Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー

雪葉あをい

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第1章 SONATA

op.05 まもなく朝を告げ知らすために(6)

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 朝連れていくと伝言していたからだろう。その日リチェルを連れてルーデンドルフ家に向かうと、玄関にたどり着く前にサラが家から飛び出してきた。

「リチェル!」
「サラさん」

 ずっとどこか暗かったリチェルの表情が、わずかに明るくなる。その事にヴィオは安堵の息をついた。駆け寄ったリチェルを迷わずサラが抱きしめる。

「ごめんなさい」
「いいのよ。無事で良かった、本当に……」

 再会を喜ぶ二人を見て安堵する一方で、どこか心に棘が引っかかったような感覚がずっとしていた。結局昨晩はリチェルとゆっくり話す時間は取れないままで、今朝も少し話しただけだ。

『助けに来てくれてありがとう、ヴィオ。もう大丈夫』

 そう言ってリチェルは笑ったけれども、向けられた笑顔からは以前よりも距離を感じて、それ以上を口にするのが躊躇われた。

 リチェルの無事を確かめたのか、サラがリチェルから身体を離してヴィオとソルヴェーグの方へ歩いてくると頭を下げる。

「ヴィオさん、ソルヴェーグさん。リチェルを無事帰して頂きありがとうございます」
「いや、元々悪いのはこちらだ。リチェルには怖い思いをさせて申し訳なかった」

 謝罪をしながら、敬語を忘れていることにすぐに気付いた。だがサラは特に気にならなかったようで、僅かに笑っただけだった。

(それも、そうか……)

 ヴィオが侯爵家の人間であることは、もうサラも知っているだろう。
 かろうじて肯定も否定もしていないが、そんな事は何の言い訳にもならない。

 この街に着いてからずっと隣人のように接してくれたサラに、一線を引かれるのは少し残念な気もするが仕方がない。そう思っていた矢先に、サラは全く以前と同じ穏やかな口調で口を開いた。

「ヴィオさんはこのままリンデンブルックを発たれるの?」

 サラの隣にいたリチェルの肩が一瞬震えた気がした。
 サラがリチェルの方をチラリと見ると、肩に手を乗せて微笑みかける。

 若葉の瞳がヴィオの方を遠慮がちに見る。
 もう会えなくなる少女の瞳を、どうしてか真っ直ぐに見返すことができなかった。その瞳から逃げるように目を逸らして、サラの方を向く。

「はい、そのつもりです」

 出来る限り、淡々と答える。

「どちらへ行かれるの?」
「まだきちんと決めてはいませんが、西側の山を越えてもっと南の方へ」
「そう、遠くへ行かれるのね」

 しみじみとそう言って、サラは目を伏せる。
 サラが気にしているのはリチェルのことだろうか。先程から一言も口を挟まない少女は、サラの隣に寄り添ったまま今は少しうつむいていた。

 だけどそれも一瞬のことで、すぐに笑顔で顔を上げる。その表情を見た瞬間、どうしようもなく後悔が込み上げる。

(何に対して?)

 何度も考えたが結論は同じだ。これはリチェルにとって最善の結果だ。この町でリチェルは歌い続けることが出来るし、ルーデンドルフ家は預け先として申し分ない。

 ただ一つだけ。

 多分自分がもう、リチェルに会うことは──。

「あの、ヴィオ。気をつけ……」

「ところでヴィオさん。一つリチェルのことで気にかかっていたことがあるのだけど」

 リチェルの声を遮って、急にサラが朗らかなトーンで話を切り替えた。

 思わぬ言葉にヴィオが目を瞬かせる。
 サラは変わらず笑顔を浮かべたままだが、会話の脈絡はなかった。全く意図が読めないまま聞き返す。

「それはどういう……」
「リチェルの元々持っていた臙脂のショールがあるでしょう。あちらはリチェルが孤児院にいた頃から持っていたものだと聞きました。なかなかお目にかかれないとても質の良いものだったのだけど、もしかしたらリチェルのお母様の物じゃないかしら?」

 リチェルのショール。

 リチェルがアーデルスガルトの町にいた頃から大事に持っているものだ。この町に来て服を選ぶ時も、ヴィオが思い出すくらいにはリチェルはそのショールを大事にしていた。

(質の良い……、確かに)

 あまり気にしたことはなかったが、あのショール、ともすれば母が時たま使っていた物と質感が似ている気もする。

 だがそれが今更どうしたというのだろう。サラを見ると、サラはこちらの困惑など気にもとめない様子で上品に笑ってみせた。

「私はね、ヴィオさん。リチェルはもう少し自分のことを知ったほうがいいと思うの」
「サラさん?」

 驚いたようにリチェルがサラを見上げた。
 そのリチェルの手をサラが握りしめる。

「リチェルの孤児院のあった場所はラクアツィアです。ヴィオさんがどこへ向かうのかは存じ上げないけど、きっと方角は同じでしょう」

 ヴィオを見る空色の瞳は曇りのない高い秋の空のようで、その瞳が今は真っ直ぐにヴィオを見ていた。
 口調だけは穏やかで、上品で、何気ない。だけどその裏側にある気持ちを察せずにはいられない。そんな視線を向けて、サラはヴィオに問いかける。


「──もし貴方さえ良ければ、しばらくの間リチェルを一緒に連れて行って頂けないかしら?」


 まるで明日の天気を告げるような朗らかな声。

 だけどその提案に、束の間返事をする事を忘れる。
 リチェルも同じだったようで、サラの方を驚いたように見上げている。最初に反応したのは今までヴィオの後ろにいたソルヴェーグだった。
 
「お言葉を返すようですが、ルーデンドルフ家のご当主にはすでにお話を通されているのでは?」

 ソルヴェーグの言葉はもっともだ。そしてこの執事がリチェルの同行を良しとしない事はヴィオも知っている。
 冷酷なわけでも非情な訳でもなく、ただヴィオの立場を考えて当然の判断だと理解はしている。

 だがそのソルヴェーグに一歩も引かず、サラはあら言ってなかったかしら? とふわりと笑って返す。

「元々ご当主には、リチェルのことはヴィオさんの事情でしばらく預かるだけだとお伝えしています。もちろん引き取る可能性がある事もお話ししていたけれども、いきなり明日から引き取ると言うのは裏に何か複雑な事情があるのではと疑われてしまうでしょう?」

 あくまでも穏やかにサラが言う。
 それから先ほどよりも少しトーンを下げて、だけど毅然としてサラは言葉を続けた。

「もちろん無理にとは言いません。リチェルが帰りたければいつでも帰して下さればいい。この子が帰ってくる場所は、私がきちんと守ります」

 サラの声は誠実だった。そこに裏があるようには思えない。

(いや、それ以前に──)

 出会ってから今まで、サラが不誠実なことなど一度もなかった。
 彼女はずっとリチェルに対して心を砕いてくれていた。

 だからきっと、サラがこう言うのは自分のためではなく──。

 リチェルの方に視線を移す。
 今度はきちんと目が合った。若葉の瞳が戸惑ったようにヴィオの姿を映している。だけどその戸惑いはどこか──。

(連れていく?)

 心の中で自問する。
 リチェルをもう一度、連れていく。

 分かっているのだ。
 リチェルを連れていくという選択肢の重みは。
 
 簡単なことではないだろう。だけど今度は、ちゃんと帰る場所がリチェルにはある。他でもないサラが作ってくれた。
 
  最善だと思ったのだ。
 それがリチェルにとっても幸せなのだと、そう思っていた。

 だけど宿で話をした時からずっと違和感は拭えなかった。
 リチェルがずっと、無理をして笑っている気がして。

 今目の前にいる少女は笑ってはいなかった。透き通った瞳がゆらゆらと、戸惑いで揺れている。だけどその表情はここ最近見た笑顔に比べるとずっと自然だった。何より──。

(君も行きたいと、考えて良いのだろうか)

 サラはきっとリチェルの蔑ろにするような提案はしないだろう。ならばそこにあるのは、きっとサラが汲み取ったリチェルの意志であるはずだと──。

(……いや、どうでも良いな)

 フッと力が抜けた。

 耳に残る歌声は、思い出せば鮮やかによみがえる。美しく、空へ届く春の風のような歌声。

 
「ソルヴェーグ」


 落ち着いた声で、家に仕える執事の名を呼んだ。ヴィオの覚えている限りでは、困らせると分かってこういう事を言うのは初めてな気がする。そう思うと少し笑みが溢れた。
 
「すまないが、少し世話をかける」

 ヴィオの言葉に、ソルヴェーグが目を見開く。


「リチェル」


 リチェルがゆっくりと顔を上げた。ゆらゆらと揺れる瞳に映る感情は、期待だと受け取っても許されるだろうか。

(多分、俺はもう一度君の歌を聴きたいんだろうな)

 出来れば隣で。
 そっと歩み寄って、リチェルの目の前に手を差し出した。


「──君さえ良ければ、もう少し俺と一緒にいてくれないだろうか?」


 リチェルが目を見開いた。

 信じられないように、差し出したヴィオの手と顔を交互に見る。
 やがて戸惑ったようにサラの方をふり仰いだリチェルに、大丈夫だと言うように笑顔でサラは頷いた。

「……っ」

 一瞬何かに耐えるようにキュッとリチェルが目をつぶる。だけどやがてサラの後ろから歩み寄ると、ゆっくりとヴィオの手に己の手を重ねた。


「……はい」


 若葉の瞳がわずかに潤む。


「よろしく、お願いします」


 その笑顔は、まるで春の訪れを告げるような。
 そんな温かな笑顔だった。




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