爵家の財政を立て直し、資産を3倍にしていた。離縁を
突きつけられたフリーダは、一言も抗わず去る。——翌月、公爵家は財政破綻した。
「戻ってきてくれ」と跪く元夫に、王家財務顧問となったフリーダは微笑む。
「申し訳ございません。もう私は、公爵家の帳簿係ではありませんので」
捨てられ侯爵令嬢ですが、逃亡先で息子と幸せに過ごしていますので、邪魔しないでください。
蒼月柚希
恋愛
公爵様の呪いは解かれました。
これで、貴方も私も自由です。
……だから、もういいですよね?
私も、自由にして……。
5年後。
私は、ある事情から生まれ育った祖国を離れ、
親切な冒険者パーティーと、その地を治める辺境伯様のご家族に守られながら、
今日も幸せに子育てをしています。
だから貴方も勝手に、お幸せになってくださいね。
私のことは忘れて……。
これは、すれ違いの末に離れ離れになった夫婦の物語。
再会したとき、二人が選ぶのは「離婚」か、それとも「再構築」か。
妻を一途に想い続ける夫と、
その想いを一ミリも知らない妻。
――攻防戦の幕が、いま上がる。
最安もふもふ三匹に名前をつける変な冒険者ですが、この子たちの力を引き出せるのは私だけです ~精霊偏愛録~
Lihito
ファンタジー
精霊に名前をつける冒険者は、たぶん私だけだ。
うさぎのノル、狐のルゥ、モモンガのピノ。三匹とも最安の契約で、手のひらに乗るサイズ。周りからは「手乗り精霊で何ができる」と笑われている。
でも、この子たちへの聞き方を変えるだけで、返ってくる答えはまるで違う。三匹の情報を重ねれば、上位の精霊一体では見えないものが見える。
上位パーティが三度失敗した大型討伐。私は戦わない。ノルに地中を、ピノに上空を、ルゥに地上を調べさせて、答えを組み上げる。
——この世界の精霊の使い方、みんな間違ってませんか?
貴族令嬢、転生十秒で家出します。目指せ、おひとり様スローライフ
凜
ファンタジー
第18回ファンタジー小説大賞にて奨励賞を頂きました。ありがとうございます!
貴族令嬢に転生したリルは、前世の記憶に混乱しつつも今世で恵まれていない環境なことに気が付き、突発で家出してしまう。
前世の社畜生活で疲れていたため、山奥で魔法の才能を生かしスローライフを目指すことにした。しかししょっぱなから魔物に襲われ、元王宮魔法士と出会ったり、はては皇子までやってきてと、なんだかスローライフとは違う毎日で……?
最弱白竜ですが、なぜか学園最強の銀竜に番認定されました
斉藤めめめ
恋愛
竜の血を引く者だけが貴族になれるこの世界で、白竜は最も格の低い竜の証。
白竜の男爵令嬢リーゼロッテは、特待生として国内最高峰の王立竜騎学園に入学する。待っていたのは上位貴族からの蔑みと、学園を支配する四人の御曹司「四竜」。
その筆頭、銀竜公爵家の嫡男ルシアンに初日から啖呵を切ったリーゼは、いじめと嫉妬の嵐に巻き込まれていく。
それでも彼女は媚びない、逃げない、折れない。
やがてルシアンはリーゼから目が離せなくなり――
白竜の少女が、学園と王国の運命を変える。
身分差×竜×学園ラブファンタジー、開幕。
姉の忘れ形見を育てたいだけなのに、公爵閣下の執着が重いんですが!?~まっすぐ突き進み系令嬢の公爵家再建計画
及川えり
ファンタジー
突然届いた双子の姉からの手紙。
【これをあなたが読んでいるころにはわたしはもう死んでいることでしょう。わたしのことは探さないでね。双子を引き取ってもらえないかしら?】
姉の遺言通り双子を育てようと姉の嫁ぎ先へと突入する。
双子を顧みなかったという元夫のウィルバート公爵に何とか双子を引き取れるよう掛け合うが、話の流れからそのまま公爵家に滞在して双子を育てる羽目に。
だが、この公爵家、何かおかしい?
異常に気付いたハンナは公爵家に巣くう膿をとりのぞくべく、奮闘しはじめる。
一方ハンナを最初は適当にあしらっていたウィルバートだったが、ハンナの魅力に気付き始め……。
ハンナ・キャロライン・バーディナ 22歳
バーディナ伯爵家令嬢
✖️
ウィルバート・アドルファス・キングスフォード 26歳
キングスフォード公爵
ブックマーク登録、いいね❤️たくさんいただきありがとうございます。
感想もいただけたら嬉しいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる