砂の花

高千穂ゆずる

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はじまり

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 シュパンデル駅高架下。ハーフェル川は時折強く吹く風に、銀色の波を立たせる以外は至って静かだった。
 しかし、そんな風景とは逆に高架下の空き地は多くの警官たちで騒々しかった。
 規制線を示す黄色いテープが広範囲に張られ、制服警官からベルリン州刑事部の主席刑事、その部下の刑事らが硬い表情で立っていた。
「遅くなってすまない」
 ベルリンを騒がせている殺人事件との関連性が疑われる被害者が発見された、と緊急招集がかけられ、非番のルイスも駆けつけた。
 輪になって話し込んでいた仲間の顔は、そのどれもが一様に疲れ果てていた。
「せっかくの休みにごめんな、ルイス」
 おそらく彼も徹夜続きのはずなのに、ローラン・ミュレルは相変わらず洒落たスーツと嫌味のないフレグランスを纏わせていた。
「なんで昨日と同じスーツ……あ、レナのとこに泊まったんだ。仲睦まじいね」
 古い友人の軽口にルイスがじろりと睨みをきかせる。ローランは肩をすぼめたが反省の色は見せない。
 ルイスは改めて自分の足元から上着まで見直した。とくにおかしくはないはずだが、と首を傾げたがレナとの朝のやりとりを思い出してしまい小さく舌打ちした。腹が立ったのは自分に対してだ。
「あれ、ケンカ? おしどり夫婦もとうとう倦怠期に突入したわけか」
 ローランが場にそぐわず笑うと、周囲から一斉に厳しい目を向けられた。
「ケンカでもないしおしどり夫婦でもない。いいから今は事件に集中したい」
 気まずい空気の中、ルイスは足早にほかの仲間たちのもとへ向かった。
 彼らの足元にはグリーンのビニールシートが広げてあり、真ん中あたりが膨らんでいた。遺体だ。
「同じ手口なのか?」
「心臓を一突きの後に喉を切り裂く。これが直接の死亡原因だ。失血死。被害者の特徴も同じ。血痕が見当たらないから殺害現場と遺棄現場が違うという点もおんなじだ」
「同じか」
 ルイスは腰を屈めてビニールの端を持ち上げた。
 一人目の被害者、ジークリット・アルトナーの無残な姿が思い出される。同一犯ならここで横たわっているのは三人目の被害者ということになる。
 二人目はズーザン・ハイネン。ミッテ区のゲズント・ブルネンに住んでいた。ミッテ区にはルイスも住んでいる。接点はなくても身近に住む女性が被害に遭ったと知って、一人暮らしのレナが気がかりでたまらなくなった。最近の口論はそのせいでもある。
「そうだ、この間廃ビルの工事現場でみつかった遺体の身元はわかったのか?」
「まだじゃない? そんな話聞かないから。なに、気になる?」
「殺人事件なのは確実なんだろ。それなら気になって当然だ」
「そうだとしても担当は俺らじゃないから、あんまり首を突っ込まない方がいいと思うよ。マジメくん」
「うるさい。横槍を入れるつもりはない。俺たちは俺たちで早くこっちの犯人像を掴みたいからな」
 ルイスは改めてシートで覆われていた被害者を見た。長い金髪が乾いた血でごわついている。根元から美しい金髪だ。カラーリングで彩られたものではない。きっと瞳も美しいブルーなのだろう。
「二人の被害者との関連は?」
「遺留品からはなにも出なかった。司法解剖の結果待ちになるだろうけど、期待はしてないみたいだな、みんな」
 ローランはズボンのポケットに両手を突っ込んだ。投げやりにも見えたその様子にルイスが咎めると、ローランは「ごめん」と謝った。
「殺害方法がここまで同じなのに被害者に共通点がないってなると、無差別殺人の方向で捜査は進むんじゃないか。盗られたものもないから強殺じゃなくて快楽殺人とか」
「快楽(それ)ならエスカレートしそうな気もするが。まあ強殺でもレイプでもないならその可能性もあるか」
 ルイスはぶつぶつと口内で呟いた。
「今夜はどうする? レナに古書店(みせ)に顔を出してくれってメッセージもらったけど、行けそうにないから断ったから」
「今夜か」
 ルイスはシートをそろりと戻した。
「署の近くに美味しいイタリア料理店ができたから行ってみたいんだよね」
「レナが待ってるからノイケルンに戻る。その美味い店は別の日に誘ってくれ」
「なるほど。恋人といっしょに行くための下準備に俺を使おうってわけか。いい根性をしてるよ、ルイス」
「べつにいいだろ」
 現場を離れながら、まだ残っている同僚に手を上げて挨拶を交わした。
「等価交換といこうか。今の俺が知らないレナの弱みで手を打とう」
「教えるか」
 ニヤニヤと笑うローランの肩を拳で小突いてやる。
 びゅうと川沿いを吹き抜ける風に雪が混じり始めた。目端に映る監察医の白衣がやけに目立つ。

 夕暮れは早く訪れた。
 粉雪に代わってみぞれが降り始めた。レナは店の前に出てはテクラの姿を探したが一向に見えない。客がコートの色にでも悩んでいっしょに考えてやっているのだろうか。
 テクラのために新しいコーヒー豆を買った。ローランとの仲を取り持つつもりの計画だったが、肝心のローランには忙しいと断られてしまった。
(期待させるような雰囲気にしちゃったからな。ちゃんとテクラには謝らなきゃ)
 冷たい風から守るように、カーディガンの前をきっちりと合わせてもう一度通りの向こうへ目を凝らした。
 街路樹を彩る電飾の下を、見知った顔が歩いてくるのが見えた。
 がっしりとした体躯。後ろへ撫でつけた髪。その影がレナに気づき立ち止まると右手が上がる。
「おかえり」
 レナは駆け寄り、ルイスに飛びついた。
「た、ただいま」
 今朝のこともあり、ルイスは戸惑った。レナはこんな風に人前で抱きついてくることはないし、今朝の彼女の怒りは本物だと思っているからだ。
「まさかなにかあったのか」
 現場からの帰りということもあり、思考は完全にマイナス方向だった。
「は? ないない。ただ、今朝気まずいまま出かけさせたから、帰ってきたときは嬉しい気持ちになってもらいたくて」
 レナは言いながら、自分がいつもと違う出迎え方をした理由に気づいた。
「この程度で喜んでもらえるかどうかはわからないけど」
 目の前で目を白黒させている年下の恋人の頬を両手で覆い、レナは顔をぐいと近づけた。
 キスの代わりに鼻の頭を擦りつけると、ルイスが残念そうに照れ笑いした。
「寒かったね。すぐにコーヒー淹れてあげる」
 レナはルイスの肩越しにもう一度歩道の先を見た。
 行き交う人の流れの中に、あのピンクのコートをみつけることはできなかった。
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