Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー

雪葉あをい

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第2章 ADAGIO

op.06 小さな旦那様、小さな奥様(2)

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 高く澄み渡った空は、岩肌を晒す山々の稜線をくっきりと際立たせる青い色をしていた。
 高い山々の頂上は所々白く染まり、天高くには手でぼかしたように薄い雲がまばらに散っている。

 歩き始めてもう四日目だと言うのに、その雄大な景色は少しも見飽きることがない。
 空気は冷たく、浅く息をするだけで澄んだ空気が身体の中に入ってくる。そこにいるだけで全てが些末に思えるような、ここに在る自分を丸ごと全部受け入れてくれるような美しい景色だった。


「──リチェル、大丈夫か?」

 不意に声をかけられて、リチェルは弾かれたように声の方を向いた。
 少し先を歩いていた青年が振り返ってこちらを見ていた。琥珀色の瞳は気遣うような色をしていて、慌ててリチェルは小走りで青年の元へ向かう。

「平気、ごめんなさい。空が綺麗でつい見惚れてしまっていたの」

 正直にそう話すと、リチェルに声をかけてくれた青年──ヴィオは優しげに瞳を細めた。

「それなら良いんだ。ここ数日ずっと歩き通しだから、疲れたんじゃないかと思って」
「わたしは全然大丈夫よ。昨日はたくさん眠ったから今日はとても元気。ヴィオやソルヴェーグさんは大丈夫?」

 リチェルの知っている限り、ヴィオという青年はリチェルより先に寝ていると言うことがない。
 流石にここ数日は歩きづめだからかいつもより早く寝ているようではあったが、それでも少し心配だ。荷物は最低限とはいえ、ヴィオの背中にはヴァイオリンのケースもある。リチェルよりも重いはずだ。

 リチェルの気遣いにヴィオは苦笑した。
 大丈夫だ、と言われてホッとする。

「もうすぐ目的地に着きますから、今日はゆっくりと参りましょう」

 立ち止まったヴィオの向こう側で、同じように立ち止まっていた老齢の紳士、ソルヴェーグが穏やかにそう言った。

「それにしてもリチェル殿は健脚ですな。失礼ではありますが同じ年頃の女性と比べて華奢でいらっしゃるので、体力がもつのか心配だったのですが。この四日間一度も歩けなくなる様子がないので驚きました」

 ソルヴェーグの言葉にリチェルは微かに頬を染めた。
 悪い意味では決してなく、穏やかに笑うソルヴェーグの言葉は言葉通りの意味だろう。

 以前リチェルが仕えていたクライネルト家では満足に食事を与えられていたとは言い難く、リチェルは同年代でも小柄な方だ。
 男装をしていて違和感がなかったのもそのお陰だろう。
 ヴィオと一緒にいるようになってからは三食きちんと頂いていて睡眠も取れているので、以前より確かに体力はついたように思う。

 リチェルは恥ずかしそうに笑って答える。

「昨日まではヤンさんが荷物を運んでくださいましたから。それに景色が綺麗なので何だか楽しい気持ちの方が大きくて。山登りはしたことがないのですが、足手まといになっていないようなら良かったです」

 途中までリチェル達を送り届けてくれた羊飼いのヤンとは今朝方別れてきたばかりだった。
 経由地での宿泊所を手配してくれて、道中では荷車にリチェル達の荷物を載せてくれたのでとても有り難かった。そのお陰でここまで楽に来れたのだ。

「ほっほ。年寄りですから、一番最初に音を上げるのはきっと私になりますな。もうしばらく歩いたら休憩を挟んでくださると老骨の身には有難い」
「そうだな。村も近いしゆっくり行こうか」

 ヴィオの言葉にソルヴェーグは笑って頭を下げると、再び道を下り始める。行こう、とヴィオに声をかけられてリチェルもその後に続いた。

「この後の目的地にはヴィオのお知り合いの方がいらっしゃるのよね?」

 道中で軽くヴィオに目的地のことは聞いていた。
 山を越えた先の小さな村ルフテンフェルトにヴィオの知人がいるとの話だったのだが、ヴィオは曖昧に返事を濁す。

「実のところ俺はよく知らないんだ。父上がこの山を越える時にいつも世話になっていた人がいるとソルヴェーグから聞いたから、寄ってみようという話になっただけで」

 包み隠さないヴィオの言葉に、リチェルは慌てたように前を歩くソルヴェーグに目をやった。
 こうして一緒に旅をしているものの、ヴィオの実際の身分は貴族で、元々孤児であるリチェルに事情を話すことをヴィオの従者であるソルヴェーグは良くは思わないはずだ。

 そう思っての事だったがソルヴェーグは特にこちらを振り返るわけでもなく、ヴィオはリチェルの反応に心配を察したのか大丈夫、というように笑みをこぼした。
 ヴィオの様子だとリチェルがヴィオの事情をある程度知っていることは、どうやらソルヴェーグには伝わっているらしい。

 聞こえないフリをしている辺りが、彼なりの気遣いなのだろうと察してリチェルも口をつぐむ。

(何か少しでも分かるといいのだけど)

 父を探しているというヴィオの目的を思い出して、リチェルは心中で手がかりが見つかることを祈る。
 今日のお昼には着くだろうと今朝聞いたので、村まではもう一時間程歩けば着くのだろう。

 次の村はどんな所だろう、と考えながらヴィオの後ろを歩いていたその時、不意にヴィオが足を止めてリチェルはその背中にぶつかった。

「……っ、ごめんなさい!」

 急いで顔を上げて謝ると、ヴィオがリチェルの方を振り返る。

「すまない。大丈夫か?」
「どうかしたの?」
「いや、あそこに何か……。……人か?」
「え?」

 キョトンとして前を向くと、ヴィオの言葉通り視界の開けた下り坂の途中、傾斜にもたれるようにして何かが座り込んでいるのが見えた。

「大変!」
「……っ、リチェル!」

 考える前に身体が動いていた。
 制するヴィオの隣を通り過ぎてリチェルは急いで走っていく。近づいてみるとやっぱり人だった。休憩しているにしては、姿勢が不自然に脱力している。倒れているのだとしたら一大事だ。                                                                                                                         

「大丈夫ですか⁉︎」

 となりに座りこんで慌てて顔を覗き込んだ。
 倒れていたのはリチェル達より少し年上に見える青年で、大きな荷物が二つ近くに転がっている。

「リチェル!」

 追いついてきたヴィオ達もリチェルの近くにしゃがみ込む。ソルヴェーグが青年の肩を掴んで、声をかけながら軽く揺する。

「聞こえますか? 大丈夫ですか?」
「……う、うぅ」

 青年が微かに呻き声を上げた。その事にホッとしたのも束の間、細い目を開いた青年の乾いた唇がピクピクと動いた。

「……ず」
「え?」

 思わず聞き返すと、今度はひび割れた声がハッキリと響いた。

「み、ず……」
「! 水ですね!」

 急いでリチェルは革の水筒を取り出すと、飲み口を開いて青年に渡す。
 口元にあてがうと、唇を濡らした感触に青年がぼんやりと目を開く。

 次の瞬間、ハッと青年が目を開いた。そのまま両手で水筒を掴んで勢いよく飲み始める。

 差し出したリチェルさえ驚く飲みっぷりで、くっくと喉を鳴らして青年は水筒の水を飲み干していく。呆気にとられて見守るリチェルの前で青年はあらかた中身を飲み終え、そのまま水筒を離すと──、

 
 もう一度ドサリと後ろに倒れた。

 
「だ、大丈夫ですか!」
「リチェル殿、大丈夫です。恐らく眠っただけかと」

 ソルヴェーグが慌てるリチェルを宥めるように声をかける。間も無く青年が穏やかな呼吸をこぼし始めた。
 ぽっこりとしたお腹がゆっくり上下に動くのをポカンとして眺めて、リチェルは恐る恐るヴィオを振り返る。

 一連の出来事を後ろで見ていたヴィオは、困惑したような表情を浮かべていたが、やがて呆れた声を絞り出した。


「とりあえず、休ませようか……」


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