119 / 161
第4章 RONDO-FINALE
op.14 春への憧れ(4)
しおりを挟む
「リチェルさん」
不意に後ろから声をかけられて、リチェルは振り返った。
「アルさん」
昼のための仕込みがひと段落したのだろう。調理用のエプロンを脱いで、店から出てきたアルは外の窓の掃除をしていたリチェルの近くにくると、代わるよ、とリチェルに手を差し出した。
「リチェルさん、きっと上の方は届かないでしょ?」
「うん、そうなの。ごめんなさい。お願いできるかしら」
確かにリチェルの身長では一番上までは背が届かなくて、踏み台を持ってこようと思っていたのだ。アルがリチェルから雑巾を受け取って、リチェルと場所を代わる。
「今日の昼過ぎにはここを出るんだって?」
「うん。ヴィオが馬車を手配してくれて、汽車が出る町まで向かうらしいの」
「それならすぐ近くだから、一時間もすれば行けるんじゃないかな。もっといればいいのに……。あ、でも遅くなって宿が取れないと困るもんね」
そう話しながらアルがリチェルが届かなかったところを、慣れた手つきで拭いていく。
「リチェルさんはこの後どうするの?」
「この後?」
「ヴィオ君は家に戻るんでしょ? リチェルさんは?」
「わたしも、お世話になっている方のところに戻る予定よ」
「そっか」
じゃあヴィオ君とはしばらくお別れだね。とアルがしみじみと呟く。
「ヴィオ君とリチェルさんの家って遠いのかな。今まで一緒だったし、たまにしか会えないと寂しいよね」
「…………」
何気ない言葉だった。
だけどそれはリチェルにこの先を想像させるには十分で、思わず黙り込んでしまった。その様子にアルが目を瞬かせる。え? と驚いたような声をあげて、リチェルの方を見る。
「……会える、よね?」
何か言わなきゃ、と思った。
だってアルはヴィオの事情を知らない。普通なら、確かに連絡を取って会うことも出来るはずだ。だけど多分、ヴィオとリチェルは──。
そうね、と笑えばいいだけだった。
また会えたら嬉しいわ、と言うだけで良かった。
だけどそう口にすることがどれだけ難しいのか、その時になってリチェルは初めて知った。
うつむいたまま黙り込んだリチェルに、アルはギョッとして周りを見回して『リチェルさんこっち!』とあたふたしながらリチェルを店の裏へ引っ張っていく。裏までくるとアルは引っ張っていた手を離して、リチェルの方に向き直る。
強引に引っ張ってきた事に気が咎めたのか、焦ったようにアルが謝った。
「ごめんね、リチェルさん。ええと、僕何か良くない質問したかな? でもヴィオ君がリチェルさんに会わないつもりとか、そんな事はないと思うよ? 絶対」
絶対、の所に強い意志を込めてアルが口にする。その事にアルの優しさが伝わってきて、リチェルは何とか笑みを浮かべることが出来た。
「ごめんなさい。急に黙ってしまって。深い意味はないの。でも、ヴィオは忙しい人だから、わたしに構っている暇はないと思うの」
実際もう会うことはないだろう。
ヴィオが家に戻って、ヴィオでなくなってしまったら、リチェルとの間には埋めることが出来ない隔たりが出来る。
「……リチェルさん。待って。本当に? 本当に、会えないの?」
だけどアルはリチェルの様子から、沈黙の意味を的確に察したようだった。それはダメだよ、とアルにしては強い言葉を口にする。
「だってリチェルさんはヴィオ君のこと──」
「!」
アルの言葉に弾かれたように顔を上げた。
「……どうして」
声が震える。
どうしてアルがそれを知っているのだろう。ロミーナが口にしたのだろうか。だが、リチェルはロミーナに対してもハッキリとヴィオが好きだと言ったことはない。だとしたら……。
アルさん、とリチェルはこぼす。
「わたし、そんなに分かりやすい……?」
震える声で呟いた。
だって、ヴィオは聡い人だ。そんなに周りに分かる態度をしていたなら、きっとヴィオにも伝わってしまっているだろう。
それがどれだけ迷惑をかけるのか、想像が出来てしまう。
だってクライネルトでも、周囲からデニスには近づくなと言われ続けた。リチェルのような人間が近付けば品位が落ちるから、と。きっとその通りの意味なのだ。
だからもしリチェルの気持ちが周りにも伝わっていたとしたら、ヴィオにもきっと迷惑をかけてしまう。
急いでリチェルはアルに頭を下げた。
「ごめんなさい。アルさん。困らせてしまうのは分かるけれど、ヴィオには黙っていてほしいの。どうかお願いだから……」
気付かれたとしても、直接伝えたわけではない。それなら何とか言い訳も出来るかもしれない。そう思って懇願するように口にする。
「うわ! 顔をあげてリチェルさん! そんな顔しないで! どうしてそんなに……」
「だって、ヴィオに迷惑をかけてしまうもの……」
「迷惑? リチェルさんに好かれることが? そんな訳……」
そう呟いて、アルがリチェルを見下ろす。
そして束の間、黙り込んだ。
不自然な沈黙に、リチェルは恐る恐る顔を上げる。いつになく真剣な表情で何かを考えていたアルが、不意に『……迷惑なんかじゃないよ』と小さく呟いた。
「え?」
「迷惑な訳ないよ。リチェルさん」
そう言って、アルが少し困ったように笑う。それから深く息をついて、少しだけ僕の話を聞いてくれる? と優しく言った。
「ええ、もちろん」
「ありがとう」
柔和な笑みを浮かべて、アルが穏やかに口を開いた。
「リチェルさんは、もしかしたら自分なんかがヴィオ君に、とか考えてるのかな、と思ったんだけど。合ってるかな?」
アルの言葉に目を見開く。
それは確かにリチェルが考えていることで、リチェルにとっては揺らがない真実だった。だけど肯定するとアルをまた困らせてしまう。そう思うと何と答えていいか分からなかった。
口の中が乾く。
旅に出てから心が揺れることがたくさんあって、それまで心を押し殺してきたリチェルには自分の気持ちについていけないことが多い。特にヴィオのことに関しては顕著で、今もそうだった。
だけどアルはそんなリチェルの戸惑いも分かっている気がして。ゆるゆるとアルを見上げると、結局リチェルは素直に頷いた。
そっか、と少し寂しそうにアルが笑う。
「以前、リチェルさんは僕のピアノを褒めてくれたよね」
「え? えぇ。だってアルさんのピアノは、とても綺麗だから……」
「ありがとう。それに君は僕が優しい人だってくれたし、人を笑顔にすることが好きなんだ、って教えてくれた」
アルの言いたいことが分からなくてキョトンとする。
だってそれは全部本当のことだ。アルが優しい人なのは、リチェルだけじゃなくてきっと周りのみんなが知っていることだと思う。
「つまりリチェルさんは、僕のことをそれなりに認めてくれてるって事でいいんだよね?」
「それは、もちろん。でも認めるとかそんなのではないわ。アルさんのピアノは素敵だし、とても優しくて素敵な人なのは本当のことよ」
そう言うとアルは照れたように笑った。
「面と向かって言われると照れるな……。あぁ、じゃなかった。えっと……」
言葉を濁して、アルの目が泳ぐ。だけどもう一度深く息を吐いて、アルがリチェルの方を向き直った。
「リチェルさん。僕は、君が好きだよ」
目を瞬かせる。
キョトンとして、すぐにわたしもアルさんが好きよ、と首を傾げるとアルが何故か困ったように笑った。
「うん。だけど僕は、君が女の子として好きなんだよ。リチェルさん」
その言葉を、理解するのにとても時間がかかった。
ポカンとして、アルを見つめる。
(女の子として?)
その意味を分からない程、リチェルはもう無知ではなかった。
意味を理解した途端、頭が真っ白になった。何か言わなきゃいけないのに、一番最初に思い浮かんだのは、喜びよりも申し訳なさで。どうしよう、という戸惑いで。
「心配しなくていいよリチェルさん。僕は君に僕の気持ちに応えてほしいから言った訳じゃないんだ」
戸惑わせてごめんね、とアルが穏やかに謝った。まるで初めから、リチェルの答えが分かっていたように。
「そう。だからリチェルさんがヴィオ君のことが好きだと僕が分かったのは、僕が君が好きで、ずっと見ていたからで。リチェルさんは誰にでも優しいから、わかりやすい訳じゃないんだ。そこは安心していいよ。僕が、君を見てただけだから」
そう言って、アルはためらいがちにそっとリチェルの手を取った。
その手を両手で包むと、真正面からリチェルを見つめる。リチェルさん、とアルが落ち着いた声でリチェルの名を呼ぶ。
「君は『自分なんか』って思っていいような女の子じゃないよ。ヴィオ君に申し訳ないなんて、絶対に思わなくていい。僕はリチェルさんが優しいことを知っているし、君の心が綺麗なことを知っている。それは普通どれだけ欲しいと思っても、なかなか手に入らないものなんだ。君は十分に魅力的で、素敵な女の子だよ」
どうか、とアルが呟く。
「もし君が僕のことを素敵だと思ってくれたんだったら、僕が好きになった女の子のことも信じてあげてほしいな」
支えていた何かが取れるみたいに、瞳に涙が浮かんだ。
もらった言葉が優しくて、温かくて、もったいないくらいで。そんな風に言ってくれるこの人の気持ちに、だけどリチェルは応えられない。
アルがギョッとして、わたわたと『ハンカチ! ハンカチ!』とポケットを探り出す。その仕草がおかしくて、リチェルはクスクスと笑った。
「ごめんなさい……っ、アルさん」
泣き笑いのまま袖で涙を拭う。
「アルさんが優しいから、ちょっと涙が出ただけなの。ありがとう」
「うん。……その、事情は分からないけど、ちょっとでも元気になってくれたなら、その。良かった」
あ、とアルが思いついたように声を上げる。
「応えられないのは分かってるから、断りの文句は勘弁してほしいな。それを聞くと僕昼の営業でソースにマスタードとか入れそうだし!」
「はい。あの、ごめ……じゃなくって、えっと。その……ありがとう、アルさん」
精一杯、笑ってそう言った。
きっとアルが今リチェルに言ってくれたことは、優しいだけじゃ言えないことで、とても勇気のいる事だ。リチェルにはとても出来ない。
だけど誰かに好きだと言われることは、とても温かなことだった。
同時にアルに好きと言われて余計に、自分の気持ちがくっきりと見えたことにリチェルは気づいた。
アルはすごく優しい人で、そんな人に好きだと言ってもらえることはとても幸せな事なのに、だけど今のリチェルには応える事は出来ない。
(ヴィオが、好きだから──)
ギュッとリチェルはスカートの裾を握り締める。それはどうしようもない気持ちで、自分じゃもううまく制御できなくて。
だからせめて目の前の優しい人の道行きが幸せなものでありますように、とただ願った。
不意に後ろから声をかけられて、リチェルは振り返った。
「アルさん」
昼のための仕込みがひと段落したのだろう。調理用のエプロンを脱いで、店から出てきたアルは外の窓の掃除をしていたリチェルの近くにくると、代わるよ、とリチェルに手を差し出した。
「リチェルさん、きっと上の方は届かないでしょ?」
「うん、そうなの。ごめんなさい。お願いできるかしら」
確かにリチェルの身長では一番上までは背が届かなくて、踏み台を持ってこようと思っていたのだ。アルがリチェルから雑巾を受け取って、リチェルと場所を代わる。
「今日の昼過ぎにはここを出るんだって?」
「うん。ヴィオが馬車を手配してくれて、汽車が出る町まで向かうらしいの」
「それならすぐ近くだから、一時間もすれば行けるんじゃないかな。もっといればいいのに……。あ、でも遅くなって宿が取れないと困るもんね」
そう話しながらアルがリチェルが届かなかったところを、慣れた手つきで拭いていく。
「リチェルさんはこの後どうするの?」
「この後?」
「ヴィオ君は家に戻るんでしょ? リチェルさんは?」
「わたしも、お世話になっている方のところに戻る予定よ」
「そっか」
じゃあヴィオ君とはしばらくお別れだね。とアルがしみじみと呟く。
「ヴィオ君とリチェルさんの家って遠いのかな。今まで一緒だったし、たまにしか会えないと寂しいよね」
「…………」
何気ない言葉だった。
だけどそれはリチェルにこの先を想像させるには十分で、思わず黙り込んでしまった。その様子にアルが目を瞬かせる。え? と驚いたような声をあげて、リチェルの方を見る。
「……会える、よね?」
何か言わなきゃ、と思った。
だってアルはヴィオの事情を知らない。普通なら、確かに連絡を取って会うことも出来るはずだ。だけど多分、ヴィオとリチェルは──。
そうね、と笑えばいいだけだった。
また会えたら嬉しいわ、と言うだけで良かった。
だけどそう口にすることがどれだけ難しいのか、その時になってリチェルは初めて知った。
うつむいたまま黙り込んだリチェルに、アルはギョッとして周りを見回して『リチェルさんこっち!』とあたふたしながらリチェルを店の裏へ引っ張っていく。裏までくるとアルは引っ張っていた手を離して、リチェルの方に向き直る。
強引に引っ張ってきた事に気が咎めたのか、焦ったようにアルが謝った。
「ごめんね、リチェルさん。ええと、僕何か良くない質問したかな? でもヴィオ君がリチェルさんに会わないつもりとか、そんな事はないと思うよ? 絶対」
絶対、の所に強い意志を込めてアルが口にする。その事にアルの優しさが伝わってきて、リチェルは何とか笑みを浮かべることが出来た。
「ごめんなさい。急に黙ってしまって。深い意味はないの。でも、ヴィオは忙しい人だから、わたしに構っている暇はないと思うの」
実際もう会うことはないだろう。
ヴィオが家に戻って、ヴィオでなくなってしまったら、リチェルとの間には埋めることが出来ない隔たりが出来る。
「……リチェルさん。待って。本当に? 本当に、会えないの?」
だけどアルはリチェルの様子から、沈黙の意味を的確に察したようだった。それはダメだよ、とアルにしては強い言葉を口にする。
「だってリチェルさんはヴィオ君のこと──」
「!」
アルの言葉に弾かれたように顔を上げた。
「……どうして」
声が震える。
どうしてアルがそれを知っているのだろう。ロミーナが口にしたのだろうか。だが、リチェルはロミーナに対してもハッキリとヴィオが好きだと言ったことはない。だとしたら……。
アルさん、とリチェルはこぼす。
「わたし、そんなに分かりやすい……?」
震える声で呟いた。
だって、ヴィオは聡い人だ。そんなに周りに分かる態度をしていたなら、きっとヴィオにも伝わってしまっているだろう。
それがどれだけ迷惑をかけるのか、想像が出来てしまう。
だってクライネルトでも、周囲からデニスには近づくなと言われ続けた。リチェルのような人間が近付けば品位が落ちるから、と。きっとその通りの意味なのだ。
だからもしリチェルの気持ちが周りにも伝わっていたとしたら、ヴィオにもきっと迷惑をかけてしまう。
急いでリチェルはアルに頭を下げた。
「ごめんなさい。アルさん。困らせてしまうのは分かるけれど、ヴィオには黙っていてほしいの。どうかお願いだから……」
気付かれたとしても、直接伝えたわけではない。それなら何とか言い訳も出来るかもしれない。そう思って懇願するように口にする。
「うわ! 顔をあげてリチェルさん! そんな顔しないで! どうしてそんなに……」
「だって、ヴィオに迷惑をかけてしまうもの……」
「迷惑? リチェルさんに好かれることが? そんな訳……」
そう呟いて、アルがリチェルを見下ろす。
そして束の間、黙り込んだ。
不自然な沈黙に、リチェルは恐る恐る顔を上げる。いつになく真剣な表情で何かを考えていたアルが、不意に『……迷惑なんかじゃないよ』と小さく呟いた。
「え?」
「迷惑な訳ないよ。リチェルさん」
そう言って、アルが少し困ったように笑う。それから深く息をついて、少しだけ僕の話を聞いてくれる? と優しく言った。
「ええ、もちろん」
「ありがとう」
柔和な笑みを浮かべて、アルが穏やかに口を開いた。
「リチェルさんは、もしかしたら自分なんかがヴィオ君に、とか考えてるのかな、と思ったんだけど。合ってるかな?」
アルの言葉に目を見開く。
それは確かにリチェルが考えていることで、リチェルにとっては揺らがない真実だった。だけど肯定するとアルをまた困らせてしまう。そう思うと何と答えていいか分からなかった。
口の中が乾く。
旅に出てから心が揺れることがたくさんあって、それまで心を押し殺してきたリチェルには自分の気持ちについていけないことが多い。特にヴィオのことに関しては顕著で、今もそうだった。
だけどアルはそんなリチェルの戸惑いも分かっている気がして。ゆるゆるとアルを見上げると、結局リチェルは素直に頷いた。
そっか、と少し寂しそうにアルが笑う。
「以前、リチェルさんは僕のピアノを褒めてくれたよね」
「え? えぇ。だってアルさんのピアノは、とても綺麗だから……」
「ありがとう。それに君は僕が優しい人だってくれたし、人を笑顔にすることが好きなんだ、って教えてくれた」
アルの言いたいことが分からなくてキョトンとする。
だってそれは全部本当のことだ。アルが優しい人なのは、リチェルだけじゃなくてきっと周りのみんなが知っていることだと思う。
「つまりリチェルさんは、僕のことをそれなりに認めてくれてるって事でいいんだよね?」
「それは、もちろん。でも認めるとかそんなのではないわ。アルさんのピアノは素敵だし、とても優しくて素敵な人なのは本当のことよ」
そう言うとアルは照れたように笑った。
「面と向かって言われると照れるな……。あぁ、じゃなかった。えっと……」
言葉を濁して、アルの目が泳ぐ。だけどもう一度深く息を吐いて、アルがリチェルの方を向き直った。
「リチェルさん。僕は、君が好きだよ」
目を瞬かせる。
キョトンとして、すぐにわたしもアルさんが好きよ、と首を傾げるとアルが何故か困ったように笑った。
「うん。だけど僕は、君が女の子として好きなんだよ。リチェルさん」
その言葉を、理解するのにとても時間がかかった。
ポカンとして、アルを見つめる。
(女の子として?)
その意味を分からない程、リチェルはもう無知ではなかった。
意味を理解した途端、頭が真っ白になった。何か言わなきゃいけないのに、一番最初に思い浮かんだのは、喜びよりも申し訳なさで。どうしよう、という戸惑いで。
「心配しなくていいよリチェルさん。僕は君に僕の気持ちに応えてほしいから言った訳じゃないんだ」
戸惑わせてごめんね、とアルが穏やかに謝った。まるで初めから、リチェルの答えが分かっていたように。
「そう。だからリチェルさんがヴィオ君のことが好きだと僕が分かったのは、僕が君が好きで、ずっと見ていたからで。リチェルさんは誰にでも優しいから、わかりやすい訳じゃないんだ。そこは安心していいよ。僕が、君を見てただけだから」
そう言って、アルはためらいがちにそっとリチェルの手を取った。
その手を両手で包むと、真正面からリチェルを見つめる。リチェルさん、とアルが落ち着いた声でリチェルの名を呼ぶ。
「君は『自分なんか』って思っていいような女の子じゃないよ。ヴィオ君に申し訳ないなんて、絶対に思わなくていい。僕はリチェルさんが優しいことを知っているし、君の心が綺麗なことを知っている。それは普通どれだけ欲しいと思っても、なかなか手に入らないものなんだ。君は十分に魅力的で、素敵な女の子だよ」
どうか、とアルが呟く。
「もし君が僕のことを素敵だと思ってくれたんだったら、僕が好きになった女の子のことも信じてあげてほしいな」
支えていた何かが取れるみたいに、瞳に涙が浮かんだ。
もらった言葉が優しくて、温かくて、もったいないくらいで。そんな風に言ってくれるこの人の気持ちに、だけどリチェルは応えられない。
アルがギョッとして、わたわたと『ハンカチ! ハンカチ!』とポケットを探り出す。その仕草がおかしくて、リチェルはクスクスと笑った。
「ごめんなさい……っ、アルさん」
泣き笑いのまま袖で涙を拭う。
「アルさんが優しいから、ちょっと涙が出ただけなの。ありがとう」
「うん。……その、事情は分からないけど、ちょっとでも元気になってくれたなら、その。良かった」
あ、とアルが思いついたように声を上げる。
「応えられないのは分かってるから、断りの文句は勘弁してほしいな。それを聞くと僕昼の営業でソースにマスタードとか入れそうだし!」
「はい。あの、ごめ……じゃなくって、えっと。その……ありがとう、アルさん」
精一杯、笑ってそう言った。
きっとアルが今リチェルに言ってくれたことは、優しいだけじゃ言えないことで、とても勇気のいる事だ。リチェルにはとても出来ない。
だけど誰かに好きだと言われることは、とても温かなことだった。
同時にアルに好きと言われて余計に、自分の気持ちがくっきりと見えたことにリチェルは気づいた。
アルはすごく優しい人で、そんな人に好きだと言ってもらえることはとても幸せな事なのに、だけど今のリチェルには応える事は出来ない。
(ヴィオが、好きだから──)
ギュッとリチェルはスカートの裾を握り締める。それはどうしようもない気持ちで、自分じゃもううまく制御できなくて。
だからせめて目の前の優しい人の道行きが幸せなものでありますように、とただ願った。
0
あなたにおすすめの小説
🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。
設楽理沙
ライト文芸
☘ 累計ポイント/ 190万pt 超えました。ありがとうございます。
―― 備忘録 ――
第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。 最高 57,392 pt
〃 24h/pt-1位ではじまり2位で終了。 最高 89,034 pt
◇ ◇ ◇ ◇
紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる
素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。
隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が
始まる。
苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・
消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように
大きな声で泣いた。
泣きながらも、よろけながらも、気がつけば
大地をしっかりと踏みしめていた。
そう、立ち止まってなんていられない。
☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★
2025.4.19☑~
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
拾われ子のスイ
蒼居 夜燈
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞 奨励賞】
記憶にあるのは、自分を見下ろす紅い眼の男と、母親の「出ていきなさい」という怒声。
幼いスイは故郷から遠く離れた西大陸の果てに、ドラゴンと共に墜落した。
老夫婦に拾われたスイは墜落から七年後、二人の逝去をきっかけに養祖父と同じハンターとして生きていく為に旅に出る。
――紅い眼の男は誰なのか、母は自分を本当に捨てたのか。
スイは、故郷を探す事を決める。真実を知る為に。
出会いと別れを繰り返し、命懸けの戦いを繰り返し、喜びと悲しみを繰り返す。
清濁が混在する世界に、スイは何を見て何を思い、何を選ぶのか。
これは、ひとりの少女が世界と己を知りながら成長していく物語。
※週2回(木・日)更新。
※誤字脱字報告に関しては感想とは異なる為、修正が済み次第削除致します。ご容赦ください。
※カクヨム様にて先行公開(登場人物紹介はアルファポリス様でのみ掲載)
※表紙画像、その他キャラクターのイメージ画像はAIイラストアプリで作成したものです。再現不足で色彩の一部が作中描写とは異なります。
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
転生『悪役』公爵令嬢はやり直し人生で楽隠居を目指す
RINFAM
ファンタジー
なんの罰ゲームだ、これ!!!!
あああああ!!!
本当ならあと数年で年金ライフが送れたはずなのに!!
そのために国民年金の他に利率のいい個人年金も掛け、さらに少ない給料の中からちまちまと老後の生活費を貯めてきたと言うのに!!!!
一銭も貰えないまま人生終わるだなんて、あんまりです神様仏様あああ!!
かくなる上はこのやり直し転生人生で、前世以上に楽して暮らせる隠居生活を手に入れなければ。
年金受給前に死んでしまった『心は常に18歳』な享年62歳の初老女『成瀬裕子』はある日突然死しファンタジー世界で公爵令嬢に転生!!しかし、数年後に待っていた年金生活を夢見ていた彼女は、やり直し人生で再び若いままでの楽隠居生活を目指すことに。
4コマ漫画版もあります。
課長と私のほのぼの婚
藤谷 郁
恋愛
冬美が結婚したのは十も離れた年上男性。
舘林陽一35歳。
仕事はできるが、ちょっと変わった人と噂される彼は他部署の課長さん。
ひょんなことから交際が始まり、5か月後の秋、気がつけば夫婦になっていた。
※他サイトにも投稿。
※一部写真は写真ACさまよりお借りしています。
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
公爵家の秘密の愛娘
ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝グラント公爵家は王家に仕える名門の家柄。
過去の事情により、今だに独身の当主ダリウス。国王から懇願され、ようやく伯爵未亡人との婚姻を決める。
そんな時、グラント公爵ダリウスの元へと現れたのは1人の少女アンジェラ。
「パパ……私はあなたの娘です」
名乗り出るアンジェラ。
◇
アンジェラが現れたことにより、グラント公爵家は一変。伯爵未亡人との再婚もあやふや。しかも、アンジェラが道中に出逢った人物はまさかの王族。
この時からアンジェラの世界も一変。華やかに色付き出す。
初めはよそよそしいグラント公爵ダリウス(パパ)だが、次第に娘アンジェラを気に掛けるように……。
母娘2代のハッピーライフ&淑女達と貴公子達の恋模様💞
🔶設定などは独自の世界観でご都合主義となります。ハピエン💞
🔶稚拙ながらもHOTランキング(最高20位)に入れて頂き(2025.5.9)、ありがとうございます🙇♀️
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる