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第4章 RONDO-FINALE
op.13 偉大な芸術家の思い出に(1)
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「それで、具合はどうなんだ」
苛立ちを隠さないルートヴィヒの問いかけに、主治医は恐縮した様子を見せた。
それでも長く侯爵家の主治医として仕える故だろう。医者はルートヴィヒの顔色を窺うことなく、『あまり良くありません』と正直に口にする。
ヴィッテルスブルク侯爵領にあるライヒェンバッハ家の本邸。ルートヴィヒが立っているのは当主であるディートリヒ・フォン・ライヒェンバッハの妻マルガレーテの私室の前だった。今日の執務が終わり、往診に来た医師を部屋の前で待っていたのは、流石に当主代理と言えど兄の妻の私室に日が沈んでから入るのは礼儀に反するからだ。
蝋燭が点々と灯る廊下は薄暗く、窓はピタリと閉めていて尚冷える。こんなに冷えては身体に悪いのではないか、と言い募るルートヴィヒに医者は『その点は十分に気をつけております』と頭を下げた。
「義姉上は……、兄上のことは覚えているのか?」
「それはもちろんです。余程具合が悪い時は記憶の混乱が見られますが、そうでない時はいつも通りの奥様ですよ」
「しかし以前ヴィクトルのことが分からなかっただろう」
「あの時は本当に、調子が良くなかったもので──」
医者が歯切れ悪く弁明する。
春の休暇でヴィクトルが音楽院から帰ってきた日、マルガレーテは自分を見舞ったヴィクトルの事が分からなかったと聞く。
幸いマルガレーテはその出来事を覚えていなかったが、ディートリヒが家を出たのはそのすぐ後だったのは無関係ではないだろう。また夏に帰ったヴィクトルが兄を探しに家を出たのは、春の休暇で母に忘れられていたことも随分と後押しになったに違いなかった。
「記憶の混乱は一時的なものではありますが、正直身体の具合の方が心配です。この季節で冷えるせいもあるのか、足の痺れも頻繁です。最近では歩けることの方が少ないくらいで……」
「元気はあるのか」
「笑顔はお見せになってくださいますが、本心からかと言われると……。恐らくそれは私ではなく侍女に聞いた方が良いかと思います」
今は奥様のそばについていらっしゃいます。という医者の言葉にルートヴィヒは憮然として『分かった』と答えると、また明日来るように伝えてその場から医者を下がらせた。
「…………」
じっと閉じた扉を見つめる。
元よりノックをするつもりはなかった。
扉の向こうは静かで、マルガレーテがもう眠っているのであれば起こす可能性がある。
それに起きていたとしても問題だ。彼女はきっとルートヴィヒを私室に招き入れてくれるだろうが、時間ももう遅いし、何より兄が屋敷にいない。
夫のいない妻の部屋には例え義理の弟であろうと、みだりに入るべきではないと言うのがルートヴィヒの考えだった。
『ルッツ、帰ったの? おかえりなさい』
ディートリヒに頼まれて屋敷に帰ってきた日、マルガレーテは自分の足で立って屋敷内を歩いていた。
しとやかに笑みを浮かべてルートヴィヒを迎え入れてくれる義姉の所作は上品で、一目で育ちの良さが分かるのに少しも嫌味なところがない。まだディートリヒが結婚したばかりの頃、ルートヴィヒは度々軍の部下を連れて屋敷に帰って来ていたが、彼女が嫌な顔をしたところを見た事がなかった。にぎやかね、と楽しそうに笑って、いつも快く迎え入れてくれた。
ルートヴィヒが家を出てからも、結婚してからも、彼女は変わらなかった。帰ると必ず『おかえりなさい』とルートヴィヒに言って迎え入れてくれる。自分はもう家を出た身だから、と言っても彼女は笑って首を振った。
『だってここは貴方が育ったおうちなのでしょう。この家は貴方が何かあれば帰って来る場所で、私はそこを守る人間なのだから、いつまでもおかえりなさいでいいのよ』
そう言って、マルガレーテは優しく笑った。
義姉はルートヴィヒが今まで出会った人の中でも、いっとう心の綺麗な人だった。何分繊細な方だったときくが、少なくともルートヴィヒにとって義姉は接し難い人物ではなかった。
昔から兄の事は気に食わなかったが、義姉に対して悪感情を抱いた事はない。ルートヴィヒはすでに妻とは離縁している身ではあるが、自身の妻君がマルガレーテのような人であれば己の結婚生活もうまくいったのだろうか、と考えたこともあるくらいだ。
その義姉が兄のことを心から愛していることは、ルートヴィヒにとって兄の器を認める要因の一つにもなっていた。
だからこそだ。
兄が出ていったことには、憤りを隠せなかった。
外部の仕事にかこつけて、兄が治らない義姉の治療方法を探していた事くらいルートヴィヒは分かっていた。家のことを任せるだなんて、そんな事を頼むのであれば、逆にルートヴィヒにマルガレーテの治療法を見つけて来いと言ってもらった方がどれほど気が楽だったことか。
帰らない兄を想って胸を痛め、心を病んでいく義姉を見ている方が、どれだけ辛かったことか。
(それなのに、息子まで同じボンクラだとは……!)
自分がいるよりも夫や息子がそばにいる方が、マルガレーテにとっては良いに決まっている。それなのにどいつもコイツも状況に応じた適正な配置を考えられない馬鹿ばかりだ。
壁を叩きつけたい衝動を必死で堪える。
ここはマルガレーテの部屋の前なのだ、と必死で言い聞かせてルートヴィヒは足音を立てずにその場から離れた。
(挙句俺の命令を無視して帰ってこないとはどう言う事だ──っ)
ヴィクトルがルートヴィヒに帰還命令を無視して『父親を見つけるまで帰るつもりはない』と便りを寄越したのは先月のことだ。その伝令を伝えられた時、思わず元部下であるフリッツを殴りそうになった。
(俺は今当主の代理だぞ──⁉︎)
兄もそうだったが、息子も相当食えない性格の持ち主だ。ルートヴィヒのことをどこまでも馬鹿にしているとしか思えない。その上拾った孤児の娘にうつつを抜かしているなどと冗談ではない。
『あれは骨抜きにされているとかでは、決してないと思いますがね……』
激昂するルートヴィヒの前で、フリッツがこぼした言葉が蘇ったが無視をする。そもそも素性のわからない娘を連れ歩いている時点で、自覚が足りないのだ。そんな事で侯爵家を継げると思っているのだろうか。
「ハンス!」
執務室に戻ると声を荒げて、客分である男の名を呼んだ。
ヨハネス・マイヤー。今回家を預かるにあたって、ルートヴィヒが軍から引き抜いてきた男だ。机でまだ書類の整理を行なっていたマイヤーはルートヴィヒの声につと目を上げると『どうされたのですか?』とすまして答える。
「今日はもう休むとおっしゃっていたのでは?」
「聞き忘れていたのだ。ヴィクトルの足跡は掴めたのか?」
「いえ。追ってはいるのですがこれがなかなか……。それにお父君の捜索の方が優先順位が高いのでしょう。目下そちらに人を割いております故」
むぅ、とルートヴィヒは唸る。
マイヤーの言うことはもっともだ。苛立たしげにつま先を鳴らして、頭をかく。
「甥っ子殿のことは別に構わないではないですか。貴方が良き当主であれば良いのです。甥っ子殿がまだまだ精神的に幼い事は今までの出来事でお分かりでしょう。代理だと言いますが、ご当主がいない以上貴方が今は当主なのです。しっかりなさいませ」
淡々とルートヴィヒを諌めるマイヤーの態度は落ち着いたものだった。それに、とマイヤーは言い募る。
「貴方様がしっかりしていなくては、奥方様も不安になりましょう。今奥方様をお守りできるのはルートヴィヒ様だけですよ。それをどうぞお忘れなく」
冷静に釘を刺してくるマイヤーに、ルートヴィヒは苛々している己の様子を少し恥じいる。この男を連れてきてよかった、と心底思いながら『そうだな』と呟く。
「分かった。とりあえず俺は休む。お前もあまり無理をせず早く休めよ、ハンス」
「えぇ勿論。お気遣い痛み入ります」
頭を深く下げたマイヤーにひとつ頷いて、ルートヴィヒは大股で執務室を出ていく。だからもちろん、下げた頭の下でマイヤーがほくそ笑んでることになど気づくはずもなかった。
苛立ちを隠さないルートヴィヒの問いかけに、主治医は恐縮した様子を見せた。
それでも長く侯爵家の主治医として仕える故だろう。医者はルートヴィヒの顔色を窺うことなく、『あまり良くありません』と正直に口にする。
ヴィッテルスブルク侯爵領にあるライヒェンバッハ家の本邸。ルートヴィヒが立っているのは当主であるディートリヒ・フォン・ライヒェンバッハの妻マルガレーテの私室の前だった。今日の執務が終わり、往診に来た医師を部屋の前で待っていたのは、流石に当主代理と言えど兄の妻の私室に日が沈んでから入るのは礼儀に反するからだ。
蝋燭が点々と灯る廊下は薄暗く、窓はピタリと閉めていて尚冷える。こんなに冷えては身体に悪いのではないか、と言い募るルートヴィヒに医者は『その点は十分に気をつけております』と頭を下げた。
「義姉上は……、兄上のことは覚えているのか?」
「それはもちろんです。余程具合が悪い時は記憶の混乱が見られますが、そうでない時はいつも通りの奥様ですよ」
「しかし以前ヴィクトルのことが分からなかっただろう」
「あの時は本当に、調子が良くなかったもので──」
医者が歯切れ悪く弁明する。
春の休暇でヴィクトルが音楽院から帰ってきた日、マルガレーテは自分を見舞ったヴィクトルの事が分からなかったと聞く。
幸いマルガレーテはその出来事を覚えていなかったが、ディートリヒが家を出たのはそのすぐ後だったのは無関係ではないだろう。また夏に帰ったヴィクトルが兄を探しに家を出たのは、春の休暇で母に忘れられていたことも随分と後押しになったに違いなかった。
「記憶の混乱は一時的なものではありますが、正直身体の具合の方が心配です。この季節で冷えるせいもあるのか、足の痺れも頻繁です。最近では歩けることの方が少ないくらいで……」
「元気はあるのか」
「笑顔はお見せになってくださいますが、本心からかと言われると……。恐らくそれは私ではなく侍女に聞いた方が良いかと思います」
今は奥様のそばについていらっしゃいます。という医者の言葉にルートヴィヒは憮然として『分かった』と答えると、また明日来るように伝えてその場から医者を下がらせた。
「…………」
じっと閉じた扉を見つめる。
元よりノックをするつもりはなかった。
扉の向こうは静かで、マルガレーテがもう眠っているのであれば起こす可能性がある。
それに起きていたとしても問題だ。彼女はきっとルートヴィヒを私室に招き入れてくれるだろうが、時間ももう遅いし、何より兄が屋敷にいない。
夫のいない妻の部屋には例え義理の弟であろうと、みだりに入るべきではないと言うのがルートヴィヒの考えだった。
『ルッツ、帰ったの? おかえりなさい』
ディートリヒに頼まれて屋敷に帰ってきた日、マルガレーテは自分の足で立って屋敷内を歩いていた。
しとやかに笑みを浮かべてルートヴィヒを迎え入れてくれる義姉の所作は上品で、一目で育ちの良さが分かるのに少しも嫌味なところがない。まだディートリヒが結婚したばかりの頃、ルートヴィヒは度々軍の部下を連れて屋敷に帰って来ていたが、彼女が嫌な顔をしたところを見た事がなかった。にぎやかね、と楽しそうに笑って、いつも快く迎え入れてくれた。
ルートヴィヒが家を出てからも、結婚してからも、彼女は変わらなかった。帰ると必ず『おかえりなさい』とルートヴィヒに言って迎え入れてくれる。自分はもう家を出た身だから、と言っても彼女は笑って首を振った。
『だってここは貴方が育ったおうちなのでしょう。この家は貴方が何かあれば帰って来る場所で、私はそこを守る人間なのだから、いつまでもおかえりなさいでいいのよ』
そう言って、マルガレーテは優しく笑った。
義姉はルートヴィヒが今まで出会った人の中でも、いっとう心の綺麗な人だった。何分繊細な方だったときくが、少なくともルートヴィヒにとって義姉は接し難い人物ではなかった。
昔から兄の事は気に食わなかったが、義姉に対して悪感情を抱いた事はない。ルートヴィヒはすでに妻とは離縁している身ではあるが、自身の妻君がマルガレーテのような人であれば己の結婚生活もうまくいったのだろうか、と考えたこともあるくらいだ。
その義姉が兄のことを心から愛していることは、ルートヴィヒにとって兄の器を認める要因の一つにもなっていた。
だからこそだ。
兄が出ていったことには、憤りを隠せなかった。
外部の仕事にかこつけて、兄が治らない義姉の治療方法を探していた事くらいルートヴィヒは分かっていた。家のことを任せるだなんて、そんな事を頼むのであれば、逆にルートヴィヒにマルガレーテの治療法を見つけて来いと言ってもらった方がどれほど気が楽だったことか。
帰らない兄を想って胸を痛め、心を病んでいく義姉を見ている方が、どれだけ辛かったことか。
(それなのに、息子まで同じボンクラだとは……!)
自分がいるよりも夫や息子がそばにいる方が、マルガレーテにとっては良いに決まっている。それなのにどいつもコイツも状況に応じた適正な配置を考えられない馬鹿ばかりだ。
壁を叩きつけたい衝動を必死で堪える。
ここはマルガレーテの部屋の前なのだ、と必死で言い聞かせてルートヴィヒは足音を立てずにその場から離れた。
(挙句俺の命令を無視して帰ってこないとはどう言う事だ──っ)
ヴィクトルがルートヴィヒに帰還命令を無視して『父親を見つけるまで帰るつもりはない』と便りを寄越したのは先月のことだ。その伝令を伝えられた時、思わず元部下であるフリッツを殴りそうになった。
(俺は今当主の代理だぞ──⁉︎)
兄もそうだったが、息子も相当食えない性格の持ち主だ。ルートヴィヒのことをどこまでも馬鹿にしているとしか思えない。その上拾った孤児の娘にうつつを抜かしているなどと冗談ではない。
『あれは骨抜きにされているとかでは、決してないと思いますがね……』
激昂するルートヴィヒの前で、フリッツがこぼした言葉が蘇ったが無視をする。そもそも素性のわからない娘を連れ歩いている時点で、自覚が足りないのだ。そんな事で侯爵家を継げると思っているのだろうか。
「ハンス!」
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むぅ、とルートヴィヒは唸る。
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淡々とルートヴィヒを諌めるマイヤーの態度は落ち着いたものだった。それに、とマイヤーは言い募る。
「貴方様がしっかりしていなくては、奥方様も不安になりましょう。今奥方様をお守りできるのはルートヴィヒ様だけですよ。それをどうぞお忘れなく」
冷静に釘を刺してくるマイヤーに、ルートヴィヒは苛々している己の様子を少し恥じいる。この男を連れてきてよかった、と心底思いながら『そうだな』と呟く。
「分かった。とりあえず俺は休む。お前もあまり無理をせず早く休めよ、ハンス」
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