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第3章 MENUETT
op.09 序奏とロンド・カプリチオーソ(5)
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競売の会場は元々参加者を絞っているのか、そんなに広くはなかった。
絵画を紹介する舞台を前にして、幾つかテーブルが並べられている。立食形式らしく、幾つか軽食も用意されているようだった。
恐らく普段は演奏会にも使われているのだろう。
ヴィオが頼んでいたピアノは部屋の隅にカバーをかぶせて置かれている。
チラリとアルに目配せするが、アルは軽食の方に視線がいっていてこちらを向いていなかったので、ため息をついて横から小突くと狼狽えた様子で『分かってるよ!』と返事をしてきた。
ピアノの存在にはすぐ気付いたのか『え、あのピアノってグロトリアンじゃない?』とちょっと嬉しそうに呟いている。
リチェルはと言うと、意外にも落ち着いているようでヴァルターに紹介されるとにっこりとエドとよく似た笑顔を浮かべていた。
「少し喉を痛めておりまして、申し訳ありません」
ヴァルターの言葉に合わせてリチェルが頭を下げる。
どうやらそう言うことにしたらしい。確かに何か理由がなければ、一言も喋らないのは無理があるだろう。
ヴィオとアルは適度にヴァルターから距離を取りつつ、壁側に待機していた。
「ねぇ、ちょっとご飯をつまんできても……」
「アルフォンソ」
名前を呼ぶ声が少し低くなった。
「お前は喋ると絶対ボロが出る。ここで大人しくしてろ」
「…………わかったよ」
自覚はあるのか、アルは大人しく従った。
あとスーツがギリギリなので食べると支障が出る可能性がある、とは口に出さずにおいた。
場の内部にいると少なくとも競売の参加者だと思われるだろう。
ヴィオとアルはあくまでグレーでいたいので、壁際にいるくらいでちょうどいい。『僕はともかくヴィオ君は目立つと思うけどなぁ』とアルが呟くのは、とりあえず無視しておいた。
間も無くして時間となり、舞台で作品の紹介が始まった。
初めて会った時のヴァルターが『紹介』と言ったのは方便ではなく、実際競売は入札方式で行われる訳ではないらしかった。
そういえばカタログに載せるための交渉も込みだと言っていたから、今すぐ競り落とす場でもないのだろう。進行役が舞台上で作品を丁寧に紹介していく。一つ一つにかける時間は決して短くはない。元々の総数が多くないせいもあるだろう。
説明を聞きながら、リチェルに目をやると素で聞き入ってるようで、進行役の説明に熱心に相槌を打っていた。以前ヴァイオリン工房の弟子の話を聞いていた時も思ったが、本当に良い聞き手だ。と思ったら、隣にいるアルも同じように相槌を打っていた。こちらも素直だな、と感心する。
しばらくはずっと丁寧な説明を聞きながら、ヴァルターの方を不自然ではない範囲で見ていた。どうもまだエリーの方は終わっていないらしい。
ヴィオはチラリと窓の方に目をやった。
(紹介は最後だとは言っていたが……)
作品の数などはあらかじめヴァルターから聞いているが、紹介はもう中盤を過ぎている。
(流石に遅くないか──?)
ヴァルターと目が合う。その目線から、恐らく何か予想外のことが起きていることは読み取れた。
『アルフォンソ』
声をひそめて、隣に立つ青年の名を呼ぶと、ぼんやりと絵画の説明を聞いていたアルが「え?」と声を上げてヴィオを見た。
慌てて口を押さえて『何?』と小声で返してくる。
『心の準備をしておいてくれ。多分必要になる』
『……あ、本当に? 何かそんな気はしてたんだよなぁ』
呟く声は気が抜けているが、緊張はなかった。
それどころか先ほどとは打って変わって、ちょっとワクワクしている気配すら感じられる。多分あのピアノが弾けるからだと聞かずともわかった。
ヴァルターが関係者の人間と話をしている。それから数分とたたずに、サロンの関係者と思えるスーツを着た人間に声をかけられる。
「すみません。やはり演奏をお願いしても?」
「元々そのつもりです」
静かに答えて、ヴィオはヴァイオリンケースを背負い直すと誘導されるままに店の人間について行く。
アルも緊張した様子はなく、ヴィオについて来た。
結局のところアルは演奏するのが好きなのだ。先程から待っている間に指が動いているのは察していたので、演奏に関しては正直心配していなかった。そもそも心配ならアルを連れて行くという選択肢自体選ばなかっただろう。
「本日紹介する絵画も残るところ一点となりましたが、今日この場は少し趣向を変えたいと思います」
不意に進行役がそう口にし、会場が微かにざわめく。
もちろんここに集まった人達は絵画が目当てで来ているのではあるが、娯楽として音楽が嫌いな人間は少ない。最後の作品の余興として演奏を、とアナウンスがあるとほとんどの人間は好意でもってこれを歓迎した。
シュルリとピアノにかけられていた布が解かれる。
ピアノの前に腰を下ろしたアルに目線で合図をして、ヴィオはヴァイオリンを構えた。
曲目はパガニーニ『ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調』第一楽章。
本来はオーケストラの曲目であり、こちらはヴァイオリン独奏部にピアノ伴奏をつけたものだ。
導入から華やかなヴァイオリンのメロディーが奏でられる。
曲調は情熱的。叙情的。
時に牧歌的でさえある。
雰囲気の違う旋律が存分に尺を取って順に奏でられる曲調はこの一曲だけで、まるでオペラを見ているような物語性を彷彿とさせる。
華やかなメロディーは何度か曲調を変えながら中盤は悲しげなメロディーを奏で、十分に観客を引き込んだ上で緊迫感のある曲調へ移っていく。
長い演奏を聞いていても全く飽きないその裏側には、かなり難易度の高いヴァイオリンの奏法が多数用いられている。
そもそもパガニーニといえば『悪魔に魂を売った』と言われるほど超絶技巧で有名な作曲家であり演奏家で、このヴァイオリン協奏曲はイタリアらしい優雅で華やかなメロディーを奏でるが、所々で超絶技巧の名に相応しい技巧が用いられる難曲である。
終盤のカンデツァはその筆頭で、音色を一切損なわないヴァイオリンの独奏に音楽に日頃から親しんでいる訳でもない観客ですら息を呑んで引き込まれていく。
ヴィオが保険と言っていたのは、もし何らかトラブルが生じた際に時間を稼ぐための措置である。最悪ヴァイオリンソロでも何とかなるが、アンサンブルの方が映えるのは間違いない。
ヴァイオリン協奏曲第一楽章の演奏時間は約二十分。メロディーは入れ替わり聴衆を飽きさせず、だけど時間を稼ぐには最適な演目だ。
今日のこの場自体を延長させる案はヴァルター達にもなかったようで、ヴィオの提案にヴァルターは非常に好意的だった。
『僕たちだけだったら、時間が足りなくなった場合場を改めるしかなくなってしまいますからね』
と、エドも話していたからヴィオの申し出は実際本当に有り難かったのだろう。
まさか使うことになるとは思っていなかったようだが。
高らかに歌い上げたヴァイオリンの独奏をピアノの伴奏が引き継ぎ、前座に相応しい演奏が終わる。
一瞬の静寂の後に、参加者達の拍手が響き渡った。絵画の余興というなら十分役割は果たしただろう。
目が合うとヴァルターが深く頷いた。
どうやら向こうもうまくいったようだ。
リチェルが素の表情で拍手しているのを見て苦笑をこぼす。
本来演奏する予定はなかったのだが、喜んでもらえたようなら良かったと思い、ヴィオはゆっくりと礼をした。
絵画を紹介する舞台を前にして、幾つかテーブルが並べられている。立食形式らしく、幾つか軽食も用意されているようだった。
恐らく普段は演奏会にも使われているのだろう。
ヴィオが頼んでいたピアノは部屋の隅にカバーをかぶせて置かれている。
チラリとアルに目配せするが、アルは軽食の方に視線がいっていてこちらを向いていなかったので、ため息をついて横から小突くと狼狽えた様子で『分かってるよ!』と返事をしてきた。
ピアノの存在にはすぐ気付いたのか『え、あのピアノってグロトリアンじゃない?』とちょっと嬉しそうに呟いている。
リチェルはと言うと、意外にも落ち着いているようでヴァルターに紹介されるとにっこりとエドとよく似た笑顔を浮かべていた。
「少し喉を痛めておりまして、申し訳ありません」
ヴァルターの言葉に合わせてリチェルが頭を下げる。
どうやらそう言うことにしたらしい。確かに何か理由がなければ、一言も喋らないのは無理があるだろう。
ヴィオとアルは適度にヴァルターから距離を取りつつ、壁側に待機していた。
「ねぇ、ちょっとご飯をつまんできても……」
「アルフォンソ」
名前を呼ぶ声が少し低くなった。
「お前は喋ると絶対ボロが出る。ここで大人しくしてろ」
「…………わかったよ」
自覚はあるのか、アルは大人しく従った。
あとスーツがギリギリなので食べると支障が出る可能性がある、とは口に出さずにおいた。
場の内部にいると少なくとも競売の参加者だと思われるだろう。
ヴィオとアルはあくまでグレーでいたいので、壁際にいるくらいでちょうどいい。『僕はともかくヴィオ君は目立つと思うけどなぁ』とアルが呟くのは、とりあえず無視しておいた。
間も無くして時間となり、舞台で作品の紹介が始まった。
初めて会った時のヴァルターが『紹介』と言ったのは方便ではなく、実際競売は入札方式で行われる訳ではないらしかった。
そういえばカタログに載せるための交渉も込みだと言っていたから、今すぐ競り落とす場でもないのだろう。進行役が舞台上で作品を丁寧に紹介していく。一つ一つにかける時間は決して短くはない。元々の総数が多くないせいもあるだろう。
説明を聞きながら、リチェルに目をやると素で聞き入ってるようで、進行役の説明に熱心に相槌を打っていた。以前ヴァイオリン工房の弟子の話を聞いていた時も思ったが、本当に良い聞き手だ。と思ったら、隣にいるアルも同じように相槌を打っていた。こちらも素直だな、と感心する。
しばらくはずっと丁寧な説明を聞きながら、ヴァルターの方を不自然ではない範囲で見ていた。どうもまだエリーの方は終わっていないらしい。
ヴィオはチラリと窓の方に目をやった。
(紹介は最後だとは言っていたが……)
作品の数などはあらかじめヴァルターから聞いているが、紹介はもう中盤を過ぎている。
(流石に遅くないか──?)
ヴァルターと目が合う。その目線から、恐らく何か予想外のことが起きていることは読み取れた。
『アルフォンソ』
声をひそめて、隣に立つ青年の名を呼ぶと、ぼんやりと絵画の説明を聞いていたアルが「え?」と声を上げてヴィオを見た。
慌てて口を押さえて『何?』と小声で返してくる。
『心の準備をしておいてくれ。多分必要になる』
『……あ、本当に? 何かそんな気はしてたんだよなぁ』
呟く声は気が抜けているが、緊張はなかった。
それどころか先ほどとは打って変わって、ちょっとワクワクしている気配すら感じられる。多分あのピアノが弾けるからだと聞かずともわかった。
ヴァルターが関係者の人間と話をしている。それから数分とたたずに、サロンの関係者と思えるスーツを着た人間に声をかけられる。
「すみません。やはり演奏をお願いしても?」
「元々そのつもりです」
静かに答えて、ヴィオはヴァイオリンケースを背負い直すと誘導されるままに店の人間について行く。
アルも緊張した様子はなく、ヴィオについて来た。
結局のところアルは演奏するのが好きなのだ。先程から待っている間に指が動いているのは察していたので、演奏に関しては正直心配していなかった。そもそも心配ならアルを連れて行くという選択肢自体選ばなかっただろう。
「本日紹介する絵画も残るところ一点となりましたが、今日この場は少し趣向を変えたいと思います」
不意に進行役がそう口にし、会場が微かにざわめく。
もちろんここに集まった人達は絵画が目当てで来ているのではあるが、娯楽として音楽が嫌いな人間は少ない。最後の作品の余興として演奏を、とアナウンスがあるとほとんどの人間は好意でもってこれを歓迎した。
シュルリとピアノにかけられていた布が解かれる。
ピアノの前に腰を下ろしたアルに目線で合図をして、ヴィオはヴァイオリンを構えた。
曲目はパガニーニ『ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調』第一楽章。
本来はオーケストラの曲目であり、こちらはヴァイオリン独奏部にピアノ伴奏をつけたものだ。
導入から華やかなヴァイオリンのメロディーが奏でられる。
曲調は情熱的。叙情的。
時に牧歌的でさえある。
雰囲気の違う旋律が存分に尺を取って順に奏でられる曲調はこの一曲だけで、まるでオペラを見ているような物語性を彷彿とさせる。
華やかなメロディーは何度か曲調を変えながら中盤は悲しげなメロディーを奏で、十分に観客を引き込んだ上で緊迫感のある曲調へ移っていく。
長い演奏を聞いていても全く飽きないその裏側には、かなり難易度の高いヴァイオリンの奏法が多数用いられている。
そもそもパガニーニといえば『悪魔に魂を売った』と言われるほど超絶技巧で有名な作曲家であり演奏家で、このヴァイオリン協奏曲はイタリアらしい優雅で華やかなメロディーを奏でるが、所々で超絶技巧の名に相応しい技巧が用いられる難曲である。
終盤のカンデツァはその筆頭で、音色を一切損なわないヴァイオリンの独奏に音楽に日頃から親しんでいる訳でもない観客ですら息を呑んで引き込まれていく。
ヴィオが保険と言っていたのは、もし何らかトラブルが生じた際に時間を稼ぐための措置である。最悪ヴァイオリンソロでも何とかなるが、アンサンブルの方が映えるのは間違いない。
ヴァイオリン協奏曲第一楽章の演奏時間は約二十分。メロディーは入れ替わり聴衆を飽きさせず、だけど時間を稼ぐには最適な演目だ。
今日のこの場自体を延長させる案はヴァルター達にもなかったようで、ヴィオの提案にヴァルターは非常に好意的だった。
『僕たちだけだったら、時間が足りなくなった場合場を改めるしかなくなってしまいますからね』
と、エドも話していたからヴィオの申し出は実際本当に有り難かったのだろう。
まさか使うことになるとは思っていなかったようだが。
高らかに歌い上げたヴァイオリンの独奏をピアノの伴奏が引き継ぎ、前座に相応しい演奏が終わる。
一瞬の静寂の後に、参加者達の拍手が響き渡った。絵画の余興というなら十分役割は果たしただろう。
目が合うとヴァルターが深く頷いた。
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