Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー

雪葉あをい

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第1章 SONATA

op.03 空高く軽やかに舞う鳥(7)

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 サラに歌を習い始めてから十日が過ぎた。
 
 珍しく一つの町に滞在していることに疑問を抱きながらも、リチェルは特段ヴィオに理由を尋ねることなく今日もサラの家を訪ねていた。

 いつまでこの町にいるの? とサラに聞かれて首を横に振る。リチェルはそもそもヴィオが旅している理由を何も知らないのだ。

「サラさんこそ、わたしにこんなに時間を割いてくださって大丈夫ですか?」

 昼過ぎに訪ねてレッスンを受けていたのだが、時間はもう夕刻だ。
 あんなに素敵な歌を歌う人なのだから、きっと自分の練習も必要だろう。
 
 それなのにほとんど毎日のようにリチェルのレッスンに時間を割いてくれている。
 公演もあるので時間は日によるが、一通り練習が終わると今のようにお茶をして過ごすのが日課になりつつあった。
 
 「まあ、心配してくれているの? ありがとう。でも大丈夫よ。きちんと練習はしているし、何よりこんな可愛いお嬢さんと過ごす機会なんてなかなかないんですもの」
 
 目元に茶目っ気を含ませてサラは笑うと、紅茶のカップに口をつける。
 この穏やかな婦人があの舞台に立って激情ほとばしる夜の女王を演じていたのだと思うと、とても不思議だ。

 サラはおっとりとしているが、所作のひとつひとつに気品がある事が今のリチェルには少しずつ分かってきた。
 そんな優雅な人なのに、サラの親しみのある態度はリチェルが男の子の姿をしていた時から何一つ変わらない。彼女はリチェルに対してずっと優しくて、時たま分不相応な愛情を注いでくれているようにさえ錯覚する。
 
「……サラさんは、どうしてわたしにこんなにも良くしてくださるんですか?」

 だから、ずっと疑問に思っていたことがこぼれ落ちたのは偶然ではなかった。
 
 本当はもっと前から思っていたのだ。ヴィオに対してもずっと思っていて、だけど曖昧なままにしている。
 それをサラに尋ねたのは、ヴィオとはまた違った種類の安心感が彼女にはあったからだろう。

「それはもちろん……」

 淀みなく返事をしようとしたサラの言葉がふいに途切れた。

 真っ直ぐに、リチェルはサラを見ていた。
 空色の瞳がゆっくりとまばたきをする。少しの時間、サラとリチェルは見つめ合ったまま黙っていた。

 やがてサラは紅茶のカップをゆっくりとした動作でソーサーに戻した。

「……そうね」

 そうして、まるで自分に言い聞かせるように呟く。

「たしかに、リチェルがそう思うのは無理もないわね」

 サラがゆっくりと息をつく。まるで胸の内に溜めていた何かを吐き出すみたいに。

「ねえリチェル。少しだけわたしの昔話を聞いてくれる?」

 こくりと頷くと、サラが笑う。実はね、と優しい声が紡ぐ。

「リチェル。私、貴女と同い年くらいの娘がいるの」






 サラの父は貿易関係の会社に務めていて、家は比較的裕福だった。
 幼い頃から歌が大好きだったサラは、周りの子供たちが楽器を習う中、両親に頼んで歌を習いにいった。

 元々才能もあったのだろう。

 十五になる頃には劇団で歌うようになり、舞台にもすぐに立てるようになった。
 やがて重要な役も任せてもらえるようになると、どんどん歌うことにのめり込んでいった。舞台にいる時間は魔法のような時間で、いつだって本当に楽しかった。

 両親からそろそろ結婚しないか、という話が出たのは十八の頃だった。
 相手は十以上も歳上の貿易商で、結婚したら劇団を辞めて家に入るようにと言われた。

 結婚相手も事業を持つ資産家。
 迎えた花嫁が外で仕事をしているようでは風体が悪い。
 
 辞めて家に入り、跡継ぎを産む。
 それは両親が娘である自分に当然期待することで、いつかは訪れる未来だ。
 
 そう思っても気持ちは納得しなかった。
 だからこれが最後だからと遠くの町の客演に行く許可をもらったのだ。
 
 期間は三ヶ月。それがリンデンブルックだった。

「そこで、生まれて初めて恋に落ちたのよ」

 目の前に座るリチェルが驚いたように目を開いた。
 頬が微かに薄紅色に染まって、その初々しい反応をサラはとても可愛らしいと思う。

 リチェルの心の落ち着きを待つように、ゆっくりとサラは話を続けた。

「相手は皮肉なことに婚約者と同じ貿易商の人だった。外地へ行き来している方で、たまたま私の出演した公演を聞いてファンになったと声をかけてくれたの」

 外国と本国を行き来しているという彼は、とても話し上手な人だった。
 まるで嘘みたいな外国の話をたくさん話して聞かせてくれた。彼の話が聞きたくて、いつも会えるのが待ち遠しかった。

 彼の話を聞きたいが、彼の声が聞きたいに変わったのはいつからだっただろう。
 会える時間を待つのが、楽しみから苦しみに変わったのは、いつ頃だったのだろう。

 きっとそれを自覚するよりずっと前に、もう心は囚われていた。

「婚約者がいた事を、彼に言わなかったの。惹かれていて、彼も愛してると言ってくれた。だから言いたくなくて。望まない結婚をするのだからせめて今だけは、と時間を引き伸ばしたわ」

 神様どうかお赦しください。
 今だけはどうか、お赦しください。

 すがるように、夜毎空に祈りを捧げる。
 なんて身勝手な祈りなのだろうと、己の心に刻みながら。

 そうして逢瀬を重ねる内に、約束の三ヶ月はもう目の前に迫ってきていた。

「『一緒に行かないか』と言われたわ。親御さんにも挨拶する、と。許されるまで頭を下げるから、と言ってくださった」

 その誠実さに、己がどれ程醜悪だったかを思い知った。
 泣きながら、すでに結婚が決められていることを話した。それが望まない結婚である事も。

「彼は許してくれたわ。最後に、お別れの時に目が合ったの。『一緒に来ないか』と言われているようだった。だけどもう、私は大変な罪を犯してしまったから……」

 これ以上両親に迷惑はかけられない、と首を横に振った。
 彼はサラの元から去り、サラは家へと帰った。自分が子どもを身籠もっている事を知ったのは、それからさらに四ヶ月後だった。

 結婚相手にと言われていた相手は、親の事業のとても大事な取引相手だった。
 婚約するはずだった娘の不祥事に父は怒り狂い、勘当を言い渡した。母は最後まで泣いていたけれども、それは娘を失う痛みではなく、サラの犯した過ちを責める涙だった。

「修道院に駆け込んで何とか子どもを産むことは出来たけれど、女一人ではそれから養う術がなかったの」

 話を聞くリチェルの手が微かに震えていた。その瞳が揺れている。

「その子は、どうしたんですか……?」

 震える声で、リチェルが尋ねた。

「……亡くなったわ」

 この優しい少女に負担をかけまいと、淡々と告げた。

「もうどうしようもなくなった時に、この町の劇場の支配人の方がとても親身になって私に優しくしてくださったのを思い出したの。雨の日だったわ。私は助かったけれども、長い間雨に打たれた子どもは風邪をこじらせてしまって、どうしようもなかった。──まだ二ヶ月だった。
子どもを亡くして今にも後を追いそうだった私を、旦那様と奥様はこの家に置いて下さったの」

 返しきれない恩がある。
 だけど返せる手段なんて歌う事以外思いつかなかった。だからサラはずっと、この劇場で歌っている。

「でも本当は、少し期待もあるのかもしれない。ここにいたら、いつかまた会えるのではないかと思っている自分もいるのかもしれないわ」

 例え二度と会えなかったとしても、この歌が風にのってどこかを旅している彼に届けばいい。そう願いながら歌っている。

 だってこの町はあの人と出会って、恋に落ちた町だから。

「リチェルに出会った日は、あの子の命日だったの。リチェル達が泊まっている宿から少し行くと墓地があるのよ。帰り道飛び出してきたあなたと出会って、男の子の格好をしたあなたが女の子だと分かった時、もう他人事だと思えなくなってしまったの」

 これでお話はおしまい、とサラは歌うように言う。

「幻滅したかしら?」

 優しく問いかける。己の心の隙間を埋めるために利用したのだと思われても仕方がない。だけどリチェルは──。

「……いいえ」

 小さくつぶやいて、懸命に首を振る。

「いいえ……っ、そんな事、少しも思いません……っ」

 ゆらゆらと揺れる瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。キュッと閉じた瞳の端から、新しい雫がこぼれ落ちる。

「まあ。そんなに泣いては瞼が腫れてしまうわ」

 席から立ち上がると、ハンカチをリチェルの目に当てる。

「ごめんなさい、辛い話を聞かせてしまったわ。泣かせるつもりじゃなかったのよ」

 優しい子だ。どうしようもなく人の心に寄り添ってしまうから、一緒になって必要のない傷を負ってしまうのだ。あぁ、悪いことをした。と心からサラは思う。

「リチェル、一つ言わせてちょうだいね。私はとても幸運だったの。あの日あなたと出会えて。あなたと一緒にいる時間はとても楽しくて幸せだから、一緒に過ごしているの。どうか、それだけは信じてね」

 コクコク、とリチェルが頷く。わたしも、とか細い声がつぶやいた。

「わたしも、サラさんと会えて、とても幸せです」

 その言葉だけで、あの時リチェルに声をかけた事は間違いではなかったのだと思った。この心優しい、春の小鳥のような娘に出会えたことは、きっとサラにとって幸いだった。
 
 




 リチェルが落ち着いた後、今度はリチェルの話を聞いた。
 
 初めは踏み込むつもりはなかったのだけれど、もうたくさんのことを話したから、サラもリチェルの事情を知りたかった。
 
 出会った時どうして男の子の格好をしていたのか。
 どうしてヴィオと旅をしているのか。

 リチェルはつっかえながらも、一つ一つをサラに話してくれた。

 リチェルの話はサラが考えていた以上にずっと過酷だった。
 だけど不思議なことに、今のリチェルからは辛い記憶に対しての怒りや悲しみを感じない。過去の出来事を話すリチェルの口調は淡々としていた。
 
 運命を呪っても仕方のない悲惨な日々を、リチェルの心は澄んだ泉のように過去のことだと受け止めていた。

 この子はどうしてこんなにも何も憎まずにいられるのだろう?

 ふと不思議に思ってしまった。
 元が純朴だと片付けるには少し非現実的で。少なくともサラは自分の運命を恨んだし、色んなものを呪った。

「リチェルは自分の今までを理不尽だと感じたりしないの? あなたはもっと怒っていいのだと思うのだけど」

 リチェルの今までを思えば、もう少し恨み言が出ても良いと思う。つい思ったままを口にしてしまうと、リチェルはまるで意外な事を聞かれたかのようにサラをじっと見つめた。

 澄んだ瞳が、サラの姿を映している。

 初めて会った時も思ったけれども、リチェルの瞳は春の若葉のようだと思う。風に揺れる新緑の葉が、チラチラと陽光を透かす様を思い出す。瑞々しく春を喜ぶ、生まれたての色だ。

 その瞳が、ふいに緩む。

「──そんな事ありません。理不尽だと感じたことは、たくさんあります」

 だけど多分、と何かを思い返すように、リチェルの目が瞬いた。

「恨むべき多くを呑み込んだ方を、赦した方を、一人知ってるからだと思います」

 出来ればわたしもそんな風に在りたいです、と。
 一瞬その少女がまだ多くを知らない十代の娘だという事を忘れるような、綺麗な笑みをリチェルが浮かべた。

「それに今は感謝してもし足りない程恵まれていますから、もう過ぎてしまった不足を口にしてはきっと叱られてしまいます。ヴィオが助けてくれたから、わたしはとても幸せなんです」

 そう言ってすぐにリチェルはいつもの可愛らしい笑顔に戻る。リチェルの言葉からは、今はもうヴィオへの感謝と信頼だけが残っていることが、ハッキリと感じられた。

「リチェルは、ヴィオさんが好きなの?」

 つい気になって聞いてみると、リチェルはキョトンとして少し頬を染めた。だがすぐに素直に頷く。

「はい、ヴィオにはとても感謝しています。でもサラさんにもとっても感謝していて、あの、サラさんのこともすごく好きです」

 はにかむように笑ってそう言われて、サラもクスリと笑う。私もよ、と繰り返してリチェルの髪を撫でる。

(そう、恋をしているわけではないのね)

 リチェルの感情は憧れのようで、きっと恋とは呼べない純朴であどけないものだ。だけどそれは何かの拍子で姿を変えるものである事を、サラは承知していた。

(だけど……)

 これだけ慕っていて、リチェルはヴィオの事情を全く知らないのだ。それが少しだけ、サラには引っかかった。
 
 
 
 
 
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