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第1章 SONATA
op.04 エレベの濃い霧の中に(1)
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雨の音が響いている。
ソファの上で膝を抱えたまま、まんじりともせず窓を叩く雨の音だけを聴いていた。
自然が奏でる音はとても多彩で、何ひとつ同じものがない。いつもは聴こえる音に思いついた調べをのせていくだけで時間は過ぎていくのに、今日に限って何も思いつかなかった。
今夜の雨はとても酷くて、粒が揃わないティンパニのロールを聴いているみたいだ。
『ヴィクトル様』
声を掛けられて目を上げた。
扉が開いたのは気づいていたから驚かなかった。ソルヴェーグ、とまだ幼い声が執事の名を呟く。
『こんな所におられましたか。旦那様がお呼びですよ』
『母上は?』
『落ち着かれました。よく眠っていらっしゃいます』
そっか、と素気なく返事をしてソファから飛び降りた。
ソルヴェーグの隣をすり抜けて、廊下へ出る。
ことさら落ち着いた足取りを意識して父の元へ行くと、すまないな、と言葉少なに謝罪をした父に頭を撫でられた。
父の謝罪は約束していたヴァイオリンのレッスンが反故になった事だろうか。事情を分かってそれを不満に思うほど幼くはないつもりだけど、それを当てこするのも大人気ない気がする。
さり気なく頭にのせられた手からすり抜けると、ヴィクトルは『別に』と短く答える。
『ソルヴェーグから事情は聞いてるから。それより父上は寝なくていいの? 少しなら代わるけど』
父が昨晩からあまり眠っていないことは知っていた。
ただの風邪だと言われたが、元々身体の弱い母にとってはただの風邪でも脅威である事は知っている。だから父もずっとそばにいたのだろう。
流石に夜間はソルヴェーグが許してくれないだろうから部屋に戻るけれど、それまで母のそばについていることくらいはヴィオだって出来る。
『ありがとう。でもこれは俺の役目だから』
穏やかな笑みをこぼして、だけど父ははっきりとヴィクトルの申し出を拒んだ。
大体予想通りだったから、そう、と返事をして大人しく引き下がった。
だけど同時に思う。それなら普段からもっとそばにいればいいのに。と。
父が家にいない時母はいつも寂しそうだ。息子のヴィクトルの前では明るく振る舞っているが、ふとした瞬間その表情がかげるのを見ている。
何年経っても、ヴィクトルが成長してもずっと変わらない。
母は心から父を愛していた。
──だから。
『旦那様からの連絡が途絶えてもうひと月になるのです』
『奥様の様子に異変が見られて──』
どうして貴方が行く必要があったのだろう、と思う。
どうして貴方がそばにいないのだと。
初めから任せてくれればよかったのにと。
今でもずっと、そう思っている──。
◇
部屋の中はシンとしていた。
時たま荷馬車の音が微かに響くくらいで、喧騒はない。人通りが少ないのはリチェル達の泊まる宿が郊外にあるからだ。今になって宿が町外れにある事に、リチェルはホッとする。街中にある宿であればもう窓の外は騒がしくなっていたと思うから。
眠ったままのヴィオの肩からずり落ちた毛布をそっと直して、リチェルは差し込む光が出来るだけヴィオに当たらないようにカーテンをしっかりと閉めた。
極力音を立てないようにしながら、散らばった物を片付けていく。
(……ずっと起きてたのかしら)
本当はベッドに寝てもらいたいけれど、リチェルの力ではヴィオを寝室へ連れて行くのは難しい。
深夜に目を覚ました時にはまだ微かに灯りが揺れていたから、眠りについたのは明け方かもしれない。
昨日、昼食の席で見知らぬ男性に声をかけられてから、ヴィオは話をしていてもどこかずっと上の空だった。
『ディートリヒさん?』
ヴィオのことをそう呼んだ男性はすぐに勘違いに気付いたのか人違いだったと訂正したものの、ヴィオに呼び止められて少し二人で話をしていた。
ほんの数分話をしていただけだが、遠くに見える横顔がいつもより深刻そうに見えた。気軽に事情を聞いていい雰囲気ではなかったから、何も聞かなかったのだが、それからずっとヴィオの表情が曇っているようで気にはなった。
(でも、わたしじゃ何も役に立てない)
ヴィオの事情を何も知らないことを初めて悔やんだ。
この間まで気にならなかったのは、自分のことで手いっぱいだったからだろうか。だとしたら今でも自分のことすらままならないのに、知ってもどうしようもないのに、と思考が定まらない。
(助けてもらってばかりだわ、わたし)
出会ってからずっとだ。
今のリチェルはヴィオがいなければ、路頭に迷ってしまう。そうやって全てを任せて、自分は好きなことをさせてもらっている。
それを仕方がないと言い切れる程、ヴィオに対して無関心ではいられなかった。何か出来ることは無いだろうか、と思うのに何も思いつかない自分が歯痒かった。
ため息をついて、片付けを終えてしまう。気付けばもう少しでサラの家へ行く時間だった。
(そろそろ出ないと……)
普段であれば、いつもサラの家までヴィオがリチェルを送り届けてくれるが、もう位置は覚えたし一人でも行ける。何より眠ったままのヴィオを起こしたくはなかった。
少し迷ってヴィオが書き損じて捨てていた楽譜の紙を、今まとめたゴミの中から持ってきた。シワになっているのを伸ばして、机の上にあるヴィオのインクとペンを申し訳なく思いながら借りる。
『サラさんの家に行ってきます。 リチェル』
短く書き置きを残すと、それをヴィオの手元に慎重に滑り込ませた。
「いってきます」
規則正しく寝息を立てるヴィオに小さく呟いて、リチェルはショールを羽織ると足音を立てないように部屋を出ていく。
眠っているのでどうか起こさないでほしいと宿の方にお願いをして、リチェルは外へと向かう。
(大変、遅れちゃうわ)
急いでいたからだろう。よく前を見ていなかった。不意に目の前がかげった事に気付いた次の瞬間には、もう宿に入ってきた人物にぶつかっていた。
「きゃっ」
「──失礼」
「……ごめんなさい!」
扉の前に誰かがいる事に気付いていなかった。慌ててぶつかった人物に謝る。
「こちらこそ気づかず申し訳ありません」
返った声は落ち着いた男性の声だった。
顔を上げると、そこには身なりのいい老紳士が立っていた。全くもって彼の落ち度ではない。急いで目の前を見ていなかったのはリチェルの方なのだ。
「いえ、わたしが前を見ていなかったのが悪いんです。お召し物を汚したりしていないでしょうか」
申し訳なく思いながら聞くと、老紳士は人の良い笑みを浮かべてとんでもない、と口にする。
「大丈夫ですよ。それよりお出かけになられる所だったのでしょう。どうぞお気をつけて行かれてください」
「……お引き止めしてすみません。失礼します」
ペコリと礼をして、リチェルは今度こそ外へ出る。扉が閉まる直前、チラリと振り返ると老紳士はフロントの方へと歩いていく所だった。
(あんな方、この宿に泊まってたかしら……)
一瞬不思議に思ったが、すぐにサラとの時間に遅刻してしまうことを思い出して、リチェルは早足でサラの屋敷へと向かった。
ソファの上で膝を抱えたまま、まんじりともせず窓を叩く雨の音だけを聴いていた。
自然が奏でる音はとても多彩で、何ひとつ同じものがない。いつもは聴こえる音に思いついた調べをのせていくだけで時間は過ぎていくのに、今日に限って何も思いつかなかった。
今夜の雨はとても酷くて、粒が揃わないティンパニのロールを聴いているみたいだ。
『ヴィクトル様』
声を掛けられて目を上げた。
扉が開いたのは気づいていたから驚かなかった。ソルヴェーグ、とまだ幼い声が執事の名を呟く。
『こんな所におられましたか。旦那様がお呼びですよ』
『母上は?』
『落ち着かれました。よく眠っていらっしゃいます』
そっか、と素気なく返事をしてソファから飛び降りた。
ソルヴェーグの隣をすり抜けて、廊下へ出る。
ことさら落ち着いた足取りを意識して父の元へ行くと、すまないな、と言葉少なに謝罪をした父に頭を撫でられた。
父の謝罪は約束していたヴァイオリンのレッスンが反故になった事だろうか。事情を分かってそれを不満に思うほど幼くはないつもりだけど、それを当てこするのも大人気ない気がする。
さり気なく頭にのせられた手からすり抜けると、ヴィクトルは『別に』と短く答える。
『ソルヴェーグから事情は聞いてるから。それより父上は寝なくていいの? 少しなら代わるけど』
父が昨晩からあまり眠っていないことは知っていた。
ただの風邪だと言われたが、元々身体の弱い母にとってはただの風邪でも脅威である事は知っている。だから父もずっとそばにいたのだろう。
流石に夜間はソルヴェーグが許してくれないだろうから部屋に戻るけれど、それまで母のそばについていることくらいはヴィオだって出来る。
『ありがとう。でもこれは俺の役目だから』
穏やかな笑みをこぼして、だけど父ははっきりとヴィクトルの申し出を拒んだ。
大体予想通りだったから、そう、と返事をして大人しく引き下がった。
だけど同時に思う。それなら普段からもっとそばにいればいいのに。と。
父が家にいない時母はいつも寂しそうだ。息子のヴィクトルの前では明るく振る舞っているが、ふとした瞬間その表情がかげるのを見ている。
何年経っても、ヴィクトルが成長してもずっと変わらない。
母は心から父を愛していた。
──だから。
『旦那様からの連絡が途絶えてもうひと月になるのです』
『奥様の様子に異変が見られて──』
どうして貴方が行く必要があったのだろう、と思う。
どうして貴方がそばにいないのだと。
初めから任せてくれればよかったのにと。
今でもずっと、そう思っている──。
◇
部屋の中はシンとしていた。
時たま荷馬車の音が微かに響くくらいで、喧騒はない。人通りが少ないのはリチェル達の泊まる宿が郊外にあるからだ。今になって宿が町外れにある事に、リチェルはホッとする。街中にある宿であればもう窓の外は騒がしくなっていたと思うから。
眠ったままのヴィオの肩からずり落ちた毛布をそっと直して、リチェルは差し込む光が出来るだけヴィオに当たらないようにカーテンをしっかりと閉めた。
極力音を立てないようにしながら、散らばった物を片付けていく。
(……ずっと起きてたのかしら)
本当はベッドに寝てもらいたいけれど、リチェルの力ではヴィオを寝室へ連れて行くのは難しい。
深夜に目を覚ました時にはまだ微かに灯りが揺れていたから、眠りについたのは明け方かもしれない。
昨日、昼食の席で見知らぬ男性に声をかけられてから、ヴィオは話をしていてもどこかずっと上の空だった。
『ディートリヒさん?』
ヴィオのことをそう呼んだ男性はすぐに勘違いに気付いたのか人違いだったと訂正したものの、ヴィオに呼び止められて少し二人で話をしていた。
ほんの数分話をしていただけだが、遠くに見える横顔がいつもより深刻そうに見えた。気軽に事情を聞いていい雰囲気ではなかったから、何も聞かなかったのだが、それからずっとヴィオの表情が曇っているようで気にはなった。
(でも、わたしじゃ何も役に立てない)
ヴィオの事情を何も知らないことを初めて悔やんだ。
この間まで気にならなかったのは、自分のことで手いっぱいだったからだろうか。だとしたら今でも自分のことすらままならないのに、知ってもどうしようもないのに、と思考が定まらない。
(助けてもらってばかりだわ、わたし)
出会ってからずっとだ。
今のリチェルはヴィオがいなければ、路頭に迷ってしまう。そうやって全てを任せて、自分は好きなことをさせてもらっている。
それを仕方がないと言い切れる程、ヴィオに対して無関心ではいられなかった。何か出来ることは無いだろうか、と思うのに何も思いつかない自分が歯痒かった。
ため息をついて、片付けを終えてしまう。気付けばもう少しでサラの家へ行く時間だった。
(そろそろ出ないと……)
普段であれば、いつもサラの家までヴィオがリチェルを送り届けてくれるが、もう位置は覚えたし一人でも行ける。何より眠ったままのヴィオを起こしたくはなかった。
少し迷ってヴィオが書き損じて捨てていた楽譜の紙を、今まとめたゴミの中から持ってきた。シワになっているのを伸ばして、机の上にあるヴィオのインクとペンを申し訳なく思いながら借りる。
『サラさんの家に行ってきます。 リチェル』
短く書き置きを残すと、それをヴィオの手元に慎重に滑り込ませた。
「いってきます」
規則正しく寝息を立てるヴィオに小さく呟いて、リチェルはショールを羽織ると足音を立てないように部屋を出ていく。
眠っているのでどうか起こさないでほしいと宿の方にお願いをして、リチェルは外へと向かう。
(大変、遅れちゃうわ)
急いでいたからだろう。よく前を見ていなかった。不意に目の前がかげった事に気付いた次の瞬間には、もう宿に入ってきた人物にぶつかっていた。
「きゃっ」
「──失礼」
「……ごめんなさい!」
扉の前に誰かがいる事に気付いていなかった。慌ててぶつかった人物に謝る。
「こちらこそ気づかず申し訳ありません」
返った声は落ち着いた男性の声だった。
顔を上げると、そこには身なりのいい老紳士が立っていた。全くもって彼の落ち度ではない。急いで目の前を見ていなかったのはリチェルの方なのだ。
「いえ、わたしが前を見ていなかったのが悪いんです。お召し物を汚したりしていないでしょうか」
申し訳なく思いながら聞くと、老紳士は人の良い笑みを浮かべてとんでもない、と口にする。
「大丈夫ですよ。それよりお出かけになられる所だったのでしょう。どうぞお気をつけて行かれてください」
「……お引き止めしてすみません。失礼します」
ペコリと礼をして、リチェルは今度こそ外へ出る。扉が閉まる直前、チラリと振り返ると老紳士はフロントの方へと歩いていく所だった。
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