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後日談 黛家の妊婦さん3
(181)伝家の宝刀
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前話の続きです。
久し振りに書いたせいか、書き始めてから投稿するまでえらく時間がかかりました(´・ω・`)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
黛が立ち上がり、顔を押さえながら浴室を出て行く。
「大丈夫……?」
「ああ」
その背に心配そうな声を掛ける七海は、意外としっかりした足取りを目にして安堵した。しかし彼が歩いた後の床に自然と視線を落とした所で目を剥いてしまう。
床には点々と赤いシミが続いていた。……まるでホラーだ。
「本当に大丈夫なのかな……?」
七海はドキドキしながら手桶にお湯を掬い、床に残る血を流したのだった。
** ** **
黛に背を預け、ゆっくり湯船に浸かりながら話をしていた。そこで黛が不意に七海に悪戯を仕掛けて来たのだ。驚いた七海の後ろ頭が、黛の鼻を直撃し―――鼻血を噴き出した黛は処置の為に浴室を出る事になったのだった。
自分のことは気にせず風呂でゆっくり温まるように、と厳命した黛の言に従い、ホラーな血の跡をお湯で流した後、七海は浴槽に改めて肩まで浸かる。そしてゆっくりと溜息を吐いた。
付き合う前から付き合い始めの頃に掛けて、七海は黛の傍若無人な振る舞いから逃れるべく、何度か彼の顔面に怒りの頭突きをお見舞いした事がある。黛の行動の根っこに自分に対する好意と愛情があると認識して以来それは久しく封印されてきたのだが、意図せずして『伝家の宝刀』が再び振るわれる事となってしまった。黛の悪戯が過ぎた所為でもあるし、自業自得と言えばそれまでなのだが……流血沙汰になってしまい七海は甚だ申し訳なく感じてしまう。
心配でソワソワするが、医療関係者である当人が『大丈夫』と言っているのだし、今風邪をひいてはそれこそ黛にもお腹の『りゅうちゃん』にも迷惑を掛けてしまう事になる。七海は気持ちを落ち着けてゆっくり温まることにした。しかししっかり温まった後は手早く頭などを洗い、サッサと脱衣室で妊婦用のゆったりとしたストライプ柄のルームウェアに着替える。前開きの産後にも使えるタイプで、ロング丈のトップスに大きなお腹にも対応できるレギンスがセットになっていた。
「お風呂上がったよー」
頭をタオルで包み居間に出ると、黛は黒いタオル地のバスローブを羽織り、顔に手を添えソファで俯いていた。フードを深く被っており、その様子はさながら打ちのめされたばかりのボクサーのようだ。まさか珍しく落ち込んでいるのではないかと心配になった七海は、おずおずと声を掛ける。
「りゅうのすけ、大丈夫……?」
「うん」
鼻を摘まんでいる所為か、モゴモゴとくぐもった返事が返って来た。しかし相変わらず顔は上げないまま、視線を俯かせている。流石に胸が痛い。罪悪感にチクチクと背を押され、七海は彼の隣に腰を下ろして顔を覗き込んだ。鼻血が出たなら、普通は上を向いていた方が良いのではないだろうか……?などと考えながら。
「あの、ティッシュとか取ってくる?それに上、向いた方が良いんじゃない?」
「ん?……ああ。じゃあ、何か冷やす物持って来てくれないか?」
声の調子が普通だったので、ホッとして七海は立ち上がる。どうやら落ち込んでも怒ってもいないようだった。冷凍庫から出した保冷剤を薄いタオルに包んで渡すと「サンキュ」と言って、俯いたまま鼻にそれを当てる。ハラハラと見守っていると暫くして血は止まったようだ。黛が俯かせていた顔を漸く上げる。
七海はその顔を目にしてギョッとして立ち上がる。そして濡らしたタオルを手にして再び戻って来た。鼻の下に流れた血がこびりついていて、まるで暴行事件の後のようだった。
「血、付いてるよ」
「どこ?」
顎を上げて確認するように顔に触れる黛。七海は凄惨な見た目に眉を寄せる。
「ここ!」
そう言って濡れタオルを手に腕を伸ばし、彼の顔に付く血の跡を優しく拭ってあげた。
すると気持ちが良いのか、黛は目を閉じて大人しくされるがままになっている。
まるで子供の世話をしているみたいだなぁ、ねぇりゅうちゃん?などと、七海はそっと心の中でお腹の中の息子に話し掛ける。
「下向いてたから顎にべったり着いてるよ。ティッシュとか詰めて無かったから血が落ちちゃったんだね」
黒いバスローブだから目立たないけれども、この調子じゃバスローブにも染みていることだろう。これはクリーニングじゃなくて、ちゃんと忘れずに部分洗いしないと!などと心の中にメモをする。すると黛が七海の思い違いを指摘するように、ウンチクを語り出した。
「鼻血の処置は下を向くもんだぞ」
「え?そうなの……?」
実は七海は生まれてこのかた、鼻血を出した経験がない。鼻の粘膜が強い家系なのか家族の誰かが鼻血を吹く、なんて所も見掛けたことがない。だから鼻血の処置についてはあまり詳しくなる機会に恵まれ無かった。
しかし幼い頃、人が鼻血を出している所を目にしたことがある。そう、随分昔……忘れていたが、確かその相手は小学校の同級生だ。その子は確か鼻血を出した後、七海が差し出したティッシュを詰め、上を向いて首の後ろをトントンしていた筈だ。
「それな。今じゃ常識は逆だぞ。鼻血を飲み込むと吐くこともあるから下を向くのが普通だ。止血はキーゼルバッハ部位を圧迫して……」
「キーゼ……?」
「キーゼルバッハ。ドイツの解剖学者の名前だ。鼻の入口くらいの所に血管が集まっている所があって、鼻の出血の八割はこの部位からになるらしい」
さっきまで顔を血だらけにして大人しく顔を拭かせていた子供みたいな人間が、急にシャンと背を伸ばし、得意げに話し始める。その様子に少し笑い出しそうになったが、俯く黛より偉そうに胸を張る黛の方が、七海には見慣れている。調子の戻って来た夫に七海はちょっと微笑んで、それからふと疑問を口にした。
「じゃあ、鼻にティッシュ詰めて上を向いて首の後ろをトントンするのは……」
そこまで口にして、その光景が更にくっきり頭に浮かんだ。忘れていた記憶が蘇ったからだ。
七海はしつこく嫌味を言って来る男の子に辟易していた。そしてとうとう堪忍袋の緒が切れ、兄の海人に指導された頭突きを食らわせてやったのだった。滅多に怒ったりしない七海の突然の反撃を、心の準備も無しにもろに顔面で受け止めたその彼は、勢い尻餅をついてボンヤリと目を見開いていた。
地面に座り込んだままポカンとだらしなく開いた男の子の口元に、タラリと赤い血がつたい落ちて来た時、反撃が上手く行き過ぎて同じくボンヤリしていた七海は我に返り、慌ててポケットをまさぐりティッシュを差し出した。
彼はティッシュを受け取ったが、依然としてショックから抜けきれず呆然としたままだ。七海はそのティッシュを奪い返し、小さく千切ったティッシュを鼻に詰めてあげた。すると七海の手当てを受けて男の子は少しずつ落ち着きを取り戻す。
―――だが、暫くしてもなかなか血が止まらない。不安になって半べそをかく男の子に七海は『そうだ!上を向いて首の後ろをトントンしたら良いんじゃない?』と、昔同じクラスの子が鼻血を出した時にやっていた処置を提案した。慌てて実行するも、まだ止まらない。不安になった彼は『おれ、死んじゃうのかな……』などと声を歪ませて泣き出した。血が止まらないと言ってもティッシュに少し着く程度だったので、実際死ぬわけはなかったが七海はえぐえぐ泣く男の子が気の毒になって、打ちひしがれてしゃがみ込む彼の傍に屈みこみ、男の子の背を撫でて励ましてあげたのだった。
それから小一時間ほどした後、漸く泣き止んだ彼の手を引き立ち上がらせ、七海は家まで送って行ったのだった―――。
「止血は圧迫が基本だぞ。それにティッシュで更に傷つける事もあるから、最近はあまりそう言う処置はしない。逆効果じゃないか?」
「なるほど……それで……」
「なんかあったのか?」
「うん、小学校の頃ね。こんな事があって……」
そうして頭に浮かんだ想い出話を口にすると、最初は真面目な顔で耳を傾けていた黛が、次第に目を輝かせて結んでいた口元を歪ませ始めた。七海は不審に思い、夫の顔をのぞき込む。
「どうしたの?変な表情して」
「あ、ああ……何でもない」
黛はキュッと眉を顰めて表情を取り繕い、んん!と咳払いをして顔を上げた。
「で?ソイツはそれからどうなった?」
「それからは……覚えてないなぁ。きっとしつこく絡まれなくなったんだと思うけど―――」
「どうした?」
「そう言えば、よく考えると……私その子に怪我させちゃったんだよね?なのに相手のおウチに謝りに行った記憶がないし、それに相手から責められもしなかったような気がするんだ。だとしたらそのままにしちゃってて、大丈夫だったのかな?」
しつこく揶揄って来たその男の子が悪いのは勿論だが、そもそも話し合いで解決する前に先に手を出した七海が悪かったのでは、と彼女は思ったのだ。自分が親になろうとしている今、改めて考えてみると普通は怪我をさせた同級生の家に親と一緒に謝りに行くのが常識なのではないだろうか……などと考えてしまう。なのにそのまま放置して、何事も無く学校に行っていたと思う、たぶん。
確かにその子は偉そうなことを言って、かなりしつこくて嫌な奴だった……気がする。はっきりとは覚えていないが、徐々にそんな記憶が蘇って来た。となるとそう言う相手だから、怪我をさせられて泣かされた事に一方的に腹を立て、親に泣きついてもおかしくなかったのに……と、七海は思う。彼は何故そうしなかったのだろう?それともそう言う経緯を七海がまるまる忘れてしまっただけなのだろうか?
その疑問を口にすると、ブッと黛は噴き出した。それからケラケラ笑い出したのだ。
「え?何で笑ってるの……?」
「いや、うん。まぁ、何となく想像ついたからな。ソイツの心境に」
笑い過ぎて滲んだ涙を拭いつつ、黛は息を整えて頷いた。
「そう?」
七海にはちっともピンと来ない。そもそも七海は他人にしつこく絡みたい、などと思ったことすらないからだ。
「女に頭突きされて泣かされた……なんて、恥ずかしくて口が裂けても言えなかったんだろ?」
「え……そう?でも小学生だよ?男女の違いとか、そんなに気にするかなぁ」
「まぁ、どっちにしても七海が気にすることじゃない。アイツは人の迷惑なんて気にしないからな。行動で示さないとエスカレートする一方なんだから」
笑いを噛み殺しつつ呟く黛の言葉に、七海は引っ掛かった。
「……『アイツ』……?」
「え?……ああ、『ソイツ』な!まあ、何にせよチョッカイ掛けたソイツが悪いんだから気にするな……!それより、髪乾かせよ。今風邪ひいたら大変だぞ」
「あ、うん。黛君はお風呂どうする?まだ栓抜いてないけど……」
「シャワーにするかな、もう遅いし」
「そう?……じゃ、乾かして来る。お風呂の栓も抜いておくね?」
「頼む」
そう言って黛は七海よりも早く腰を上げ、手を貸し引っぱり上げた。浴室に慎重な足取りで向かう彼女の背を見送りながら、黛は同期の男を思い出す。
「遠野……情けねーなぁ」
職場も離れて最近顔を合わせていない。しかしその内会う機会もあるだろう。その時しつこく絡んで来て面倒になったらこのネタで揶揄って追い払えるな、とニヤリと黛は口元を綻ばせたのだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そう言う黛も相当情けないですが、自分のことは棚上げです(笑)
遠野と七海の過去の因縁(?)については
『後日談 黛家の婚約者』 (35)彼女の特技?
『後日談 黛家の新婚さん1』(41)予防接種
『後日談 黛家の新婚さん2』(49)牽制球
で大まかに把握できると思います。
お読みいただき、誠にありがとうございました!
久し振りに書いたせいか、書き始めてから投稿するまでえらく時間がかかりました(´・ω・`)
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黛が立ち上がり、顔を押さえながら浴室を出て行く。
「大丈夫……?」
「ああ」
その背に心配そうな声を掛ける七海は、意外としっかりした足取りを目にして安堵した。しかし彼が歩いた後の床に自然と視線を落とした所で目を剥いてしまう。
床には点々と赤いシミが続いていた。……まるでホラーだ。
「本当に大丈夫なのかな……?」
七海はドキドキしながら手桶にお湯を掬い、床に残る血を流したのだった。
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黛に背を預け、ゆっくり湯船に浸かりながら話をしていた。そこで黛が不意に七海に悪戯を仕掛けて来たのだ。驚いた七海の後ろ頭が、黛の鼻を直撃し―――鼻血を噴き出した黛は処置の為に浴室を出る事になったのだった。
自分のことは気にせず風呂でゆっくり温まるように、と厳命した黛の言に従い、ホラーな血の跡をお湯で流した後、七海は浴槽に改めて肩まで浸かる。そしてゆっくりと溜息を吐いた。
付き合う前から付き合い始めの頃に掛けて、七海は黛の傍若無人な振る舞いから逃れるべく、何度か彼の顔面に怒りの頭突きをお見舞いした事がある。黛の行動の根っこに自分に対する好意と愛情があると認識して以来それは久しく封印されてきたのだが、意図せずして『伝家の宝刀』が再び振るわれる事となってしまった。黛の悪戯が過ぎた所為でもあるし、自業自得と言えばそれまでなのだが……流血沙汰になってしまい七海は甚だ申し訳なく感じてしまう。
心配でソワソワするが、医療関係者である当人が『大丈夫』と言っているのだし、今風邪をひいてはそれこそ黛にもお腹の『りゅうちゃん』にも迷惑を掛けてしまう事になる。七海は気持ちを落ち着けてゆっくり温まることにした。しかししっかり温まった後は手早く頭などを洗い、サッサと脱衣室で妊婦用のゆったりとしたストライプ柄のルームウェアに着替える。前開きの産後にも使えるタイプで、ロング丈のトップスに大きなお腹にも対応できるレギンスがセットになっていた。
「お風呂上がったよー」
頭をタオルで包み居間に出ると、黛は黒いタオル地のバスローブを羽織り、顔に手を添えソファで俯いていた。フードを深く被っており、その様子はさながら打ちのめされたばかりのボクサーのようだ。まさか珍しく落ち込んでいるのではないかと心配になった七海は、おずおずと声を掛ける。
「りゅうのすけ、大丈夫……?」
「うん」
鼻を摘まんでいる所為か、モゴモゴとくぐもった返事が返って来た。しかし相変わらず顔は上げないまま、視線を俯かせている。流石に胸が痛い。罪悪感にチクチクと背を押され、七海は彼の隣に腰を下ろして顔を覗き込んだ。鼻血が出たなら、普通は上を向いていた方が良いのではないだろうか……?などと考えながら。
「あの、ティッシュとか取ってくる?それに上、向いた方が良いんじゃない?」
「ん?……ああ。じゃあ、何か冷やす物持って来てくれないか?」
声の調子が普通だったので、ホッとして七海は立ち上がる。どうやら落ち込んでも怒ってもいないようだった。冷凍庫から出した保冷剤を薄いタオルに包んで渡すと「サンキュ」と言って、俯いたまま鼻にそれを当てる。ハラハラと見守っていると暫くして血は止まったようだ。黛が俯かせていた顔を漸く上げる。
七海はその顔を目にしてギョッとして立ち上がる。そして濡らしたタオルを手にして再び戻って来た。鼻の下に流れた血がこびりついていて、まるで暴行事件の後のようだった。
「血、付いてるよ」
「どこ?」
顎を上げて確認するように顔に触れる黛。七海は凄惨な見た目に眉を寄せる。
「ここ!」
そう言って濡れタオルを手に腕を伸ばし、彼の顔に付く血の跡を優しく拭ってあげた。
すると気持ちが良いのか、黛は目を閉じて大人しくされるがままになっている。
まるで子供の世話をしているみたいだなぁ、ねぇりゅうちゃん?などと、七海はそっと心の中でお腹の中の息子に話し掛ける。
「下向いてたから顎にべったり着いてるよ。ティッシュとか詰めて無かったから血が落ちちゃったんだね」
黒いバスローブだから目立たないけれども、この調子じゃバスローブにも染みていることだろう。これはクリーニングじゃなくて、ちゃんと忘れずに部分洗いしないと!などと心の中にメモをする。すると黛が七海の思い違いを指摘するように、ウンチクを語り出した。
「鼻血の処置は下を向くもんだぞ」
「え?そうなの……?」
実は七海は生まれてこのかた、鼻血を出した経験がない。鼻の粘膜が強い家系なのか家族の誰かが鼻血を吹く、なんて所も見掛けたことがない。だから鼻血の処置についてはあまり詳しくなる機会に恵まれ無かった。
しかし幼い頃、人が鼻血を出している所を目にしたことがある。そう、随分昔……忘れていたが、確かその相手は小学校の同級生だ。その子は確か鼻血を出した後、七海が差し出したティッシュを詰め、上を向いて首の後ろをトントンしていた筈だ。
「それな。今じゃ常識は逆だぞ。鼻血を飲み込むと吐くこともあるから下を向くのが普通だ。止血はキーゼルバッハ部位を圧迫して……」
「キーゼ……?」
「キーゼルバッハ。ドイツの解剖学者の名前だ。鼻の入口くらいの所に血管が集まっている所があって、鼻の出血の八割はこの部位からになるらしい」
さっきまで顔を血だらけにして大人しく顔を拭かせていた子供みたいな人間が、急にシャンと背を伸ばし、得意げに話し始める。その様子に少し笑い出しそうになったが、俯く黛より偉そうに胸を張る黛の方が、七海には見慣れている。調子の戻って来た夫に七海はちょっと微笑んで、それからふと疑問を口にした。
「じゃあ、鼻にティッシュ詰めて上を向いて首の後ろをトントンするのは……」
そこまで口にして、その光景が更にくっきり頭に浮かんだ。忘れていた記憶が蘇ったからだ。
七海はしつこく嫌味を言って来る男の子に辟易していた。そしてとうとう堪忍袋の緒が切れ、兄の海人に指導された頭突きを食らわせてやったのだった。滅多に怒ったりしない七海の突然の反撃を、心の準備も無しにもろに顔面で受け止めたその彼は、勢い尻餅をついてボンヤリと目を見開いていた。
地面に座り込んだままポカンとだらしなく開いた男の子の口元に、タラリと赤い血がつたい落ちて来た時、反撃が上手く行き過ぎて同じくボンヤリしていた七海は我に返り、慌ててポケットをまさぐりティッシュを差し出した。
彼はティッシュを受け取ったが、依然としてショックから抜けきれず呆然としたままだ。七海はそのティッシュを奪い返し、小さく千切ったティッシュを鼻に詰めてあげた。すると七海の手当てを受けて男の子は少しずつ落ち着きを取り戻す。
―――だが、暫くしてもなかなか血が止まらない。不安になって半べそをかく男の子に七海は『そうだ!上を向いて首の後ろをトントンしたら良いんじゃない?』と、昔同じクラスの子が鼻血を出した時にやっていた処置を提案した。慌てて実行するも、まだ止まらない。不安になった彼は『おれ、死んじゃうのかな……』などと声を歪ませて泣き出した。血が止まらないと言ってもティッシュに少し着く程度だったので、実際死ぬわけはなかったが七海はえぐえぐ泣く男の子が気の毒になって、打ちひしがれてしゃがみ込む彼の傍に屈みこみ、男の子の背を撫でて励ましてあげたのだった。
それから小一時間ほどした後、漸く泣き止んだ彼の手を引き立ち上がらせ、七海は家まで送って行ったのだった―――。
「止血は圧迫が基本だぞ。それにティッシュで更に傷つける事もあるから、最近はあまりそう言う処置はしない。逆効果じゃないか?」
「なるほど……それで……」
「なんかあったのか?」
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「で?ソイツはそれからどうなった?」
「それからは……覚えてないなぁ。きっとしつこく絡まれなくなったんだと思うけど―――」
「どうした?」
「そう言えば、よく考えると……私その子に怪我させちゃったんだよね?なのに相手のおウチに謝りに行った記憶がないし、それに相手から責められもしなかったような気がするんだ。だとしたらそのままにしちゃってて、大丈夫だったのかな?」
しつこく揶揄って来たその男の子が悪いのは勿論だが、そもそも話し合いで解決する前に先に手を出した七海が悪かったのでは、と彼女は思ったのだ。自分が親になろうとしている今、改めて考えてみると普通は怪我をさせた同級生の家に親と一緒に謝りに行くのが常識なのではないだろうか……などと考えてしまう。なのにそのまま放置して、何事も無く学校に行っていたと思う、たぶん。
確かにその子は偉そうなことを言って、かなりしつこくて嫌な奴だった……気がする。はっきりとは覚えていないが、徐々にそんな記憶が蘇って来た。となるとそう言う相手だから、怪我をさせられて泣かされた事に一方的に腹を立て、親に泣きついてもおかしくなかったのに……と、七海は思う。彼は何故そうしなかったのだろう?それともそう言う経緯を七海がまるまる忘れてしまっただけなのだろうか?
その疑問を口にすると、ブッと黛は噴き出した。それからケラケラ笑い出したのだ。
「え?何で笑ってるの……?」
「いや、うん。まぁ、何となく想像ついたからな。ソイツの心境に」
笑い過ぎて滲んだ涙を拭いつつ、黛は息を整えて頷いた。
「そう?」
七海にはちっともピンと来ない。そもそも七海は他人にしつこく絡みたい、などと思ったことすらないからだ。
「女に頭突きされて泣かされた……なんて、恥ずかしくて口が裂けても言えなかったんだろ?」
「え……そう?でも小学生だよ?男女の違いとか、そんなに気にするかなぁ」
「まぁ、どっちにしても七海が気にすることじゃない。アイツは人の迷惑なんて気にしないからな。行動で示さないとエスカレートする一方なんだから」
笑いを噛み殺しつつ呟く黛の言葉に、七海は引っ掛かった。
「……『アイツ』……?」
「え?……ああ、『ソイツ』な!まあ、何にせよチョッカイ掛けたソイツが悪いんだから気にするな……!それより、髪乾かせよ。今風邪ひいたら大変だぞ」
「あ、うん。黛君はお風呂どうする?まだ栓抜いてないけど……」
「シャワーにするかな、もう遅いし」
「そう?……じゃ、乾かして来る。お風呂の栓も抜いておくね?」
「頼む」
そう言って黛は七海よりも早く腰を上げ、手を貸し引っぱり上げた。浴室に慎重な足取りで向かう彼女の背を見送りながら、黛は同期の男を思い出す。
「遠野……情けねーなぁ」
職場も離れて最近顔を合わせていない。しかしその内会う機会もあるだろう。その時しつこく絡んで来て面倒になったらこのネタで揶揄って追い払えるな、とニヤリと黛は口元を綻ばせたのだった。
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そう言う黛も相当情けないですが、自分のことは棚上げです(笑)
遠野と七海の過去の因縁(?)については
『後日談 黛家の婚約者』 (35)彼女の特技?
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で大まかに把握できると思います。
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