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40話『リディアの崩れた仮面』
しおりを挟むエルバーンは“わたくしの居場所”だった。
民衆も、兵士たちも、皆が心の拠り所にしていたのはわたくし——レオニスの隣に立つ公妃であるわたくしだった。
だからこそ、わたくしは完璧に立ち振る舞った。
誰もが憧れる“優しい貴婦人”の仮面を纏って。
……なのに。
視線が、わたくしではなく——あの女に向けられている。
こざかしい。
——わたくしを差し置いて。
わたくしを。
それでも、わたくしは姿勢を崩さない。
穏やかに微笑みながら、鍋へ歩を進めた。
「どうぞ、よかったらリディア様も召し上がってください」
セレーネが嬉しそうに器を差し出してくる。
……この女、本当に空気を読めないのね。そんな下人の格好をして、恥ずかしくないのかしら。
ああ、そうだわ。
下人は下人らしい仕事をしているのね。
わたくしは一歩踏み込み、その耳元に唇を寄せた。
「……こんな、家畜の餌のようなものを?」
セレーネの手が止まった。
その顔が驚きで固まる。
あぁ、その顔。
滑稽に歪むその表情——嫌いじゃないわ。
すぐにわたくしは微笑みに戻る。
民衆の視線があるもの。
「さぁ、みなさま。遠慮なさらず」
優雅に声を響かせる。
私のためにお膳立てされたこの壇上に立っている事を忘れていたわ。
でも、この女だけは許さない。
私はその瞬間——お腹に手を添えた。
わざとらしい? いいえ、故意よ。
この女に、自分の立場をわからせるために。
「……わたくし、腹に子がいますので。強い香辛料は避けておりますの」
セレーネの表情がみるみる青くなっていく。
「っ……そ、そうでしたね!」
慌てて頭を下げる姿に、思わず胸がすく。
そうよ、自覚なさい。貴方は場違いだと言う事を。
そのまま、さらに追い打ちをかけた。
「……この子は、レオニスの子なのです」
「えっ……?」
その間の抜けた声。
滑稽だこと。
わたくしは微笑んだまま、ゆっくり視線を広場へ戻す。
ええ、そうよ。
“勘違い”をしてくれて、構わない。
だって——そうでもしないと、理解出来ないのでしょう?
あなたが何をしようと。
どれほど足掻こうと。
レオニスの隣に立つのは、わたくしだけ。
……そう思っていた、その時だった。
「さっきから何を言っているんだ?」
聞き慣れた、低い声。
レオニスだ。
彼は真っ直ぐに、セレーネの方へ歩み寄ると——
「炊き出しを命じたのはリディアではないだろう」
そして、迷いのない声で言い放った。
「すべては——わたしの妻、セレーネがやったことだ」
…………今、なんと?
胸の奥が、ぎゅっと軋んだ。
笑顔が、ほんの一瞬だけ崩れかけた。
その光景に、わたくしの指先がかすかに震えた。
わたくしの前で。
……わざわざそんな事をしてまで見せつけて。
胸の奥に、黒い何かが沈殿していく。
でも、笑わなければ。取り乱すなんて許されない。
わたくしは完璧な貴婦人。
……レオニスの、唯一の妃なのだから。
——悔しい。
胸の奥で黒い塊がゆっくりと膨れていく。
けれど、わたくしは微笑みを崩さない。
崩すわけにはいかない。
だって、わたくしは“リディア・エルバーン”の資格をもつもの。
貴族の頂点に立つべき女。
……なのに。
レオニスはセレーネを抱き寄せ、額に口づけまで落とした。
レオニスが、人前で?
彼はわたくしにそんな事をしたことなど一度もなかったのに。
わたくしはふらつきそうになる足に力を込めた。
周囲はざわめき、視線が集中する。
レオニスの言葉が、広場全体に響いた。
「すべては——わたしの妻、セレーネがやったことだ」
……妻?
あの婚姻は政略だ。
でも、わたくしとレオニスは、互いに求め合っていた。
夜会の時も、妬いて出て行ったじゃない。
(……違うの?)
胸の奥に、氷のような疑問が走る。
でも、そんなはずない。
レオニスの隣にふさわしいのはわたくしだけ。
真実はここにはない。
……レオニスは、私を愛している。
今この状況になったのは、ただ事情があっただけ。
なのに、今日のレオニスの姿は、どうしても理解が出来ない。
「……リディア様?」
いつのまにか隣にいたグレイが控えめに声を掛けてきた。
だが、胸の奥では別の声が暴れ叫んでいる。
——どうして。
——わたくしではなく、あの女を見ているの?
セレーネは何も知らない顔で、レオニスの顔を見上げている。
その横顔には、先ほどまでの怯えを越えるほどの、妙な安堵があった。
それがさらに癇に障った。
「……あの方は、お優しい方です」
グレイがぽつりと呟く。
わたくしは笑顔のまま、しかし声の温度だけを一段下げた。
「ええ。……レオニスは、お優しいお方ですわ」
だが——
「だからこそ、誰にでも“優しさ”を向けてしまわれるのです」
「…………え?」
グレイがこちらを見る。
わたくしはゆっくりと近づき、その耳元に微笑みながら囁いた。
「……どうか、勘違いなさらないように」
「……」
「わたくしとレオニス様の関係は……あなたが思っているほど、軽いものではありませんのよ?」
グレイの肩が一瞬だけ揺れた。
そう。
わたくしが手に入れる。
だから——
「この子が生まれれば……すべて元通りですわ」
お腹へそっと手を添える。
その仕草に、グレイは思わず息を飲む。
わたくしは完璧に微笑んだ。
「わたくしの居場所は、最初から決まっているのですから」
私はそう言うと、その場を去った。
あんなみすぼらしい女の姿など、もう視界に入れたくもない。
こんな臭い場所に長居するのも煩わしい。
待たせていた馬車に乗り込むと、扉が閉まり、御者が「発進いたします」と声を掛けた瞬間だった。
張りつけていた笑顔が、音を立てて剥がれ落ちた。
胸の奥から、煮え立った黒い感情がぶわっと溢れ出す。
「……生意気な」
震える指先を握りしめる。
貴婦人としての冷静も、優雅も、取り繕いも――誰も見ていないこの箱の中では必要ない。
「このわたくしに……恥をかかせて」
喉の奥が焼けるように熱い。
「なぜ……! なぜわたくしではないの……?」
膝の上でぎゅっと握りしめた拳に爪が食い込む。
馬車はガタガタと揺れ、怒りの脈拍が体中を駆け巡る。
「レオニスは……わたくしのものよ」
口にした瞬間、胸の奥の怒りがさらに燃え上がった。
「わたくしを、捨てられるわけがない……あの男は一度だって、わたくしを粗末に扱ったことなどなかったのに……!」
思い出すのは、レオニスの瞳だ。
あの冷静で、わたくしの言葉を必ず受け止めてくれた、あの目。
なのに今日は——
セレーネのために怒り、
セレーネのために立ち、
セレーネの功績を褒め、
セレーネを抱き寄せ、
口づけを落とした。
その光景が頭の中で何度も再生される。
息が荒くなる。
「……笑わせないで」
耐えきれず、座席を拳で叩いた。
「わたくしの知らないところで、勝手に“夫婦ごっこ”なんて」
——ありえない。
——認めない。
「所詮あんな娘、ただの駒よ。
わたくしとレオニスの関係が元に戻れば、彼女は役目を終える」
わたくしはそっと腹に手を添える。
その動作だけは、自然と優しくなる。
「ええ……全部、元に戻るわ」
“わたくしこそがレオニスの隣に立つ資格のある妻”。
「セレーネ……調子に乗らないほうがいいわ」
馬車の窓に映る自身の微笑が、ゆっくりと歪んでいく。
「身の程をわきまえればよかったものを……
レオニスの気を引いた罰は必ず受けてもらうわ」
風が窓を叩く音が響き、馬車は街外れへ向かって揺れる。
わたくしは静かに笑った。
「邪魔をするなら、退場させるまでよ、セレーネ」
命をもってして、消えてもらいましょう。
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