107 / 161
第4章 RONDO-FINALE
op.12 月に寄せる歌(10)
しおりを挟む
雨が、降っていた。
土砂降りの雨だ。
お腹のところで、何よりも大切な、温かな生命が静かに呼吸を繰り返していた。
宿の人は明日にすればいい、と言ったけれども一日も早く離れなければいけないと思った。
そばにいればいるほど、愛しさは募るから。
一日でも早く、この子のそばにいられる父親になりたいから。
たどり着いた孤児院の入り口でベルを鳴らす。二度鳴らして、少し厳しそうな目をした修道女が扉を開けてくれた。
「……何か御用でしょうか?」
それは思いのほか硬い声で、僕は少したじろいだ。
怖い人だったらどうしようか。この人に預けても良いのだろうか。そう思いながら、大切な包みを注意深く懐から取り出す。
「まぁ」
包みから伸びた小さな手に、修道女の表情が和らいだ。
それだけで、僕は大丈夫だと思った。この人はきっとこの子を大事にしてくれる、そう思えた。
小さな身体を包む臙脂の布は、僕の部屋に置いてあった彼女の忘れ物だった。きっと、この子が持っているのが一番良い。
修道女は僕に中で休むように言ってくれたけれど、僕は一刻も早くこの場を離れたかった。
だって、一秒でも長くそばにいれば決心が揺らいでしまいそうだったから。
「この子を預かっていただけませんか?」
焦燥感でいっぱいになりながら、僕は必死で何とかそれだけを口にする。
「いつか必ず迎えに来ます。どうか、この子をお願いします」
僕が、きちんと君を育てられるようになったら。一人前のヴァイオリン職人になったら。きっと迎えに来るから。
そう言って帰ろうとした僕を、その人は引き止めた。
「待って。せめて火に当たって行かれてはどうです?」
きっと優しい人なのだろう。だってこんな怪しい僕を気遣ってくれる人なのだから。この人なら大事な子どもを預けてもきっと大丈夫だと、僕は自分に言い聞かせる。だからもう、行かなくちゃ。
「必ず迎えに来ます」
そう言うと、彼女は少し迷って、ずっと預かれる訳じゃないのだと説明してくれた。
僕は少し恥ずかしくなった。気を遣われただけじゃなくて、子供を預ける時にはきっと説明しなければいけない事もたくさんあるのだろう。
大人しく話を聞くと、彼女は孤児院も無限に子どもを預かれるわけではなく、子どもたちはある程度の年齢になったら奉公に出されるのだと言うことを丁寧に説明してくれた。
その歳は十二歳くらいが一般的だと聞いて、僕は胸を撫で下ろした。きっとその前には、迎えに来れるはずだから。
「それでも、その前に迎えに、来ます」
仕事と掛け持ちをしながらだから、当初の予定よりは長くかかってしまうけれど、あと五年もあればきっと一人前になれるはずだ。そう頭の中で計算しながら、僕はそう口にした。
彼女は僕の言葉に呆れたようにため息をついて、だけど赤子を僕に返そうとはしなかった。
代わりに、別のことを聞かれた。
「最後にお名前を教えてくださる?」
「あぁ、えっと……」
慌てて自分の名前を口にすると、彼女は首を振る。
「貴方ではありません。この子の名前です」
そう言われて、僕はこの大事な大事な命に、一番最初の贈り物をしていないことに気がついた。
──ぁ、ぅぅ。
いつの間にか起きたのか、リゼルさんの瞳をかすかに薄くしたような淡い緑の瞳が僕を見ていた。小さな手が、まるで別れを知っているかのように僕の方を向いて伸ばされる。それだけで、胸がいっぱいになった。すぐに胸に抱いて、今すぐ元来た道を連れて帰りたくなる。
この子はリゼルさんと僕の、愛しい娘なのだ。
手を伸ばしたい衝動を必死で押さえた。今日が土砂降りの雨で良かったと思う。涙が頬をつたっても、雨だと誤魔化せるから。
(名前……)
こんな大事なことをどうしてきちんと考えてこなかったのだろう。自分の中で今まで出会った人たちの色んな名前を思い浮かべながら、僕は必死で考える。その時──。
『リチェルよ。どうぞリチェルと呼んで下さいな』
僕の人生に春を呼んだ、明るい声が耳の奥に蘇った。
「……ル」
忘れもしないあの春の日。
僕は春の妖精に出会い、そして恋に落ちた。
この子はその結晶だ。
だからきっと、ふさわしいのはこれしかない。
「リチェル、といいます」
それは僕があの日出会った愛する女性の名で──。
この先僕が生涯をかけて愛を注ぐ、たった一人の女の子の名前だ。
土砂降りの雨だ。
お腹のところで、何よりも大切な、温かな生命が静かに呼吸を繰り返していた。
宿の人は明日にすればいい、と言ったけれども一日も早く離れなければいけないと思った。
そばにいればいるほど、愛しさは募るから。
一日でも早く、この子のそばにいられる父親になりたいから。
たどり着いた孤児院の入り口でベルを鳴らす。二度鳴らして、少し厳しそうな目をした修道女が扉を開けてくれた。
「……何か御用でしょうか?」
それは思いのほか硬い声で、僕は少したじろいだ。
怖い人だったらどうしようか。この人に預けても良いのだろうか。そう思いながら、大切な包みを注意深く懐から取り出す。
「まぁ」
包みから伸びた小さな手に、修道女の表情が和らいだ。
それだけで、僕は大丈夫だと思った。この人はきっとこの子を大事にしてくれる、そう思えた。
小さな身体を包む臙脂の布は、僕の部屋に置いてあった彼女の忘れ物だった。きっと、この子が持っているのが一番良い。
修道女は僕に中で休むように言ってくれたけれど、僕は一刻も早くこの場を離れたかった。
だって、一秒でも長くそばにいれば決心が揺らいでしまいそうだったから。
「この子を預かっていただけませんか?」
焦燥感でいっぱいになりながら、僕は必死で何とかそれだけを口にする。
「いつか必ず迎えに来ます。どうか、この子をお願いします」
僕が、きちんと君を育てられるようになったら。一人前のヴァイオリン職人になったら。きっと迎えに来るから。
そう言って帰ろうとした僕を、その人は引き止めた。
「待って。せめて火に当たって行かれてはどうです?」
きっと優しい人なのだろう。だってこんな怪しい僕を気遣ってくれる人なのだから。この人なら大事な子どもを預けてもきっと大丈夫だと、僕は自分に言い聞かせる。だからもう、行かなくちゃ。
「必ず迎えに来ます」
そう言うと、彼女は少し迷って、ずっと預かれる訳じゃないのだと説明してくれた。
僕は少し恥ずかしくなった。気を遣われただけじゃなくて、子供を預ける時にはきっと説明しなければいけない事もたくさんあるのだろう。
大人しく話を聞くと、彼女は孤児院も無限に子どもを預かれるわけではなく、子どもたちはある程度の年齢になったら奉公に出されるのだと言うことを丁寧に説明してくれた。
その歳は十二歳くらいが一般的だと聞いて、僕は胸を撫で下ろした。きっとその前には、迎えに来れるはずだから。
「それでも、その前に迎えに、来ます」
仕事と掛け持ちをしながらだから、当初の予定よりは長くかかってしまうけれど、あと五年もあればきっと一人前になれるはずだ。そう頭の中で計算しながら、僕はそう口にした。
彼女は僕の言葉に呆れたようにため息をついて、だけど赤子を僕に返そうとはしなかった。
代わりに、別のことを聞かれた。
「最後にお名前を教えてくださる?」
「あぁ、えっと……」
慌てて自分の名前を口にすると、彼女は首を振る。
「貴方ではありません。この子の名前です」
そう言われて、僕はこの大事な大事な命に、一番最初の贈り物をしていないことに気がついた。
──ぁ、ぅぅ。
いつの間にか起きたのか、リゼルさんの瞳をかすかに薄くしたような淡い緑の瞳が僕を見ていた。小さな手が、まるで別れを知っているかのように僕の方を向いて伸ばされる。それだけで、胸がいっぱいになった。すぐに胸に抱いて、今すぐ元来た道を連れて帰りたくなる。
この子はリゼルさんと僕の、愛しい娘なのだ。
手を伸ばしたい衝動を必死で押さえた。今日が土砂降りの雨で良かったと思う。涙が頬をつたっても、雨だと誤魔化せるから。
(名前……)
こんな大事なことをどうしてきちんと考えてこなかったのだろう。自分の中で今まで出会った人たちの色んな名前を思い浮かべながら、僕は必死で考える。その時──。
『リチェルよ。どうぞリチェルと呼んで下さいな』
僕の人生に春を呼んだ、明るい声が耳の奥に蘇った。
「……ル」
忘れもしないあの春の日。
僕は春の妖精に出会い、そして恋に落ちた。
この子はその結晶だ。
だからきっと、ふさわしいのはこれしかない。
「リチェル、といいます」
それは僕があの日出会った愛する女性の名で──。
この先僕が生涯をかけて愛を注ぐ、たった一人の女の子の名前だ。
0
あなたにおすすめの小説
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
☘ 累計ポイント/ 190万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
拾われ子のスイ
蒼居 夜燈
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞 奨励賞】
記憶にあるのは、自分を見下ろす紅い眼の男と、母親の「出ていきなさい」という怒声。
幼いスイは故郷から遠く離れた西大陸の果てに、ドラゴンと共に墜落した。
老夫婦に拾われたスイは墜落から七年後、二人の逝去をきっかけに養祖父と同じハンターとして生きていく為に旅に出る。
――紅い眼の男は誰なのか、母は自分を本当に捨てたのか。
スイは、故郷を探す事を決める。真実を知る為に。
出会いと別れを繰り返し、命懸けの戦いを繰り返し、喜びと悲しみを繰り返す。
清濁が混在する世界に、スイは何を見て何を思い、何を選ぶのか。
これは、ひとりの少女が世界と己を知りながら成長していく物語。
※週2回(木・日)更新。
※誤字脱字報告に関しては感想とは異なる為、修正が済み次第削除致します。ご容赦ください。
※カクヨム様にて先行公開(登場人物紹介はアルファポリス様でのみ掲載)
※表紙画像、その他キャラクターのイメージ画像はAIイラストアプリで作成したものです。再現不足で色彩の一部が作中描写とは異なります。
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
転生『悪役』公爵令嬢はやり直し人生で楽隠居を目指す
RINFAM
ファンタジー
なんの罰ゲームだ、これ!!!!
あああああ!!!
本当ならあと数年で年金ライフが送れたはずなのに!!
そのために国民年金の他に利率のいい個人年金も掛け、さらに少ない給料の中からちまちまと老後の生活費を貯めてきたと言うのに!!!!
一銭も貰えないまま人生終わるだなんて、あんまりです神様仏様あああ!!
かくなる上はこのやり直し転生人生で、前世以上に楽して暮らせる隠居生活を手に入れなければ。
年金受給前に死んでしまった『心は常に18歳』な享年62歳の初老女『成瀬裕子』はある日突然死しファンタジー世界で公爵令嬢に転生!!しかし、数年後に待っていた年金生活を夢見ていた彼女は、やり直し人生で再び若いままでの楽隠居生活を目指すことに。
4コマ漫画版もあります。
課長と私のほのぼの婚
藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。
舘林陽一35歳。
仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。
ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。
※他サイトにも投稿。
※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
公爵家の秘密の愛娘
ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝グラント公爵家は王家に仕える名門の家柄。
過去の事情により、今だに独身の当主ダリウス。国王から懇願され、ようやく伯爵未亡人との婚姻を決める。
そんな時、グラント公爵ダリウスの元へと現れたのは1人の少女アンジェラ。
「パパ……私はあなたの娘です」
名乗り出るアンジェラ。
◇
アンジェラが現れたことにより、グラント公爵家は一変。伯爵未亡人との再婚もあやふや。しかも、アンジェラが道中に出逢った人物はまさかの王族。
この時からアンジェラの世界も一変。華やかに色付き出す。
初めはよそよそしいグラント公爵ダリウス(パパ)だが、次第に娘アンジェラを気に掛けるように……。
母娘2代のハッピーライフ&淑女達と貴公子達の恋模様💞
🔶設定などは独自の世界観でご都合主義となります。ハピエン💞
🔶稚拙ながらもHOTランキング(最高20位)に入れて頂き(2025.5.9)、ありがとうございます🙇♀️
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる