Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー

雪葉あをい

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第4章 RONDO-FINALE

op.14 春への憧れ(2)

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 翌朝、ロミーナと一緒に家の手伝いをしようとしていたリチェルは、ヴィオに廊下で呼び止められた。

「リチェル、少しいいか?」
「あ、えっと……」

 今から洗濯をするつもりだったのだが、ロミーナの方を見ると、笑顔でいってらっしゃい、と手を振られた。頭を下げて、ヴィオの方へ小走りで向かう。

「どうしたの?」
「少し……」

 若干言い淀んでヴィオが部屋の中へ入るように促した。
 リチェルは昨晩前回と同じようにロミーナの部屋に泊まったのだが、ヴィオは空き部屋を借りていたのだ。後に続いて部屋に入ると、パタンと扉が閉まる。

 ヴィオの表情が少し固い。

(手紙の事かしら?)

 昨晩はトトが言った通りご馳走を用意してくれて、ヴィオもトトやアルと話をしていた。
 和やかな雰囲気に見えたけれど、時たまヴィオが考え込むような素振りを見せることにリチェルは気付いていた。だから多分、昨日の手紙が原因だろうと思っていたのだ。

(もしかして、リンデンブルックまで行くのが難しくなったのかしら?)

 それならそれでリチェルは構わない。ヴィオにはヴィオの事情を一番に優先してほしい。きっと父親が亡くなったと言うことは、ヴィオの家にとってはそれだけの意味では済まないのだろう。

 リチェル一人なら急ぐ必要もないけれど、だからといってアルやトトに長く迷惑をかける訳にもいかない。サラから渡されたお金もまだ残っているし何とかなるだろうと考えていると、ヴィオがリチェル、と名を呼んだ。 

「そういえば色々あってきちんと聞けていなかったんだが、お父さんの事は聞けたのか?」

 そう問われて、リチェルは自分のことをヴィオに話せていなかったことに気付いた。事情が事情とはいえ申し訳なく感じながら、リチェルは頷く。

「うん。ごめんなさい、話せなくて」
「謝らないでくれ。一昨日は俺の方が聞ける状態じゃなかったし、リチェルにも心配をかけたと思うから。リチェルが言えなくて当然なんだ」

 そう言って、ヴィオは言葉を切った。そうして一瞬何かを迷うように視線を泳がせて、だがすぐにヴィオは顔を上げた。

「その時にもしかして、母親のことも何か聞いたか?」
「え?」

 どうして母の事が出てくるのか、リチェルには分からなかった。
 だけど黙っている理由はない。こくりと頷いたリチェルに、ヴィオはそうか、と息をついた。そして、懐から一通の手紙を取り出した。

「それは、ヴィオの……」
「あぁ。昨日の手紙の片方は屋敷の執事からの電報だ。そっちは予想していたんだが、問題はこっちの方。これは俺とリチェル宛なんだ」
「わたし?」

 目を瞬かせる。

「正直、これを君に見せようかどうか迷った。だけど黙って俺が処分するわけにもいかないし、君に話さない訳にはいかなかったから」

 そう言って、ヴィオは封筒から一枚紙を抜き取るとリチェルに差し出した。その手紙を受け取って、頭にヴィオとリチェルの名前が書かれていることを確認すると、リチェルは文字を追っていく。

『突然このように不躾に連絡する事をお許しください』

 手紙は丁寧な挨拶と、そのような文句で始まっていた。だけどその文章をなぞる内に、ヴィオがリチェルに見せるかどうかを迷った理由を理解した。

 手紙の内容はごく短いものだった。そこには手紙の主がずっとリチェルの行方を探していたということと、ヴィオと一緒に屋敷へ招きたいと言う旨が端的に書かれていた。そして、手紙の最後に書かれた名前が──。

『エアハルト・J・フォン・ハーゼンクレーヴァー』

 その家名を、リチェルが忘れるわけがなかった。
 何より手紙にはハッキリとリチェルがハーゼンクレーヴァーの息女であるリーゼロッテの娘である、と言うことが記されていたのだ。

「これ……」
「母親のことを、リチェルはどこまで聞いた?」

 ヴィオが冷静に尋ねてくる。戸惑ったようにヴィオを見て、ポツポツと自分が工房で聞いた話をヴィオに話し始めた。
 全てを話したら一時間では済まなかったから、リチェルなりに大事なところだけを抜粋して話していく。それでも長い話を、ヴィオは黙って聞いていた。

「これでわたしのお話はおしまい。ごめんなさい、できるだけ必要ないところは省いたつもりなんだけど……」

 そう言ってヴィオを見ると、ヴィオは黙りこくったままだった。

「ヴィオ?」
「……ごめん」

 と、黙っていたヴィオが、小さな声で呟いた。意外な言葉にリチェルはキョトンとする。

「どうして?」
「それを聞いたのがあの日なら、あの教会にいた時リチェルはお父さんを想って歌っていたんだろう」

 ヴィオの言葉にドキリとする。
 それはその通りだった。
 仕方がないとはいえ、自分はずっと父の愛情を知らずにいた。どれだけ遅くなったとしても、亡くなった父に祈りを捧げずにはいられなかったのだ。

「あの時リチェルも辛かったのに、俺のことを優先してくれたんだな」

 それは違うわ、と慌ててリチェルは否定する。

「確かにお父さんとお母さんのお話は悲しいお話だったけれど、二人が一緒にいた頃幸せだったことも、工房の皆さんが二人を大切に思ってくれていたことも知ることができたもの。それに父と母がわたしの命を望んでくれたことも。それはわたしにとってとても幸せなことで、悲しむべき事じゃないわ」

 だから気にしないで、と笑う。

「ヴィオが辛い時にほんの少しでも力になれたのなら、それが何よりとても嬉しいの」

 本心からそう口にすると、今度はヴィオが驚いたような顔をして、だがすぐに頬を緩める。
 ありがとう、と口にして、それから話題を切り替えるようにリチェルが持ったままの手紙を抜き取った。

「話を戻すけど、この手紙を読んでリチェルはどうしたい?」

 そう聞かれて、リチェルは言葉に詰まった。
 本音を言うなら行きたい。母親がどうしているのか知りたかったし、手紙の主が何を思ってこの手紙をくれたのかを聞いてみたかった。だけど──。

「わたしが一人で行くって行ったら、きっとヴィオは反対するでしょう?」
「それはそうだな」

 事もなげに肯定されて、クスリと笑う。

「じゃあ言わないわ。今はヴィオにはヴィオの事情を優先してほしいの。これ以上寄り道させてもらう訳にはいかないもの」
「……それが寄り道と言うわけでもないんだ」
「え?」

 ヴィオの言葉にリチェルは首をかしげる。そういえばハーゼンクレーヴァー家がどこにあるかリチェルは知らない。ではリンデンブルックに来るまでの町にあったのだろうか。
 そう聞くとヴィオは首を振る。

「そもそも帰りは山越えをする気がないからな。行きは父の歩いたルートを辿ってきただけで、帰るだけなら汽車を使う方が早いから元からそのつもりだった。ハーゼンクレーヴァー家はリンデンブルックに向かうまでの途中にあるんだ」
「そうなの?」

 尋ねて、不思議に思った。
 だってヴィオの口調は、まるで元から行くことを決めていたような口調だった。

(でもヴィオは家の事情があるのだから、そんな時間……)

「実を言うと、その手紙は先延ばしにする手段はあったとしても、元から断る選択肢がほとんどないんだ。その……、理由は伏せてもいいか?」

 ヴィオが申し訳なさそうに言った言葉に、リチェルはこくりと頷く。ヴィオが伏せた方が良いと思ったのであれば、リチェルも深く聞く気はない。ヴィオは安堵したように息をついて、先を続ける。

「……ハーゼンクレーヴァー家は古くからある伯爵家で、本家はレーゲンスヴァルトにある。エアハルトは確か嫡男の名前だ。まだ成人していないから俺も名前くらいしか知らないが……。仮に俺が先に本家へ帰ったとしたら、正直すぐに訪ねるのは難しくなるだろう。だが向こうが、その間にリチェルに接触する事はゼロじゃない」
「それならそれでわたしは……」
「それはダメだ」

 ハッキリとヴィオが断言して、だがすぐにキツく言ったと思ったのか声を和らげる。

「……手紙の差出人が問題な訳じゃない。問題は当主の方なんだ。君にこんな話をするのも気が引けるが、ハーゼンクレーヴァーの当主は正直あまり良い噂を聞かない。リチェルも両親の話を聞いたなら分かるかもしれないが、君の母親を連れ戻した人物からずっと変わっていない」

 その言葉に、息を呑んだ。
 リチェルの母親を連れ戻したのは当時の当主、リチェルにとっては祖母に当たる人物だ。身籠ったリーゼロッテを力ずくで連れ戻し、お腹にいる子供のことは死んでもいいと言い切った人。

「ヴィオは、わたしのお母さんの家のことを知っているの?」
「全てを知っている訳じゃないが、ある程度なら把握している。有力な家の情報は聞かずとも入ってくるから。ハーゼンクレーヴァーは古い家系だから多少内情は知っているつもりだ」
「じゃあ、もしかしてヴィオは、わたしのお母さんがどうしているか知ってる?」

 明るく尋ねようと思ったのに、声が震えた。リチェルの問いかけにヴィオは明らかに言葉に詰まって、それだけでリチェルは答えを察した。

「……亡くなってるの?」
「……あぁ。ごめん」

 目を逸らしたヴィオの様子にハッとする。ごめんなさい、と慌ててリチェルは謝罪を口にした。

「ヴィオが謝る必要はどこにもないわ。残念だとは思うけれど、仕方がないことだもの」

 いつか会えたら、とは思った。だけどそれはぼんやりとした願望で、強いものではない。リチェルにとっては今目の前にいる人の方が大事だ。
 気を取り直すように、つまり、とリチェルは聞いた情報を自分なりに整理する。

「その招待はどちらにせよいつかは応じなければいけなくて、ヴィオは家へ戻る前に応じるつもり、と言うことで良い?」
「……あぁ」

 ヴィオが難しい顔のまま頷く。

(それなら……)

 どうしてヴィオはこんなに迷っているのだろう。
 ヴィオが元々応じるつもりで、リチェルも行きたいと思うのだから特に問題があるようには思えない。
 でもきっとヴィオがリチェルに話すことを躊躇うような大事な理由があるのだろう。それならどう返せば良いのかと考えていると、不意にヴィオが真面目な声音で『お願いがあるんだ』と告げた。

「お願い?」
「この招待だが、俺一人で受けたい」
「ひとりで?」

 思わずくり返すとヴィオが頷いた。

「俺が行ってる間、リチェルには宿で待っていて欲しい。もちろんリチェルが行きたいのは分かってる。だけど、最低限安全だと分かってからじゃないと、俺はこの家の当主に君を会わせたくはない」

 これは俺のわがままだから強制はできないんだが。とこぼすヴィオは苦い表情をしていた。

 難しい事は分からなかった。
 元より孤児だったリチェルは貴族社会とは無縁だ。クライネルトにいた頃も本家とは切り離されていた。だがヴィオがここまで言うのだからきっと、リチェルには想像できない複雑な事情がきっとある。

 そもそも由緒正しい貴族階級の家の嫡男からリチェルにも招待が来るだなんて、価値としてあげられるのはリチェルがリーゼロッテの娘だという一点だけだ。
 そしてリーゼロッテへの実母の対応は、それだけを聞くととても残酷だった。だからその招待が純粋に歓迎の意味を持つものではないことは、リチェルにもおぼろげながら察せられた。

 何よりリチェルにとって大事なのは、ヴィオがリチェルを心配して言ってくれているということだった。
 ヴィオが今頼んでいる内容は、リチェルを守るためのものだ。それならそもそもヴィオが頭を下げる必要なんてない。
 
「ヴィオ」

 名前を呼ぶ。琥珀の瞳がリチェルを見た。いつもと変わらない優しい目に、リチェルは努めて明るく笑う。

「ヴィオが一番良いと思うようにして」

 だってきっとそれが一番正しいと思う。ううん、間違っていたとしても構わない。リチェルの選択はいつだってヴィオを信じる所から始まっている。最初から。その手を取った時から。

「わたしのことを考えて言ってくれているのに、嫌だなんて少しも思わないわ。でももしわたしに出来ることがあったら、その時はどうか言って欲しいの。わたしも、頑張るから」

 出来れば少しくらい頑張る機会があった方が嬉しい。リチェルがこの旅に出てから手にしたものは価値がつけられない宝物ばかりで、その旅はヴィオが手を差し伸べてくれたら出来たのだ。

「……ありがとう」

 目を細めて、ヴィオは優しい声音でそうこぼした。
 その手が、不意にリチェルの方に伸びた。するりと撫でるように手の甲が頬に触れる。

「…………」

 言葉がないまま、束の間見つめ合った。琥珀の瞳がとても優しい色をしてリチェルを見下ろしている。その視線に、なぜか落ち着かない気持ちになった。

「リチェル」

 ヴィオが名前を呼ぶ。
 それだけの事に心臓が跳ね上がった。
 ヴィオの声音は落ち着いていて、いつも通りだ。だけど、どうしてだろう。頬に熱が集まるのを感じる。

「別れる前に、君に話したいことがあるんだ」
「はな、し?」

 あぁ、とヴィオが頷く。

「その時はどうか、君の時間をもらえないか?」

 どうしてか、具体的な事を言われたわけじゃないのに、とても恥ずかしくなった。改まってそんな事を言われたことがないからだろうか。

「もちろん。断る理由なんてないわ」

 熱を持った頬が熱い。誤魔化すように笑って、リチェルはチラリと扉の方を見る。

「……あ、あの。そろそろわたしロミーナさんのお手伝いをしてくるわ。それとも馬車の手配をお手伝いをした方が良いかしら」

 ワタワタとそう言うと、ヴィオがそれは俺がしてくるから構わないと笑う。それなら、とお礼もそこそこにリチェルはまるで逃げるように部屋を出た。

(どうして──)

 廊下を早足で歩きながら、まだ心はバクバクと鳴っていた。頬が熱いのが分かる。
 笑顔で別れようと思っていた。いや、今でもずっと思っている。だけど閉まったはずの恋心が暴れ出したのは、きっと。
 
『君に、会いたかったんだ──』

 あの教会での言葉の真意を、リチェルは知らない。
 あの時のヴィオは動揺していたし、きっと縋るものが欲しかったのだと思っている。ヴィオは強い人で、気づけばすぐにいつもの落ち着いた態度に戻っていた。今では教会でのあの時間が夢だったみたいだ。ただ──。

 カステルシルヴァからトトの店に来るまでの道中、ヴィオはリチェルにずっと優しかった。その優しさの種類が、何故かいつもと違う気がして。目が合うと、ふっと笑うその表情が、いつもよりずっと柔らかくて──。

(……ダメ)

 ちゃんと蓋をしないと、と思うのに。
 そっと触れられた頬に手を当てる。階段の途中で立ち止まったまま、息を吐いて気持ちを落ち着ける。

『別れる前に、君に話したいことがあるんだ』

 何を?

 大事なことだとは分かる。
 そうでなければヴィオがあんな風に改めて言うはずがないのだ。別れる前に聞いておかなければいけないこと。考えてみても、少しもリチェルには思い当たらなかった。

(お別れ……)

 その言葉に胸が痛くなるのを感じた。もう随分前から分かって覚悟をしていたのに。
 笑顔で別れようと決めたはずなのに。
 
(だから……)

 でも、と心が相反するように言葉をかぶせる。
 キュッと目を閉じる。

(────そばに、いたい)

 そんな声が、心のずっと奥でうるさいくらいに響いていた。



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