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第1章 SONATA

op.05 まもなく朝を告げ知らすために(5)

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 帰り道、激しく降っていた雨は小降りになっていた。

 自分の外套をリチェルに被せようとするヴィオを制し、ソルヴェーグが己の物を渡そうとすると、意外なことに協力してくれた三人の内カーターと呼ばれていた小柄な男が自分の分をリチェルに渡してくれた。

「アンタらのお陰で無事金は入るし、土砂降りなら嫌だけど今は小雨だしな。貸すよ。後で回収するから隠れ家の前にでも置いといて」

 そう言って、カーターは外套をリチェルに押し付けるとさっさと雨の中を飛び出していった。

 ヴォルフ以外はルートヴィヒの追手に顔すら見られていないから、まさかマイヤーから依頼を受けていたとはルートヴィヒも気付くまい。無事彼らが依頼をこなしてヴィオ達を国外へ出したとマイヤーも理解するだろう。

(無論ルートヴィヒ様はヴィクトル様の答えに納得はしないでしょうが……)

 マイヤーも今後どう動くか読み辛く、気掛かりは多い。

 それでもヴィオがこのまま旅を続けることに支障はないし、一旦良しとするしかないだろう。現在屋敷の執事を務めているフォルトナーに連絡して、国外からでも屋敷の様子を把握するルートは作らねばなるまい、とソルヴェーグは心中で思案する。

 一方、リチェルについては一旦ヴィオ達のいる場所に連れて行くことにした。一度サラに誤魔化してもらった以上リチェルを夜分に屋敷に帰すのは不自然だし、無事リチェル保護した旨の言伝だけサラに届けてもらうようヴォルフに頼んでヴィオ達は隠れ家に戻った。

「ソルヴェーグ。先にリチェルの手当てを頼めるか?」

 戻るなり開口一番にヴィオが言う。リチェルの傷はソルヴェーグも気付いていたことで、またヴィオが気にしていることも分かっていたのでおおむね予想通りの台詞ですぐに頷く。

「勿論ですとも。さあ、リチェル殿はこちらに」
「すみません……」

 恐縮しきりのリチェルをソファへと促し、ソルヴェーグは傷の手当てを始める。幸い手首の傷も頬の傷も擦れているだけで、すぐに跡も残らず直るだろうと伝えるとリチェルよりも後ろで聞いていたヴィオが安心したようだった。

「ヴィオ様。リチェル殿の手当ても終わりましたし、取り急ぎお召し替えを致しましょう。そのままでは風邪を引きます」
「……一人で出来る」

 背後に立つヴィオがげんなりと呟いて、リチェルの方をチラリと見る。気にしてはいるが、ソルヴェーグがヴィオの事を後回しにするはずないことも承知しているだろう。結局諦めて、奥の部屋へと引っ込んだ。
 
 その後ろ姿を黙って見送っていたリチェルが、不意に口を開いた。

「……ソルヴェーグさん」
「はい、何でしょう」

 返事をしながら、流石に事情を聞かれるだろうかと思う。
 ここまで巻き込んでおいて不誠実なことだと分かってはいるが、侯爵家の事情については話すわけにはいかない。

 どう話すべきかと考えるが、リチェルの反応はソルヴェーグにも予想外のものだった。
 リチェルは深々と頭を下げると、ごめんなさい、と謝罪を口にしたのだ。

「……何故貴女が謝るのですかな?」

 ヴィオが言った通り今回の事はリチェルに非があるはずがない。相手は元軍人で、一度攫うと決めたら何も知らないリチェルには対処のしようなどなかっただろう。

 だがリチェルはそうは思っていないらしい。
 顔を伏せたまま、言葉を重ねる。

「……絶対に迷惑はかけないようにすると言ったのに、結局迷惑をかけてしまいました」

 本気でそう思っている事が分かる、静かな声だった。

「リチェル殿。貴女が謝る必要はありますまい。今回の事は私の落ち度です。起こりうる可能性を考えず、浅はかに考えた結果です」
「でも、そもそもわたしがいなかったら何も起こらなかったはずです」

 そう言って、リチェルはキュッと唇を結んだ。

「ソルヴェーグさんには、わたしがいたせいできっと余計な心配をかけてしまいました。だから、ごめんなさい」

 そう言って頭を深く下げるリチェルを見て、ようやくソルヴェーグは悟った。

 この少女は闇雲に謝っている訳ではない。リチェルの謝罪は、恐らく自身がここにいる事そのものへの謝罪だ。
 この少女は出会ったその日から、ソルヴェーグがリチェルの存在を良く思っていなかったことをきちんと感じ取っていたのだ。

「…………」

 何か言葉をかけようとしたが、出てこなかった。
 否定の言葉も、舌触りの良い言葉も並べるのは簡単だ。だけどこの謝罪を本当の意味で否定できるのはたった一人だけで、ソルヴェーグはそれを良しとは出来ない。

(……ルートヴィヒ様が危惧していた通りの方がまだ良かったやもしれませんね)

 軽く目を伏せて、そんな事を考える。

 ここでリチェルを慰める言葉を出すのは不誠実だ。だからせめてソルヴェーグは穏やかに笑って口を開いた。

「リチェル殿。今日は随分とお疲れでしょうから、もう休まれた方がよろしいでしょう。寝室にご案内します」

 着替えは寝巻きになる物ならいくつか見繕える。着替えの手伝いは必要かと聞くと、予想通りリチェルは首を横に振った。

 寝室へ案内する時、リチェルはヴィオの入っていった部屋に一瞬目をやったがすぐに視線を外し、最後までヴィオのことを口にする事はなかった。



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