浮気され離婚した大公の悪役後妻に憑依しました

もぁらす

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42話『従う犬』

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 夕陽が完全に沈むころ、広場のあちこちで焚き火が灯り始めた。
 領民に混じり職人たちも炊き出しを受け取りに集まり、ざわざわと温かな喧噪が広がっていく。

 そのときだった。

「——セレーネ様!」

 振り向くと、濃紺の外套を揺らして一人の青年がこちらへ駆け寄ってくる。

 ……え? 誰……?

 瞬きしながら記憶の引き出しを慌てて探る。

 あー、はいはい。

 鋭い青灰色の瞳、アッシュゴールド寄りの明茶の髪。
 端正な横顔、控えめな礼儀作法。

 ああ——幼いころ、セレーネの教育係と護衛を兼ねて屋敷にいた

「クライヴ……?」

 記憶にはあれど、私は初対面だ。

 名前を呼んだ瞬間だった。

 目の前の青年——クライヴの表情が、一瞬だけ固まった。

 ほんの刹那。
 驚きとも、困惑ともつかない、微妙な揺れ。

 ……あれ?

 でもクライヴはすぐに深く頭を下げ、いつもの礼儀正しい笑顔に戻った。

「はい。クライヴ・ウォードでございます」

 その声音は穏やかだが、どこかにじむ“確信”の色を私は聞き逃さなかった。

 ……あっ。しまった。

 本来のセレーネなら“クライヴ”なんて呼ばない。

 ——ずっと“ロッカ”と呼び続けていたのだから。

 『ロッカ』——小犬を意味する、半ば侮辱のあだ名。

(やば……今更言い直すわけにもいかないし)

 内心で頭を抱える私をよそに、クライヴはゆっくり顔を上げる。

 その瞳は、懐かしむようでもあり……どこか、痛いほど優しかった。

「セレーネ様が……ご健在で、本当に安心いたしました」

 穏やかに微笑んでいる。

 ま、まあ、いいか。このままで。皆の前でそう呼ぶのも変だし。

 クライヴの微笑を前に、どう返せばいいのか悩んでいたその時だった。

「っ……」

 足首に、ずきんと鋭い痛みが走った。

 思わず体が揺れ、その場でよろめく。

「セレーネ様?」

 クライヴの声が低くなる。

「だ、大丈夫。ちょっと立ちっぱなしだっただけで——」

 そう言いかけた瞬間、クライヴの瞳が細く光った。

 次の刹那。

「……失礼いたします」

(え、ちょ……?)

 右足を、クライヴはひざまずくようにして覗き込んだ。

 あ——見つかった。

 スカートの裾からのぞく足首は、赤紫になって腫れ上がっていた。

「……セレーネ様」

 抑えた声の奥に、怒りとも悔しさともつかない色が混じる。

「……これは?」

「え……と……その……ちょっと、石が……」

「石?」

 あ、やば。ついそのまま言っちゃった。

 クライヴの表情が一瞬で冷える。

 その変化に、背中がぞくりとする。

「——立てますか?」

「だ、大丈夫だってば……!」

「立てますか?」

 同じ言葉なのに、二度目は完全に拒否を許さない声音だった。

(うっ……無理やり笑ってごまかしてたけど、正直、結構痛い……)

 ほんの少し力を入れただけで、ひゅっと息が漏れた。

 それを見たクライヴは、迷いなく私の腰に腕を回し、立ち上がった。

「ク、クライヴ!? ちょっと、みんな見て——」

「裏へ参りましょう」

 強くはないのに、逆らえない声だった。

「ここでは人目があります。……裏で手当てを」

 小声なのに、真剣すぎて胸が跳ねる。

 なんか、すごい忠誠心……いや、心配……?

 焚き火の明かりと人混みの間を縫うように、クライヴは私を支えながら歩いた。

 彼の外套がふわりと肩にかけられる。

「冷えます。傷口が悪化します」

「そ、そこまで大げさにしなくても……」

「……大げさではありません」

 真顔で言われ、呼吸が止まった。

 広場の喧騒が遠のいていく。

 人目から隠れるように、作業小屋の裏へと入り込んだクライヴは、私を石段にそっと座らせる。

「少し……触れます」

 許可を取る声まで丁寧で、やさしい。

 手つきは驚くほど静かで——彼の指が私の腫れた足首に触れた瞬間、私は息を呑んだ。


 いでええ!!


「……やはり、腫れていますね」

「わ、わざわざありがとう……」

「セレーネ様の身体が傷つくなど……私が耐えられると思いますか?」

 顔を上げた彼の瞳は、夕闇の中で鋭く光っていた。

 私のために怒ってくれるその顔が……なぜか胸の奥を強く掴んでくる。



 
「で、アンタは一体何者だ?」

 低い。
 さっきまでの柔らかい声色とまるで違う。

 ゆっくりと顔を上げたクライヴの瞳は——氷の刃みたいに冷えていた。

 やっば、さすが側近。気づくよね、そりゃ。

 でも、私だって全くの別人ではないのだよ?


 やりたくないけど、仕方ない——。

 私は無言で靴のままの足をそっと持ち上げ、クライヴの肩に押しつけた。

 ぐりぐり、と踏みにじる。

 確かな重みを感じた瞬間。

 クライヴの全身が びくん と震えた。

「……っ……!」

 息が詰まったみたいにクライヴの喉が跳ねる。

 私は口元を歪めて、言った。



「誰に向かってそんな口を聞くの? ——ロッカ」

 わざと、ゆっくり。
 かつてセレーネが使っていた“あの声音”の、傲慢で高圧的な響き。

 その一言でクライヴの瞳が揺れた。

 怒りでも、戸惑いでもない。

 もっと……粘つくような、底に沈んだ感情。

 そして——彼の頬が、わずかに赤く染まった。

(……くっそドMかい!)

 私の足はまだ彼の肩に置いたままだ。
 逃げるどころか、クライヴは微かに身を屈め、受け入れるように体勢を整えた。

 静かに息が上がっている。

 

 ……めちゃめちゃ“嬉しそう”なんだが?

 クライヴの胸がふるりと上下し、沈んだ声が漏れた。

「……セレーネ様」

 その声は、恍惚と緊張の狭間みたいに震えていて。

(いやどういう性癖……)

 私は思わず天を仰いだ。



 ——ろくな登場人物おらんのかい。

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