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2話『セレーネの記憶』
しおりを挟む原作小説には、セレーネの情景描写はほとんどなかった。
雨の音が気になって眠れない私は、その彼女の記憶をそっと辿る。
――初めての夜会で、彼女はレオニスに一目惚れした。
優雅に微笑むその姿に、胸の奥を掴まれるようにして。
けれど、その想いは一度、レオニスの結婚によって儚く散った。
それでも彼が「愛している」と名指して彼女を選んでくれたとき、セレーネはこの上ない幸福に震えたのだ。
だからこそ、彼女は舞い上がった。
しかしレオニスからの愛を一切感じれず不安から束縛は強くなり、
リディアが再びレオニスの前に現れた夜には、絶望のような怒りが込み上げた。
そして、レオニスとリディアが愛を確かめ合うように惹きあうたびに、リディアは更に破滅へと向かう行動に出た。
そして、処刑された。
自業自得といえばそれまでの事。
セレーネには申し訳ないけど、私はその破滅のエンディングは御免だ。
そして、小説では知り得なかった詳細を、私は今知る。
セレーネの中にある記憶。
それは、まだレオニスとリディアが夫婦だった頃のもの。
「そんなにレオニスが好きなら、協力してやろうか?」
悪魔の囁き。
曲がった憎愛。
主人公達の愛の物語の裏には、黒い愛が2つあった。
それは、ーー。
物語を整理して没頭していた、その瞬間。
背後から、そっと温もりが触れる。
スルリと腕がまわり、私の身体を包み込んだ。
「……さっきから、独り言がうるさくて眠れない」
低く掠れた声が、耳のすぐそばで落ちる。
熱を帯びた吐息が首筋をかすめ、思わず肩が震えた。
「ご、ごめんなさ——」
謝るより早く、彼の腕が寝具の中へと忍び込み、指先がゆっくりと私の肌をなぞる。
「ちょ、ちょっと……」
「眠れないなら——眠れるようにしてやる」
その囁きが、甘く、熱を持って溶けていった。
彼の指が動くたび、シーツの上で小さな息が弾んだ。
触れているのはほんの腕の一部——それだけなのに、体の奥がじんわりと熱を帯びていく。
「急に“愛さない”だの、“今日はいい”だの。……どういう風の吹き回しだ?」
「そ、それは」
セレーネとしての記憶が胸の奥でざわめいた。
いつも義務のように私の相手をしていたはずの彼は、
今、目の前にいるこのレオニスとはまるで別人のように見える。
「あなたに迷惑かと思って……」
「毎晩せがんでまたがって来てうんざりだったよ」
そう言って、彼の指先が私の胸を包み込んだ。
「あっ——!」
くすりと笑う気配。
その笑みが、夜の闇よりも甘く、静かに肌へと落ちていく。
「……まあ、たまにはこういうのも悪くない」
低
く囁かれた声が、胸の奥で溶けていった。
レオニスの舌先が、私の首筋をなぞった。
冷たいのに、なぜか火傷のように熱い。
その感触に、悪寒と快感が入り混じって、身体の芯が震える。
「……本当に、もうこういうことは」
吐息に紛れ、言葉が掠れる。
けれど、彼の笑みがそれを許さなかった。
「俺が要らぬと言っても、いつも執拗に求めてくるのは――お前の方だろう」
低く、喉の奥で響く声。
その一言が、心臓を鷲掴みにする。
記憶の中で、レオニスを口に含むセレーネの記憶がフラッシュバックする。
その熱が、まるで自分の中にも流れ込んでくるようで、息が詰まる。
――自分を愛さない男が、毎晩彼女の中で果てる。
その矛盾と痛み、渇望と屈辱。
その複雑な感情が、この世界に来るまでの私の過去とシンクロした。
あれは、この世界に飛ばされる前の事。
三十路前、29歳の誕生日の前日。6年間付き合った彼がよりによって通話で別れ話をしてきた。
「ごめん、別れて欲しい」
雨の音が、スマホ越しの沈黙をさらに重くした。
彼の声は、静かで、どこまでも優しかった。
『仕事が忙しくて』『すれ違って』――
そんなありきたりの理由を並べながら、彼は一度も“心変わり”という言葉を口にしなかった。
でも、私は彼が浮気をしていた事を知っていた。
なのに、彼を責めるよりも先に、自分のどこが悪かったのかを探してしまう。
子どもの頃からずっとそうだった。
「人に期待されるように」「失望されないように」
いつだって“良い子”で、“理解ある女”でいることが、
正解だと思っていたからだ。
だから、浮気をされたレオニスには、同情した。
愛した人に裏切られる痛みを、私は知っている。
そして――愛されることはないとわかっていながらもレオニスを追い続けたセレーネには、私には到底できなかった“行動する勇気”があった。
理性では愚かだと思う。
私も泣いて愛にすがることができたなら――その結果はどうあれ消化不良を起こさずに納得が出来たのかもしれない。
セレーネのその愚かささえ、どこか眩しくて、
私は知らぬ間に、彼女に羨望を抱いていたのは事実だ。
だがこれとそれとは話が別である。
「レオニス、やめて」
「俺もそう何度も言っただろう?」
初夜のセレーネの記憶が脳裏に流れ込んでくる。
冷たい夫が、唯一自分のものになったと錯覚できるのはベッドの中だけだった。
嫌がるレオニスは言葉では拒絶するものの、セレーネの身体には抗えなかった。
そのレオニスの反応に悦び何度も頬張るセレーネの痴女まがいの行動がこと細かに脳裏に浮かぶ。
頭痛い……。
小説にはそこまで書いてなかったから、これはリアルすぎてキツすぎる。
行動力があるにもほどがあるって!
「いっ、今までのことはナシで!!」
咄嗟にそう言ってレオニスを押しのける。
「心配しなくても、リディアはあなたの元に戻って来ますから!」
私がそう言うと、レオニスは眉間に皺を寄せた。
「とんだ嫌がらせだな、その名前を出すとは」
低く押し殺した声。
レオニスの瞳が、群青の夜明けのように揺らいでいた。
「……嫌がらせなんて、そんなつもりじゃ」
言い訳を探すより早く、彼の手が私の肩を掴む。
その力は、まるで理性を振り払うようだった。
「お前で憂さ晴らしするのは悪くはないからな」
息が詰まる距離。
彼の瞳の奥には怒りと後悔が混ざり、何かを確かめるように私を見つめていた。
――これは憎しみでも、愛でもない。ただ、心を乱す痛みの衝動。
「やめて」と言葉にしたはずなのに、声が震えて掠れた。
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