Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー

雪葉あをい

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第1章 SONATA

【幕間】夜想曲Ⅰ

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「わぁ……」

 頭上に広がる星空に、思わず感嘆の声が出た。

 夜は冷えるからね、と建物を出る前に言われた通り外に出ると外套を着込んでいても尚寒さを感じる。
 でもそれ以上に夜空に広がる光景に、寒さを忘れる。それはリチェルが今まで見た空の中でも指折り入る美しい光景だった。

 リチェル達がリンデンブルックを出たのは今日のお昼のことだ。

 元からリチェルを送り出すつもりだったのか、ルーデンドルフ家で用意されたリチェルの部屋に行くとヴィオに買ってもらった鞄にすでに荷物はまとめられていて、必要なものは全て詰め込まれていた。

『本当は女の子なんだからもっと入り用なのよ。ヴィオさんにお金を預けるから、きちんと買ってもらいなさいね』

 孤児院で育ったリチェルには親というのはあまり馴染みがない。だけどそう言ってリチェルの旅立ちを準備してくれるサラはまるで実の母親のようだった。

『サラさん、何だかお母さんみたい』

 思わずそう溢すとサラは目を見開いて、やがてどこか泣きそうな顔をして笑った。

『いつでも帰ってきて良いのよ』

 最後にそう言って送り出してくれたサラの言葉は、リチェルが今までかけられてきた言葉の中でもとびきり優しくて、別れる時に少しだけ泣いてしまった。

(随分遠くまで来たのね)

 今までリチェルの世界はクライネルトの屋敷と孤児院が全てだった。孤児院にいた時も外出はほとんどした事がなかったし、アーデルスガルトへの旅路はほとんど汽車だったから、この一ヶ月でヴィオと旅をしてきた記憶はリチェルにとって全てが新鮮だった。


「リチェル」


 ふいに後ろから声をかけられて振り返る。同時に後ろから肩にショールがかけられた。

「ヴィオ」
「流石に夜に一人で外に出るのは危ない」

 肩にかけてくれたショールを胸の前で重ね合わせて、ありがとう、とリチェルは笑った。

「心配かけてごめんなさい。ヤンさんがこの辺りは知ってる人ばかりで安全だし、星でも見てきてくれたらどうかって言ってくださったの。一応出る前にはお伝えしてから出てきたんだけど……」

 入れ違いになったのだろうか、と心配そうにヴィオを見ると、ヴィオは『いや、別に怒っているわけじゃない』とどこか気まずそうに口にする。

「それを聞いたから出てきたんだ」
「そうだったのね」

 リチェルが表に出たのはついさっきだから、きっと聞いてすぐに心配して出てきてくれたのだろう。ごめんなさい、ともう一度こぼす。

「でも今日はヤンさんが泊めてくださって良かったわ。村に宿がないと言われた時は、どうしようと思ったもの」

 経由できる村があるからとリンデンブルックから丸一日かけて来たのだが、この村は牧羊を生業にする村で外部から訪れる客はほとんどないらしい。
 ヴィオ達を連れてきてくれた馬車は道中でリンデンブルックに引き返していて途中から歩きだったから、近隣の町に戻るにも足がなかった。村の人に聞いてどうしようかと悩んでいるときに通りかかったのが、羊飼いのヤンだった。

『うちに客が泊まれる部屋があるから泊まっていくかい?』

 立ち往生していたヴィオ達にとっては渡りに船だった。
 有り難くご厚意に甘えることにして、ヤンの家に向かう途中ヴィオ達が南の方に向かうと聞いて、ヤンも明日同じ方面に向かう予定だったのだと笑った。

『それならちょうどいい。俺も明日から南へ渡る予定なんだが、一緒に行くかい? 本当ならこの時期は羊はみんなあっちに移動しちまってるんだが、今年は怪我をした子羊がいてね。治った後に移動させようと思ってたのさ。荷車を引いてくから荷物くらいは乗せてやれるよ』

 これはヴィオたちにとっても願ってもいない事だったようだ。元々山越えは一日で出来るものでもなく、案内を誰か村人に依頼したいと考えていたのだ。突然の訪問だったにもかかわらず、ヤンの家族は気のいい人たちで奥さんはヴィオ達を歓待し、全員分のご飯を文句一つ言わず用意してくれた。

 夕食のお片付けも終わってホッと一息ついていた時に、ヤンが星でも見てきたらどうかと声をかけてくれて出てきたのだ。

「明日も随分歩くことになると思うが大丈夫か?」

 ヴィオに聞かれてリチェルはこくりと頷く。クライネルトの屋敷で朝から晩まで働いていた事を思うと、歩くだけでいいのならむしろ楽だと感じる。
 もちろん峠を越えるから坂道になるだろうけれど、途中で泊まる場所はヤンが手配してくれるというので安心だった。

 それに、とリチェルは口を開く。

「本当は少し楽しいの。馬車に揺られるのも良いけれど、自分の足で歩いていると周りの景色がよく見えるから。自分の足で旅をしているんだって感じられて」

 三年以上住んでいたアーデルスガルトの町ですら、リチェルは必要のある場所にしか行ったことがないのだ。
 だからどこまでも自由に歩いていけることは、それだけでとても新鮮で楽しい。

「……そうか。それなら良かった」

 ホッとしたようにヴィオが息をつく。
 不意にお互い言葉が途切れた。ヴィオが口を開こうとして、だが何も言うことはなしに目を逸らす。

 そういえば、と気付いた。

 ヴィオと二人で落ち着いて話すのは久しぶりな気がする。
 少なくともソルヴェーグと合流して以後はなかった。ヴィオに対して従者の礼を崩さないソルヴェーグと一緒にいると、リチェルも失礼のないようにと言葉を選んでしまう。

(どうして──)

 どうしてヴィオはまた旅をしようと言ってくれたのだろう。

 本当は聞きたくて仕方ないのに、だけど聞いてはいけない気もする。
 ヴィオが連れ出したいと思ってくれるほどの価値を、自分の中に見出せるほどリチェルは自惚れていない。

 だけどその理由がヴィオの中にあるのであれば尚更、それは触れてはいけないのではないだろうか。理由は分からないけれど、漠然とそう感じた。

 ついてきて良かったのだろうか、と迷いがある。

 ただ一緒にいたくて、と言うにはあまりに重いものをこの人に背負わせているのではないだろうかと、そう。
 
「あの……」
「あの」

 同時に口を開いて、顔を合わせて黙り込んだ。口元を押さえて、すまない、とヴィオが呟く。

「リチェルから言ってくれ」
「ううん。全然大した事じゃないの。ヴィオの方こそ、何かあるんだったら……」

 リチェルの言葉にヴィオは少しだけ考え込んで、やがて『それなら』と口火を切る。

「その、何も聞かないのか?」
「え?」
「今までゆっくり話をする時間が取れなかったからというのもあるが、リチェルは結局どうして自分があんな目に遭ったのか知らないままだろう」
「…………」

 ヴィオの言葉に目を瞬かせる。
 もちろん気にならないわけじゃない。だけどそれはヴィオの出自に大きく関係しているのだろうという事は分かる。リチェルにはきっと知られたくない事なのだろうという事も。

 だからそれを知って、ヴィオと一緒にいられなくなることの方がリチェルにとってはずっと──。

 だから口にはせずに、えっと、と言葉を紡ぐ。

「あの、少しは分かるの。ヴィオは本当はとても位の高い貴族の方で、それならきっとわたしが一緒にいたのはとても迷惑な事だったんじゃないかって。ソルヴェーグさんが気にするのも当たり前で、今だって、本当はついてきて良かったのかって思うもの。話し方や呼び方だって、いまのままじゃ失礼じゃないかって……」

 嬉しくて、気付けば伸ばされた手を取っていた。

 ソルヴェーグはここまでの旅路でリチェルの同行について何も言う事はなかったけれど、本当はよく思っていないのじゃないかと気がかりではあったのだ。

「それは違う。前も今もリチェルを連れてきたのは俺だ。呼び捨てで良いと言ったのも敬語が要らないと言ったのも俺なんだから、リチェルは気にしなくていい。ソルヴェーグのことは……その、不安にさせてすまない。だが決してリチェルを嫌っているわけではないんだ。立場上ああいった態度を取らざるを得ないというか……」
「それはいいの。だって、きっと当たり前のことだもの」

 大きな家のご子息であるなら、リチェルのような孤児といることは良く思われないだろう。きっとものすごく譲歩して、一緒にいてくれているのだ。

「それに今日旅の途中でも、馬車にずっと揺られていて辛くはないかと心配してくださったの。ソルヴェーグさんはとても優しい方で、それ以上にヴィオの事をすごく大切に思っている方なのね」

 重ね合わせたストールを握りしめる。

 分かっていて、それでもリチェルは付いてきてしまったのだ。ヴィオの言葉に甘えて付いてくる事を選んだのであれば、できる限り迷惑をかけないようにしたい。ヴィオのことを大切に思うソルヴェーグに対しても、悪感情なんて抱きようがないのだ。

 ヴィオ、と名前を呼ぶ。

「貴方が誰であっても、わたしにとっては貴方が助けてくれたことが全てで、心から感謝しています。だから、どうか事情を話さないことを気に病まないで」

 悩ませてしまうような価値は自分にはないのだ。
 もちろん知りたいか知りたくないかでいえば、本音は知りたいと思う。そのせいで力になれないことは悲しいから。

 だけどもう一度一緒にいようと言ってくれただけで、もう十分にもらっている。もらいすぎているくらいだ。

「それにわたしが事情を聞くと、ソルヴェーグさんが困ると思うわ」

 少しでも気持ちを軽くしようとにっこりと笑って、ヴィオを見上げる。月の光に似た色の瞳がリチェルの姿を映したまま、何度か瞬いた。

「…………確かに否定はしないが」

 少しの沈黙の後、ヴィオは正直にそう零して、また黙り込む。だが、とヴィオの唇が微かに動いた。

「ヴィオ、それよりとっても星が綺麗」
「え?」

 急に話題を変えたリチェルの言葉も、ヴィオが不意をつかれたようにリチェルの方を見る。そしてリチェルの視線に合わせるように空を見上げた。

「こんな高い場所で星を見たのは初めてな気がするわ。今にも降ってきそう」

 昨日の雨が嘘のように夜空には雲一つない。
 もしかしたら、アーデルスガルトでも綺麗な星空は見られたのかもしれない。うつむいて過ごして来たから知らなかっただけで。

 そう思うと、この夜空さえヴィオとの出会いがくれた贈り物のように思うのだ。これから美しい景色に出会うたびに、リチェルはヴィオとの出会いを思い出すのだろう。

「…………あぁ、そうだな」

 ヴィオが微かに笑う。
 そうしてゆっくりと息を吐き出すと、唐突に口を開いた。


「────父を探しているんだ」


 パッとヴィオの方を見る。
 だけど目は合わなくて、ヴィオがこのまま事情を話してくれるつもりなのだと察する。
 言葉の意味を理解して、リチェルは顔を曇らせた。

「お父様が、いなくなってしまったの?」
「あぁ。半年程前から理由があって家を出ているんだが、連絡が取れなくなってもう三ヶ月以上経っている。俺はずっと父の足跡を追っているんだ。それが旅の理由だ」

 家族の連絡が取れないとなれば、それは心配だろう。
 同時に事情をリチェルに話して大丈夫かという心配と、そんな状況の中でリチェルを助けてくれたのかと思うと心苦しくなって思わずキュッと唇を引き結ぶと、ヴィオが苦笑した。

 そんな顔しないでくれ、と優しく笑う。

「今は父の弟、叔父上が当主の代わりを務めているんだが、元々俺も父上も叔父上とはあまり仲は良くなかったから、どうやら不況を買ってしまったみたいで。俺を連れ戻すために来たのがリチェルを拘束した人間だ。だから本当にリチェルは巻き込まれただけだ。謝っても誤り足りないくらいだが、本当に君にはすまない事をした」

 フルフルと首を振る。
 そんな事はない。だってそれならやっぱりリチェルがいなかった方が、ヴィオはそのままスムーズに町を出ることが出来たのではないだろうか。

 そう言うとヴィオはどうだろうな、とすぐに否定した。

「どちらにせよ交通路は押さえられていただろうし、あのままだと持久戦になっただろう。考え方によってはああいった形で終われたのは最善だったかもしれない。……いや、最善というのは、流石に違うか……」

 リチェルの頬にあるガーゼをチラリと見て、ヴィオが口ごもる。急に歯切れが悪くなったヴィオの様子にキョトンとする。視線を辿って自分の頬を押さえると、心配してくれたのだと分かって思わずクスリと笑みが漏れた。ほんの擦り傷だ。きっとすぐに治るだろう。

(本当に優しい人──)

 クスクスと笑っていると、リチェル、と若干気まずそうにヴィオが名前を呼ぶ。
 ごめんなさい、と口にして笑いをこらえる。そうしていると一つだけ聞きたかったことがあったのを思い出した。

「あの、一つだけ聞いてもいい?」
「何だ?」
「ヴィオのこと、このままヴィオと呼んでいても大丈夫かしら?」

 リチェルを捕まえた人達の話が正しければ、ヴィオの本名は別にあるはずだ。不都合になったりしないのだろうかと心配して聞くと、ヴィオは意外にもそのままでいい、と頷いた。

「元々その名前で旅をしているから。ソルヴェーグも人前ではヴィオで呼んでいるだろう」

 そう言われてみれば、確かにヴィオはいつも名乗る時『ヴィオ』で通している。苗字が必要なときは『ローデンヴァルト』が家名だ。

「本名を教えておいた方がいいだろうか?」

 ヴィオに聞かれて首を横に振る。

「もうたくさん聞いてしまったし、わたしが知らない方が良いかもしれないから。それにわたしにとっては、名前よりも貴方だと言うことが大切だもの」
「…………そうか」

 ふいっとヴィオが顔を背けた。若干口ごもって、いつか……、と小さく呟く。

「え?」

 顔を上げたヴィオが優しく笑う。

「いつか、きちんと名乗るよ。リチェルがそんな事を気にしなくて良いようになってから」
「……うん」

 そんな日が来るのだろうか。

 でも正式にサラの養子になれるようなことがあれば、名前くらいは聞いても許されるのかもしれない。そう思うと少しだけその時が楽しみだった。

「ところでリチェル、歌の方はサラさんにある程度習えたのか?」

 突然質問の趣旨が変わってキョトンとするが、すぐに頷いた。

「もちろん短い間だったから、少しだけだけど。でも基礎は教えて頂いたわ。サラさんは教えるのもお上手だったから、わたしでも色んなことが覚えられたの」
「それはリチェルの才能もあると思うが……」

 ヴィオはそう言って、世間話の延長のように『じゃあ歌ってくれないか?』と尋ねた。

「ここで?」
「あぁ。君さえ良ければ」

 周りをキョロキョロと見回す。家と家の間は距離があって、大きな声で歌わなければ周りの迷惑になる事もないだろう。

「何を歌えば良いかしら?」

 少し恥ずかしくはあるけれど、ヴィオが聴きたいのなら歌うことは少しも嫌ではない。サラの前で随分歌ったせいもあって、少しずつ人前で歌うことには慣れて来ていた。

「じゃあ……『アヴェ・ヴェルム・コルプス』」

 さして躊躇いもなくヴィオがリクエストしてくれた曲名に目を瞬かせる。修道院で良く歌っていた聖歌だから歌えるが、すぐに曲名が出てくる程ヴィオの前で歌ったことがあっただろうか。

「わかったわ」

 だけどヴィオが聴きたいというならリチェルには断る理由はない。姿勢を整えると、星空を一度見上げて、リチェルはスッと息を吸う。
 
 最初の一音が冷たい空気に溶け出した。
 

 
    ◇



「あら?」

 ヤンの奥方が玄関の方で声を上げたのが聞こえて、どうかなさいましたか、とソルヴェーグは声をかけた。

 同時に、微かに開いた扉の隙間から聞こえる歌声に気づいて目を細める。

「まぁ、素敵な歌声ねぇ。あの子、歌手だったのかしら?」
「……いえ。そういったお話は聞いておりませんな」

 リンデンブルックで歌を習いにいっているとはヴィオに聞いたが、ソルヴェーグも実際にリチェルの歌声を聴いたことはなかった。
 習っているというからには心得はあるのだろうと思っていたが、今外から聞こえてくる旋律はお世辞抜きで美しい歌声だった。
 穏やかで、聴いていると心が澄んでいくような、そんな柔らかな歌声が天使の福音のように夜に響く。
 いつの間にか玄関に来ていたヤンが『驚いたなぁ』とこぼす。

「ここは教会でもないのに祈りを捧げたくなっちまう」
「あら、アンタ。祈りを捧げるのはいつだって自由ですよ」
「そうだな。じゃあ明日の道程が穏やかなものになるよう祈ろうかね」
「どうぞ、そうしてください」

 冗談のようにそう言って、奥方はクスクス笑う。

「あの子達、冷えるから呼び戻しに行こうかと思ったんですけどね。あれはちょっと野暮ですね。放っといてあげましょ」
「……そのようですな」

 ソルヴェーグもそう呟くと、奥方はまだボーッとリチェルの歌声を聴いているヤンを明日の準備にと追い立てて、玄関から離れていった。

「…………」

 夜の空に、澄んだ歌声が響いている。

 扉の隙間から見えるヴィオの横顔は、遠目に見ても穏やかに見えた。
 最近ではあまり見ない、リラックスした素の表情だ。
 幼い頃は、お気に入りの曲を演奏をしている時や演奏を聞いているときによくそんな表情をしていた。
 
 ヴィオ──ヴィクトルはヴィッテルスブルク侯爵家の一人息子だ。

 奥方の身体が弱かった事もあり他に兄弟はいなかったが、周りの不安を跳ね除けるようにヴィクトルは優秀な子供だった。

 たった一人の後継者である事も相まって、幼い頃からヴィクトルに向けられる周囲からの期待は並大抵ではなかったように思う。
 なるべくして精神的に早熟にならざるを得なかったのだろう、とソルヴェーグは今でも思っている。

 実際、当主がいなくなってからの行動もとても早かった。誰に言われるまでもなく、責任感に駆られて動いたのだと知っている。

 それでも実際のところ、まだヴィクトルは学生の身なのだ。

 道中のヴィクトルの様子を知ることはできないが、本来身の回りの世話など全て使用人に任せていた立場の人間が、慣れない旅を続けて肉体的にも精神的にも疲弊しない方がおかしい。

 無力に打ちのめされたこともあっただろう。
 先が見えなくて、途方に暮れたこともあっただろう。

 だからヴィクトルに合流した時、その状態が思っていた以上に良かったことに正直ソルヴェーグは驚いた。

『眠っていらっしゃるので、起こさないようにとお連れ様に言われていまして……』

 尋ねた時、遠慮がちに宿屋の人間がそう言った。裏があったとして、心配りの出来る人がそばにいるのだと分かる言葉。

 何より訪ねた部屋は綺麗に整えられていて、身なりも恐らく徹夜したのだろうなと分かりはしたがそれだけだけだった。

『ソルヴェーグ』

 名前を呼んだあの表情を見た時の安堵を、きっと忘れない。
 ご無事でいてくれたのだと、心からそう思ったのだ。何も損なわず、そこにいてくれた事が喜びだった。だから──。

『すまないが、少し世話をかける』

 年相応の、どこか悪戯っぽくさえあるその笑みを見た時、ダメだと分かっていても止めることが出来なかった。

 星空の下、美しい旋律が響く。
 少し距離を置いて佇む二人の姿は、この穏やかな夜の象徴のようで。何も解決していないこの状況で、ヴィクトルの心が穏やかでいられるのはきっと──。

「……貴女のお陰でもあるのでしょうな。リチェル殿」

 そう小さく呟いて、ソルヴェーグは目を伏せると玄関から踵を返す。今だけは、仕える主の心が平穏であることを願って──。
 
 

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