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第1章 SONATA
op01.昔、一人の旅人が(3)
しおりを挟む青年は強引にリチェルの手を引くでもなく、裏路地に入っていく。こっちへ、という事はリチェルに一緒に来るように促しているのだろう。先程までなら絶対についていかなかった。だけどあの演奏を聴いた後では、否定の言葉が頭に思い浮かばない。
あんなに素晴らしい音を奏でる人が、どうしてリチェルに声をかけたのか知りたい。出来ることならもう一度演奏を聴きたい、と思ってしまう。
「……どうかしたか?」
「いえ!」
立ち尽くしていたリチェルを振り返った青年の言葉に、リチェルは慌てて彼の背中を追った。小走りで青年の後をついていくと、まもなくリチェルが歌っていた丘に出た。
丘につくと、青年は何も言わずに黙って背中のケースを下ろすと、慣れた手つきで楽器を取り出す。先程奏でていた楽器、ヴァイオリンだ。
「あの……、ここで、演奏するんですか?」
恐る恐る聞いてみると、青年は一瞬黙って少しだけ思案し、そうか、と何かに気付いたように呟いた。
「え?」
「すまない。どうも俺はいつも言葉が足りないみたいで……」
青年は抱えていたヴァイオリンを下ろすと、リチェルに向き直る。
「君の歌を聞いたんだ。あそこの宿で作業をしたら偶然聞こえてきて、それで誰が歌っているのか気になって出てきたんだが……」
そう言って青年は目の前の宿屋を指さした。決まり悪そうに彼は続ける。
「さっきは驚かせてしまったみたいだ。だから、ごめん」
「いえ……、わたしこそ、ごめんなさい」
戸惑いを隠せないまま、リチェルも謝る。謝ることには慣れていても、謝られることにはリチェルは慣れていなかった。
それに失礼なことをしたのは自分の方だ。
「作業中でしたら、うるさかったと思います。それにわたし、謝りもせず逃げてしまったから……」
「うるさかった? いいや、違う」
恐る恐る頭を上げたリチェルに、青年はごく当たり前のことを告げるように続けた。
「俺はただ、君の歌が聴きたくて降りてきたんだ」
驚きで、声が詰まった。
青年の言葉はどこまでも真っ直ぐで、嘘をついているようには微塵も見えなかった。それに、リチェルにそんな嘘をついても彼には全く得はないはずだ。
それでも、嘘、という言葉が喉元まで出てきた。
だって。
今まで一度だって、誰かにそんな風に言われた事はなかった。
歌を褒められた事はある。昔孤児院で。
だけどそれはとても昔のことで、今となっては人前で歌うことすら出来なくて。そんな自分の歌を聞きたい、と言ってくれた青年の言葉に戸惑った。
あんなに素敵な演奏をする人が、リチェルなんかの歌を聞きたいと思うのだろうか?
俯いたリチェルの様子に気付くでもなく、青年は何でもないことのように言う。
「伴奏を弾くから、もう一度歌ってくれないか?」
「……え⁉︎」
思わず耳を疑った。顔をあげると、青年はもうヴァイオリンを構えていた。キョトンとした顔でリチェルをみると、何かに気付いたようにリチェルのかごを指差す。
「歌詞、入れておいたから」
「歌詞、ですか?」
「あぁ。前回歌っていたときにうろ覚えみたいだったから。インクがなかったから一番だけになってしまったんだが……。あった方が君が歌いやすいかと思ったんだ」
そう言って青年が微かに笑う。
リチェルがかごを見ると、確かに何かが書かれた紙切れが入っていた。そっと取り出してみると、確かにそこには歌詞と思しき詩が書かれていた。掠れたインクで書かれているが読めない程ではない。
『歌の翼に』
多分それがこの曲の表題なのだろう。
音楽に関わる何かを、人からもらったのは初めてだった。
紙を持つ指が微かに震えた。彼にとってはきっと、ただの走り書きなのだろう。だけどリチェルにとっては思いもよらない贈り物で、何と返していいか分からなかった。
その気持ちの名前はわからない。もう随分昔に忘れてしまったような気がする。
だから思いついたのは一つだけだ。何かをもらったならお礼をしないといけない。紙切れを持ったまま、震えた声を絞り出す。
「……お礼、出来るものが、ないです」
小さく呟くと、青年は首を傾げる。
「俺が押し付けただけだから、礼なんて要らない。君が歌ってくれればそれで十分だ」
青年の言葉の意味は理解できても、呑み込むのは難しかった。見返りもなく自分に何かをくれるということは、リチェルにとってはあまりに馴染みがない。何と返せばいいのか分からず、ただ小さく頷いた。自分の歌声くらいでお礼になるかは分からなかったけれども、それでも何度もこくりと頷く。だってそれくらいしか出来ない。
「じゃあ──」
青年が弓をかまえた。演奏が始まるのかとじっと青年を見ていると、目で歌うように促される。伴奏が先ではないのだろうか。
(わたしから歌え、ということかしら──?)
トクトクといつもより早く刻む鼓動を押さえつける。何度か深く息をして、息を整える。お礼になるのであれば歌わないと──。そう自分に言い聞かせて、リチェルは背筋を伸ばした。
乾いた唇を湿らせて、リチェルはすぅっと息を吸い込んだ。
「 Auf Flügeln des Gesanges 」
リチェルの歌声を追うように、美しいヴァイオリンの音が響く。
「 Herzliebchen, trag ich dich fort 」
不思議だった。
一人で歌っている時も楽しかったけれども、伴奏があると全然違う。
不安になって青年を見ると、大丈夫だというように彼は小さく笑ってみせる。その事に背中を押されるように、リチェルは歌い続ける。
「 Fort nach den Fluren des Ganges,
Dort weiß ich den schönsten Ort. 」
それにヴァイオリンの音は、決してリチェルの歌を邪魔しなかった。良いところを引き出すように、穏やかに、だけど感情豊かに伴奏を奏でている。それだけで紡がれる歌は色を変えた。
(楽しい──)
「 Dort liegt ein rotblühender Garten
Im stillen Mondenschein 」
躊躇いはすぐに消えた。彼の伴奏の美しさも、人前で歌うことの不安も、いつしか全部忘れて、ただ歌うことに夢中になる。知らず知らずの内に笑っていた。
「 Die Lotosblumen erwarten
Ihr trautes Schwesterlein 」
誰かと音楽を奏でるのがこんなにも楽しいことだったなんて、知らなかった。
こんなにも心が沸き立つのだと知らなかった。
ずっと、知らなかった──。
◇
「『歌の翼に』というのがこの曲のタイトルですか?」
歌い終わってから、リチェルは恐る恐る青年に尋ねてみた。尋ねることに勇気がいったのは、自分の歌っていた題名も知らなかったことを恥じたからだ。
青年は少しだけ驚いた素振りを見せて、だけどリチェルの無知を茶化すことなく頷いた。
「作曲はメンデルスゾーン、歌詞はハイネの詩が元だ。穏やかな曲調だから君の声によく合っていると思う」
メンデルスゾーンは名前だけなら聞いたことがあった。どんな曲を書いているのかまでは結びつかないけれども有名な音楽家なのだろう。音楽に関する事は大抵教えてもらえなかったから、リチェルは楽団にいながら作曲家や曲名、その他多くの基礎知識を知らなかった。
だけど本当は知りたかった。
一つ一つの曲が、誰が書いたもので、どんな名前がついていて、どんな風に歌われているものなのか。だからリチェルは青年が答えてくれた事に背中を押されるように、質問を重ねた。
「じゃあ、さっき通りで弾いていたのは……?」
「ブラームスの交響曲第一番第四楽章。演奏したのはアルペン・ホルンの独奏部と第一主題だ。あれはヴァイオリン用に編曲を加えたもので──」
そう言って青年はヴァイオリンを片手に構えると先程聞いた曲──恐らく第一主題の方を、少しだけ演奏してくれる。
「本当は独奏部だけでも良いかと思ったんだが、主題の方が有名だから付け加えたんだ」
ということはあの編曲は即興なのだろうか。
すごい、と純粋に思った。
きっとこの人はリチェルのいる楽団の誰よりも演奏が上手だ。技術も、表現も。素人であるリチェルにさえその違いが分かってしまう。それなのに少しも偉ぶる事なく、こんなボロを着た、男とも女ともつかない格好のリチェルにだって曲を聴かせてくれる。
この人自身はこんなに──。
(……あ)
意識してみて改めて気付いた。
青年の着ている衣服はとても上等な物だ。
針子をする事が多いから布は触り慣れている。彼の着ている物は、着古してはいるが布地も縫製も一流の仕事だろう。
それに比べて自分の格好ときたら。お下がりでサイズも合っていない、女物ですらないその格好が急に恥ずかしくなる。
きっと今彼と自分が並んでいる光景はとてもちぐはぐだ。だけどどうして気付かなかったのだろうという疑問には、一瞬で答えが出た。
多分それは青年の態度があまりに自然だったからだ。
資産家の子息たちは皆リチェルのことを同じ人間として見ていない。孤児だと馬鹿にし、横柄に上から物をいう。だけど青年の態度はその誰とも似ても似つかないのだ。まるで、対等のように彼はリチェルに話しかけてくれる。
「あ、あの! ありがとうございます!」
ペコリとお礼をすると、いや、と青年が言う。
「こちらこそ、とても綺麗な歌を聴かせてもらった」
「そんな……」
勿体無い言葉に首を振る。そして同時に気付く。そうか、これでお別れなのだ。それを名残惜しいと思っている自分がいた。
「あ、あの……」
「ん?」
声を出したことに一番驚いたのはリチェルだった。
本当はこのまま別れてしまうのが良いのだろう。さようなら、楽しかったです、と。それだけを言って別れればいい。今日起きた出来事は奇跡みたいに素敵な出来事で、それだけで十分なはずだ。だけど──。
望む事には、慣れていなかった。
何かを望んでも絶対に手に入らないと分かってからは、何も望まないようにしてきたつもりだった。だけどあと少しだけ、と祈ってリチェルは恐る恐る言葉を紡いだ。
「リチェル、と言います」
震える言葉で、赦しを乞う。
「お名前を、うかがってもいいですか?」
青年はキョトンとすると、それから決まり悪げに目を逸らした。
「……すまない」
その答えに頭を殴られた気持ちだった。だけど当たり前だ。こんなみすぼらしい格好をした自分に名前なんて──。
「歌に気を取られて名乗るのを忘れていた。失礼だったな」
「え?」
リチェルの落ち込んだ様子には全く気づいていないのか、青年はリチェルに向き直ると少しだけ口ごもって名を名乗った。
「……ヴィオ。そう呼んでくれ」
「あ……」
我知らず、頬が緩んだ。胸がほんのり温かくなる。
「ヴィオさん、ですね」
名乗ってもらった名前を、大事に繰り返す。良かった。リチェルをちゃんと歌い手として扱ってくれた青年の名前を、心の中で繰り返す。
「リチェルは、どこかの楽団に所属している訳じゃないのか?」
何気ないヴィオの問いかけに、リチェルは少し躊躇ってから首を振る。
「この街にある楽団はひとつなんですけど……」
「知っている。クライネルト音楽団。先代のグレゴール・クライネルトが私設した音楽団だろう。外部からも人をスカウトして随分入れ込んでいたと聞いているが」
いや、入れ込んでたのは先代だけだったか、と続けるヴィオの言葉にリチェルは目を丸くした。口ぶりからしてヴィオは楽団のことをよく知っているようだった。もしかしたらリチェルよりも。
「……その楽団には、います」
リチェルは羞恥を覚えながら、短く答える。
楽団にはいる。団員として所属していないだけで。でもその事を伝えるのは躊躇われた。だってその事実を口にすると、彼との違いがより浮き彫りになる気がして。惨めになる気がして。
「ただわたしは、雑用なので……」
だけど嘘を言うことはできなくて正直にそう口にした。リチェルの言葉にさして感情を挟むわけでもなく、そうか、とヴィオは頷くだけだ。
「勿体無いな。それだけ綺麗な声をしているのに」
「そんな……。それこそわたしなんかにはもったいない言葉です」
だって、朝から晩まで言いつけられた用事ばかりしている。音楽の基礎知識も知らない。自分が歌っていた曲の名さえ、教えてもらうまで知らなかった。
だから今日のことは、本当に奇跡のような時間で──。
「しばらくはこの街にいるつもりなんだ。リチェルさえ良かったら、また歌を聞かせてくれないか?」
「え?」
驚いてヴィオの顔を見上げる。だけど彼の表情には、同情も憐憫も見られない。この短い時間話しただけでも、ヴィオがそういった類の感情でリチェルを見ていないことはよく分かった。
だから多分これは、心からの言葉だ。
「良いんですか?」
思わず聞き返していた。
「良いも何も、俺が頼んでいる。宿の人には伝えておくから、近くまで来たら受付に声をかけてくれるか? ローデンヴァルトで取り継ぎしてもらえたらすぐ出る」
それが家名なのだろう。こくりとリチェルは頷いた。
ヴィオは帰り道、自分の宿泊する宿を教えてくれた。流石に入るのは躊躇われたので断って、宿の前で別れた。
帰り道を歩きながら、ふつふつと胸の奥に湧いてくる感情は、久しく触れたことのない感情だった。その感情の名前に唐突に気付く。
(わたし、嬉しいんだわ)
ずっと忘れていた。
そんな感情がまだ自分に残っていたことに驚いた。胸の中をくすぐる感情はどこかリチェルを落ち着かなくさせる。だけど同時に、とても温かい気持ちにさせた。
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