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6話『夜の食卓』
しおりを挟む大広間の扉を開けた瞬間、違和感。
いつもなら、甘ったるい香水と宝石の光が先に部屋を満たしていた。
だが、食欲を邪魔する不快な香りがしない。
そして向かい側に腰掛ける彼女は、まるで別人のような装いをしていた。
薄い生成りのドレス。
光を吸い込むような柔らかい布地に、飾りはほとんどない。
髪も高く巻き上げず、肩に流れるだけ。
(……誰だ、これは)
一瞬、本気でそう思った。
見慣れたはずの姿なのに、胸の奥がざわつく。
これまでのセレーネにあった「豪華な艶やかさ」が、そこにはなかった。
彼女は黙ったまま、侍女が差し出したスープを静かに口に運ぶ。
仕草は丁寧で、穏やかで、そして――不思議なほど美しかった。
沈黙が続く。
堪えきれず、俺は口を開いた。
「……随分と、雰囲気が違うな」
「そうですか?」
彼女は首をかしげ、柔らかく微笑んだ。
「ただ、少し息がしやすくなりました」
「息が……しやすく?」
「ええ。息苦しい服や香りばかりじゃ、心まで窮屈になるでしょう?」
その言葉に、一瞬だけ胸の奥が熱くなる。
どこかで聞いたことがあるような、しかしセレーネの口からは決して出ないはずの台詞。
「……誰にそんなことを教わった?」
「誰に?ただそう思っただけです」
軽やかに答えて、彼女は再び食事に戻る。
その横顔に灯る静かな光を、俺はしばらく見つめていた。
(……まるで、別の人間だ)
そう思いながらも、視線を逸らすことができなかった。
夜食後。
蝋燭の火がゆらめき、机の上の文書を淡く照らしている。
目を通すふりをして、もう三度は同じ行を読み返した。
……まったく、頭に入らない。
時折、廊下を通る足音に耳を傾けては、息を止める。
だが、その音は侍女や、警備の兵で――彼女ではない。
(遅いな)
セレーネは、いつもなら夜更け前に寝室へ来る。
それをうんざりしながらも受け入れるのが、ここ最近の“習慣”でもある。
なのに、今夜に限って現れる気配がない。
寝室を分けたがっていだが、突然どうしてそんな事を言い出したのか?
時計の針が何度も一周し、蝋燭が半分ほどに溶け落ちたころ、俺は本を閉じた。
(……まさか体調でも崩したのか?)
いや。
あの女のことだ。機嫌を損ねて拗ねているのかもしれない。
――それなら、それで構わない。
構わない……はずなのに、
胸の奥がざわつく。
「……くそ」
椅子を乱暴に引き、立ち上がる。
湯浴みは随分と前に済み、身体は湯冷めしているはずだというのに、やけに体が熱い。
自室を出て、長い廊下を進む。
セレーネの部屋に居るのかと思い尋ねるが人気はない。
「どこへ行った……」
思わず声が出る。
誰もいない廊下に、その声が虚しく響いた。
一瞬、脳裏に最悪の想像が過ぎる。
まさか、逃げたのか?
いや、そんなことになれば――侯爵家との契約も、援助も、すべてが終わる。
(……それは困る。太公家のためだ。仕方ない、探すしか――)
――そう、自分に言い聞かせながら、足が自然と速くなっていた。
なぜこんなにも息が荒いのか、自分でもわからない。
ただ、セレーネの顔を見ないと落ち着かなかった。
回廊の角を曲がったところで、かすかな笑い声が耳に届いた。
女の声――しかも、聞き慣れた声。
(……セレーネ?)
足が止まる。
扉の隙間から、灯りが洩れていた。
ここは、侍女の部屋。
まさか、と思いながら耳を澄ませると、柔らかい調子で侍女に話しかけるセレーネの声が確かに聞こえた。
「今日はありがとう。本当に助かったわ」
「い、いえ!奥さまがそんな……!」
笑い合う二人の声。
それだけで、胸の奥に溜まっていた緊張がふっとほどけていく。
安堵。
だが、同時に、説明のつかない苛立ちも込み上げてきた。
(なんだ……屋敷にいるならそれでいい)
思わず頭をかく。
息を吐き出し、心を鎮めようとする。
だが、どうにも落ち着かない。
扉の向こうで、彼女が穏やかに笑っている――その事実が、どうしようもなく癪に障った。
(……寝室にも来ないで、こんなところで何をしているんだ)
無意識に、扉をノックしていた。
「セレーネ、いるのか?」
一瞬で、部屋の中の声が止まった。
静寂。
やがて、少し慌てたような返事が返ってくる。
「――レオニス……様?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥に火が灯ったようだった。
俺は扉を少し開くと、中の様子をみたあと言った。
「どうして、こんなところにいる」
自分でも驚くほど低く、掠れた声。
彼女は侍女の影から顔を出し、少し困ったように微笑んだ。
「……眠れなくて。少し、話をしていたの」
「侍女と、か?」
「ええ」
その一言に、言葉が詰まる。
怒る理由もないのに、怒りが込み上げてくる。
そして、衝動的に部屋の中へ入る。
「勝手な真似をするな。……次からは、俺に言え」
言いながら、彼女の手首を軽く掴んだ。
体温が伝わる。
息が詰まる。
「わかったか」
「……はい」
それだけ言わせて、ようやく手を放した。
去ろうとした瞬間、胸の中で苦笑がこぼれる。
(……何をやってるんだ、俺は)
寝室へ戻ろうとしたのに、セレーネは侍女の部屋から動こうとしなかった。
「……何をしている?」
問いかけても、彼女は目を泳がせるだけだ。
「え、あー……今日はここで……寝ようかなーって」
「ここで? こんな狭いところで? なぜだ」
自分でも、声が少し強くなったのがわかった。
彼女の言動が読めない。昨夜からずっとそうだ。
「……奥様……」
侍女がセレーネの顔色を伺う。
「ごめんね、また今度……」
今度? 今度とは何だ。
言いたいことを濁したまま、セレーネは視線を伏せた。
回廊に、二人の足音だけが響く。
彼女は一歩あとをゆっくりとついてくる。
その歩調があまりにも遅いのが気になって、歩調をゆるめた。
「……どこか悪いのか?」
「い、いえ! そんなことは!」
慌てて否定するセレーネの声が裏返っている。
その様子に、思わず眉をひそめた。
「歩くのがつらいのか?」
「えっ!? ち、違います!」
焦りようがあまりに露骨で、つい口元が緩む。
「そんなにゆっくりなら、手を貸そうか?」
「とっ、とんでもないっ!! 全然走れます!!!」
半ば叫ぶような返答に、堪えきれず笑いがこみ上げた。
部屋に戻っても、セレーネはなかなかベッドに近づこうとしなかった。
扉を閉めても、視線を合わせない。
そしてそのままソファの前に立ち、静かに言った。
「……私、今日はここで寝ます」
その一言に、思考が止まった。
「……は?」
振り返ると、彼女は目を逸らしたまま小さく首をすくめる。
「少し、落ち着かなくて。ベッドより、ソファのほうが……」
「何故だ」
声が荒く出た。
自分でも驚くほど低い。
気づけば、彼女の腕を掴んでいた。
「ベッドでいいだろう?」
「でも――」
言い訳を聞く前に、彼女の身体を抱きかかえていた。
軽い。思っていたよりもずっと。
「放してください!」
ベッドの上にそっと降ろすと、彼女は慌てて毛布を引き寄せ、隅へ逃げるように身を寄せた。
「何を企んでいる?」
「た、企むだなんて」
「……では、どうして逃げる」
問いながら、思わず手を伸ばす。
肩に触れた指先に、微かな震え。
薄衣を掴み、無意識に布地をずらした瞬間――息が詰まった。
白い肌の上に、無数の紅。
自分の残した痕だった。
言葉が出ない。
胸の奥が、鈍く疼いた。
セレーネは唇を噛み、視線を落とす。
「……今日は、もう……したくありません」
静かに、はっきりと。
セレーネはそう言った。
頭の中が真っ白になる。
彼女の身体に刻まれたものを見れば見るほど、自分が昨夜何をしたのかを痛いほど突きつけられる。
「……そうか、では俺が向こうで寝よう」
「そっ、そんな、殿下にソファーでだなんて!私が寝ますからっ!!」
セレーネは勢いよくベッドから降りると、ソファーを陣取った。
「こっ、ここは譲りません!!」
だが、それは空元気のようにも見えて、俺はセレーネを尊重してベッドへと上がった。
*
暗闇の中、天井を見上げていた。
寝返りを打つたび、隣の枕が沈まないことに気づく。
そこに本来いるはずの人間が、今夜はいない。
(……くだらない)
そう吐き捨てるように呟いたが、胸の奥のざわめきは消えない。
彼女が言った――「今日はもうしたくない」。
たった一言。
それだけのことに、なぜこれほど心が乱れるのか。
昨日まで、セレーネを心で拒絶し、1人の夜を望んでいたのは俺のほうではないか。
“あれだけ印をつけたのだ、当然だ”
“何より、愛してなどいない”
そう言い聞かせても、
頭の片隅では何度も、セレーネの震える声と伏せた睫毛が蘇る。
――そんなに嫌なのか?
――違う、怯えていたのか?
どちらでも構わないはずなのに、
確かめたいという衝動が喉元までせり上がってくる。
(……馬鹿げてる)
起き上がり、寝間着の襟を引き絞った。
暖炉の火はすでに落ち、部屋はひどく冷えている。
その冷たさが、今の自分にはちょうどいい。
(俺が……あんなふうに)
昨夜の夜伽を思い出すたび、胸が痛む。
衝動のままに抱き、その結果、彼女に“恐れられた”のかもしれない。
「……いや、違う」
声に出して否定した。
だが、その否定は空っぽだった。
蝋燭を灯し直す。
小さな炎が、影を揺らす。
ふと、あの夜――リディアが泣きながら謝った姿が頭を過った。
「ごめんなさい、レオ……」
あのときも、何も言えなかった。
そして、今も同じだ。
俺には女の心を読み解く能力がない。
(俺は何も変わっていない)
夜の静寂が、やけに耳に痛い。
――セレーネが、なぜ今になって“拒んだ”のか。
――なぜ、今まで見せなかった顔を見せるのか。
どうにも落ち着かず、ソファーで眠るセレーネの側に立つ。
月の残光が、薄いカーテンを透かして床に落ちている。
静まり返った室内。
――ソファの上。
膝を抱えて眠る小さな影。
薄いショールを肩にかけ、丸くなっていた。
近づくと、静かな寝息が聞こえる。
頬に一筋、髪がかかっているのを、無意識のうちに指で払った。
(……こんな顔を、していたのか)
俺の知る強気な彼女とはまるで違う。
幼く、無防備で、どこか痛々しい。
触れてはいけない――そう思いながらも、
手が勝手に動いた。
気づけば、彼女の身体をそっと抱き上げていた。
身体は冷え切っていた。
そして、あまりにも軽い。
豊満な身体からは想像できず、息をのむほどに、細い。
まるで、この腕の中で消えてしまいそうだった。
布団をめくり、静かに彼女を寝かせる。
その瞬間、セレーネが小さく身じろぎし、無意識に俺の袖を掴んだ。
「……やめて……」
寝言のように、かすれた声。
胸が、ぎゅっと痛んだ。
「……誰が、何をやめるんだ」
囁くように呟いたが、返事はない。
ただ、その細い手が、まだ離れない。
そっと指を外し、布団の上からその手を包み込む。
「……安心しろ。もう何もしない」
それを聞いたのかどうか、セレーネの呼吸が穏やかになる。
少しだけ微笑んだように見えて、胸が締めつけられた。
(……馬鹿だな)
小さく笑い、自分の額を指で押さえた。
彼女の体温が愛おしく感じることが、いちばんの屈辱だった。
俺はソファに戻り、背凭れに体を預ける。
眠気など来るはずもない。
ただ、朝の光がカーテンの隙間から差し込むまで、
俺は静かに天を仰ぎ見つめ続けていた。
朝の光が差し込む寝室。
カーテンの隙間からこぼれる陽の粒が、白い寝具の上で静かに揺れる。
ベッドの上では、セレーネが穏やかに眠っていた。
ふわりと髪がほどけ、昨日よりもずっと柔らかな表情をしている。
俺は、全く眠れなかった。
朝食の準備が整ったのか、侍女達がやってきた。
「……え、えっ!?……殿下……まさかソファーで!?」
二人が顔を見合わせ、恐る恐る視線を向ける。
寝乱れた髪、外套を掛けたまま、ソファで項垂れていた俺を見て驚いた顔をしている。
「……っ、奥様っ……!?」
あまりの衝撃に、声をひそめるのも忘れる侍女たち。
その瞬間、セレーネが微かに身じろぎした。
「ん……」
眠たげな声。
目を開けたセレーネは、周囲の空気の異様さに気づき、寝ぼけ眼で侍女を見る。
「おはよう……どうしたの、朝からそんな大声で」
「い、いえっ! その……殿下が……っ」
「殿下?」
セレーネが上体を起こした瞬間――視界の先、ソファに横たわる俺を見る。
「……えっっっ!?な、なんで!?!?」
「……うるさい」
*S*
「うるさい」
低く掠れたレオニスの声。
「どうしてそこで?」
「……ベッドが暑かったからだ」
そんなことを言う彼に、私も侍女たちも一瞬固まる。
……数秒の沈黙。
「……し、失礼いたします!!」
侍女たちは、見事な速さで部屋を飛び出していった。
「……なんでソファで寝てたんですか」
「……二度も言わせるな」
そう言って、レオニスは立ち上がる。
寝癖のついた髪のまま、無言でカーテンを開け放った。
窓の外から差し込む光の中、私は考えた。
――もしかして、この人、昨夜ずっと起きてたんじゃ……。
レオニスは、軽く肩を回しながら無言で外套を整えた。
「……今夜は」
「え?」
唖然としていた私の方を向くと、レオニスが言った。
「今夜は宮廷夜会がある。おまえも同席するように」
「宮廷夜会?私が?」
「当然だろう。太公夫人だ」
その声は低く、冷静で、いつもの彼だ。
「……承知しました!」
レオニスは一瞬だけ私を見たが、何も言わずに視線を逸らした。
「急務がある。また夜に」
短くそれだけ言って、部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに静かに響いた。
残された私は、ぽかんと口を開けたまま数秒固まる。
レオニスが去ったあと、扉の向こうの静けさを確かめてから、私は勢いよくベッドの上で跳ねた。
「……宮廷夜会って言った? 今夜の夜会って、まさか……!」
脳内で、泥沼小説のストーリーが一気に再生される。
セレーネ壊れる→夫婦仲最悪→夜会でリディア登場 → 運命の再会 → 未練タラタラが再熱→ の、この一大イベントの、夜会!?
(そうそう!この日だ、絶対今日ーー!!)
両手で頬をパチンと叩く。
「やったあああ!!」
思わずベッドの上で正座する。
脳内では歓喜のファンファーレが鳴り響いていた。
「解放されるーーー!!」
バサァッと布団をはねのけ、ぐるぐる部屋を歩き回る。
「だってこの日からレオニスは、リディアに未練爆発して、セレーネとは寝室別にするんだもん!!!」
(そうよ、これで無駄に夜伽で悩まされることから解放!!)
両手を天に掲げて、
「ひとりの夜、ばんざーい!!!」
私は全身で喜びを表現した。
だがそのすぐあと、ぴたりと動きを止める。
「……いや、待てよ?」
目を細め、眉間にしわを寄せた。
喜びの舞を止めた私の笑顔が、すぅっと引いていく。
「リディアが来るってことは……」
背筋に冷たいものが走る。
脳裏に、男の低い声が蘇った。
――『彼女を落とすのは簡単だ』
「……てことは、夫のカインも来る、よね?」
その名前を口にした瞬間、頭の奥がズキンと痛んだ。
映像のように、記憶がぶり返す。
シャンデリアの灯が揺れる応接間。
長い黒髪に薄笑いを浮かべた男―― カイン・ド・レファード。
彼がワインのグラスを傾けながら、甘い声でセレーネに囁いたあの夜。
――『君の望みは何でも叶えよう』
セレーネは、その言葉に頷いた。
レオニスに愛されたい一心で。
愛を得るためなら、他人を踏み躙ることを何とも思っていなかった。
(……そうだ、あのときのセレーネは……)
カインの好意を利用した。
……そもそもリディアとレオニスを引き裂いた元凶はカインじゃない。
カインを使って、セレーネが2人を陥れた。
胸の奥が冷えていく。
セレーネは“ただの悪女”ではなく、完全な黒幕。
「はぁ……」
あの泥沼小説の“悪役”が自分だと言う事を改めて思い知らされる。
いやでもやったのは私じゃないし!!
何としてでもこの償いは、2人の恋の成就のお手伝いでお許しください!!
もう邪魔はしません!
「あーでも、不安すぎる!」
思わず立ち上がる。
半ばパニック状態。
「どうしよう……何も起きませんように!!」
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