28 / 161
第1章 SONATA
op.03 空高く軽やかに舞う鳥(8)
しおりを挟む「いや、心当たりはないな」
酒場のカウンター越しにヴィオの話を聞いた店主は、肩をすくめてみせた。
「この町は劇場もあるし、ヴァイオリニストも珍しいもんじゃない。見ていても覚えていないって言った方が正しいのかもしれんが」
「そうか。時間を取らせてすまなかった」
礼を言って、その場から辞そうとする。
元々そこまで期待していたわけでもなく、店を出ようとした所を『なぁ、兄ちゃん』と知らない声が不意に呼び止めた。
声の主はカウンターに座っていた男だった。
昼間から飲んでいる手合いはあまりロクなものではない。実際男は酒臭い息を吐き出して、フラつく頭をカウンターついた肘で支えながらヴィオを見ていた。
声には応えず視線だけをちらりと向けると、特に気にした様子もなく男は続けた。
「話が聞こえてたんだけどなぁ、ヴァイオリニストってのは良く知らんが腕のいい医者なら心当たりあるぜ」
その言葉に、わずかに目を細めた。態度で耳を傾ける姿勢になったのが分かったのだろう。男は笑って続けた。
「そう警戒すんなよ、傷つくだろ。町のはずれに診療所があるんだよ。墓地の向こうだったかな。腕がいいって評判だ」
「お前、それってコレだろ?」
一緒に飲んでいた男が自分の頭のすぐ横で人差し指を回して見せる。違いねぇ、と声をかけた男がゲラゲラと笑う。
「頭がおかしくなった人間を元に戻しちまったとかそういう医者だよ」
「……精神科医ということか?」
「あ、そう。それそれ」
男が手を叩く。
「ばーか。お前、そりゃ関係ねぇよ」
「そうか、関係ないか! じゃあ悪いな! 引き止めちまってすまんかった」
ゲラゲラ笑ってまた杯を傾け出した男たちに目だけで礼をすると、ヴィオはさっさと酒場をでていく。
裏通りから表に出ると、一気に視界が明るくなる。表通りの真っ当な商売の声を聞くと気持ちが落ち着きさえするのは、くぐもった空気に慣れていないからだろう。
(診療所か……)
墓地の向こうと言うことは、宿からさらに町を外れたところにあるのだろう。
太陽の位置を確認して、足を宿の方に向ける。
リチェルを迎えに行くのは夕方だから、まだあと一箇所くらい尋ねる余裕はあるだろう。
サラがリチェルの歌のレッスンを引き受けてくれて幸いだった。
ベルシュタットまでは然程時間をかけずに済んだが、リンデンブルックではヴィオの探し物を探すためには時間が掛かることは容易に想像できていた。
流石に長時間リチェルを一人にするのは気が引けたので、サラの申し出はヴィオにとって渡りに船だったのだ。
(それに、一度きちんと習ってみるのも悪くないだろう)
先日サラの公演を行った時のリチェルの様子はヴィオにも覚えがあった。
幼い頃、初めて演奏会に連れて行ってもらったヴィオも演奏が終わった後はしばらく放心状態だったものだ。
きっとリチェルはもっと伸びる。
サラ程の実力のソプラノ歌手が教えてくれることは、リチェルにとって大きな刺激になるだろう。それはきっと彼女がこの先一人になる時の支えになるに違いないと思う。
(それに──)
『……わたし、あんな風に歌えるようになりたいな』
あの夜の、リチェルの言葉を思い出す。
リチェルは気付いていないかもしれないが、彼女がそんな風に前向きに未来を口にしたことはあれが初めてだった。それがどうしてか、とても嬉しかったのだ。
いつまで一緒にいられるだろうか、と思考がよぎる。
出来ればリチェルが落ち着く場所を見つけるまでそばにいてあげたいが、その余裕が自分にあるのだろうかと自問する。まだそばを離れるにはリチェルは危なっかしくて、自分に自信もないだろう。
だけど同時に、ヴィオ自身に余裕があるかと言われると答えは否だった。冷静に見て、余裕がある状況では決してないことはリチェルを引き取った時から知っている。
(だけど出来るだけ……。せめてもう少しくらいは……)
自分に言い聞かせるように、心中で呟いた。引き取ったからには責任がある、と正論で自分を縛る。
そこに生じる違和感や、生まれる反論を思考から閉め出していることには無自覚なままで。
ただ自分には責任があるのだと、そう言い聞かせる。
「……っ」
不意に背後から視線を感じた。
弾かれたように後ろを振り返るが、雑踏に変化はない。不自然な動きをする人間も特には見当たらなかった。
(…………)
気のせい、と言い切る事が出来ないのだから困る。琥珀の双眸をスッと細めて、そのまま宿の方へとヴィオは足を早めた。
◇
「ヴィオ、良かったら使って」
リチェルの声で考え事をしていた意識が持ち上がった。
サラの家にリチェルを迎えに行って、夕食を摂って帰ってきたのだが、帰ってすぐに考え事に没頭してしまっていた。完全にリチェルを意識の外に置いていたから不意打ちだった。
「あぁ、すまない」
リチェルがヴィオに差し出していたのは、湯気を立てている布地だった。目を合わせたものの使い所が分からずリチェルに目をやると、ふわりと笑ってリチェルが説明してくれる。
「宿の方が、疲れているときは温かい布を目元にのせると落ち着くわよって教えて下さったのよ」
サラの所に通い始めてから、リチェルは以前よりもよく笑うようになった。
ヴィオに対する口調も段々と違和感なく気安くなっていて、きっと本来の姿に戻ってきているのだろうと感じる。
何より可愛らしくなった、と思う。
元々美人であることは出会った時から察してはいたが、衣服を整えてからは文字通り見違えた。
姿に揃えて振る舞いや口調も心なしか女性らしくなってきている気がする。服装一つでここまで変わるのだから、女性というのは分からない。
これではサラに説教されるのも道理だろう。
(……ん?)
不意にこちらを見るリチェルの表情に違和感を感じた。
じっと見つめると、リチェルの視線が泳ぐ。やがてためらったようにえっと、と言葉を紡いだリチェルの目元に無意識に手を伸ばしていた。
ピクリ、と一瞬リチェルが身を震わせて、ヴィオは手を引っ込める。すまない、と呟くとリチェルは慌てて首を横に振った。
「……泣いたか?」
よく見ると、目元が若干腫れている気がする。何かあったのだろうかと思ったのだが、リチェルは何でもないの、と慌てたように否定した。
「とっても元気よ。それに、ヴィオの方が疲れてると思うから……」
リチェルの手がまだ湯気を立てる布地を握りしめたまま、ためらいがちにヴィオの目元にのびる。
「あの、のせてもいい?」
「あぁ」
泣いた痕はあるが、別段思い悩んでいると言う風でもない。
なら大丈夫なのだろう、と判断して目を閉じる。その上に丁寧な手つきで、人肌より少し熱いくらいの布が置かれた。確かに気持ちが落ち着いて、ゆっくりと息を吐き出す。
気配でリチェルがそばから離れたのが分かった。
帰ってきてからずっと、答えの出ない思考が回っている。
訪ねた精神科医は留守だった。
元々開いてたり開いてなかったりするらしく、それだけでも腕のいいというのは事実なのかと疑いたくなる。いや、元々与太話の類なのかもしれない。
問題はその後だった。通りがかった人間に声をかけられたのだ。アンタこの間も来てなかったかい? と。
『いや、勘違いかな。似たような背格好の人を随分前に見かけてね。ヴァイオリンを背負ってたから同じ人物かと思ってさ』
(──半年前)
そう男は言っていた。それなら〝計算が合う〟。
思考が断絶する。余計な感情が入り混じる。何かを見落としている気がして、気持ちが悪い。疲れているのだろうか。
ふいに──。
耳に心地よい歌声が滑り込んだ。
自然と口ずさんでいるのか、ささやかで美しい歌声が部屋に響く。
タイトルは『アヴェ・ヴェルム・コルプス』。聖歌だった。
元々修道院にいたと言うから、昔歌っていたのかもしれない。
静謐で澄んだ旋律を、リチェルの優しいソプラノがなぞっていく。
その歌声に、不思議と気持ちが落ち着いていくのを感じた。
息を細く吐き出して、布を当てたままの目元に手をやる。
(そういえば、最近ちゃんと聴けてないな……)
最近忙しくてサラの所で習ったというリチェルの歌声を、きちんと聴けていない。ヴィオが伴奏を弾いたら、きっとリチェルは喜んで歌ってくれるだろう。
ヴァイオリンを取り出した瞬間の、パッと綻ぶ彼女の表情を見るのが好きだった。
(でも、もう少し──)
目を閉じたまま、聴こえてくる歌声に耳を傾ける。
もう少しだけこのまま聴いていたい。
それは穏やかで、とても優しい──。
春の木漏れ日を思わせる温かな時間だった。
◇
「ところでヴィオさん達はいつまでこの町にいらっしゃるの?」
サラがヴィオにそれを尋ねたのは、リチェルに歌を教えてくれているお礼も兼ねて、とランチに誘った時のことだった。
食事が終わり、食後のコーヒーを飲んでいる時に、サラに尋ねられたのだ。当然それはリチェルも気になっていたようで、ヴィオの方に丸い瞳を向けてくる。
「いえ、まだ出立の目処が経っていないので、あと一週間はいると思います。ハッキリした答えが出せずすみません」
「いえ、良いのよ。私はリチェルが来てくれる日が増えるととても嬉しいし」
そう言ってサラがにっこりと笑う。
「服を着替えて本当に可愛くなったわ。ヴィオさんが言ってたショールもとても良く似合っているし。ヴィオさんもそう思わない?」
「はい、そうですね」
率直に口にしただけなのだが、リチェルが照れたように目を伏せた。
あらあらと微笑ましいものを見るように、サラが笑みを溢す。
髪色が似ているからだろうか、こうしていると親子にも見えるから不思議だ。
「そういえば、リチェルのお父様は亡くなっているのよね? ということはこれはお母様の物なのかしら?」
ふとサラがこぼした言葉に、ヴィオは驚いたように顔を上げた。リチェルの父が亡くなっていると言う話は今まで聞いたことが無い。
「そうなのか?」
尋ねると、特に隠していたわけでもないのかリチェルは頷いた。
「わたしが八歳の時に孤児院に連絡があったから、間違いではないと思うわ。だからクライネルトの当主様が私を引き取りたいと言ってくださった時も、特に何も問題がなくて……」
恐らくリチェルの中では片付いた事なのだろう。
「父は私を預けた時に必ず引き取る、と伝えてくれたみたいだったから悲しかったけれど」
現実感が湧かないのも正直な所だった、とまるで恥じいるようにリチェルは話した。
無理もない。
物心ついた時から孤児院にいて、親を知らないのだ。
いつか迎えに来てくれる父親なんて夢物語のように感じるのは、リチェルでなくても当然だろう。
「不思議なことではないわ。覚えていないのだから、仕方がないわよ」
サラもリチェルの様子に気付いたのか、優しくそう諭す。リチェルがこくりと頷く様子をニコニコと笑って見つめるその姿はどこか……、そう。母親のようにも見えた。
「ねぇヴィオさん」
不意に話しかけられて、ハッとした。はい、と返事をすると少し言いづらそうにサラが口を開く。
「出過ぎた事を聞くのだけど、ヴィオさんにはリチェルを預ける心当たりはあるのかしら?」
「え?」
口ぶりからして、サラはリチェルの大体の事情を知っているのだろう。きっとヴィオとリチェルの関係についても。
少し迷って、いいえ、と正直に答える。
「ただきちんと任せられる先を探そうとは思っています。初めて会った時にサラさんがおっしゃったように俺には責任がありますから」
「……ごめんなさいね、不躾な質問をしてしまって。少し気になったものだから」
「あ、あのサラさん! ヴィオは本当に良くしてくれてるんです。だから……!」
黙って聞いていたリチェルが耐えかねたように横から口を出した。必死な様子にサラがクスリと笑う。
「ごめんなさいリチェル。ヴィオさんを虐めているわけではないのよ。ただ……」
サラが口ごもる。だけどサラがそれ以上続きを口にすることは無かった。
「ディートリヒさん?」
不意に背後から聞き覚えのある名前が聞こえた。
弾かれたようにヴィオは後ろを振り返る。遅れてその声がヴィオにかけられたものだと気付いたのだろう。サラとリチェルの目線がヴィオの後ろを向いた。
人違い、とは言い切れない。
ディートリヒは、ヴィオの父親の名前だ。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
13
1 / 3
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる