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第1章 SONATA

op01.昔、一人の旅人が(4)

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 夢見心地で歩いていたからだろう。
 気をつけていたはずなのに、リチェルは声をかけられるまで楽舎の前に誰かがいた事に全く気付けなかった。

「お前、今日出歩いたらマズいんじゃなかった?」

 だからそんな声を投げかけられた時も、ぼうっとしたまま前を向いた。
 一瞬自分に話しかけられたものかすら分からなくて、目の前に立つ少年の姿が焦点を結んでからハッとする。楽舎の前でニヤニヤと笑みを浮かべて立っていたのは、リチェルもよく見知った少年で、顔を合わせるのを絶対に避けなければいけない人間だった。

「……デニス様」

 急いで目線が合わないように頭を下げる。
 デニス・クライネルトはクライネルト家の次男だ。ヴァイオリンを習っていることもあり、時たま冷やかしのようにこの楽舎にも顔を出す。商家の子息と共に来ては、あまり家柄のよくない者たちを気分で詰っていくせいで楽団員からの評判は大層良くないが、領主の子息だからみな口も出せない。
 いつだって嵐が過ぎ去るのを待つかのように皆口をつぐむのだが、不運なことに今日はリチェルしかここにはいない。

 バクバクと鳴る心臓を落ち着けて、リチェルは出来るだけ刺激しないように静かな声で口を開く。

「……今日は、お屋敷での演奏会だとお聞きしています。早くお戻りになられないと……」
「はぁ? 孤児が偉そうに誰に許可を得て口聞いてんだよ」

 バンッ、と扉を叩きつける音。ビクリと身体をすくませて、だけどリチェルはか細い声で続ける。

「……奥方様が、心配されます」
「気付くかよ。そんなヘマしてない」

 母のことを思い出したのか明らかに不機嫌そうに声を尖らせて、デニスの手が乱暴にリチェルの持ってたカゴを取り上げる。

「きゃっ」

 中に入っていた糸が地面へと落ちる。

「何これ、糸?」
「……、っ」

 デニスの靴が糸を蹴り飛ばす前にリチェルの手が上から落ちた糸を庇う。自然デニスの足がリチェルの手を踏みつけて、痛みに唇を噛む。デニスはさして気にした様子もなく、むしろ踏みつけた足に力を込めた。

「げ、もしかしてあのババアの衣装かよ。……まぁオレには関係ないけど」
「……デニス様、どうかお許しください」

 リチェルの声がわずかに震える。普段ならまだもう少し落ち着いていられただろう。理不尽な扱いには慣れている。だから動揺が声に出たのは、先ほど嬉しいと感じた感情の揺れがそのままリチェルの心に残っていたからだ。
 その事にデニスも気付いたのだろう。つまらなさそうにリチェルの手を踏みつけていた目が珍しいものを見るように細められた。

「ふーん。お前、何か今日いつもより人間っぽいじゃん」

 その言葉にリチェルの肩がピクリと震える。動揺はそのままデニスに伝わったのだろう。へぇ、と面白そうにデニスの口元が緩んだ。

「オレはさぁ、お前出かけたらマズかったよなって聞いたんだよ。親切に。心配してやったわけ」
「……申し訳ありません」
「母様に知られたら大変だよなぁ、だって大事な客人がたくさん来てる訳だし、そんな日にお前みたいのがウロついてたらさ。お祖父様も孤児ばっか拾ってきて相当変人だったけど、父様までおかしくなったのかって言われちゃうよなぁ」
「……っ」

 一瞬、胸に小さな針を押し込まれたような痛みを感じる。だけどそれを無視して、リチェルは俯いたまま機械のように繰り返す。

「申し訳ありません」
「……」

 リチェルの態度にイラついたのか、上機嫌に話していたデニスの声が止まる。と、急に乱暴に帽子を掴まれると、そのまま取り上げられた。

「……っ」

 帽子の中に詰め込んでいた髪が解けた髪紐と共に、バサリと落ちる。
 途端にリチェルの雰囲気は薄汚れた少年のそれから年頃の少女の様相に変わった。リチェルは童顔だし、身長も高くない。着ているものも男物だ。髪さえ隠して下を向いていれば今でも少年に見えるが、ここ最近は少しずつ無理が出てきているのをリチェル自身も気付いている。
 そしてまさしく、無理が出てきたのではないかと思い始めた頃から、イルザ曰くリチェルはこの屋敷の次男に『ちょっかいを出されている』。

「なぁ、オレは寛大だからさ。お前が外に出てたこと、黙っててやるよ」

 と、頭上から降ってきた意外な言葉にリチェルはパッと顔を上げる。そしてすぐに後悔した。デニスはニヤニヤと笑いながら、あろうことか信じられない条件を出してきたのだ。

「お前がこの場で全裸になってごめんなさい、って謝るなら黙っててやるよ」
「──っ」

 あまりの内容に絶句して、言葉も出なかった。
 この人は立場が分かっているのだろうか。いかにリチェルが孤児とはいえ、仮にも領主の子息が口にしていい要求ではない。
 すぐに撤回するかと思ったが、デニスはニヤニヤしたままリチェルを見下ろしているだけだ。

 逆らってはいけないことは分かっている。だけど要求が要求だ。ギュッと唇を噛み締めて、やがて口を開こうとしたリチェルの声に怒鳴り声が割り込んだ。

「坊っちゃま! 坊っちゃま!! 何をしているのですか!?」

 キーキーとしたヒステリックな声は、屋敷の方からだった。楽舎の方へと大股で歩いてくる大柄なメイドは、イルザが口にしていたメイドのアンナだ。
 げ、とデニスが苦々しく呻く。
 
「茶会の途中で抜けるなんて! 奥様が大層お怒りですよ!?」

 降りてきたアンナはデニスの影に隠れていたリチェルの姿を目に留め、デニスが片手で持ったままのリチェルの帽子を見てただでさえ吊り上げていた眦をギリリとさらに鋭くする。

 大股で歩み寄ったアンナの手が、パン! と勢いよくリチェルの頬を打った。バランスを崩して地面に強かに身体を打ち付ける。一瞬息が詰まり、それでもリチェルは顔を上げないように地面を見る。本来、領主の子息はリチェルが軽々しく視線を合わせていいものではない。

「さぁ坊っちゃま。すぐにお戻り下さい。奥様に謝罪しないと」

 そう言うと、デニスの手から丁寧にリチェルの帽子を取り返すと、それをリチェルの方へ投げつける。そしてリチェルを睨みつけると冷たい声を絞り出す。

「お前の罰は後ですよ。お前みたいな薄汚い孤児は金輪際、坊ちゃんに近づかないこと。今度こそ部屋にこもって、その汚い顔を出さないように」

 アンナの言葉にリチェルは何度も頷くと帽子と糸を拾い上げて、すぐに楽舎の中へと駆け込んだ。
 足早に階段を駆け上がって、後ろ手にパタンとドアを閉める。途端に緊張が解けてズルズルとその場に崩れ落ちた。
 打たれた頬がジンジンと痛む。

 だけどそれでも、アンナが来たことはリチェルにとって幸いだった。
 今までもデニスに帽子を取り上げられたことはあるが、あんな度を越した要求をされたことはない。あのままアンナが来てくれなかったらと思うと背筋が冷えた。例え冗談だったとしても、リチェルの態度次第ではムキになった可能性だって低くはないのだ。

(……良かった)

 何度も嘆息して、それから思い出したかのように荷物のカゴを取り出した。糸は全部揃っているし、お釣りも落としていない。そして──。

「……あった」

 ヴィオが書いてくれた歌詞の紙を取り出す。それをなぞると、宝物を抱えるかのようにギュッと胸の前で握りしめた。
 目を閉じると、瞼の裏側に今日の出来事が蘇る。先程散々な目に遭ったのに、思い浮かぶのは今日の奇跡のような出来事だった。

「ヴィオ、さん」

 知らず知らずの内に、教えてもらった名前を唇がなぞっていた。それがそのまま小さな声で旋律を奏で始める。

『良かったらまた歌を聞かせてくれないか?』

 本音だと思っていいのだろうか。
 あの時はこの人は嘘をつく人じゃないと思えたのに、自分にそんな価値はないからともう怖くなってしまう。
 先程叩かれた頬を押さえて、こんな自分が行っていいのだろうか、と自問する。
 歌詞の紙を握りしめたまま、それでも小さな声で今日覚えたメロディーを口ずさむ。

 とても楽しかった。

 リチェルにとって歌うことはとても自然に身に染み付いたことで、取り上げられても止めることが出来ない唯一だった。 
 それでもいつからかリチェルにも歌うことが楽しいのか良く分からなくなっていたのだ。だけど今日は歌うことが楽しいのだと、嬉しいのだと、思い出せた。
 昔、孤児院にいた頃歌っていたように。






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