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37話『石礫の街』
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テーブルの上には、湯気の立つ白粥、香草の香りが立ち上る湖魚のソテー、フワフワのハーブ卵――
エルバーン領の朝の恵みがずらりと並んでいた。
……のに。
私は、匙を握ったまま無言だった。
怒りで頬がぷくっと膨れる。
横を見ると、レオニスが落ち着いた手つきで湖魚を口に運んでいた。
皮目がぱりっ、と鳴るたび、なんだか余計に腹が立つ。
「……食べないのか?」
静かに呟く声がやけに穏やかで、さらにむかつく。
なんでそんなご機嫌なわけ?
私は、レオニスを無視して銀白粥をそっと一口口に入れた。
粒がとろけるように甘い。
山羊乳チーズのせも、信じられないくらい美味しい。
……っ。美味しい……
「セレーネ」
ふいに名前を呼ばれ、びくっと肩が跳ねた。
「……はい」
「食欲がないのか?」
私は一瞬で顔を逸らした。
「……普通です」
そうじゃない。怒ってるのよ見てわからない?
でも怒ってる理由が言えない!
レオニスは私の反応がおかしいと感じたのか、わずかに眉を寄せた。
「……具合が悪いなら無理をしなくて……」
「……そんなんじゃありません」
気持ちを落ち着かせようと湧水茶を一口含むと、喉をやさしく通っていき、思わずため息がこぼれた。
「……はぁ……」
美味しい……。
レオニスの視線は私に向けらたままだ。
でも怒ってるから目は合わせない!!!
私はベリーのヨーグルトへ手を伸ばしながら、不機嫌オーラを全身から発した。
レオニスはその空気がわからないのか、
「……よく眠れたのではなかったのか?」
「ね、寝ました。ぐっすり」
「ならば機嫌も良くなるはずだが」
……!?
その原因はあなたでしょうがーーーー!!
叫び出しそうな声を飲み込むと、喉がきゅっと鳴った。
その私の反応に、レオニスはゆっくりと湖魚を皿に置き、
「……口に出して言ってくれないとわからない」
静かにそう言った。
そんなやり取りをしている時だった。
コン、コン。
控えめなノックが響き、執事グレイが姿を現した。
「大公様。——至急、文官よりお呼び出しが」
その瞬間、レオニスの眉がわずかに動く。
「内容は」
「水害地区の土木管理所から、早急の確認事項があるとのことです」
レオニスは短く息をつき、席を立った。
「……すぐ向かう」
私は一瞬、レオニスを見る。
彼もまた、こちらへ視線を寄越した。
「セレーネ」
「……はい?」
「少し遅れるが、視察の前に戻る」
「かしこまりました」
私は他人行儀にそう返事した。
「出かけるならグレイをつける。危険な場所にはいかないように」
「わかりました」
私は胸の奥でほっとする。
引っ込みのつかなかったこの空気から解放される。
「では、行ってくる」
レオニスは外套を翻し、廊下へと消えていった。
広い食堂に、静寂が落ちる。
そして。
「……奥さま、どうかなさいましたか?」
グレイのその言葉に「いえ?寝室が同じでとても気分が良くなかっただけですけど?」と、嫌味を告げる。
「咲夜あんなに仲睦まじくなされていたのに一体」
「どおおおおこおおおおがああああ」
私の勢いにグレイがたじろぐ。
「本当もう絶対二度と一緒にしないで」
このままでいいなんて流されそうになっていた自分に反省をする。
よくない、絶対!!
子供みたいな悪戯して、あんなっ、あんな朝っぱらから!!
絶対許さないんだから、あの変態大公!!
「奥様……」
「出かけるわ、グレイ案内して」
「ど、とちらへ……?」
「観光よ!!」
*
街道沿いの整った景色を抜け、古い橋を渡ると——空気の質が、急に変わった。
湿った木の匂い。
土と水が混ざったような重たい風。
時々、崩れた家屋の破片が道端に積まれている。
昨夜見た幻想的な“景観の良い湖畔”とは、全く違う。
「……これは……?」
「湖周りの外区は、今回もっとも被害が大きかった場所です」
グレイの低い声が、妙に静かに響く。
歩みを進めるにつれ、胸がざわついた。
軒先の骨組みがむき出しの家。
壁が崩れ、冷たい風が吹き抜けている。
小さな子どもが裸足でぬかるんだ土の上を歩いていた。
ち、ちょっと待って。
——痩せすぎている。
——頬がこけている。
——服が濡れたまま乾いていない。
その光景に胸が痛む。
屋敷前の美しい湖のきらめきとは正反対の光景が目の前に広がっている。
「グレイ……いつからこの状態で……?」
「水害前からこの領地は疲弊していましたが……今回更に追い討ちをかけたようで……そもそもこの領地は貧困で人手がたりていないのです。
今回の水害で住民たちは自宅も直せず……食料も、ぎりぎりだと」
「……っ」
心臓がぎゅっと締めつけられた。
たしかに主街道側は復旧していた。
けれど、実情は……こんなにも深刻だなんて。
どこから幼い声が漏れてくる。
「ママ、お腹減った」
……こんな……
こんな場所で、私……湖が綺麗だって浮かれて……
リゾート地にすればいいじゃないなんて軽々しく口にして……
胸の奥がぎゅうっと痛む。
「奥さま、この辺りはお気をつけください。足場も悪く、屋根も落ちやすいので……」
グレイが前に手を出し、庇うように歩く。
視界の端で、崩れ際の壁に必死に板を打ちつける老人の姿。
その背中が、妙に小さく見えた。
「グレイ」
「はい、奥さま」
「大至急、トルネアへ馬を走らせて」
「奥さま?」
「ローレンスから鉄道工事に来た職人が沢山いたでしょう?お金なら私の帳簿から使って。いくら積んでもいい。ありったけの職人たちを送るように。トルネアからなら急げば夜までには到着するでしょう?」
グレイの目が驚きで大きく開く。
「あと、お父様にも援助の伝令をお願い」
「……承知いたしました」
「あと、屋敷の料理人に付き人を雇って」
「奥様……?」
「炊き出しをするわよ」
——その瞬間だった。
背後から、低くひそひそとした声が聞こえた。
「……あって新しい大公妃の……?」
「……あの成り上がりが……」
次の瞬間。
──ひゅっ、と風を切る小さな音がしたかと思うと
ゴッ!!
っと、私の足元に痛みが走った。
ふと見ると、足元に転がったそれは、小さな掌で握れそうな大きさの石だった。
「っ……」
私は反射的に足を引き、グレイがすぐ前に立つ。
周囲は妙に静かだった。
風も、子どもたちの声も、すべてがひと呼吸止まったように。
そして。
「奥さま、後ろへ」
グレイが低い声で言う。
視線を上げた瞬間——私の胸はひゅっとすぼまった。
小さな子どもが、手に泥をつけたまま、じっとこちらを見ている。
痩せて、頬はこけて、服は破れ、裸足のままこちらを見ている。
まさか子供が?
その子どもは怯えたように顔を隠し、母親の腰にしがみついた。
よく見るとその母親——痩せた腕の、その手に。石の欠片が握られていた。
そして、母親の横には、怒りに顔を歪めた男が立っていた。
「……あれが……“新しい大公妃”だってよ」
「ほう……立派な服着てんな。いいもん食ってんだろうなあ?」
「あのリディア様を押し退けて……何を考えてんだ?」
その場の空気が、じわじわと熱と鋭さを帯びていく。
「おまえのせいで、こちとら何日もろくな飯が食えてねぇんだよ……」
男が一歩、こちらに近づいた。
目が合った瞬間、ゾクリと背筋が冷える。
そのとき——ひゅっ!!と、また石が飛んできた。
「奥様!」
グレイが肩を掴んで私を抱き寄せる。
石は背後の木に当たり、鈍い音を立てて地面に落ちた。
石を投げたのは——子どもではない。
石を投げていたのは、“大人たち”だった。
憎悪の視線。
不満の吐息。
誰かが私を睨んでいる。
誰もセレーネを歓迎していない。
「――帰れよ。“偽物の妃”」
その言葉が、音より鋭く胸を刺す。
息が止まりそうだった。
胸が、ぎゅう……っと上下に揺れ、呼吸が上手くできない。
視界が揺れる。
……そうだ……
この物語の中では、私が悪役。
主人公達の邪魔をして、そしてやりたい放題にわがままをしていた、セレーネ。
胸の奥がきゅうっと痛くなり、足元がぐらりと揺れた。
「奥さま、ここは危険です。戻りましょう」
グレイが腕を引く。
グレイの低い声が、さっきよりもずっと切迫していた。
街の空気は重い。
怒りというより、絶望の濃度が高すぎる。
見渡すと、周囲の大人たちの表情はますます強張っていた。
“救われない”とわかりきっている者の目だった。
泣きたいほど痛い。
私は唇を噛みしめ、小さく頷いた。
「……わかりました。一度戻りましょう」
グレイが私を庇うように前に立ち、街外れへ向かって歩き出す。
背後で石が転がる音がしたが、誰も追ってはこなかった。
ただ。
誰一人、助けを求める声すら上げなかった。
それが一番胸に刺さる。
*
しばらく歩いた頃。
街のざわめきが遠くなるほど離れ、ようやく息ができるようになった。
私は思わず足を止める。
「……グレイ」
「はい」
「……いつからここは……?」
質問の続きを飲み込むように、私は唇を噛んだ。
“いつから、こんなに貧しかったの?”
そう言いたかった。でも、喉の奥がざわついて言葉が出なかった。
グレイはゆっくりと息を吐き、私の横に立つ。
まだ冬の冷たさの残る風が、二人の足元をさらりと撫でていった。
「……エルバーン領がここまで荒れたのは――数年前からです」
「……数年前?」
「フェルン家との政略結婚が、正式に決まった頃でございます」
胸がどくん、と強く打つ。
「政略結婚……で?」
グレイは静かに、しかし確実な声音で続けた。
「フェルン家は……外面こそ立派ですが、実際には莫大な負債を抱えておりました。体裁を繕うために借金を借金で隠し続けておられまして」
グレイの目が痛むほど苦しげだった。
「当時の大公夫妻――レオニス様のご両親は、“縁戚として助けるべきだ”と、その穴を埋めるために多額の援助を始めました」
「……助けるために?」
「ええ。最初は小さな額でした。しかし……一度流れ出た金は止まりません。毎年のように“追加の援助”が求められ……」
グレイは拳を握った。
「やがて、エルバーン家の財を食い尽くして行きました――ですのでこの領地への資金は後回しにされました」
「……じゃあ、今のこの状態は……」
「ですが……」
湖の青さに感動した昨日の自分が、少しだけ滑稽に思えた。
「グレイ」
「はい」
「急いで戻りましょう――すぐに動くわよ」
「え?」
私は息をひとつ吸い、迷わず続けた。
「今できることをすぐにやりましょう」
グレイの目がわずかに見開かれた。
「しかし、レオニス様が……」
「……レオニスには、あとで私から言います」
声が震えていたが、意志は折れていない。
「……今、あそこで飢えている人たちを放っておきたくないの。私がね」
グレイはしばらく黙っていた。
そして、静かに深く頭を下げた。
「……かしこまりました。奥様のご命令、確かに」
この物語は、リディアとレオニスを主軸にした物語だ。
この負債は、セレーネの断罪によってローレンス家の財から賄われ伏線回収される。
誰が悪いわけでもない、物語の都合上、必要である設定なんだ。
でも、私はいま、この世界の現実の中にいる。
目の前には、苦しんでいる人がいる。
ここを救うには私の犯す罪が必須であり、私がもし死の結末から逃れたいのであれば、私がこの街を救うのは当然のことだ。
そもそも死んでからでは遅い。
私が死ぬまで、この人達はここで耐えるしかないなんて、そんな悲しいことはさせない。
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