Harmonia ー或る孤独な少女と侯国のヴァイオリン弾きー

雪葉あをい

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第4章 RONDO-FINALE

op.14 春への憧れ(3)

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 リチェルが去っていった扉を見送って、ヴィオは詰めていた息を吐き出した。

 昨晩はよく眠れたから、疲れは取れている。馬車の手配をしに行かなくてはいけないから、ここでじっとしている訳にはいかないのだが、一旦気持ちを落ち着かせるためにベッドに腰掛けた。

 侯爵家のフォルトナーから来た連絡のこと。
 ハーゼンクレーヴァーからの手紙のこと。

 考えることは山積みなのに思考はスッキリとしていた。多分それは、ヴィオの中で迷っていた気持ちにある程度整理がついたからだろう。

(ソルヴェーグに、感謝しないとな……)

 カステルシルヴァで別れてきた老執事の事を思い出す。幼い頃からずっと父のそばにいたソルヴェーグは、ヴィオの事もずっと気にかけてくれていた。今回のことも──。



   ◇
   
   

「ヴィクトル様、もう少しだけお時間をよろしいですかな」

 ソルヴェーグが宿でそう話を切り出したのは、ヴィオが教会から戻ったその夜、今後のことを話し終えた後の事だった。

 ソルヴェーグはヴィクトル、と名を呼んだ。周りに聞かれる恐れがある時は、基本ソルヴェーグはヴィオをその名で呼ばない。それでも口にしたのはきっとそれなりに理由がある時だ。

「寝なくて大丈夫なのか? もう遅いぞ?」

 ゆらゆらと揺れる蝋燭は新品だったはずなのに、随分と短くなっていた。ソルヴェーグが『大丈夫です』と笑う。

「心配して頂いてありがとうございます。ですが自身の身体の状態はよく心得ております故」
「確かにそうだな。それで何を? 重要なことは粗方話し終えたと思うが」

 少なくともヴィオの方には、もう急ぎで話さなければいけない事柄は残っていない。だがソルヴェーグは『いいえ』と口にする。

「とても大事なことが残っているのです」
「そうなのか?」

 何か見落としていただろうか、と思考を巡らせるヴィクトルにソルヴェーグは柔らかく笑う。

「貴方はいつもそうですな。周りの事を、家のことを常に自分ごととして一番に優先なさる。幼い頃からずっと」
「? それは当然だろう」

 そう言う風に育てられたし、ヴィオも受け入れている。今更のことだ。

「いいえ。当然ではありません。もちろんそう在れと貴方は言われ続けてきましたが、理想と現実はいつだって別物です。そう在れと望まれて、そういられることは貴方の強さですよ。ディートリヒ様が亡くなられた今、今後私達が忠を尽くすのは貴方を置いて他にありません」
「……どうしたんだ急に」

 苦笑をこぼす。

「だが、お前が言うには大事なことを取りこぼしているんだろう?」
「えぇ。貴方は大変優秀な方ですが、だからこそ一つ、とても大事なことを蔑ろにしています」
「何を忘れてた?」
「貴方自身のことです。ヴィクトル様」

 思いもよらない言葉だった。目を瞬かせてソルヴェーグに目をやる。

「俺のこと?」
「えぇ。どんなに家が整っても、貴方が心身ともに健やかでなければ、侯爵家は立ち行きません」

 その言葉の意味に考えを巡らせる。
 確かに父の訃報を聞いた後は動揺していた。
 その動揺を自覚すら出来ていなかった。だけどリチェルのおかげで、今はもう冷静に自身の状態を把握できているし、物事を考えられていると思う。

「それなら特に問題はないと思っているんだが……」

 ソルヴェーグが言うのであれば、まだ気付いていない何かがあるのだろうか。考え込むと、ソルヴェーグが『えぇ』と頷いた。

「もちろん家督を継ぐことについては心配しておりませんよ。貴方は大層頭の良い方で、また自身の不足を認めることが出来る方です。このように早くディートリヒ様が亡くなられたのであれば、私も僭越ながらこの身が動く限りお仕えしたい所存です。しかし貴方様は強い方であらせられる故に、己の弱さには無自覚であられる」

 会話の脈絡が読めない。
 だがソルヴェーグの眼差しは真剣だ。だからヴィオも向き合って『つまり?』と続きを促すと、ソルヴェーグが穏やかに笑った。

「だからきっと、貴方にはその心を支える方が必要なのです。ヴィクトル様」

 そう言われてようやく、ソルヴェーグの言わんとしていることが繋がった。もしかして、と呟く。

「リチェルの事を言ってるのか?」
「もちろん。それ以外に誰のことがありましょうか」

 ここまでのソルヴェーグの口調は終始落ち着き払ったものだった。
 以前までリチェルの事を話す時に含まれていた躊躇のようなものが見えない。それが余計にヴィオを戸惑わせた。

「だがリチェルは……」
「分かっています。リチェル殿は我々のいる環境とは無縁で、後ろ盾などありません。だけどヴィクトル様、そんな物は何とでもなります」
「以前も話したが、俺が気にしているのはそう言うことじゃない」

 リチェルがどこの誰かだなんてヴィオにとってもどうでもいい話だ。
 だが周りにとってはそうではない。悪意の矛先は少なからずリチェルに向かうだろう。父であっても防ぎきれなかったそれらの全てからリチェルを守れると言うのは、ただの過信だ。

『何かあったの……?』

 震える声が、脳裏に蘇る。
 いきなり抱きすくめられて、きっと怯えただろうに、リチェルは一番最初にヴィオのことを心配してくれた。

『ヴィオのことは、怖くないの。だから大丈夫』

 そう言ってくれたリチェルは、心の優しい一人の女の子で。
 だけどヴィオにとっては何にも代え難い、たった一人で。

 だから傷つけたくないのだと、改めてそう思った。幸せであるように、ともう一度ちゃんと思い直したところだった。

「……ヴィクトル様は、リチェル殿がそんなに弱い方に見えますか?」

 不意に、ソルヴェーグが声を落とした。その言葉に、息を呑む。

「あの方は心の強い女性です。ラクアツィアでも我々に頼ることなく、迷いなくあの晩孤児院に留まる事を選ばれた。彼女はきちんと自身の問題と向き合える方ですよ」

 とつとつと、ソルヴェーグが言葉を紡いでいく。
 分かっている。リチェルが弱くないことは。あの境遇で、あの環境で、あの優しさを捨てずに生きてこれたことが、何より彼女の強さを証明している。

「貴方が今まで侯爵家に捧げてきた時間を、努力を、私達はみな知っています。
ライヒェンバッハに仕える人間で、貴方の為に動かぬ人間などおりません。いたとしても、私とフォルトナーがさせませんよ。それが貴方が今まで積み上げてきた物です。だから一つくらい、ご自身のために望んでも良いのではないのでしょうか」

 少なくとも、私は貴方に望んでほしい。とソルヴェーグは静かに続ける。

「リチェル殿を守るのは貴方一人ではありません。
ヴィクトル様がそばにいられない時は誰かが必ず助けます。私にそう言う覚悟がある事を、貴方に知って欲しかった。家を継ぐと言うことは、貴方自身の望みを全て捨てろと言うことではありません。貴方の望みを叶えたいと思う人間が、周りには沢山いることを分かってほしい。……本当はもっと早く言いたかったのです。貴方が自身の望みこそ切り離して考える方だと分かっていたのに、覚悟が決まらなかった私の弱さをどうかお許しください」
「……頭を上げてくれ。お前に謝られるようなことは何もない」

 ソルヴェーグに謝罪されるといつも落ち着かなくなる。ソルヴェーグはヴィオにとって育ての親のようなものだ。父から習う以上のことを、この元執事から教わった。

 その、と歯切れ悪くヴィオは続ける。

「少し、頭を冷やしたい……」

 望んだことを通す。
 それが家のためならば、幾らでも考えただろう。
 だけど自分一人の為に何かを強く望んだことは、ヴィオの人生においてそんなに多くはない。そもそもそこまで強く何かを望んだこと自体がないのだ。返事のしようもなく、そう伝えるとソルヴェーグは『もちろんです』と笑う。

「それに大前提になるのですが、リチェル殿が頷いてくれるかどうかは私共にも何とも言えませんので、そこはヴィクトル様の腕の見せ所かと思いますよ」
「……お前な」

 場の空気を和ませるようにそう言われて、ヴィオは息をついた。それで話は全てのようだったから、いくら何でもそろそろ寝ないと明日に差し支えるだろうとソルヴェーグを下がらせた。

 だが──。

 ほとんど溶け落ちた蝋燭の火がゆらゆらと揺れている。椅子の背に体重を預けたまま、その火をじっと見ていた。

 リチェルをそばに置くという選択肢は、ヴィオの中では一度完全にナシになった事だった。
 実現するための可能性を考えた時にネックとなる要素はすぐに並んだし、大体潰せることも知っていた。だが一度考えた時に母の事がすぐに思い当たって、それ以上考えるのをやめてしまった。

(幸せになって欲しいから……)

 その気持ちは、教会での出来事で一層強くなった。だけど同じくらい本当は──。

 まとまらない考えの中で一つだけ確かなことがあった。今までの人生で、ここまで誰かを強く望んだことはない。

(君を、幸せに出来るのだろうか?)

 その夜は、そんな答えの出ない事をずっと考えていた。
 翌朝リチェルと顔を合わせると、リチェルは変わらない笑顔で『おはよう』とふわりと笑った。その声も、姿も。彼女の事がどうしようもない程愛おしいことはもう知っていて──。

(望んでいいのだろうか)

 そんな欲が顔を出す。

(君にずっと、そばにいてほしいと)

 一日ずっとそんな事を考え続けて、コトリと心が傾いたのは多分ドナートの工房へリチェルを迎えに行った時だ。職人と話していたリチェルは、ヴィオの姿に気付くとぱっと顔をほころばせた。

「ヴィオ」

 それはまるで花が開く瞬間のようだった。その姿を見た時、急に悩んでいることが全て馬鹿馬鹿しくなった。

 顔を出した職人達に丁寧に挨拶をするリチェルは随分可愛がられていたようで、何度も頭を下げて、別れを惜しんでいた。だけどもリチェルはヴィオの所へ戻ることを少しも躊躇いはしないのだ。

(多分もう──)

 手放せと言われても、手放したくない。

「ソルヴェーグ」

 翌朝、カスタニェーレに出発するヴィオとリチェルを見送りにきたソルヴェーグに声をかけた。

「多分また、負担をかける事になるが構わないだろうか?」

 リチェルに気付かれないようにチラリと彼女に視線をやって告げると、ソルヴェーグは嬉しそうに笑った。えぇ、もちろん。とソルヴェーグが応じる。

「私達はその為にいるのですから」





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