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41話『鋼の翼』
しおりを挟む夕陽が山の稜線に沈みはじめる頃。
街の空気は一日動いたあと特有の煤けた匂いを帯びていた。
木材を運ぶ職人の呼吸は荒く、鉄槌の音も次第に弱くなる。
これ以上作業を続けるのは危険だ。
「……やはり、人手が足りないか」
俺は拳を握りしめた。
資材は用意されている。
職人の腕も申し分ない。
しかし、被害規模に対しどうしても“人手”が足りなかった。
どれだけ段取りを組んでも、進捗は思うように上がらない。
焦りの熱が胸を焼いた。
その時、ふっ……と、影が差した。
耳に馴染んだ、鋭い風切り音が空を裂く。
「……スティール?」
空を見上げた瞬間——夕陽を背負った黒い影が、大きく弧を描いて旋回していた。
隼だ。
ローレンス家が帝国最速の伝令として育てた、鋼の翼。
沈む陽を浴び、翼の縁が刃のように光り、まるで空そのものを切り裂くかのように旋回する。
その翼一振りで風向きが変わり、地上の土埃がふわりと巻き上がるほどの速度。
黒曜石の瞳が、真下の俺を正確に捉えていた。
そして、隼は次の瞬間、急降下した。
夕陽を切り裂くように。
落下ではない。
“狙ってくる”速度だ。
風が、俺の頬を鋭く叩く。
その背に括り付けられた筒が光り、俺の目の前でぴたりと静止するように翼を広げ——
クル、と美しく一回転して着地。
砂煙ひとつ立てない、完璧な制動。
職人たちがざわめく。
「な、なんだあの隼は……」
そのすぐ後だった——。
街道の向こうから、濃い土埃を立てながら十数台の馬車が押し寄せてきた。
夕陽を背に、軍列のように整った佇まい。
「大公様!! 馬車が……!」
職人の声に俺は振り返った。
馬車が止まると、その先頭から、一人の青年が軽やかに飛び降りた。
濃紺の外套、鋭い眼差し。
若いが訓練された身のこなしで、全体の指揮を取るように振り返り、
「資材は三列目以降から運び出せ! 医療班は街へ向かい負傷者の確認を最優先! 遅れるな、急げ!」
明確な号令が飛ぶと、ローレンス家の紋章をつけた作業員たちが次々と動き出した。
青年はそのまま俺の前に進み出て、片膝をつく。
「——ローレンス家より、派遣されてまいりました」
「……ローレンス家?」
青年は静かに顔を上げた。
端正な輪郭。
その瞳はどこか見覚えがある。
「はい。セレーネ様の命で参りました」
一瞬、胸が強く跳ねた。
「セレーネが……?」
「グレイ様よりスティールの伝令がまいり、『今すぐこの街へ全人員を動かせ』と。
加えて、明日には当主——アーヴィング・ローレンス侯も到着されるとのことです」
作業員たちがどよめく。
職人たちも思わず顔を上げた。
ローレンス侯——帝国最大の鉄道事業会社の総裁。
帝国を金で動かせる男が、この小さな領地へ?
青年は続けた。
「当主より伝言がございます」
そう言い、胸に手を当てる。
「『娘が嫁いだ家に負債を背負わせるような真似はさせぬ。
必要な資材も人員も金もすべて送る。遠慮なく使え』と」
……。
ローレンス侯爵――あの寡黙で厳格な男が、わざわざ自分の足で来るというのか。
……溺愛しているという噂は、本当だったか。
セレーネ本人は気づいていないだろう。
――記憶が蘇る。
ローレンス侯爵が、娘を婚がせると決めた夜。
「……どうか、あの子を……よろしくお願いいたします」
硬い声で、しかし絞り出すように懇願した父の顔を。
あれは、娘を政治の駒として差し出す父の顔ではなかった。
子を手放すのが怖くて仕方ない父の顔だった。
セレーネ本人だけが、それに欠片も気付いていないのが可笑しいほどだ。
「名はなんという」
青年は胸に拳を当て直し、真っすぐに答えた。
「……クライヴ・ウォードでございます」
クライヴ・ウォード。ああ、ローレンス家の番犬。どうりで見覚えがあると思った。
「クライヴ、迅速な対応、心より感謝する」
クライヴは息を呑み、再び深く頭を下げた。
「もったいないお言葉……!
エルバーン家のお役に立てたこと、この上ない誉れにございます!」
「領地の復興に必要な人手と資材は、すべてこちらに」
俺はそれを聞き、静かに頷いた。
「援助はありがたく受け取ろう」
クライヴの表情が少し緩む。
しかし次の瞬間、はっきりと言った。
「だが……費用はエルバーン家で賄う」
クライヴの目が驚きに瞬く。
「エルバーン家が傾きかけた頃、婚姻を申し出て援助してくれたのはローレンス家だけだった。
あの支えがあったから、俺はこの家を立て直せた。今は潤沢な資金がある。この恩は必ず忘れない」
夕陽の中で、その言葉だけが澄んで響いた。
クライヴもゆっくり頷き返す。
「礼ならば、……セレーネ様に」
俺は微かに笑う。
「ああ、そうだな……」
俺がそう言うと、クライヴは強い光を瞳に宿し、深く頭を垂れた。
「すべては……セレーネ様のために」
夕陽の中、ローレンス家の旗が風に揺れた。
風に膨らむ紺地の幕。その中央で、銀色に輝く隼が翼を大きく広げている。
鋼を思わせる研ぎ澄まされた輪郭。
刃のように細く伸びた翼。
胸元には、鉄路を象徴する二本の平行線が刻まれていた。
それはローレンス家が帝国最大の鉄道と物流を治める“鋼の王”である証。
空を制する隼 × 大地を貫く鉄路。
空と地、両方の支配権を象徴した紋章は、帝都の貴族の中でもひときわ異質で、そして圧倒的だった。
「……しかし、資材も人件費も莫大でございます。ローレンス家からの援助を受けるべきかと」
俺は視線を逸らさず、低い声で返す。
「必要ない。婚姻からこの半年、帝都の商会との契約をいくつも取り付けた。——払えるだけの金は、十分にもう稼いだ」
誇るでもなく、虚勢でもなく、事実だ。
特にここ数週間は寝る間も惜しんで勤しんだ。
「領民達には今まで苦労をかけてしまった」
その言葉に、領民の目が変わる。
職人たちは背筋を伸ばし、領民たちは息を呑んだ。
不信から、信頼へ……希望の色が混じっていくのがわかる。
そして俺はクライヴに向き直る。
「職人たちの差配は任せる」
クライヴは静かに頭を下げた。
「……承知いたしました。エルバーン大公様の御心、確かに」
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