チェリークール

フジキフジコ

文字の大きさ
上 下
64 / 105
【番外編】君の名は

1.一目惚れ

しおりを挟む
「てめぇ、いい加減にしろよ、コノヤロー」
薄桃色のグロスが光る艶やかな唇から、不似合いな言葉が漏れた。
言われた覚は肩をすくめて「どうしてさ、そんなに似合っているのに」と言う。
またしても覚の口車に乗せられて、女装させられた晶だった。

「だいたいなんで、肉を食うのにこんなカッコウする必要があるんだよっ!」
「肉って簡単に言うけどね、幻の牛肉、大田原牛だよ。グラム1万円だよ?半年前から予約しなきゃ、食べられないんだよ?正装くらいしなきゃ、大田原牛に失礼じゃないか」
「ワケわかんねえこと言うんじゃねえ」
「晶だって、うまいうまいって喜んで食べてたくせに」
「うっ」
「すっかり食べ終わってから文句言われても困るよね。そんなに嫌なら、着替えるときに言ってよ」

もっともな反撃にあって、言い返す言葉が出ない晶はブスッと横を向いた。
ランチに高級ステーキを食べさせてあげるという言葉に釣られてやってくれば、なぜかすっかり顔見知りになったヘアメイクとスタイリストが嬉しそうに待ち構えていた。
「嬉しいなあ、この新作ドレス、絶対晶さんに似合うと思ってたんですよ~。このレベルだと、着こなせるモデルがいなくて」
「オレも晶さんに似合うヘアメイク、考えていたんです!自信作ですよ」
おだてに弱い晶は、よってたかって甘い言葉をかけられて、1時間後にはスタイリッシュ美女に変身していた。

食事にありつくまではいい気分が続いていたが、満腹になって青山メンタルクリニックに戻ってから、やっと我に返り、いまさらのように覚に文句を言うのだ。

「とにかくオレは帰るからな」
「え、うそ、帰っちゃうの。晶、食後の運動は?」
「おまえ、どーせそれが目的だろ。可哀想にすっかり女装した男とヤルのにハマったんだな。変態性に磨きがかかってるぞ、いっぺん医者に見てもらえ。そろそろ雅治が出張から帰って来る頃だから、オレは帰る」
「あら、あんなに文句言ってたのに」

食事の間中、晶は、雅治が出張から一週間も帰ってこないと文句を言い続けていた。
どうやら雅治が出かけるとき喧嘩をしたらしい。
「……土産、買ってくるかもしんねえじゃん」
不貞腐れてそう言うが、心の中ではもう許していて、雅治の帰りを待ち詫びているようだ。
覚は苦笑するしかなかった。

「残念だなあ。シャネルの下着、脱がせたかったのに」
また当然のように女物の下着を着せられたことを思い出し、晶の頬がぽっと染まる。
「じゃあな!ごちそうさん」
「いいけど晶、その格好で帰るの?」
「面倒くさいから、家で着替える」
「送っていかなくても平気?」
「通りでタクシー拾うよ」
そう言ってソファから立ち上がった晶は「痛てっ」と呻いて左目を押さえた。
「どうしたの」
「目にゴミが入ったみて。カラコン入っているからすげえ痛てえ」
「大丈夫?」

覚からハンカチを手渡されて、それで目を押さえた。
ご丁寧に、ハンカチもエルメスの女物だ。
「それあげるから持っていきな」
「なんかクセーなこのハンカチ」
「失礼な。フレグランスだよ、いい匂いじゃない」

青山メンタルクリニックの入っている医療ビルを出ると、春にはまだ少し早い冷たい風が吹いていた。
膝上の丈のスカートに足許がすーと冷える。
コートの襟を胸元に寄せて歩き出したとき、「あの、すみません」と声をかけられた。
無防備に振り向いた晶は、硬直した。
声をかけてきたのは、誰であろう、夫の雅治だったのだ。

身動き出来ずに固まっている晶に、雅治が軽やかに近寄ってくる。
どうしよう、この格好の言い訳をなんて言おう。
そうだ肉だ肉、すべて肉のせいにしてしまおう。
このカッコウでなければ食べられない幻のナントカ牛っていうのがあって…
言葉を探しながら晶の頭は軽いパニック状態に陥った。

「これ、落としましたよ」
ところが目の前まで歩み寄ってきた雅治は、晶が「肉がっ」と口にする前に、他人行儀な口調でそう言って、晶の前にハンカチを差し出した。
晶はポカーンと、雅治の顔を見返した。

もしかして、気づいていない?!
目の前にいるのに。
ウソだろー?!
そう思ったが、気づいていないのなら幸いである。
晶はハンカチを受け取って、声を出すわけにはいかないため、ペコリとおじぎをし、雅治の前からそそくさと逃げるように立ち去った。
ところが慣れないハイヒールのせいで、5メートル小走りしたところですっ転んだ。
それは見事な、漫画のような転びっぷりだった。

「大丈夫ですか?!」
雅治が駆け寄ってくる。
マズイ。
今度こそ、バレる。バレてしまう。
一度他人のフリをしてしまった分、言い訳はさらに困難になってしまった。
焦る気持ちに追い討ちをかけるように、左目がひどく痛みはじめた。

雅治は、歩道にうつ伏せで倒れこんでいる晶の横に屈んで、腕を支えて起き上がるのを手伝い、晶が立ち上がると洋服の汚れを払った。
晶は、言葉も出ず立ち尽くしていた。

「怪我はなさそうですね、よかった」
そう言って、雅治が顔を覗きこんでくる。
そのとき、晶の左目からポロッと涙が一粒こぼれた。
痛みのせいで生理的に流れた涙だった。

その瞬間、二人の視線は遮るもののない正面でぶつかった。
理性がまさった雅治の瞳ははじめ驚きを浮かべ、それが動揺に変わり、最後は唇から漏れた溜息と共に感嘆に変化した。

晶は、人が恋に落ちる瞬間を呆然と見つめていた。









しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

悪女と呼ばれた死に戻り令嬢、二度目の人生は婚約破棄から始まる

恋愛 / 完結 24h.ポイント:4,780pt お気に入り:2,474

嫌われ変異番の俺が幸せになるまで

BL / 連載中 24h.ポイント:21,989pt お気に入り:1,434

転生不憫令嬢は自重しない~愛を知らない令嬢の異世界生活

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:29,721pt お気に入り:1,874

グラティールの公爵令嬢

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:14,735pt お気に入り:3,343

転生×召喚

135
BL / 完結 24h.ポイント:21pt お気に入り:1,205

一目惚れ婚~美人すぎる御曹司に溺愛されてます~

恋愛 / 完結 24h.ポイント:908pt お気に入り:1,125

処理中です...